ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

老い

2017-11-27 16:09:58 | 介護
夫の甥が家族を連れて遊びに来てくれた。

短い休暇を利用して帰省したそうだが、夕方の飛行機で帰らなければいけないそうで、時間が無い中どうしても子供をおばあちゃんに見せたいと我が家へ寄ってくれた。

突然の甥一家の訪問におばあちゃん(お姑さん)は驚いていたが、もうすぐ一歳になる曾孫を見て涙して喜んでいた。

甥は母である義姉からおばあちゃんの最近の様子を聞いたらしく、心配して来てくれたようだった。

お姑さんは物忘れが進み、先日は鍋を火にかけていることを忘れて危うく火事になる所だった。
鍋から煙があがって、部屋の中が白く霞んでいるにもかかわらず、それに気づかずにテレビを観ていたということがあったので、義母が料理を作る時は外出しないようになった。

また便の漏れもますます多くなっている。

今年になってから、お姑さんはいろいろな面で一気に老いが進んだと思う。

そんなわけで心配して来てくれた甥一家と短い時間ではあったが楽しい時を過ごし、義母は帰って行く甥たちを来た時と同様に涙々で見送ったのだった。

さて甥の乗った車が見えなくなると、義母は私に向かって聞いてきた。

「あれ(曾孫)は孫かい?」

「曾孫ですよ。孫は〇ちゃん(甥)のほう」

「そうかい。孫は〇かい」と言うと、今涙で別れたばかりの曾孫は忘れたかのように、昔の思い出が今の話のように語られる。

「娘たちが孫を預けて遊びに行くから、私は4人の孫の面倒を見たの。大変だったわ」以下、孫の世話をした日の話が続いていく・・・

義母は最近のことを憶えられなくなり、憶えていることも限られた昔の出来事になってきた。

義母にとって特に忘れられない出来事だけが、これまでの人生の膨大な記憶の中で、切り取られた一枚の写真のように残っているのだと思う。

例えば小さな孫達の世話をして大変だった日という事もそうだが、最近では戦争の頃の思い出を話すことが多い。

空襲が始まり、逃げ遅れた義母が隠れた木の下で爆弾が次々に落ちるのを見ながら、一緒に逃げた友人が命を落とすという体験は強烈な記憶として残っていることは想像に余りある。

また、先日も義母が唐突に「戦争に負けた日、私なんであんなに泣いたんだべ」と言った。

日本が戦争に負けて号泣した自分という記憶はしっかり残っているが、その時の悲しみや悔しさのような気持ちまでは記憶にとどめていないのだろう。

しかし悲惨な戦争体験は、最後まで記憶の中から消えないのかもしれない。

ある時は「汽車の切符がぜんぜん買えなくて苦労した。お母さん(私のこと)もそうだったかい?」と言うので、いつの話だろうと思ったら、やはりそれも戦時中の話だった。

その当時、私はまだこの世にいなかったのでなんとも返答に困ったが、義母は別に私の返事を待っているわけではなく、延々と思いつくまま昔話は続いていく。

何度聞いたか分からないほど繰り返される同じ話の数々だが、その話の種類が徐々に少なくなっていることに最近気づいた。

それが分かった時、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。

人間、年老いていくのは仕方がない。記憶が消えていくことも仕方がない。
いずれは身体ごと、この世から消えるのだから・・・

義父母と一緒に暮らして12年あまり。

義父がいなくなり、そして義母もこの先、自宅で看ることが困難になれば施設への入所も考えなければならない。

「義父母との同居は大変だ~」と思ったことは今まで数えきれないほどだが、それもこの先それほど長くないかもしれないと思うと、嬉しさよりも寂しさや悲しさをより感じることは、一つ屋根の下で一緒に暮らしてきた年月がそうさせるのかもしれない。

そして、もうひとつは自分も歳をとったということだろうか。

「老いる」ということを、亡き父や義父母を通して見せてもらっていると思う。







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なるようになるさ

2017-10-06 16:39:30 | 介護
今年になってから義母がトイレを汚すようになったと夏に書いたことがある⇒(母と娘の介護

「どうしてこんなところに?」と首をかしげたくなるような場所に便がついていたり落ちていることがあったのだが、やっと理由がわかった。

便をもらしていたからだった。

高齢になると筋肉が弱って、便を漏らすことがよくあると聞く。

ヘルパーの仕事をしていた時にそういった高齢者の方はたくさん見ているし、父もそうだった。

父が高齢者住宅に入る前、まだ自分で歩いて普通にトイレにも行けたのだが、本人も気づかぬうちに漏らしてしまうということが度重なるようになっていた。

ズボンはすっかり汚れているのに、父はまるで気づかないように普通に過ごしているので、慌てて下着とズボンを替えることが何度もあった。

父は一人暮らしだったので、いつも気づいて取り替えてあげることができず、また頑固に紙パンツを拒否していたので、これが父に高齢者住宅へ入ってもらうことの大きな理由の一つになった。

義母も90歳を越えているので、そうなってきてもおかしくはない。

義母が便を漏らしていることが分かったのは、浴室前で義母と会ったからだった。

義母は手に何か持っていたのだが、私の顔を見た途端、それを後ろに隠した。

さりげなく「どうしました?」と聞くと、義母は照れくさそうに「おしっこをもらしちゃったから、下着を洗おうと思って」と言った。

「あらそうですか。じゃあ、これ使ってくださいね」と洗剤とタライを渡したのだが、義母が下着を洗っているのを何気なくのぞくと、かなりの量の大便がついていた。

さらに同じ日、また浴室で大便のついた下着を洗っている義母の姿があった。

多分、ずっと前から時々こうして便を漏らしていたのかもしれない。

自分で処理をしようとして、手に大便がついた状態で壁を触ったり落としてしまったりしたことで、なぜここにうんちが?ということになっていたのだろう。

さて、どうしようか・・・

便は出てしまっているが毎回ではないようだし、オシッコでは下着は汚すが床を汚すようなことはまだ無い。

いきなり紙パンツでは父の時のように義母の抵抗があるだろうから、まずは下着につけるパッドを勧めてみることにした。

最初は「パッドなんてしない」と抵抗していた義母だったが、「これで下着も汚れませんよ」「大丈夫!薄くてつけていても全然気になりませんから」とか、まるでおむつ会社の人のように、パッドをするといかに快適に過ごせるかということを、あることないこと話して、なんとかパッドをしてくれることに成功した。

