箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

お互いを認め合う関係に

2018年12月08日 14時14分17秒 | 教育・子育てあれこれ




たいていの人は、自分が正しいと思い、相手にわかってもらいたいという気持ちで話します。

しかし、私も含めてですが、みんなが自分の視点でしかものごとを見ることができないのです。

どんなに公平に見ようとしても、自分の視点から見たできごとや現象です。

ということは、私たちのものの見方は、自分の視点で見るというフィルターがかかっており、ある意味で、最初から偏っているという捉え方をしておいた方がいいのでしょう。

そこで、子育ての話題です。

子どもの部屋が、足の踏み場もないほど散らかっていて、子どもは片づけようとしません。

親は「自分で散らかしたのだから、片づけるのが当たり前でしょう」と言います。

これは自然な言い方です。

ところが、「自分で散らかしたのでしょう。なんで、片づけようとしないの。ほら、今すぐ片づけなさい」と急かします。

と言いながら、子どもの持ち物を、不機嫌そうに片づけ始めます。

「ああ、またや。なんでいちいち、あーせー、こーせーと、口出ししてきて、命令するのか」

子どもが不機嫌になります。「自分でするから、置いておいてよ」。

このとき、子どもは、自分の思い通りに従わせようとする親に腹を立てています。

親は「これほど散らかっているから、片づけるなと言っても、無理だ」というように、子どもの気持ちを逆なでする言い方になります。

つまり相手を認めることができていません。

それどころか、「片づけてあげたんだから、ありがとうぐらい言ってもいいでしょう」と言いたくなります。

中学生の場合、その部屋がいくら親から見て散らかっているように見えても、親が子どもの了解なく片づけることは避けた方がいいのです。

相手の領域に侵入する関係に慣れてしまい、境界が見えなくなります。

これは、親の側だけでなく、子ども側も自分の領域に侵入されることに慣れてしまっているとも言えます。

冒頭の「自分の視点でしかものごとが見えない」というのは、こんな例に現れてきます。

たかだか、親が子どもの部屋を片付けるという例ですが、偏った考え方がここに現れます。

親も子も、相手の自由を認め合う関係でありたいと考えます。