2012.04/19 (Thu)
池波正太郎の小説は面白い。
と言っても、まともに読んだのは「剣客商売」くらいで、「鬼平犯科帳」はテレビで再放送やってるのを見るのが楽しみ、といった程度。
剣術を習い始めてから、間抜け(泥縄、と言うべきか)なことではあるけれど、舞台や小説の中での剣の遣いように目がいくようになった。
と言っても小説に剣の遣いようの微妙なところが書ける筈もない。
勢い、目にしたテレビ、舞台、映画の「殺陣」を凝視することになる。
「これは見事な剣捌きだなあ」と思ったのは、能楽のそれが一番だった。能楽は室町期のものだから、実際に遣われるのは打ち刀でなく、太刀。
だから片手遣いなのだが、これが息をするのを忘れてしまうほど美しい。
勿論、舞手が実際に刀を遣えるわけもないのだけれど、とにかく美しい。
ということは理に適った遣いをしている、ということで、形だけでも(舞なのだから)見事であれば、こちらは何かしら得るものがある。
少なくともその形は(現実は別にして)、「あれなら切れる」と思わされるほどのものだった。「切る」のではなく、「切れる」。
能の舞台での、刀を持っての「舞い」、なわけだから、刀同士打ち合うわけではない。けれど、「真に迫る」ものがある。
能楽の次に「それらしいなあ」と思ったのは歌舞伎だった。歌舞伎の立ち回りも、能楽ほどではないが、それに切られ役から切っ先が一尺以上離れているが、やはり「真に迫る」ものがある。歌舞伎も、太刀、打ち刀に関係なく大方は片手刀法だ。
見得を切らなきゃならないからか、とも思ったが、舞台では身体を開き、顔を客席に向けるのが普通だから、「偏(ひと)え身」という、身体を相手に正対させず顔だけを相手に向ける武術の基本的な体構えは、とる事がない。片手刀法でないと、見栄えがしないからなのだろう。
「真に迫る」ものと無意識に書いてきたが、「迫真」という言葉があったのを思い出した。でも、何故か「真に迫る」と書いて来たのは「迫真」と「真に迫る」では意味が違うからだろう。「迫真」は「いかにもそれらしい」、で、演技であって、「真に迫る」は本質に近付こうとする意志を感じる、と思い込んでいるからに違いない。あながちその思い込みは間違ってはいないと思う。
能楽、歌舞伎と来て、次にそれらしいもの、というのが、やっと映画やテレビの「殺陣」、になる。ここでやっと「剣客商売」が出て来る。
「剣客商売」と言えば、先年亡くなった藤田まことの当たり役で、これまでにテレビドラマ化された中で、初めて本来の主人公、秋山小兵衛にライトを当てた、言ってみれば正統の「剣客商売」が広く知られている。けれど、この殺陣には「真に迫る」ものはなかった。
三十年くらい前だろうか、加藤剛が秋山大治郎役で主役となっていた「剣客商売」がある。
そこに出ていた秋山小兵衛役の役者の剣捌きは目を瞠らせるものがあった。
小説に登場する秋山小兵衛と同じく、定寸の刀が長過ぎるように感じられるほどの短躯ながら、本物の刀を遣っているかのように見える重量感のある剣捌きだった。「迫真」とか「迫力」とかいうのではない、でも、確かに「真に迫る」「あれなら切れる」と思わされる遣いようだった。殺陣の上手い下手ではない。とにかく唸るくらい美しく、残心(残身)がはっきりと見えた。
この日記を書こうと思って、最近ネットで調べたら、あの役者は歌舞伎の名優で、中村又五郎という人だったらしい。
歌舞伎好きだった池波正太郎が、秋山小兵衛という人物を創出するに際し、その名優をモデルにしたのだ、ということが書かれてあった。
なるほど、さもありなん。長年のもやもやが一気に晴れた感じだった。
この「剣客商売」からしばらく遅れて、鬼平犯科帳の「殺陣」がある。でも、それらしいのは、切った後、懐紙で刀を拭う演技が必ず入ってくるところくらいか。
さらに遙か遅れて、というより既に秋山小兵衛の「無外流」は名前だけ、の「必殺仕事人」の殺陣。
さて、その池波正太郎の「剣客商売」。おそらく、大概は読んだと思うのだが段々に「何か違うぞ」と思い始めた。どうも何だか知らん、引っ掛かるところがある。
一体何が気になると言うんだろう。殺陣と何か関係があるのか。