パッドをするようになってから、「どうです、快適ですか?」と義母に感想を聞いたところ、「少しゴワゴワして気持ちが悪い」とのことだった。

もう少し小さめの方がいいのかな?と、小さめのものを買ってくると、今度は大丈夫だったようで、以来ちゃんとしてくれているみたいだ。

パッドをつけるようになってからは、トイレが汚れることもなく義母がこっそり下着を洗う姿も無くなった。

義母も年々歳をとり、これから悪くなっていくことはあっても良くなることは無いだろうし、他にも色々なことが起こるだろう。

進化していく介護用品と、夫や義理の姉たちに助けてもらいながら、日々明るく過ごしていきたいものだと思う。

なるようになるとお気楽な気持ちは、いつも持っていたいと思う。





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母と娘の介護

2017-07-21 16:02:00 | 介護
最近また一段とお姑さんの認知症が進んだような気がしている。

今年に入ってから時々トイレを汚すようになった。

「何故ここに?」と思うような所に大便がついていたり、ついているだけならまだしもコロンと落ちていたりする。

本人はまったくそんなことは覚えていないというのか、汚したという意識はない。

大便が落ちているくらいなのだから、小水だって漏らしているのではないだろうか?と思っていたら、やはりそれもあるようで、恥ずかしいのか、それは自分で始末をしている。

もうそろそろ紙パンツにしてもらった方がいいだろうか・・・そう思って、それとなく勧めてみたのだが「それはやだわ」と即座に断られた。
まだ自分の意思はしっかりと持っているので、新しい提案を受け入れてもらうのは至難の業だ。

やんわり言っても即座に断られるし、強く言うと「怒られた」と言われるし、どちらにしても絶対に断るので、どうしてもしてもらいたい時は、息子である夫を通すようにしている。
(最愛の息子が言うことはよく聞いてくれるので)

ところで、友人から「電話してもいい?」とメールが来た。

彼女が「電話していい?」と聞いてくるときは、必ずストレスがマックスになっている時だ。

友人は近くに住んでいる実の母を毎日介護しているのだが、お父さんが亡くなってからお母さんの認知症が進み、自分のことを泥棒呼ばわりすると言って嘆いていた。

物を自分で仕舞いこんで、誰かに盗まれたと言うのは、認知症ではよくあることで、私もそれは経験済みなので友人のやるせない気持ちはよくわかる。
まず疑われるのは、いつも近くにいる人なんだよね・・・

友人の電話の話もやっぱりそれだった。
「私が盗んだとか言われて、すごく腹が立って、なにより情けないのよね。こんなに一生懸命に世話をしてやっているのに、隠れて親戚に電話をして私の悪口を言っているの。本当に嫌になる。自分の母親だけど顔も見たくないって思う」

隠れて悪口の電話をするのも、よくあること。それも経験がある。

「義理のおかあさんなのに、そんなことがあって、よく我慢できるね。私は実の母でも許せないのに・・・」という友人に対して「義理の母だから、仕方がないって水に流せるのだと思う」と答えた。

うちの場合だが、義母に対してはまだ気を使っている所があって、実の親に対するよりも怒りの抑制が効くのではないかと思う。
その時はもちろんムカっとするが、あとから義母の物忘れが可哀そうに思えたり、私にも悪いところがあったと反省したりする。

これが実の親子、特に母親と娘であったら、互いに遠慮なく言い合うことがあるのかもしれない。

友人の言葉で気になったのが「こんなに世話をしてやってるのに」という所で、友人曰く「私は、母を子どもよりもずっと手がかかると思って介護してるの」とも言っていた。

この友人の話はもっともで、頑固になっている老人の世話をするのは子どもの世話をするよりも手が焼けることは認める。

・・・が、ボケてしまってもお母さんには母親としてのプライドがある。

娘には世話になっているという意識はもちろんあると思うが、娘からまるで子ども扱いされて、時には叱られているような感じを受けたとしたら、絶対にお母さんも娘に対して怒りを持つはずだと思った。

私自身は実母がいないので、自分の年老いた母親を介護をする経験はないが、もしも自分が年老いて頭も体も不自由になった時に、娘たちに子ども扱いされて、間違えてしまったことなど叱られたとしたら、きっといい気持ちはしないだろう。
これが息子に叱られたとしたら、娘に叱られるより納得できると思うのだが・・・

息子と娘の違い、そして父親と母親の違いかもしれない。

実の親子の場合、異性同士の親子の方が介護も上手くいくように思うが、介護は人それぞれで母娘でもうまくいっている介護もあれば、母と息子でも険悪な関係になる場合もあるかもしれないし、介護も奥が深いですね・・・

「あと30年もしたら、今度は自分が介護されているかも~。その時には決して娘や嫁の悪口は言わないようにしようね」と言ったら、友人が「そうだね、でもその頃はもうボケていて、そんなことはすっかり忘れているよ」と言って二人で大笑いした。

友人が「こんなに笑ったの久しぶり。笑ってすっきりしたぁ」と言ってくれてよかった。
私も楽しかったよ。





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覚え書き・・・父のこと(続き)

2017-06-19 17:16:40 | 介護
「お父さんの具合、なんだか良くなったみたいだね」と妹と喜び合って帰宅した翌日、朝早くに病院から電話がきた。
「お父さんがあまり良くない状況なので、すぐに来てください」とのことだった。

病院からの呼び出しは、この頃になると頻繁に来るようになっていたのだが、それは私たち家族が「何かあったらすぐに連絡をください」と病院に伝えていたから。

信じられないことだが、家族によっては「亡くなってから連絡をください」とおっしゃって面会にも来ない方がいるそうだ。
家族の間で何があったのか知らないが、亡くなってから・・・とは、あまりにも悲しいことだなぁと思う。

それはさておき、病院から連絡が入って、再び急いで病院へ駆けつけると、父は昨日よりも苦しそうに息をしていた。
昨日は呼びかけるとこちらを向いてくれたのに、その日はまったく反応はなく、薄目を開けたまま、ただただ荒い呼吸を繰り返すだけで、素人がみても「これは危ないかもしれない」と思うほど父は衰弱していた。

様子を見に来てくれた看護師さんに「父はどうなんでしょうか?」と聞くと、「ちょっとこちらへ」と言って病室から出てから少し離れた廊下まで行くと小声でお話をしてくれた。

「病室だとご本人に聞かれるかもしれませんから。もしかしたら、ここで話していることも聞こえているかもしれませんが」と看護師さんはおっしゃってから、父の状態がかなり緊迫していること、もういつ亡くなってもおかしくない状態になっていることなど話してくれた。

看護師さんからお話を聞きながら、この看護師さんも人は死期が近づくと魂が肉体を離れて、遠くで話している人の会話を聞くことができると思っているのだなと思っていた。

人が死ぬと魂が肉体を離れるということは、疑う余地もないくらいにその通りだろうと私は思っているのだが、今回はやはりそうだったと思えることを体験した。

父の遺体を葬儀会場の和室に安置して、来ていただいたお坊さんに枕経を唱えて頂いている時のことだった。
枕経とは死後初めて死者に聞かせるお経のことで、死者が不安にならないようにというような意味があるのだとか。

