CubとSRと

ただの日記

池波正太郎のこと①(何か引っ掛かる)

2020年04月08日 | 心の持ち様
2012.04/19 (Thu)

 池波正太郎の小説は面白い。
 と言っても、まともに読んだのは「剣客商売」くらいで、「鬼平犯科帳」はテレビで再放送やってるのを見るのが楽しみ、といった程度。

 剣術を習い始めてから、間抜け(泥縄、と言うべきか)なことではあるけれど、舞台や小説の中での剣の遣いように目がいくようになった。
 と言っても小説に剣の遣いようの微妙なところが書ける筈もない。
 勢い、目にしたテレビ、舞台、映画の「殺陣」を凝視することになる。

 「これは見事な剣捌きだなあ」と思ったのは、能楽のそれが一番だった。能楽は室町期のものだから、実際に遣われるのは打ち刀でなく、太刀。
 だから片手遣いなのだが、これが息をするのを忘れてしまうほど美しい。
 勿論、舞手が実際に刀を遣えるわけもないのだけれど、とにかく美しい。
 ということは理に適った遣いをしている、ということで、形だけでも(舞なのだから)見事であれば、こちらは何かしら得るものがある。
 少なくともその形は(現実は別にして)、「あれなら切れる」と思わされるほどのものだった。「切る」のではなく、「切れる」。
 能の舞台での、刀を持っての「舞い」、なわけだから、刀同士打ち合うわけではない。けれど、「真に迫る」ものがある。

 能楽の次に「それらしいなあ」と思ったのは歌舞伎だった。歌舞伎の立ち回りも、能楽ほどではないが、それに切られ役から切っ先が一尺以上離れているが、やはり「真に迫る」ものがある。歌舞伎も、太刀、打ち刀に関係なく大方は片手刀法だ。
 見得を切らなきゃならないからか、とも思ったが、舞台では身体を開き、顔を客席に向けるのが普通だから、「偏(ひと)え身」という、身体を相手に正対させず顔だけを相手に向ける武術の基本的な体構えは、とる事がない。片手刀法でないと、見栄えがしないからなのだろう。

 「真に迫る」ものと無意識に書いてきたが、「迫真」という言葉があったのを思い出した。でも、何故か「真に迫る」と書いて来たのは「迫真」と「真に迫る」では意味が違うからだろう。「迫真」は「いかにもそれらしい」、で、演技であって、「真に迫る」は本質に近付こうとする意志を感じる、と思い込んでいるからに違いない。あながちその思い込みは間違ってはいないと思う。

 能楽、歌舞伎と来て、次にそれらしいもの、というのが、やっと映画やテレビの「殺陣」、になる。ここでやっと「剣客商売」が出て来る。
 「剣客商売」と言えば、先年亡くなった藤田まことの当たり役で、これまでにテレビドラマ化された中で、初めて本来の主人公、秋山小兵衛にライトを当てた、言ってみれば正統の「剣客商売」が広く知られている。けれど、この殺陣には「真に迫る」ものはなかった。

 三十年くらい前だろうか、加藤剛が秋山大治郎役で主役となっていた「剣客商売」がある。
 そこに出ていた秋山小兵衛役の役者の剣捌きは目を瞠らせるものがあった。
 小説に登場する秋山小兵衛と同じく、定寸の刀が長過ぎるように感じられるほどの短躯ながら、本物の刀を遣っているかのように見える重量感のある剣捌きだった。「迫真」とか「迫力」とかいうのではない、でも、確かに「真に迫る」「あれなら切れる」と思わされる遣いようだった。殺陣の上手い下手ではない。とにかく唸るくらい美しく、残心(残身)がはっきりと見えた。

 この日記を書こうと思って、最近ネットで調べたら、あの役者は歌舞伎の名優で、中村又五郎という人だったらしい。
 歌舞伎好きだった池波正太郎が、秋山小兵衛という人物を創出するに際し、その名優をモデルにしたのだ、ということが書かれてあった。
 なるほど、さもありなん。長年のもやもやが一気に晴れた感じだった。

 この「剣客商売」からしばらく遅れて、鬼平犯科帳の「殺陣」がある。でも、それらしいのは、切った後、懐紙で刀を拭う演技が必ず入ってくるところくらいか。
 さらに遙か遅れて、というより既に秋山小兵衛の「無外流」は名前だけ、の「必殺仕事人」の殺陣。

 さて、その池波正太郎の「剣客商売」。おそらく、大概は読んだと思うのだが段々に「何か違うぞ」と思い始めた。どうも何だか知らん、引っ掛かるところがある。
 一体何が気になると言うんだろう。殺陣と何か関係があるのか。


