11月5日(木) 晴
お尻に火が点いている。
ぼうぼうと燃え盛っている。
一昨日から引きずっている金つなぎの会の、リストをブラッシュアップする作業をやっと竹内理事に引き継ぎ、『金つなぎNews10号』の制作に追われているのだ。
悪い癖で、締め切り間際にならないと集中できない。
現役の記者時代も、いつも、徹夜で原稿を書いた。
当時は原稿用紙に、すべりの良い細マーカーを探して、書いては消し、したものだ。
文章道の師匠は、今給黎(いまきいれ)久さんと日高一行さん(ひだか・いっこう。元産経新聞経済部長、大阪新聞取締役)。
とりわけ、直属の上司として厳しく優しく、叱って褒めて、 物書きとして育ててくださった今給黎さんには、感謝以外に贈る言葉を知らない。
2010年01月10日 15時27分39秒 | さくら的非日常の日々 に、以下の記述があった。
1973年、大阪でお好み焼き専門店・千房をオープン。その味を国内外に広めて30年以上の中井さんを取材したのは、大阪新聞の『櫻かすみの平成めおと善哉』の連載取材だった。
さくらががんを病む少し前。
サンケイリビング新聞社に在籍しながら、産経新聞に経済コラム『えぷろんメモ』と大阪新聞に『平成めおと善哉』を書かせていただいた。
サラリーマン記者にとっては破格の境遇で、身に余る光栄に酔いしれていた。
陰でひそかに、多重がんが芽吹いているとも知らないで…。
ペンネームの「櫻かすみ」は、亡夫と香代子さんとで、お茶しながら決めたのだった。
大阪新聞の編集局長・日高一行さんが直接デスクをしてくださった。
日高さんは、近鉄の名物社長・上山善紀さん(当時)から、「産経の、歌う経済記者♪」と称された手練れで、たしか、妹さんはオペラ歌手だった。
さくらは、元産経新聞経済部長・今給黎久さん(当時・サンケイリビング新聞編集局長)と、日高さんに育てていただいて幸せだった。
お二人のおかげで、記事を書く今がある。
この時の取材で、月参りを欠かさない経済人の素顔とご家族の参詣写真を引き出し、大方から褒められた。
さくらががんを病む少し前。
サンケイリビング新聞社に在籍しながら、産経新聞に経済コラム『えぷろんメモ』と大阪新聞に『平成めおと善哉』を書かせていただいた。
サラリーマン記者にとっては破格の境遇で、身に余る光栄に酔いしれていた。
陰でひそかに、多重がんが芽吹いているとも知らないで…。
ペンネームの「櫻かすみ」は、亡夫と香代子さんとで、お茶しながら決めたのだった。
大阪新聞の編集局長・日高一行さんが直接デスクをしてくださった。
日高さんは、近鉄の名物社長・上山善紀さん(当時)から、「産経の、歌う経済記者♪」と称された手練れで、たしか、妹さんはオペラ歌手だった。
さくらは、元産経新聞経済部長・今給黎久さん(当時・サンケイリビング新聞編集局長)と、日高さんに育てていただいて幸せだった。
お二人のおかげで、記事を書く今がある。
この時の取材で、月参りを欠かさない経済人の素顔とご家族の参詣写真を引き出し、大方から褒められた。
前置きが長くなった。
文字通りの薩摩隼人であった今給黎さんは、厳しくしかったあとは、言葉やモノやあしらいで優しさをたくさんくださった。
お若い編集長の態度が「なってない。 君の指導が悪いんだよ!」と散々私を叱って、各地区から編集長会議に上がってこられたお若い記者さんたちを引き連れて、北新地に繰り出して行かれた。
翌週、郷里の母上を見舞いに帰られたお土産に、実家の石蕗を持ち帰り、「旦那さんにあげて」と。
なぜか、今給黎さんと夫は、電話で話したりしてお互いに好感を持っておられるようであった。
二人とも、黄泉の国のひとになられ、今は夜な夜な楽しいお酒を酌み交わしておられることであろう、と思う。
枕崎の石蕗。
お仏壇に供えよう♪
夕方、メガドンキに行き、小高い駐車場から沈む夕日にしばし見とれた。
人目があるので、合掌をすることもなかったけれど、一日の感謝と逝友がたへの鎮魂の思いは伝わったろう、ね。
週に1度しか焚かないご飯。
したがってお仏飯も、週に一度。
不埒なさくらである。
冷蔵庫のアリ物で、スープカリーとまぐろとアボカドのポキ。
夏に、義妹の美代ちゃんが植えてくださった青ネギは、枝豆豆腐の天盛りにする。
今日一日の食事代は、たぶん500円!
花博のご活躍ぶりも懐かしく、いつも恩師と称えられる今給さんの喜びはいかほどかと。
ご健筆を祈ります。
サンケイリビング・丸山安彦大阪代表、今給黎局長からのご縁のおかげで、清風さまはもちろん、パリのホテルから絵葉書を書いたらとても喜んでくださった産経新聞・澤昭義社長、洒脱な大阪新聞・佐藤一段社長、歌う経済記者・日高一行役員、皆々さまにご縁を頂戴することができました。
今もおかげで頑張れます。
ありがとうございます。
感謝いたしております。