枕経を聞きながら、布団に寝ている父に向って私や妹が手を合わせていたのだが、何気なく父の方を見ると、父の胸元に薄い影のようなものが立っていた。

その影は徐々にはっきりとなり、頭、肩が見えて、足の方も見えてきて、それははっきりと人の形と分かるようになった。

「お父さんだ」と思った。不思議と驚くようなことでもなく、手を合わせながら薄い影である父の姿をぼんやりと見ていた。

よほど隣にいる妹に教えようかと思ったが、それはやめた。

読経の最中にそんなことを教えたら、せっかくの厳粛な場がぶち壊しになってしまう。

現に父は自分に向けられてお経が読まれていることを知っていて、(たぶん)神妙な顔で自分の遺体の横に立ってお経を聞いていた。

父が亡くなった直後と言うことで私は悲しくて仕方がなかったが、なんだかそれが可笑しくて気持ちが和んだ。

薄い影の父は読経が終わると見えなくなってしまったが、それから実家にお参りに帰るたびに父の気配を感じる。
亡くなった時より若返って、にこにこ笑いながらリビングの椅子にすわっていることが多いのだが、寂しいことにその気配も日を追うごとに無くなってきている。

この世にいるのは49日まで・・・49日は笑顔で父を送ってあげようと思っている。






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覚え書き・・・父のこと

2017-06-16 18:06:13 | 介護
今は様々な情報に接することができるので、「人は死んだら、その存在は無くなる」と考える人は昔よりも少なくなったと思うが、それでも多くは「死とは忌み嫌うもの、できるならば自分も自分の周りでも、死はなるべく経験せずにいたい」と思うものではないだろうか。

かくいう私も同様で、できることならば死は、特に自分のことよりも親しい人たちの死は経験したくないと思う。

しかし、身体は無くなっても魂は永遠に生き続けると知ったら、この世で死は悲しむものであるが、あの世では喜んで迎えてくれる人たちがいるとしたら、受け止め方はすこしは違うのかもしれない。

それが分かったことで、父の死の悲しみが多少やわらいだように思う。

もちろん、父の身体が見えなくなり、もうその身体に触れることも声を聞くこともできなくなってしまったことはとても悲しいが・・・

亡くなっても魂は永遠に生き続けるということは、父の死でより確信が深くなったと思う。

それは父が亡くなる二日前のことで、妹と二人で病室で父に付き添っている時の事だった。

父は、鼻と口を覆った酸素マスクの下で苦しそうに息をしていた。

意識はあるのだけれど、呼吸することに精一杯の父は、私たちが話しかけても返事を返す余裕はまったく無くて、私たち姉妹の方を見てくれることだけが父の意思表示になっているような状況だった。

その日も私と妹が、二人並んで父のベッドの横に座って、おしゃべりをしていた。

突然父が私たちが座っているのとは別の方向に顔を向けたかと思ったら、目を大きく見開いて驚いたような顔をした。

「ん?おとうさん、どうしたの?」と聞いても、父は驚いた顔のまま視線を外さない。

父の目の焦点ははっきりと合っていて、ある一点を見つめていた。・・・が、そこには誰もいなかった。

「誰かいるの?」と聞くと、父はゆっくりと片手をあげて、誰もいない方向にいつもの挨拶をした。

父が元気だった頃、私たち家族や知り合いに会うと、必ず片手をあげて挨拶をしていた。

まさに父は誰もいない方に向かって挨拶をしていた。

妹と顔を見合わせて「誰か来ているのかな」と話しながら、「あぁ、ついに来たか、もう父の死は近いかもしれない」と考えていた。
それは母の時と同じだったから。

母も亡くなる数日前から母を可愛がってくれた亡き祖母が病室に来ているとしきりに言っていたことを憶えている。

父が片手をあげて挨拶をしたように、迎えに来ているのは多分父の知っている人なのだろう。

それはとても親しい人、母なのかな?と思ったりもした。

それからの父はしきりに誰もいない方を気にして、時々その見えない人に話しかけられたかのように、ハッとした様子で誰もいない方に振り向いた。

また時には誰もいない宙に両手を伸ばして、つかまろうとするようなそぶりもした。
まるで誰かの手を握ろうとするかのように・・・

妹は「何か写るかもしれない」と言って、父の気にする方向に向けてカメラのシャッターを切ったが、残念ながらそこには何も写っていなかった。
でも、たしかに父には見えていたのだろうと思う。

そして、そのようなことが起きてからの父はとても病状が安定した。
それまでの苦しそうな表情がすこし和らいで、呼吸が楽になったようにみえた。

苦しい合間に訪れた、ほんの少しの穏やかな時間だった。

私と妹は「あれ?なんだかお父さんの具合が良くなったね」などと話していたのだったが、その翌日からさらに父の状態が深刻になっていった。

続きはまた。




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生命力

2017-05-19 15:13:43 | 介護
先月、誤嚥性肺炎で入院した父だったが(父、再び入院)、思いのほか回復が早くて、わずか一週間あまりで退院したのだったが、それから数日後、また熱を出して緊急入院となり、現在も入院が続いている。

今回は前回の肺炎よりもさらに事態は深刻で、胸の写真を見せてもらうと、わずか数日間のうちに両肺に白い部分がたくさん広がっていた。

父はと言えば、呼びかけにもほとんど答えることなく、意識が混濁していて、ずっと眠り続けているような状態が今も続いている。

前回の嚥下性肺炎の時に医師から説明されたが、この病は繰り返すことが多く、退院した翌日に悪くなって、また入院といったことも十分あり得るとのことだった。

まさにお医者様のおっしゃるとおりになってしまった。

血液検査の結果、白血球の数値が異常に高いため、再び点滴で抗生物質の投与がされた。

食事はもちろんできない。というか、父の意識がはっきりとしないので食事どころか、ふだん飲んでいる肺炎以外の薬さえ飲むことができない。

「今日はすこし良くなっているだろうか?」と淡い期待をもって病院へ行くのだが、父はいつも目をつぶったままで、呼びかけるとすこ~し目をあけてくれるようになったものの、まだ眠っている時間が圧倒的に長かった。

「今日からリハビリを始めます」
ちょうど私が父の見舞いに行っている時に、病室に入ってこられた作業療法士さんに言われた。

「リハビリを始められるということは、父はよくなっているのでしょうか?」と聞くと、作業療法士さんは「白血球の数値はすこしずつ下がってきていますが、全体的には良くありません。リハビリというのは、手足が硬直しないように動かしてあげることです」とおっしゃった。

あんなに体格の良かった父の手足は細い木枝のようになってしまった。

また胸はあばら骨が浮き出てしまった。

作業療法士さんは父の小枝のような手足を軽く動かして、あばら骨の浮き出た胸の部分をやさしくマッサージしてくれた。

時折、父の喉がゴロゴロと鳴った。

「こうしてマッサージをしていると、肺の中からもゴロゴロと音がするんです。これは肺にも痰が入っているということなんですが、こうしてマッサージをしてなるべく痰を口の方へあげようとしています」と作業療法士さんはおっしゃった。

そんな父の入院生活も一週間以上が経った昨日、担当の医師から「話があるので病院へ来てください」との連絡がきた。

妹と二人で行くと、話とは父の現在の状況と今後の治療方針だった。

お医者さんのお話によると、心配していた白血球の数はほとんど平常時まで下がったそうで、肺の炎症がすこし消え始めているとのことだった。
「入院した時、実はとても危険な状況で、そのままお亡くなりになってもおかしくなかったのですが、よくここまで治りましたね。まさに奇跡的です」とお医者さまはおっしゃった。