        ( 続く )
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今日こそ、安重根

2020年04月08日 | 心の持ち様
2010.04/25 (Sun)

 前回、「プロジェクトJAPAN]について書いてみようと思い、「伊藤博文と安重根」の副題もそのままに書き始めたのに、気がついたら「NHK職員が工作員になるわけ」みたいなことをぐだぐだと書き連ねていて、収拾がつかないまま終わってしまいました。
 「いいんだ、いいんだ、どうせ思いつきで書くんだから」と居直り強盗(じゃないな、ちょっと時間を拝借、だから、寸借詐欺、かな)みたいなこと、していたら、こうなる、という見本ですね。「二番じゃいけないんですか」と言って猛反撃を喰らった蓮舫議員を思い出しました。いや、彼女は頑張ってるものな、引き合いに出しちゃ失礼だ。
 あの時の彼女の矢継ぎ早の質問と、追求する時の厳しい表情が賛否両論で、私も、「折角のきれいな顔が台無しだなあ」と思ったものですが、今回は質問の速度も落とし、常に口元に笑みを浮かべ続け、丁寧に、ということからか、「JICA」を「御・JICA」とまで言って、向上心、びんびん感じましたね。
 残念ながら、「口元は笑み」、ながら、目は相変わらずだったから却って気の毒、というか落ち着かないというか。JICAに御をつけるのも「御コーヒー」みたいで何だかもぞもぞする。前回とは逆な意味で「きれいな顔が台無しだなあ」。
 ほら、また、変な方向に行こうとしているよ、戻らなきゃ。

 行方不明になっていた安重根についてなのですが、彼の詳細な経歴も、彼の性癖も、私は何も知りません。
 ただ、同じ人間であること、私は日本人、彼は朝鮮人、私は百姓を先祖とする、ただの工員の息子、彼は朝鮮の貴族(?)に相当する両班の子弟。
 そして、彼は誓いを立てて、薬指を一節切り落していること、等の事実しか、あ、そうそう、写真で顔だけは知っている。こんな知識しかありません。
 で、前回も書いたのですが、大方の人は、この程度の知識で自身と見比べ、彼の人となり、或いは彼の行動の善悪を判断するのではないでしょうか。
 もしかしたら、彼を知らなかったり、両班の子弟だとは知らなかったり、薬指を一節切り落していることを知らなかったり、「安重根?朝鮮人?ああ、伊藤博文を殺した男って、そんな名前だったの?」みたいなところで、彼を判断する人もあるかもしれません。

 こうやって書いてみると、随分と安易なものなんですね、人の判断って。それでも大筋を間違えちゃ、社会は成り立たない。
 だから、歴史的事実から論理を抽出し、それを現実に応用してみる、「人の来し方、行く末」を、その「教養」で以って見ていこうとする事が必要で、それなら知識は少なくとも、誰にだってそれなりにできる。

 以前に何度かこういったこと(判断の仕方)について書きました。前回の「NHK職員の工作員化の理由」、というのも、ここからの思い、です。
 安重根という人物についても、朝鮮人であるからには、まず朝鮮人独特の精神史が歴史的事実から、見出されていなければならないのではないか。それによって、まず、大枠としての安重根の精神世界が、それから、彼の思考の限界というものが見えてくるのではないか。
 そのようなことを思っています。

 以前、「Reconsideration of the History」ブログを読んで、朝鮮半島というのは、大陸と地続きであるが故に、①常に侵略、征服されてきたこと、②住民は、ただ征服されるのでなく、奴隷にされるか、皆殺しにされること、③(従って)文化は、民族と同じく、その都度、断絶すること、等を知りました。
 そして④現朝鮮民族は、モンゴル族の末裔であって、本来の高麗族ではないこと、⑤モンゴル族の末裔でありながら、満州族に征服された漢民族(近年、それは怪しい、彼等は漢民族ではないと言われていますが)、に対し、結果として臣下の礼をとらねばならなかったこと、⑥独立を、いくら目指して戦っても、叩き潰されるだけで小さくなっていたのに、或る日突然、、日本によって「独立」を与えられた。一瞬の幸福と、長く続く無力、挫折、敗北感を味わったことも、です。

 ①征服者である、という遠い記憶と、その誇り。
 ②(少なくとも)清の属国であり続けたことへの屈辱感、恨み。
 ③(日本によって)突然、独立国になった一瞬の幸福と感謝。
 ④同じアジアの民、と思っていたのが、全く違っていたことへの焦り、口惜しさ、嫉妬、そして憎しみ。

