鎌倉街道「上の道」と言われる道があります。
成り立ちは定かでないですが、少なくとも江戸時代に頻繁に使われたであろう事が想像できます。
現代になり、路端の石塔や伝承や文献を参考に探索した結果の「上の道」と考えるのです。
石塔は大半江戸時代の物、伝承と言っても、江戸以前は戦国時代で土着の人は移動した後の江戸時代の伝承、、、
その様な訳で、伝承から消えた鎌倉道が多数ある事を私は感じます。
さて、
そんな「上の道以前」の時代から東山道相模路は在ったと言う文献に
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5月27日のブログに「唐糸草子という昔話があり、万寿姫が鎌倉に母の唐糸を訪ね府中方面から星谷寺(座間市)へ詣でて藤沢市の砥上河原に行く道が有る事を書いています、、、
その時に通った道は、前の時代、、、奈良時代に作られた東山道武蔵路と考えています。」
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っと言う訳で、頼朝存命中の鎌倉時代初期に既に藤沢遊行寺辺りから南に向け江ノ島へ、海側を通り稲村ヶ崎に向け道を造り変えたと私は考えています。
本来の東山道相模路は、遊行寺坂上の影取辺り(横浜市東俣野)から鎌倉へ向かう訳です。
しかし、、この道は、路面が広く鎌倉の攻撃に使われたら鎌倉幕府は困る。
色々な細工をして使わせない様にしたと考えるのです。
所詮 実用で必要な道幅は、馬が一頭駆け抜ける幅が有ればよい。
「いざ鎌倉」と言う時は、小編隊の関東騎馬武者が鎌倉へこの道を疾走するのに都合が良いが、大部隊には困る道です。
現に鎌倉山中にある鎌倉街道はその様な細い道で、特例は、朝比奈切通しだけです。
あの化粧坂ですら、外部(梶原団地の方)に向けては自転車を降りて歩く様な道に改造されたのですから(水堰橋に向けては3m幅)!!
この辺りが、東山相模路が歴史から消え、上の道が残った理由です。
本家の鎌倉周辺が細い道なのに、地方に太い道痕がある矛盾!
地方の鎌倉街道に道幅6m等言うのが発見されたと散見しますが、前の時代の駅路(平安時代に道幅9mを6mや3mに改修している。)や伝路の痕跡を使いまわした道と私は考えているのです。
道の年代特定は、専門家でも定かでは無く学者が「鎌倉街道かもしれない」といえば、それを聞いた人は、「この道は鎌倉街道であると権威ある先生が言った」となる。
権威に弱く自分の考えが無いのは、、悲しい限りです。
そんな烏合の衆的な処が恐怖感を与えると、平家は戦わずして全滅した「倶利伽羅峠」の悲惨な話の根底に有ると、感じます。
富士川の合戦は飛び立つ鳥にオビエタ平家が戦わずに逃げ出したが、「倶利伽羅峠」では、戦わずに全員殺されたのです。
知識だけでなく、自分の目で確かめ実感を積み上げれば、自分の意見も沸いて出ると思うのですが、、、、
「倶利伽羅峠」と鎌倉の関係は?
これから、、徐々に書く終点にその様な計略を感じる遺構が鎌倉の武蔵大路に仕掛けられたと、、、 これも私の空想です。
成り立ちは定かでないですが、少なくとも江戸時代に頻繁に使われたであろう事が想像できます。
現代になり、路端の石塔や伝承や文献を参考に探索した結果の「上の道」と考えるのです。
石塔は大半江戸時代の物、伝承と言っても、江戸以前は戦国時代で土着の人は移動した後の江戸時代の伝承、、、
その様な訳で、伝承から消えた鎌倉道が多数ある事を私は感じます。
さて、
そんな「上の道以前」の時代から東山道相模路は在ったと言う文献に
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5月27日のブログに「唐糸草子という昔話があり、万寿姫が鎌倉に母の唐糸を訪ね府中方面から星谷寺(座間市)へ詣でて藤沢市の砥上河原に行く道が有る事を書いています、、、
その時に通った道は、前の時代、、、奈良時代に作られた東山道武蔵路と考えています。」
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っと言う訳で、頼朝存命中の鎌倉時代初期に既に藤沢遊行寺辺りから南に向け江ノ島へ、海側を通り稲村ヶ崎に向け道を造り変えたと私は考えています。
本来の東山道相模路は、遊行寺坂上の影取辺り(横浜市東俣野)から鎌倉へ向かう訳です。
しかし、、この道は、路面が広く鎌倉の攻撃に使われたら鎌倉幕府は困る。
色々な細工をして使わせない様にしたと考えるのです。
所詮 実用で必要な道幅は、馬が一頭駆け抜ける幅が有ればよい。
「いざ鎌倉」と言う時は、小編隊の関東騎馬武者が鎌倉へこの道を疾走するのに都合が良いが、大部隊には困る道です。
現に鎌倉山中にある鎌倉街道はその様な細い道で、特例は、朝比奈切通しだけです。
あの化粧坂ですら、外部(梶原団地の方)に向けては自転車を降りて歩く様な道に改造されたのですから(水堰橋に向けては3m幅)!!
この辺りが、東山相模路が歴史から消え、上の道が残った理由です。
本家の鎌倉周辺が細い道なのに、地方に太い道痕がある矛盾!
地方の鎌倉街道に道幅6m等言うのが発見されたと散見しますが、前の時代の駅路(平安時代に道幅9mを6mや3mに改修している。)や伝路の痕跡を使いまわした道と私は考えているのです。
道の年代特定は、専門家でも定かでは無く学者が「鎌倉街道かもしれない」といえば、それを聞いた人は、「この道は鎌倉街道であると権威ある先生が言った」となる。
権威に弱く自分の考えが無いのは、、悲しい限りです。
そんな烏合の衆的な処が恐怖感を与えると、平家は戦わずして全滅した「倶利伽羅峠」の悲惨な話の根底に有ると、感じます。
富士川の合戦は飛び立つ鳥にオビエタ平家が戦わずに逃げ出したが、「倶利伽羅峠」では、戦わずに全員殺されたのです。
知識だけでなく、自分の目で確かめ実感を積み上げれば、自分の意見も沸いて出ると思うのですが、、、、
「倶利伽羅峠」と鎌倉の関係は?
これから、、徐々に書く終点にその様な計略を感じる遺構が鎌倉の武蔵大路に仕掛けられたと、、、 これも私の空想です。