先生のお話は大変うれしかったのだが、それでも父の様子が入院前に比べて格段に悪くなっているというか、弱っているのがはっきりとわかる。
このままでは高齢者住宅へ帰っても、以前の生活には戻れないのではないだろうかと思った。

そのことをお医者さまに聞くと、高齢者の場合は肺炎は治ったとしても、長く絶食していることで、飲み込む力が無くなってしまうことがあって、それが原因で死亡したり、なかなか元の場所に戻ることも難しくなるそうだ。

そこで、もしも口から食べることができなくなった場合の選択肢としては、「胃ろうにする」または「胃管と点滴にする」というのがあるそうだ。(この場合、何もしないで見ているというのはないそうだ)

胃ろうはしないことに決めているので、残された選択肢は「胃管と点滴」。

お医者さまは言った。
「胃管は鼻からチューブを入れるのですが、やはり違和感があるので、患者さんによっては無意識に引き抜いてしまう方もいるんですね。お父さんももしかしたらそうするかもしれません。そうなった時、お父さんの手にミトンをはめてチューブを抜けないようにしますが、それでもかまいませんか?」

これを聞いて思わず妹と顔を見合わせた。

以前も父は入院中にミトンを手にはめられたことがあって、その時は「とってくれ~とってくれ~」と言って、本当にかわいそうだった。

今回もそれをするかもしれない?
それに胃管で鼻からチューブで栄養を送るというのも痛そうだ
「胃管をしたら、すこし寿命が伸びるのですか?」と聞いたのは妹だった。

すると医師は「伸びるかもしれないし、変わらないかもしれない。お父さんは今、身体のエンジンを止めようとする時期にきているのだと思います。エンジンを止めようとしているのに、どんどん栄養を流し込んで無理に引き留めておくことが、はたして彼(先生は彼と言った)の為になるのかと僕は思います」と言った。

この言葉はまさに私たちも思っていたことだった。

しかし、これがまだ若くして逝った母だったら違っていただろうと思う。
なんとしても、母には逝ってもらいたくなかったから、できる限りの治療をお願いしていただろう。

でも今、父の86歳という年齢を考えた時、「もう十分に生きたし頑張ったよね、もう楽になっていいよ、お父さん」という想いが湧いてくる。

「胃管もやめてください」そうお願いすると、お医者さまは「わかりました。では点滴だけにします。ところで、これはお父さんが口で飲み込むことがまったくできなくなった場合です。まだまだ口から飲み込むリハビリは続けますので、それにかけましょう」とおっしゃってくれた。

父の病室に戻ると、作業療法士さんが飲み込むリハビリをする為に、トロミをつけた水と医療用の小さなゼリーを持ってきてくれた。

父に飲んでもらうために、呼びかけるのだが、父は少し目を開けるとまた目を閉じてしまった。

「意識が覚醒していないので、リハビリ自体できないことが多いんです」と作業療法士さんは残念そうにおっしゃった。
隣では妹が涙ぐんでいる。
どうしたらいいのか・・・私にできることは、父の寝顔に向かって感謝想起を送る事だけだ。

ひたすら父に向って感謝の言葉を心の中で送った。

非科学的と思われる方もいるかもしれないが、私はそうは思っていない。
人間の意識は時にすごい力を発揮する。

一緒にいた妹も父に向って呼びかけ続けると、父は薄目を開け、徐々に目が開いている時間が長くなり、しまいにはぱっちりと大きな目が開いた!(父の目は二重まぶたの大きな目なので・・・)

作業療法士さんもここぞとばかりベッドをあげて、父の上半身が起き上がるようにして「これから、これを食べますよ」と言ってコップに入った水とゼリーを父に見せた。

すると、なんと父は自分の口を開けて、歯のない口の中を指をさした。

「入れ歯が入っていない。入れ歯を入れてほしい」という意思表示だった。

すぐに作業療法士さんが入れ歯を父の口の中に入れて、スプーンで一さじの水をすくって飲ませると、父はもぐもぐしながらごっくんと喉を鳴らして飲み込んだ。

「飲んだ~!!」妹と私と作業療法士さんの三人で歓声をあげてしまった。

そのあとも父は水を飲み、小さなゼリーも完食することができた。

そしてしばらくの間、大きな目を開けて私たちを見ていたのだが、さすがに疲れたのか、また眠ってしまった。

こういった父の様子からはまだまだ生命力のようなものを感じる。

父にあとどれくらい寿命が残っているのか分からないが、最後の最後まで命を輝かせてほしい。

私も後悔しないように、お父さんのことずっと見ているからね。







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父、再び入院

2017-04-23 16:32:18 | 介護
父のいる高齢者住宅から電話があり、父が数日前から熱が出たり下がったりの状況が続いているとのことだった。

しかし食欲はいつも通りあるので、このまま様子を見ますとのこと。

ところで最近の父はベッドの中で眠っていることが多くなって、先日も父の様子を見に行ったのだが、声をかけても起きなかったので、そのまま帰ってきたことがあった。

先月の入院以来、臀部にできた床ずれの為、車いすに長く座っていることができなくなり、寝かせていることが多くなったことで、ますます筋力がなくなって意識の混濁も進んだのかもしれない。

それにしても39度台の熱が出たり下がったりしていることは、とても気になった。

「誤嚥性肺炎」という病名が頭の中に浮かんだ。高齢者の死亡原因として、この病名を聞くことが多い。
嫌な予感がした。

そこで高齢者住宅の看護師さんに聞いてみると、父の様子から「誤嚥性肺炎ではない」とおっしゃって、熱が下がったのでもう少しこのまま様子をみてもいいでしょうと言われた。

しかし、どうしても嫌な予感が拭えず、妹と相談して病院で父を診てもらうことにした。

先週末、熱は平熱になっていたものの意識朦朧としている父を病院へ連れて行ったのだが、診断結果は心配した通りの誤嚥性肺炎だった。

CTに映し出された父の肺には白い影がいくつも映っていた。

熱は平熱であり、咳をするわけでもなく、食欲もあって顔色も悪くはないのだが、医師によると「重症」の誤嚥性肺炎ということだった。

一見すると、そんな重症だとは思えないのだが、高齢者の誤嚥性肺炎の場合、普通の肺炎と違って症状があまり出ないのだそうだ。

しかし父の様子を見ていると、時々食べ物にむせることがあり、のどの奥がゴロゴロと鳴っていることがあった。
これだけでは大したことは無いと思われてしまうので、重症と言われるまで進んでしまったのかもしれない。

やはり胸騒ぎに従って病院へ連れて行ってよかった。

というわけで、父はそのまま入院となり、今年に入ってから二度目の入院となったが、今回は医師から今後の想定として三パターンがあるとのお話を聞いた。

「一つは誤嚥性肺炎が治って、また食事が口から取れるようになること、二つめは食事を口から取ることができなくなってチューブで栄養を送る胃ろうになること、三つめは残念ながら亡くなるかもしれないこと」だった。