 漢字、佛教、儒教を教えてやったのは自分たちだ。
 だから、自分たちは日本の兄である。弟は兄を終生、尊敬するものだ。
 何故なら、兄は桁違いに偉いのだから。

 ・・・・これが儒教の国の考え方です。別に間違ってはいない。
 まちがっているのは、国家と兄弟を同列に論じているところです。
 この長い前置きの割りに安重根個人のことは、すぐ終わってしまうことと思います。
 何故なら、彼は彼独自に、たとえば、「勝海舟が、本を借りると必ず写本を二冊作り、一冊は手元に、もう一冊は売ることにより、新しい書籍を買ったり借りたりするお金の都合をつけていた(苦学した)」というような、また、「福澤諭吉が将来を嘱望されて滴塾に入り、期待通り、二年で塾頭になるほど、オランダ語に堪能になったにもかかわらず、アメリカ人相手に通詞として全く役に立たず、(当たり前ですが)そこで挫けることなく同じく二年ほどで英語を身につけ、実力試しの渡米、帰国の後、英語塾を開いた」等、といった、努力に努力を重ねて世に出た、という過去を持っていないからです。

 つまり、「取り立てて、勉学の面で世間に一目置かせるほどのことはしていない」
、ということは、国外は当然、国内でも、ごく普通の両班の子息でしかなかった、ということです。
 世界は言うに及ばず、朝鮮国の歴史をつかむ、又、「民族性に立脚した誇り」、というものの中味を把握している、とは言えないと推察できます。

 或る人の、私の日記へのコメントに、「日露戦争の勝利を知った安重根は『快なるかな!壮なるかな!』と叫んだ」とありました。これは同じアジアの民が、白人を破った、という単純な感動です。
 これが朝鮮の歴史を把握し、朝鮮民族として、たとえば今の韓国人のような誇りを持っていたならば、快哉を叫ぶ前に、歯噛みして口惜しがる筈ではありませんか。
 「なぜ、日本なんだ!我々こそがやるべきことを!」と。

 そして、後、彼は「反日」になる。
 理由は簡単でしょう。日本人に「命令」されるから、です。
 ただ命令されるのなら、辛抱もできる。しかし、日本人は、両班である自分たちにも、下々の者共に対すると同じ口調で「命令」する。
 「命令」ととらえるのです。日本人は、作業手順とか、仕事の分担などの事務的なことを言っているだけなのですが。
 これは、受け取る側の性格が捩れているのではありません。両班は元々命令などされたことのない人間だから、です。

 日本人がどんどん増える。奴らは朝鮮人を馬鹿にして命令ばかりする。まちをどんどん作り変える。必要のない「下賤の者」まで学校に行かせ、勉強をさせるよう「命令」する。あろうことか「女にまで」学問をさせようとする。儒教の国、礼の国である朝鮮の秩序を、日本は破壊しようとしている。

 何故、安重根は伊藤統監を暗殺しようと思ったのか。
 「伊藤こそが、元凶であり、伊藤さえ倒せば、日本の動きはとまり、朝鮮は真の独立国になれる。」これしかないでしょう。
 ・朝鮮が清の属国でなくなったのは、「朝鮮の独立運動が成功したから」だった・・・、でしょうか?日清戦争で、「日本が清に認めさせたから」ではなかったでしょうか。
 ・両班の子弟以外、さらに女子が教育を受けることは、朝鮮を破壊することにつながるのでしょうか?本家シナ、東夷の日本、どちらにもない、誤まった儒教の礼法を破るだけではないでしょうか。
 ・日本が資金を「与える」のではなく、借款、という形にしたのは、屈辱感を味わうことをさせないためです。高い利息をつけて儲けようと思ったからではありません。

 両班の子弟なわけですから、間違いなく論語は習っている筈です。それによる教養があれば、上に挙げた三つの中から、ほんの僅かでも、「道理」を見出す筈です。
 日露戦争の勝利時、快哉を叫んだこと、日本人の言動(乱暴狼藉などではないのですが)から、反日に変わったこと、統監を殺害することで、世を変えようとする、儒教にはない、「テロル」の思想。
 これらから、安重根が、純粋な気持ちを持つ青年であったことは認められます。
 しかし、歴史に学ぼうとしない、儒学も十分には学んでいない、朝鮮という国の、役には立てなかった人物で、決して英雄ではない。ただのテロルの実行者、と言う事になります。
 彼が獄中で書いたといわれる「東洋平和論」も、残念ながら、そこから学び取れるものは彼の純粋さ、だけです。

