10月26日(水) 晴
病友の佐藤篁氏のお誘いを受け、市内の「やなせ宿(じゅく)」に行く。
やなせ宿は、名張市の随所に開かれている「まちかど博物館」のひとつで、正式名は「旧細川邸やなせ宿」。
細川邸は、「藤沢樟脳(しょうのう)」の製造販売を始めた「藤沢商店」(のちの藤沢薬品・2005年に山之内製薬と合併してアステラス製薬)の創始者・藤沢友吉の母方の実家である。
虫籠窓(むしこまど)や袖卯達(そでうだつ)、厨子(つし)二階 を備える典型的な町屋で、大和長谷寺と伊勢神宮を結ぶ初瀬(はせ)街道沿いに、品格のあるたたづまいを今に残している。
「ここに週イチで食べられる、美味しい蕎麦屋があるんです」
蕎麦好きの篁さんは、毎週水曜日にだけ開くこのお店の、常連であるらしい。
名前を一刻庵といい、ご主人手打ちの腰のある細麺が人気で、常連さんも多い。
ご主人は少し一刻なところがあって、店名も納得だ。
供された「なめ茸おろし」を前に、テーブル下で腕にインスリンを打って手間取っていたら、「どうぞ、召し上がってください。蕎麦が延びますから!」とぴしゃり。
インスリンは食直前の投与だから、致し方がなかったのよ、ね。
お手製のだしと蕎麦湯を出していただき、「あ、蕎麦湯だけいただきます」と、だしの碗をカウンターに返したら、蕎麦湯の入った湯桶も引き上げられた。
隣席の男性が、「これ、どうぞ」とご自分の湯桶をまわしてくださり、「ここの主人は変人やからね」と顔をしかめたあと、まじまじとさくらの顔を眺めて、「あれ、この人、見たことがある。 確か名前は。…広野さん? そうや、広野光子さん!」
「えっ、以前はしゅっとして別嬪さんやったけど、…ほんまに、あの広野光子さん?」、「見違えたわ、昔は美人やったよ。 えらく、変わったなぁ」
60代と思しき小太りの男性は、薄水色の作業服で職場のお昼休みに来られた風情である。
さくらの姿を眺め回して、これでもかというほど、「昔は美人やったのに」と繰り返し言われる。
「昔もおへちゃでしたけれど、女性に面と向かってそんなこと言いますぅ?」
さくら@笑うしかない。
「これでも、国交省のお役人でっせ」。 一刻さんがボソリとおっしゃって、またまた大笑いとなった。
20年ほど前に、奥さまのがんの相談にわが家を訪ねて来られたそうだ。
N・E子さんとおっしゃったけれど、記憶になくて申し訳ないことであった。
あの頃は、昼夜を問わず電話やFAX が届き、突然訪ねて来られる方も多く、相談の手紙も郵便箱に入らず、郵便配達さんがチャイムを鳴らして届けてくださった。
子育て真っ盛りの二人の娘(嫁たち)も応援に来てくれて、山積みした封書を開封して手紙をホチキス止めしてくれたりしたのだった。
N・E子さんはその後ご逝去なされたそうだけれど、相談に対して適切なアテンドができていたかしら? お名前も相談内容も覚えていないことで、訳もなく胸が痛むのであった。
立ち居振る舞いもお美しくて、今もほんとうに変わられないですよ。
温厚なあなた様が、今夜は少しイカっておられるようで、申し訳なく思います。ったように、今、少し我を忘れて生きているみたいで、反省しております、
余裕のなさが、本来の醜い自分をあらわにするのでしょうね。
心いたします。