二つ目の胃ろうについては、以前から姉弟の間で父には胃ろうはしないでおこうという話し合いになっているので、二つ目の選択になった時にはまた医師との話し合いが持たれると思う。

「これまで何度も危機を乗り越えてきたお父さんなので、今回もまた乗り越えてくれるでしょう」と最後にお医者さんがおっしゃってくれた。

そう・・・父は介護が必要になってからの4年近く、膀胱にあったかもしれない腫瘍の検査入院や(なぜか消えたのが)、心拍数の低下で危険な状態になり、間一髪の所でペースメーカーを入れて元気になったり、大腸がんが発見されての手術と、本当にいろいろな危機を乗り越えてきた。

今回も乗り越えてほしいと願っているが、何せ年齢が86歳と高齢な上にずいぶん弱っているので心配はある。

父が入院した翌日、妹が父の見舞いに行ったとメールで知らせがきた。

妹のメールには「お父さん、とても元気になってる!」という文があった。

急いで妹に電話をかけてみたら「そうなの!入院するまでは意識朦朧としていたのに、今日は意識がはっきりしていて暇だ~暇だ~と言ってる」と教えてくれた。

暇だ~なんて、まるで元気な人みたいなことを言っていると可笑しかった。






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父退院

2017-03-23 17:14:15 | 介護
先月末に入院した父だが、今日ぶじに退院してきた。

血管の詰まりによって足先が紫色に変色したというので入院したのだったが、検査の結果、足だけではなく体のいろいろな場所で血管の詰まりがあることがわかり、足のカテーテルのほかに心臓のカテーテルも行った。

これによって身体の血流は良くなったのだが、もうひとつ問題があって、それは臀部と足のかかとに褥瘡(床ずれとも言うが)ができていたこと。

これがけっこう大きかったようで、カテーテルによる治療はすぐに終わったのだが、褥瘡の治療に時間がかかった。

父はもう歩くことができないため高齢者住宅では車いすの生活なのだが、長く車いすに座るという同じ姿勢がよくなかったようだ。

とはいえ、理由はそれだけではなく高齢者特有の皮膚の乾燥だったり、血流の悪さも褥瘡ができる原因のひとつだったと思う。

しかしここ最近、父はずっと皮膚のかゆみを訴えていて、高齢者住宅の職員さんからもそのことは聞いており皮膚科の医師に診てもらっていたのだが、まさか褥瘡ができていたとは知らなかった。

おむつを替えてくれるのは職員さんなので、家族はなかなか気づけなかったのだが、皮膚科の診察は背中や腕のかゆみの治療だけだったので、できれば職員さんから褥瘡がこんなにひどくなる前に何か対応をしてもらいたかったというのは家族の本音だ。

父の住む高齢者住宅はそれでもずいぶん細かく対応をしてくれる方だと思うのだが、なんせ人手が足りないのだと思う。

食事前などに行くと、話しかけるのもはばかられるほどに職員さんたちは忙しそうに走り回っている。

家族も自分たちにはできない世話をやってもらっているという意識があって、こんなにやってもらっているのにこれ以上は申し訳ないと、なかなか細かいところまでお願いすることを遠慮してしまうような所がある。

その点、病院は体位交換はもちろん、高齢者住宅よりも短い時間でおむつ交換をしてくれるので、褥瘡も徐々に治っていくのだが、完全に褥瘡が治るまで入院していることはできず、今回も医師から退院の許可が出るやいなや事務の方から「できるだけ早く退院をお願いします」と言われた。

かなり大きな病院なのだが、慢性的にベッドが足りないほど、父のような高齢者の患者さんが待っているのだろう。

というわけで、父は退院することになったのだが、入院していた病院から父の病状や今後の介護について書かれた手紙が高齢者住宅に送られ、その内容に沿って今後の介護の変更も話し合われた。

家族としては父がひどく痛がっていた褥瘡が今後はできなくなるように、体位交換のお願いをした。

そして、体位交換は今までの介護サービスに有料で加えられた。

また今回の入院でさらに起きていることが難しくなった為、車いすに座っている時間を今までよりずっと短くして、ベッドに横になる時間を長くしてもらうことになった。

さらにベッドには、褥瘡ができにくくなるエアマットを入れてもらうことになった。

いかに父が心地よく過ごせるかを考えて、とにかくやれることはやった。

父は何を思っているのか、ほとんど眠っているか起きていても無表情になった顔からは読み取ることが難しい。

元気だった頃は「寝たきりでもなんでもいいから、とにかく生きたい」と言っていた父だったが、今はどう思っているのだろう・・・

でもエネルギッシュな父のことだから、やっぱり「とにかく生きたい」と思っているのかもしれない。

それにしても老人介護現場の人手不足は深刻な問題・・・

今まで介護の担い手であった40代50代女性は、今や絶滅危惧種になっているとか。
(そういう私も介護ヘルパーをやめたのですが)

私が介護が必要な年齢になった時にはどうなっているのやら。

だから・・・「ぴんぴんころりを目指して、発酵食品を摂って運動するぞ~!!」ってね。







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雪がとけたら

2017-03-01 16:18:53 | 介護
昨日はブログを書き終えた後、仕事へ行く前に買い物に行ってこようとスーパーへ出かけたのだが、途中で電話がかかってきた。

電話は父が入院した病院からで「これからカテーテル検査をするので、家族の同意書にサインをお願いしたい」とのことだった。

「できるだけ早く来て欲しい」とのことだったので、急いで家に帰って仕事先に「申し訳ないですが休ませてください」と電話をした。

仕事先は小さな学習塾だが、そこには父のことを話してあり、今後もしかしたら緊急の呼び出しで仕事を休む可能性があるということを最初に伝えてあったので、とても親身に「それは大変。早く行ってあげて」とおっしゃってもらった。

病院へ向かいながら、昨日とは違うのは予定がキャンセルになったにもかかわらず全然イライラしていなかったことだった。

それどころか、病院へ行けることの方が自分の気持ちに沿っているような気がしていた。

やはり父のことが心配だから、仕事へ行くより病院へ行きたいと心の奥底では思っていたのだと思う。

だから病院から「すぐに来てください」と言われると、待ってましたとばかりに病院へ向かった。

電話ではカテーテル検査をすぐにでも始めるような話だったが、二時間待っても始まらず、ずっと父のベッドの横で父の顔を見ていた。

待たされるのはもう慣れたので、こちらもイライラせずにすんだ。

父はウトウトと眠っていることが多く時々目を覚ます。

目を覚ました時に、この時とばかりに話しかけてみるのだが、もうほとんど問いかけに答えることはしない。

ただ私のことは分かっているようで「いるよ~」と手を振ると小さくうなづいてくれた。

病名は医師から直接聞いたわけではないが、もらった書類に目を通していたら「下肢動脈硬化閉塞症」と書かれてあった。
血管が詰まって足の先まで血液が流れにくくなっているということだろうか。

