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2019.05.21 上海時代の家族の写真。

 


我が家の上海時代の写真。
先日兄妹で会った時、兄が持って来た。(戦時中のこととて、母はもんぺで全員戦時下の服装。)
姉の顔の一部が、白く剥がれていたので、 この部分直そうか?と言うと、兄弟はびっくりして
そんなことできるの?と聞くので、え〜?と私の方がびっくり。そんな簡単なこと。
「私はプロよ。」そして「Photoshopで修正出来るのよ。」と言っても、反応がなかった。 
廻りに、誰一人私の仕事を分かってくれている人はいないのだと、ちょっと落胆した。 
でも、自分が好きでやっている仕事、感謝以外に無いと思うので、愚痴言ったらいけない。
 

この写真を撮った時の経緯を、6才だった私は覚えている。
兄が上海中学校2年(14才)の時、予科練に志願すると言い出した。学級から2名 志願すると。(*注)
我が家は父が船乗りで常時家には居ないので、頼れる男性は居ない為、同郷で旅館を経営する
男性Hさんに、兄に思い留まる様に言って欲しいと母が頼み込み、家に来て貰って説得したが、
兄は、「僕が死なないと、日本は勝たない。」と言って、どうしても意志を曲げなかった。 

説得に失敗した母が、泣く泣く撮った最後となるかも知れなかった家族記念写真がこれだった。
(姉が何故ここに居るのか?姉は東京へ留学中だった筈。最後と思った母に呼び寄せられたと思う。)
私が、この時のことを言うと、兄は驚いて「◯◯ちゃん(私のこと)は良く覚えているね。」と
感心していた。兄は覚えていないそうで、色々よく覚えているねといつも言われている。
上海の生家の間取りも三階迄全部覚えていて、生家訪問前に兄が「覚えてる?」と聞くので見取り図
を書いたら全く同じで驚かれた。女性の方が、細かいことを覚えているものなのかも知れない。
兄が「僕が死なないと日本は勝たない。」と言った時の、兄の傍にあった彫りのある座敷机の 
ことも妙に覚えていて、2011年に兄妹3人で上海に行った時も、生家でその机を探した程だった。 
もちろん、後に住んだ中国人はそんな背の低い座敷机など使う筈も無く、見つかる訳も無かった。 

 

 (*注)
兄の学級から志願したもう一人の同級生Oさんは戦死し、 こちらに埋葬されています。↓

2012.08.17 67年目の終戦記念日に思うこと。(宝塚予科練少年兵の墓にお参りして)
 

Oさんの九十数才のお姉様が、毎年命日である8月2日に遠くから墓参されていました。

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