鎌倉市内に「武蔵大路」と呼ばれた道があるそうです。
御成小学校から寿福寺辺りの今小路を「武蔵大路」と呼んだ時期があるとの事。
実態は闇の中ですが、鎌倉市内にそう呼ばれた場所が有った事は事実の様です。
鎌倉市史(総説編)に
「武蔵大路が鎌倉内であることは吾妻鏡の文永二年(1265)三月五日の条の町御免の場所に、武蔵大路下とあることによって殆ど疑いがない。これよりさき建長三年(1251)十月三日の条にも町免許の場所があげてあるが、それには亀ヶ谷辻というのが見える。これは亀ヶ谷辻を武蔵大路といいかえたのではないかとすぐに思いつく」。
「吾妻鏡」の桐生六郎と梶原景時の行動では、武蔵大路は鎌倉の外にある。
(詳細は、『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条)
これらの文章から言える私の考えは!
1.「武蔵大路」の名称により、鎌倉から、武蔵に向けて路が有った事。
2.その道幅は大路である事。(律令時代の中路だが、路面幅9mは大きい)
3.武蔵大路が鎌倉内に有る事。
4.亀ヶ谷辻にも武蔵大路がある。
5.鎌倉の外にもある。
武蔵大路は、地名ではない!
道の性格上 鎌倉の中から目的地まで続いてるのです。
「鎌倉郡ガより武蔵の国府に向けて大路が幕府以前に有った!」
何の問題も無い?
問題は武蔵大路が何処を通っていたか?
鎌倉の七口が鎌倉の内外を隔てています。
しかし、、七口の様な狭い道ではなく、武蔵へ行く道は、、、
大路でナケレバならないのです。 これは、とても大きな矛盾です。
いい加減に探した程度では、そんな大きな道は無いのです。
その解決は、、、、
そう、、仮想伝路水道道路にあります。
誰が付けたか? この仮想伝路ですが、、、
その実態は、伝路レベルの細い道では無いと道路遺構から言えるのです。
東山道武蔵路の延長として、東京国分寺より、鎌倉へ向けた時に東山道相模路となり、
相模国分寺や、宮久保遺跡の脇から、水道道路を通り、鎌倉市内の武蔵大路迄が考えられる。
この道が「新編鎌倉志の桐生六郎」の記述の武蔵大路と言う私の考えです。
この先の話として、鎌倉の外から内側に入るには、、、、魔法でも有るのでしょうか?
大半の方は化粧坂から入ったと考える様ですが、、、、
化粧坂は古代東海道と考えています。
2012/9/20 訂正:『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条
御成小学校から寿福寺辺りの今小路を「武蔵大路」と呼んだ時期があるとの事。
実態は闇の中ですが、鎌倉市内にそう呼ばれた場所が有った事は事実の様です。
鎌倉市史(総説編)に
「武蔵大路が鎌倉内であることは吾妻鏡の文永二年(1265)三月五日の条の町御免の場所に、武蔵大路下とあることによって殆ど疑いがない。これよりさき建長三年(1251)十月三日の条にも町免許の場所があげてあるが、それには亀ヶ谷辻というのが見える。これは亀ヶ谷辻を武蔵大路といいかえたのではないかとすぐに思いつく」。
「吾妻鏡」の桐生六郎と梶原景時の行動では、武蔵大路は鎌倉の外にある。
(詳細は、『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条)
これらの文章から言える私の考えは!
1.「武蔵大路」の名称により、鎌倉から、武蔵に向けて路が有った事。
2.その道幅は大路である事。(律令時代の中路だが、路面幅9mは大きい)
3.武蔵大路が鎌倉内に有る事。
4.亀ヶ谷辻にも武蔵大路がある。
5.鎌倉の外にもある。
武蔵大路は、地名ではない!
道の性格上 鎌倉の中から目的地まで続いてるのです。
「鎌倉郡ガより武蔵の国府に向けて大路が幕府以前に有った!」
何の問題も無い?
問題は武蔵大路が何処を通っていたか?
鎌倉の七口が鎌倉の内外を隔てています。
しかし、、七口の様な狭い道ではなく、武蔵へ行く道は、、、
大路でナケレバならないのです。 これは、とても大きな矛盾です。
いい加減に探した程度では、そんな大きな道は無いのです。
その解決は、、、、
そう、、仮想伝路水道道路にあります。
誰が付けたか? この仮想伝路ですが、、、
その実態は、伝路レベルの細い道では無いと道路遺構から言えるのです。
東山道武蔵路の延長として、東京国分寺より、鎌倉へ向けた時に東山道相模路となり、
相模国分寺や、宮久保遺跡の脇から、水道道路を通り、鎌倉市内の武蔵大路迄が考えられる。
この道が「新編鎌倉志の桐生六郎」の記述の武蔵大路と言う私の考えです。
この先の話として、鎌倉の外から内側に入るには、、、、魔法でも有るのでしょうか?
大半の方は化粧坂から入ったと考える様ですが、、、、
化粧坂は古代東海道と考えています。
2012/9/20 訂正:『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条