父は認知症の進行もそうだが、身体の機能のすべてが落ちてきているのだと素人にも分かるほど弱ってきている。治療しても治療しても、身体のあちこちに不具合があらわれる。

86歳という年齢を考えれば、それも仕方のないことかもしれない。

でも、もう一度だけ家に連れて帰ってあげたいなぁ。

父の可愛がっていたオカメインコちゃんに会わせてあげたい。

今の父ならば、かわいがっていた鳥のことを憶えていると思う。

雪がとけたら家に帰ろうね。お父さん・・・








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外にごみ・・・のつづき

2017-02-13 16:14:28 | 介護
お姑さんが生ごみを窓の外に置くという前回に書いた記事の続き。

あの日、デイサービスから帰ってきたお姑さんに話をした。

日中に鳥が食べるか見ていたけれど食べに来なかったこと、お隣さんの敷地にまで置くのはやめた方がいいということ。

そして、お姑さんが最も恐れている?自分の息子に見つかったら、たぶん烈火のごとく怒るだろうということを話した。
これはまったく予想がつくことなのだが、夫は自分の母親にはとても厳しい。

普段は義母の身体を気遣ったり世話を焼いたりと優しいのだが、「やってはいけない」と何度も注意したことを義母がやってしまったりしたら、それはもう大そう怒る。

そして、息子に叱られた義母は言い訳をいろいろと考えて言い返すのだが、これが火に油を注ぐことになる。
言い訳をすればするほど、ますます夫の怒りは大きくなり叱る声も大きくなっていくのだ。

かわいそうに夫に怒られた義母は、小さな体をますます小さくして「はい、もうやりません」と謝るのがこれまでの常になっている。

だからこれを見たら夫は絶対に怒るに違いなかった。
今までも何度となく注意してきたことだったから・・・

私の話を聞いてくれたお姑さんはすぐに分かってくれて「片付けに行く」と言ってくれたので、二人で一緒に片付けることにした。

片付け終わるとお姑さんは「このことは息子には内緒にしておいて。言わないでね」と何度も言うので、元々夫には話す気はなかったが「わかりました。内緒にしておきますからね」と言って、めでたく終了・・・となるはずだった。

ところが翌日、お姑さんの部屋から夫の叱る声が聞こえてきた。

「今度は何を怒っているのだろう?」
そう思って、憮然とした顔で戻ってきた夫に「どうしたの?」と聞くと、「窓の外にたくさん生ごみが散らばっている」と言った。

慌てて窓の外を見ると、なんと昨日きれいに片付けた場所に再び生ごみが散乱しているではないの!!

昨日と違ったのは、昨日はプラスチックトレーに載せられていた生ごみが今度は見事に散乱していたことだった。

なぜ?なぜ?私の頭の中も混乱していた。

昨日は「もうやらないから息子には内緒にして」と言っていたはずなのに、なぜこうなるのだろう?

夫が義母に問い詰めると「鳥にやりたいから」と言ったそうだ。
(鳥は食べていなかったよと教えた時、お姑さんは「そうかい」と言ってわかってくれたように思ったのだが)

「片付けてくる」そう言いながら、夫は外へ出て行った。

本当に昨日のことはきれいさっぱり忘れてしまったのだろうか?もしそうなら、これはまずい・・・

一応、義母には夫には内緒にすると言ったが、こうなっては話しておいた方がよいだろうと思い、前日のことを夫に話した。

「きっと忘れてしまうんだろうな」と夫が言った。

夫がかなり叱ったことで(本当は叱らない方がいいのだが・・・)お姑さんの脳には外に生ごみを散乱させてはいけないということがしっかりと定着したようだった。

とは言え、しばらくするとまた同じことを繰り返すのだろうが。

先月のお姑さんの風邪以来、認知症がまた進んだような気がしている。

だんだん物忘れが激しくなる義母。

昔の自分が一番輝いていた頃の思い出はいつまでも忘れないが、今起こったことはすぐに忘れてしまう。
特に義母は昔の思い出の中に生きていることが多くなった。

仕方がないことだが、ちょっと悲しい気持ちになってしまった。













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怒っているのはだれだ

2017-02-10 15:59:04 | 介護
春の陽気を感じられるようになってきたせいか、特に理由はないのだけれど気持ちがとてもウキウキとした嬉しさを感じることが多い。

例えば五十肩のリハビリは治療の度に激痛があるのだが、痛みに耐えながら「こうやってだんだん治っていくんだなぁ」と思うと、病院へ行くことも苦ではなく嬉しい気持ちになるし、激痛に耐えながら「病院の帰りになにか美味しいものを買って帰ろう」などと考えているとますます嬉しくなる。

また先日カットしてもらった髪型は今までの髪型とすこし変えてもらったのだが、これが自分ではなかなか気に入った髪型になっていて、鏡をみる度に一人嬉しさにほくそ笑んでいる。

ほかにも買い物に行ったら、欲しかったものが6割引きになっていて迷わず買ったとか、料理が美味しくできたとか、そんな物質的嬉しさもあれば、朝早くに窓の外をふさふさのしっぽを揺らしながら歩くキタキツネを見たことや、入れ代わり立ち代わり餌を食べにやってくる可愛らしい野鳥の姿を見たこと、昇ってくる朝陽がとてもきれいだったことなども嬉しい。

多分、以前も私は同じように嬉しがっていたのだと思うが、今すこし違うのは嬉しさがずっと続いていることかもしれない。

だからいつも機嫌よく過ごすことができて、とても平和な気持ちでいられる。

こんな気持ちがずっと続けばよいのだけど・・・と思っていたら、なんと今朝はそんな嬉しい気分がプツンと途切れてしまって、代わりに久々に怒りの感情が湧き上がってしまった。

それはお姑さんが生ごみを隣家の敷地にまで捨てていたのを発見したことだった。
正確に言えば、お姑さんはわざとそれを置いたのだった。

発見したのは、お姑さんはデイサービスへ出かけた後で、お姑さんの部屋の窓のすぐ下にプラスチックトレーに載せた野菜くずやミカンの皮が置いてあった。

中にはミカンの房を吸ったあとのゴミもたくさんあって、これはどうみても生ごみにしか見えなかった。
しかも一部は隣家の庭にまで置いてある。

これを見た瞬間、私の中に「またこんなことをして」という怒りの感情が湧き上がって来た。
と言うのは、置いた場所は今回とは違ったが、お姑さんは前にも何度か同じようなことをしていた。

「何度、言ったらわかるのだろう」
「誰が片付けると思っているの?」
「隣の家の人が気づいたらどう思われるだろう」

以上がこの時の私の心の・・・いや頭の中のつぶやきです。

以前はこのまま怒りの状態がしばらく続いたのだが、今は自分が怒っているという感情を第三者的な目で見てみることにした。

怒っている時に第三者の目になるということは難しいようだが、「怒っているのはだれだ?」と何度も何度も自分に問いかけると、だんだん落ち着いて考えられるようになった。

何度言っても分かってくれない義母に対する怒り。
隣家にまでゴミを蒔くとは何事だ!という怒り。
これを片付けなければいけないのは誰だ?私じゃないの!という怒り。

落ち着いて考えると、隣家にまで迷惑をかけるようなことに対しては厳しく注意しなければいけないが、他のことはどうってことのない問題だった。

何度言っても分かってくれないのは認知症と言う病気の為だし、片付けることだってそれほど大変なことではない。

お姑さんがゴミを置くのはなぜだろうか?ということに思いをはせてみれば、それは野鳥に食べてもらいたいからだろうと思う。

それらを野鳥が食べるか食べないかは分からないが(今までの経験では食べなかったが)、お姑さんの部屋の窓の外と隣家の庭の境には大きな木があって、そこにいつもたくさんの鳥がとまるのだ。