( 続く )
池波正太郎の小説は面白い。
と言っても、まともに読んだのは「剣客商売」くらいで、「鬼平犯科帳」はテレビで再放送やってるのを見るのが楽しみ、といった程度。
剣術を習い始めてから、間抜け(泥縄、と言うべきか)なことではあるけれど、舞台や小説の中での剣の遣いように目がいくようになった。
と言っても小説に剣の遣いようの微妙なところが書ける筈もない。
勢い、目にしたテレビ、舞台、映画の「殺陣」を凝視することになる。
「これは見事な剣捌きだなあ」と思ったのは、能楽のそれが一番だった。能楽は室町期のものだから、実際に遣われるのは打ち刀でなく、太刀。
だから片手遣いなのだが、これが息をするのを忘れてしまうほど美しい。
勿論、舞手が実際に刀を遣えるわけもないのだけれど、とにかく美しい。
ということは理に適った遣いをしている、ということで、形だけでも(舞なのだから)見事であれば、こちらは何かしら得るものがある。
少なくともその形は(現実は別にして)、「あれなら切れる」と思わされるほどのものだった。「切る」のではなく、「切れる」。
能の舞台での、刀を持っての「舞い」、なわけだから、刀同士打ち合うわけではない。けれど、「真に迫る」ものがある。
能楽の次に「それらしいなあ」と思ったのは歌舞伎だった。歌舞伎の立ち回りも、能楽ほどではないが、それに切られ役から切っ先が一尺以上離れているが、やはり「真に迫る」ものがある。歌舞伎も、太刀、打ち刀に関係なく大方は片手刀法だ。
見得を切らなきゃならないからか、とも思ったが、舞台では身体を開き、顔を客席に向けるのが普通だから、「偏(ひと)え身」という、身体を相手に正対させず顔だけを相手に向ける武術の基本的な体構えは、とる事がない。片手刀法でないと、見栄えがしないからなのだろう。
「真に迫る」ものと無意識に書いてきたが、「迫真」という言葉があったのを思い出した。でも、何故か「真に迫る」と書いて来たのは「迫真」と「真に迫る」では意味が違うからだろう。「迫真」は「いかにもそれらしい」、で、演技であって、「真に迫る」は本質に近付こうとする意志を感じる、と思い込んでいるからに違いない。あながちその思い込みは間違ってはいないと思う。
能楽、歌舞伎と来て、次にそれらしいもの、というのが、やっと映画やテレビの「殺陣」、になる。ここでやっと「剣客商売」が出て来る。
「剣客商売」と言えば、先年亡くなった藤田まことの当たり役で、これまでにテレビドラマ化された中で、初めて本来の主人公、秋山小兵衛にライトを当てた、言ってみれば正統の「剣客商売」が広く知られている。けれど、この殺陣には「真に迫る」ものはなかった。
三十年くらい前だろうか、加藤剛が秋山大治郎役で主役となっていた「剣客商売」がある。
そこに出ていた秋山小兵衛役の役者の剣捌きは目を瞠らせるものがあった。
小説に登場する秋山小兵衛と同じく、定寸の刀が長過ぎるように感じられるほどの短躯ながら、本物の刀を遣っているかのように見える重量感のある剣捌きだった。「迫真」とか「迫力」とかいうのではない、でも、確かに「真に迫る」「あれなら切れる」と思わされる遣いようだった。殺陣の上手い下手ではない。とにかく唸るくらい美しく、残心(残身)がはっきりと見えた。
この日記を書こうと思って、最近ネットで調べたら、あの役者は歌舞伎の名優で、中村又五郎という人だったらしい。
歌舞伎好きだった池波正太郎が、秋山小兵衛という人物を創出するに際し、その名優をモデルにしたのだ、ということが書かれてあった。
なるほど、さもありなん。長年のもやもやが一気に晴れた感じだった。
この「剣客商売」からしばらく遅れて、鬼平犯科帳の「殺陣」がある。でも、それらしいのは、切った後、懐紙で刀を拭う演技が必ず入ってくるところくらいか。
さらに遙か遅れて、というより既に秋山小兵衛の「無外流」は名前だけ、の「必殺仕事人」の殺陣。
さて、その池波正太郎の「剣客商売」。おそらく、大概は読んだと思うのだが段々に「何か違うぞ」と思い始めた。どうも何だか知らん、引っ掛かるところがある。
一体何が気になると言うんだろう。殺陣と何か関係があるのか。
( 続く )