人はなくなると、仏教では、一番いい形で極楽浄土。そうでなければ、生きている間におこなったことにより、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの迷いの世界(六道)に転生するらしい。
キリスト教などではみな天国へ行けるのに、仏教は厳しいなぁ(笑)。
でも、「悪いことをしたら、苦しみを与えるぞ」というのが、ほんとうにお釈迦さまの考え方なのだろうか。
そもそも「悪いこと」というのは、誰が決めるのか?
一般日常生活で殺人は悪いこととみなが非難するだろう。
終戦記念日も近いが、例えば戦争という非日常で敵対した中での戦死(殺人)は、どうだろう。
たくさん殺人した人が英雄扱いされたりする。
「悪いこと」も、「善いこと」も普遍的ではない。
ということは、「はい、あなたは地獄行き」「はい、あなたは餓鬼行き」・・・と誰がどんな基準で割り振るのだろう。
特定の人の主観で決められたら、当時者はたまったもんじゃない(笑)。
いずれにしても、死してのち、またどこかの異次元世界に転生するような考え方があるが、これはどうもうまく理解できない。
転生するという六道は、欲、煩悩の渦巻くこの人間社会のそこここに見られ、消えていく。長く生きていると、そこに入りこんでしまうことも、一度や二度あるかもしれない。死んでまで転生する必要もない。
わが家の曹洞宗では、只管打坐(「しかんたざ」と読むらしい)といって、心を落ち着けただひたすら座禅することで日常から離れ、自分の中の仏性と向き合う時間を大切にしているようだ。
関節が固くて、とても座禅は組めないが、一日少しの時間だけれど、静かに正座って呼吸を整えていると、欲、煩悩から次から次にいろいろなことをしてしまっている自分の姿、それは善くないとわかっていても我欲を通してしまっている自分の姿が見えてくる。
「いけないよなぁ」と思ったのだから、潔く心を入れかえて善行に徹しられるか、と言えばそうではなく、日々、欲、煩悩の生活を送り、人さまに迷惑をかけて生きている。そこには、悩みや苦しみ、時々少しの喜び、感謝があって、それがまたまんざらでもない。
死ぬまできっと、もう終わりですよと宣告されても、息を引き取る瞬間まで「死にたくない、死にたくない。生きたい、生きたい」と人さまに迷惑をかけ続けるんだろうと思う。
でも、この「いけないよなぁ」という自分の心の声が、自分の中にいる仏様の声なんだろうと最近は思うときがある。
このぼんくらな頭では、死んだあとまで、極楽で悠々自適の御仁と地獄に落ちてのた打ち回る御仁あるということはきっとこれからも理解はできないと思う。
死んでまでそんな階級社会じゃなく、単なる物(土)に変わってしまっても、そこは静かで平等であってほしい。
死で人としてのすべての生命活動が終わる。
当然そこに至れば、欲も煩悩もなくなるわけだから、人としてのあるべき(仏様が推奨するような)行為を妨げるものはなにもない。悩みも怒りも苦しみもない。お金も土地も使い道はないから、必要な人が使ったらいい。あげることに何の執着も感じない。
その点では、死後は、仏様の世界、極楽浄土であり、死はどんな人もたどり着けるゴールなんだと思う。
けっして怖いものではなさそうだ。
生きている間は、できないまでも、素直な心で仏様の声をきき、「人間だもの」と赤面しながら日々を送っていけばいいんじゃないかな。
これが、自分なりの転生に関する整理である。
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<今日は何の日>
1985(昭和60)年の今日、日航機123便が群馬県御巣鷹山に墜落し、520人の犠牲者を出しました。
今日は、『航空安全の日,茜雲忌』です。
飛行機は、とても安い料金で気軽に利用できるようになりましたが、こういう事故を振り返ると、安全はすべてのものに優先することだと感じます。
死後の世界の妄想を書きましたが、520人の犠牲者のご遺族の心には、故人の無念の情は今も生き続けてるんでしょうね。その意味では、故人は転生していますね。
ご冥福をお祈り申し上げます。