そして、お姑さんはいつもその鳥たちを見るのを楽しみにしている。

もちろん庭に置いてある野鳥のエサ台も部屋から見ることができるのだが、お姑さんは大きな木にとまっている鳥たちに自分で餌をあげたかったのだろう。

その証拠に隣家の敷地にゴミをばら撒いているようで、実はゴミは鳥たちがいつも止まっている木の下あたりに捨てられていた。

そうだったのかと思ったら、す~っと怒りの感情が消えて行き、代わりに「おばあちゃん、かわいい~」という自分でも意外な気持ちが湧いてきたことが可笑しかった。








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三度目の復活

2016-10-24 14:58:39 | 介護
父が退院してから10日あまりが過ぎ、昨日も父の様子を見に高齢者住宅へ行ってきた。

退院当日はぐったりとして、果たしてこのまま退院させてもよいものだろうか?と思ったが、その後、父をみてくださる高齢者住宅の職員さんのお話によると、食事はいつも完食しているとのことだった。

また、退院後に行った妹も「お父さん、にこにこと笑っていた。要望に応えてピースサインもしてくれたよ」と言っていたので、まったく心配はしていなかった。

さて父の病名は「腸重積」だが、その原因となっていた腫瘍は検査の結果、やはり「大腸がん」だった。

幼児のこぶし大ほどの癌で、ステージⅡとのことだが、幸いきれいに切除できたことと、術後の経過が順調だったことから、今後は通院はしなくてもよいことになった。

これがもう少し若い人ならば3か月ごとに検査をするそうだが、父は86歳と高齢なうえに、自力では動くことができないほど弱っている為、通院する事は父の体力をますます消耗させるので、これにて病院は終了となった。

さて昨日の父だが、行った時にはベッドに横になっていた。

職員さんが「もうそろそろ起こしてもよいので」と言って、父に声をかけてくれた。

職員さんの手を借りて起き上がった父は、しっかりとした顔つきで私たち家族の顔を見るなり笑ってくれた。

また私の夫の顔を見ると、片手をあげて挨拶をした。

片手をあげて挨拶をするのは、私たち娘にはしないのだが、その伴侶たちには必ずする挨拶で、父がちゃんと理解している証拠だとわかって嬉しくなった。

医師からは「喉に詰まらせないものであれば、好きなものは何でも食べさせてください」と言われていたので、持って行ったジュースとプリンを出すと、父は美味しそうにそれらを完食し、まだ何か食べたそうな顔をした。

父はもう中身がなくなってしまった空き容器を手にして、「まだ残っているんじゃないか」と底をスプーンでつつくので、それを見ていた夫が「かわいそうだから、何か買ってくる」と言って、さらに飲み物を買いに行った。

父を見ていると、食べる欲はものすごい。

ついこの前、腫瘍を含めて20センチも腸を切ったとは思えない食べっぷり。

与えれば与えるだけ食べてしまうので、身体のことを考えると、かわいそうだが途中で止めさせなければいけない。

「次に来るときに、また持ってくるから。今度は何がいい?」
そう聞いたのだが、父は無言でうなづくだけだった。

ただ入院前よりも弱ったという感じはなく、もう二度と立つことは無理かもと思ったほどやせ細った足だったが、昨日は職員さんに支えられて立っていた。

父の生命力は本当にすごい。

人間そう簡単には死なないものだと思った。

というわけで、三度目の復活を果たした父であった。

あぁ、私も父のピースサインが見たかった・・・












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父、手術をする

2016-09-30 17:24:43 | 介護
腸の一部が腸の中に入り込んでしまうということで入院することになった父だったが、つけられた病名は「腸重積」だった。

これは赤ちゃんによく見られる病気だそうだが、成人がこれになった場合、ほとんどは腸の中に腫瘍ができている可能性があるそうだ。

そして手術で中に入り込んだ腸を切り取らない限り、再発する可能性はほぼ確実で、遅くても3か月以内に再発するそうだ。

身体が弱ってきている父なので、できればお腹を切る事は避けたかった。

ほかにも方法がないかと医師に聞いてみたところ、内視鏡で切るという方法もあるが、それには患者の負担が大きくなるので勧められないとのことだった。

内視鏡手術の場合、まずお腹を膨らませてから手術を始めるそうで、開腹手術の2倍の時間がかかってしまうとのこと。
父のように高齢で身体が弱っている場合は、開腹手術をして早く手術を終わらせたほうが良いという医師のお話だった。

「このまま様子を見ていても悪化するだけ。最悪、命を失うかもしれない。
一時的に腸を引っ張り出しても近いうちに必ず再発する。
また、内視鏡手術は身体に負担が大きい」などと言った医師からの説明に、もう選択肢は開腹手術しかなかった。

ただ手術自体はそれほど難しいものではなく、問題は手術で切った腸の接合部分から食べ物が漏れないかということと、高齢なので今後食べ物を飲み込むことができるようになるかということだそうだ。

また高齢者の場合、心筋梗塞や脳梗塞を起こしてしまうこともリスクとしてはあるそうだった。

開腹手術をお願いして、その場ですぐに手術日が決められた。

予定では手術は午後からのはずだったが、朝、突然病院から電話があり「午前に手術をすることになったので、なるべく早く病院へ来てください」と言われた。

そして私が病院へ着くと、看護師さんが待っていたかのように「11時半から手術を始めます」と言った。

手術まで、あと20分くらいしかなかった。

父の様子を見ようと急いで父の病室へ行ったら、父はベッドの中で起きていた。

相変わらず手には卓球用ラケットのようなミトンをはめられていたが、もう「とってくれ」とは言わなかった。

目を開けている父に「お父さん、これから手術だよ。簡単な手術だから頑張ってね」と声をかけると、急に父の目に力が入り「大丈夫だ、大丈夫だ」とはっきりとした声で何度も答えた。

それを見て「あぁ大丈夫だな。父はまた復活する」そんな気がした。

そう父はこれまで何度も復活してきた。

右側の腎臓に何か腫瘍があるということで、最悪「腎臓の摘出」とも言われた時には覚悟を決めたが見事復活を遂げた。→ふっかーつ!

