箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

選択の自由がある関係

2018年12月01日 12時54分20秒 | 教育・子育てあれこれ



私は仕事柄、教職員に「この資料を作っておいてくれる?」と頼むことがあります。

このとき私は「頼んだのだから、すぐにやってくれる」と思いこみがちです。

そのうえ、そのようにして頼むとき、教職員の都合を尋ねていないことが、しばしばあります。

引き受けたとしても、

・相手は、それを快く引き受けている。

・イヤイヤでも、校長がいうことだから、引き受けている。

こんな時、相手の心情を汲み取る力や、相手の態度や表情を感じとる力があれば、ある程度の察しはつくものです。

しかし、部下だから、やってくれて当たり前と思いこんでいたら、相手の様子は見えなくなるし、相手の心情を察することもできません、


そこで、

「これをやってくれるかな? 今日中にはこの資料が欲しいけど、都合はどうかな」

「5限目が空いていて、1時間ほどあればできるので、大丈夫ですよ」

「ありがとう。すまないね」

となるとどうでしょうか。


この場合、部下の立場を思い計り、断られる場合もあると承知しています。

部下でも、相手に断る自由があるとわかっているのです。

しかし、人間関係が「支配する-支配される」になっていると、支配する側は、「相手は自分のいうことに従ってくれる」と思い込みがちです。

そして、頼んだからのに、やってないのか!

と感情的になるのです。


このことは、親子関係でも、基本的には同じだと、私は考えています。

もし、親子関係が「支配する-支配される」の関係になっていたならば、子どもがいいつけを守っていなかったとき、カッとなって、

「やっておいてと言ったでしょう。お母さんだって、働いて疲れて帰ってきているのよ」

子どもは、「こっちも、宿題してから塾へ行かないといけないからたいへんなんだ」

となります。


子どもだからといっても、選択の自由はあります。

断る自由はあります。

それを聞かずに、一方的に「しておきなさい」と、最初の段階で、相手の態度や表情に気がつかず決めるということは、相手を傷つけているだけでなく、自分を傷つけていることにもなります。

というのは、相手に期待していた側は、期待に応えてくれていないと知って、傷つくからです。

親子の対等な関係とは、子どもにも選択する自由があるとわかったうえで、相手の様子に敏感になり、言葉に気をつけ、断らられてもよしとする関係だといえます。