川の底に沈む石は、明けても暮れても、水の流れの抵抗をうけ、角ばった部分が削られ丸みを帯びてきます。
この状態を「なだらか」と呼ぶことにします。
あるとき、家庭科の授業で調理実習をするクラスがあるので、見に行きました。
ある女子生徒に、わたしの目がとまりました。
包丁さばきは鮮やかで、野菜をトントントンと刻んでいました。
そうかと思うと、お皿に盛り付けるだけはのも素早く正確で、さっとまな板を流し台に運んでは、慣れた手つきで洗っていました。
その子は一連の作業を、適度にグループの友だちと会話しながらこなしていました。
じつは、その子はひとり親家庭の子で、家が食堂を営み、お父さんと従業員が店をきりもりしているとか。
その子も時々、店を手伝い、お客さんに料理をはこんだりしたこともあるそうです。
また、家族の晩ごはんをつくることもよくあるそうです。
その子のもつ「なだらか感」は、まだ中学生なのに、生活するうえでのさまざまなことにも対処できるのではないかという印象を私に与えました。
私は教員採用試験の面接官をしたことがありますが、どの学生さんも、一般的にいって、この「なだらか感」が足りないと感じます。
「面接練習してきたこと」を忠実に伝えようとしますが、どことなくぎこちなく話しているという印象を受けます。無理もないことですが。
しかし、この「なだらか感」をもつ人は、年齢が若くても、なにか人としての幅の広さを感じさせます。
これなら、教壇に立っても、堂々と話せるだろう、保護者の人とも、良好な人間関係を築けるだろう。
そして、面接官は高い評価を出すと思われます。
初任者の教員は、フレッシュで初々しく、エネルギーに満ちている人も多いのですが、まだ社会に不慣れで、子どもや保護者の人たちを不安にさせることもあります。
しかし、この「なだらか感」は、直接会話をすれば、「あっ、落ち着いている」とか「緊張せずに話すことができる人だ」という印象を与えます。
人は経験すること、場数を踏むことで、この「なだらか感」をもつことができます。
これは、才能とは無関係であり、誰でも多かれ少なかれ身につけることができるのだと思います。
才能よりも、経験と時間が「なだらか感」を人にもたらし、人を育てるのだと思います。