またペースメーカーを入れることになった時も父は乗り越えた→危機脱出

だから今回も大丈夫。また復活する。なんだかそんな気がしていた。

結局、手術は3時間半かかったが順調だったそうだ。

そして手術後に摘出した腸を医師から見せてもらったが、そこには小さい子供のこぶし大くらいの大きさの腫瘍があった。

やはり腫瘍があったことが原因で腸重積を起こしていたらしい。

腫瘍が悪性かどうか調べるのに1週間以上かかるそうだ。

しかし、たとえ悪性だったとしても、もう治療はせずこのまま高齢者住宅に連れて帰ろうと思っている。

何より食べることが好きな父なので、あとは好きなものを食べさせてやりたい。

だから接合部分の状態と飲み込むことができるかどうかが、いま一番気になることだ。








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父、入院する

2016-09-23 16:49:25 | 介護
父が嘔吐した為に一時帰宅が中止になったことを書いたが、その後、なんと父が入院することになってしまった。

嘔吐した日、父は熱が出て高齢者住宅に隣接する病院へ行くことになったのだが、熱が出た原因は嘔吐した物が肺に入ったことによる「肺炎」だった。

しかし、問題は肺炎ではなかった。

MRIで調べたところ、腸の一部が腸の中に入り込んでしまっていることが判明した。

このままでは食べ物や飲み物を摂るができないのはもちろんだが、腸の中に入り込んだ部分が壊死して最悪には一瞬にして死に至るという怖い病気だった。

隣接する病院ではこれ以上の処置はできないとのことで、すぐに設備のそろった大きな病院へ救急搬送された。

そこでは今後どのようにするか医師から話があった。

休日だったため、腸専門の医師が不在で内科の医師からの説明だったが、このような場合、普通は開腹手術をするそうだ。

ただ高齢なので開腹手術をすると、衰弱するかもしれないとのこと。

内視鏡で入り込んだ腸を引っ張り出すこともできるが、いずれまた同じように繰り返すことになるだろうとのこと。

そしてこのままにして置いた場合、先にも書いたが一瞬にして死に至ることもあるとのことだった。

さて、どうしたらいいものか・・・

とりあえず後日、専門の医師が来てからまた説明を受けることになった。

そして入院した父はと言えば・・・元気なのだ!

腹痛があるわけでもなく声をかけるとニコニコ笑っていたのだが、それからの処置で父から笑顔が消えていった。

食事ができないので鼻から栄養チューブを入れられ、ほかにも点滴などの管が何本か身体につけられた。

さらに父が最も嫌がったのが、管を自分で抜かないように両手にミトンをはめられたことだった。

父は今より認知症が軽かった時の入院でも、つけられた管を無意識に引き抜いてしまうことがあり、ミトンをはめられていた。

その時も少し嫌がってはいたのだが、この病院のミトンは今までのとは違って非常にごつかった。

まるで厚さのある固い卓球ラケットを手に付けられているかのようだ。

この手で殴られたら怪我をするかもしれないというくらいの、ちょっとした凶器になりそうなミトンだった。

これでは、かゆいところも掻けないだろう。私もこんなミトンをはめるのはいやだ。

「とってくれ、とってくれ」と両手を差し出して頼む父を見るのはつらかった。

看護師さんにお願いして、私たち家族がいる間はミトンを外してもらうことにしたが、帰った後はまたつけることになるとのことだった。

見た目はこんなに元気なのに、なんともやるせなかった。

あとどれくらい生きられるか分からないが、もうそれほど長くないのならできるだけ苦しくない方法を選んであげたい。

本当は高齢者住宅で今まで通りの生活を送らせてあげたいのだが、このままにしておくと一瞬で死に至るなんて言われると気持ちが揺らぐ。

後日の説明で、なにか良い方法が提案されるとよいのだけれど・・・










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父の一時帰宅

2016-09-21 16:19:44 | 介護
現在86歳の父は、住み慣れた自宅からサービス付き高齢者住宅に移り住み、今年で3年が経った。

高齢者住宅に移ろうと決めたきっかけは、父に認知症の症状が見られたことだった。

排泄の感覚がわからなくなり、たまに大小便を漏らすことがあった。

これ以上は家族で支えることは難しいと判断したのだが、その当時はまだ普通に会話をすることができていたし、自分一人で歩くこともできていた。

だから父の気が向けば、自宅に戻ることもできていたのだが、今はほぼ全介助の状態になってしまった為、自宅に戻ることが難しくなってしまった。

現在の父は日中ずっと車いすで過ごし、移動も排泄もすべて人の手を借りなければならない。

また言葉はほとんど発せず、うなづくことで意思を表す。

しかし、まれに本当にめったにないことだが、まるで数年前の父に戻ったかのように元気におしゃべりすることがあって、そんな時はこのまま元気になるのではと錯覚してしまう。

ただ、それもほんのひと時のことで、悲しいかな、次に行った時にはまた力なくうなづく父に戻っているのだが。

父の病気はレビー小体型認知症だが、体調の良い時、悪い時を繰り返しながら、こうして徐々に進行していくのだろうと思う。

さて、久しぶりに元気におしゃべりができた日、父に行きたいところはないかと聞いてみた。

すると「ない。ここに居るのが一番いい。ここは天国だ」と言う返事だった。

それはそれでよかったのだが、家に戻ってみるというのはどうだろうか?

そこで「家に帰ってみたくない?」と聞いてみると、「もうどんな家だったか忘れてしまったな。でも帰ってみたいな」と言う。

父の衰えた脳を刺激するためにも、住み慣れた場所を見せてあげたいと思い、さっそくケアマネジャーさんに相談すると、「今は体調がよいので、短い時間の外出ならばいいですよ」とのことだった。

そして父を家に連れてきてあげたいと思うのは妹も同じで、妹はできることなら父を家の中に入れてあげたいと言った。

しかし、家の中に入るのは難しいのではないかと思った。

実家は一階が車庫で二階が玄関という作りになっている。

だから玄関を入るには階段を昇らなければいけないのだ。

車いすで階段は上がれないし、体の大きな父を抱えて上がるのも無理がある。

福祉用品レンタルの会社の方に相談してみると、長い外階段を上がるためには電動式の昇降機というものがあるそうだが、このレンタル料が恐ろしく高額なため、一般家庭でレンタルする人はいないとのことだった。(ちなみに10万以上するとか・・・)

だったら家の庭や近所を散歩するだけでもいい。

父が家にいた頃に、よく歩いていた場所を見るだけでも良いかもしれない。

というわけで、今日は朝からよく晴れて暖かだったため、さっそく父を実家に連れてくることにした。

高齢者住宅の職員さんからは、父の体調が良いとのことで外出許可をもらった。

介護タクシーを予約し、実家では妹が父が可愛がっていた小鳥のかごを庭に出して、父の好物の甘酒を作って、父を迎える準備をしていたのだったが・・・

今まさに、父を迎えに行こうとしていたその時だった。

電話が鳴り出てみると、高齢者住宅からだった。

なんと「お父さんが嘔吐しました。今日の外出はやめてください」とのこと。

ここ最近はずっと父の嘔吐は起こっていなかったのだが、なぜか今日に限って嘔吐するとはツイていない。

幸いそれ以上は悪化していないが、大事をとって今日の帰宅は中止にした。

寒くなる前に、父に実家や可愛がっていた鳥を見せてあげたいと思っているのだが・・・

さて、次はいつにしようか。






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