昨日はあれほど明るい表情だったのに、今日はうってかわって沈んだ表情をしている。
昨日はあいさつをしていたのに、今日は声をかけても返事がない。
こんなようすの中学生と接したとき、「何かあったのだろうか。だとすれば、なにがあったのだろう」 。
このように、考える習慣が35年以上中学校に身を置いて、私には自然と身につきました。
中学生は何を考えているのかわからない。世間一般にはそのように考える人も多いかもしれません。
世の中には、たくさんの仕事や職種があります。しかし、たいていの人は、自分の就いている、ごく限られた仕事しか知りません。
しかし、学校とか先生の仕事というものは、詳細まではわからなくとも、大まかなことはすべての人が知っています。
それは、みんなが学校を卒業したからです。たくさんの先生に出会ってきたからです。 学校とはどんなところで、先生とはどんな仕事かを、多くの人が知っているのです。
ただし、すべての人は中学時代を体験してきたけれども、それぞれが体験した内容も、体験の意味も違います。
また、いまの中学生が生活する環境も大きく変化していますので、同じものごとに出くわしても、おとなの受け取り方と今の中学生の受け取り方は異なることもあるのです。
このような事情がありますので、中学生の心理は簡単には理解できないのです。
私は、中学1年・2年と授業中によく手をあげて発言する生徒でした。授業で一生懸命考えて、自分の考えを発表することに積極的でした。
しかし、2年生の途中から考えが変わりました。 「こんなに手をあげていちいち発表して、何になるの? 先生からの問いに黙っていたって、誰かが答えたりして、いずれ答えはわかるし・・・。」
こう考え始めると、私は自分のやっていた行為が、急にバカらしく思えてきたのでした。
ちょうど、その頃から先生という大人の存在に疑いをもつような時期とも重なりました。
私は、いっさい授業中に手をあげて発言しなくなったのがこのころです。 すると、懇談のときなど、「この頃、以前のような積極性がなくなりました。元気がないというか、消極的になりましたね」。
このように、先生は、私の親に話していました。
そのとき、「どうせ誰も、自分のことは知らない。ぼくが何を思っているかなどこの人たちはわかるまい。それでも、かまわない」と私は思っていました。
「がんばってもしかたがない」。いままでやっていた自分の行動に、そのときとしては、疑問を持つようになったのでした。
(次号に続く)