 朝鮮民族は、彼を英雄として讃えるのではなく、かれの純粋な気持ちを大切に思い、「朝鮮は如何にあるべきか」「安重根の理想、『東洋の平和』はどうすれば実現できるのか」を考えるべきでしょう。
 少なくとも、現在のように「日本に勝った」「~を教えてやったのは我々だ」みたいな低レベルのことを、いくら言い張ったって、それでは永久に日本を追い抜くどころか、肩を並べることすら、できないのですから。

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プロジェクト・ジャパン (伊藤博文と安重根)

2020年04月08日 | 心の持ち様
2010.04/24 (Sat)

 遅くなりましたが「プロジェクト・ジャパン」について、書いて見ます。楽しみにしてたんです。

 「伊藤博文は拳銃で撃たれ、数時間後に死亡」となっているらしいが、検死の結果、片膝をついて低い位置から撃ったと言われる銃弾は体内になく、残っていたのは、似ても似つかない長銃(歩兵銃)の銃弾。
 膝をついて、だから斜め下方からである筈の銃弾は、逆に斜め上方から射ち込まれていること。

 まず、この辺を、どう描くのか、と思っていたのですが、見事に一言の説明もありませんでした。

 「ハングル(諺文と言うべきか)の読み書きが江華島条約以前、全人口の何パーセントくらい、できたのか。」
 「日本は国家予算の半分を韓国に注ぎ込んだというが、それでどんな事業をしたのか。」
 「閔妃とロシアとのつながり、大院君はどう動いたのか。」
 「『韓国併合』という言葉を使いながら、『植民地支配』と説明するのにはどんな意図があるのか。」
 「両班という階級である安重根が、『日本万歳』から『反日』に変わった背景に、祖国の歴史認識はあったのか」
 
 疑問が次々と出てきたのですが、何だか、どれを取ってみても解きようがない。
 今さら、私がここで肩肘張って論陣を張る、なんてお笑いです。そんなこと、しませんよ、知恵熱が出てしまう。
 日記なんだから、「心にうつり行くよしなしごとを、そこはかとなく書き付」ける。
 いつも立ち方は肩幅、じゃない、自然に慣れた形で、ある。
 特に学術的な論文を取り寄せるわけでなし、資料を見たり、実地検分をしたり、などなくって、持ち合わせの知識と、見方(教養)で以って、物を見、判断をする。誰だってそうでしょう?

 特に、会話。井戸端会議は言うに及ばず、テレビのコメンテーターだって、構成作家の大筋はあるにせよ、言い間違えて「ごめんなさい、もう一回」なんて謝ってやり直さねばならないような、詳細な台本があるわけではない。
 今回の「プロジェクトJAPAN」だって、「見ているうちに腹が立ってきた」とか「あまりの印象操作に呆れた」とかの意見はあるんだけど、同時に、「何も知らない人は、『そうか、やっぱり日本は酷いこと、したんだ』と思うんでしょうね」と予測(推測)する意見もある。

 「知っていたら、だまされない。知らないからだまされる」
 その通りなんですが、
 「知っていてもだまされる。詐欺師の手口には誰でも引っ掛かる」と、
以前、書きました。
 それで「何も考えていなければだまされる。だまされないぞ、と思ってたってだまされる。じゃあ、一体どうしたらいいんだ?」ということで、「見詰める」ことを提案しました。「見詰める」だけなら、知識はさほど必要ではない。

 NHKは酷い。だが、あの印象操作の技術は「さすが!NHK」と胸中、思った人は多かったのではないでしょうか。
 確かに大した腕前です。思った箇所をきちんと切り取り、BGMを巧みに入れて、絵もぴったりなのを選んでいる。
 そうなると、NHKってものすごい頭脳の集合体なのか、と思ってしまいます。これだけ見事に、意図的に、印象操作をやってしまえるものなのだろうか。
 NHKが、とんでもなく遠いところにあって、とてもじゃないが我々の追及の手は届かないのか。

 いや、「プロジェクトJAPAN,台湾と日本」、一万人を超える訴訟団の戦いは続いています。あれは、ばれた。揉み消しにかかった時の、あまりに稚拙なやり方は、「あれがNHKか?」となったはずです。

 ということは、少なくとも、そんなに、とんでもなく優秀な頭脳が「あくまでも意図的に番組をつくる」ということではないかもしれない。
 となると、考えられるのは次の推理。
 「NHKの番組制作者自身が、本心から思っているのではないか」ということです。最高の詐欺師はまず自分をだます(なりきってしまう)。
 
 昔、大ヒットしたドキュメンタリーシリーズに、「シルクロード」というのがありました。喜太郎のシンセサイザーによる、印象的なテーマ曲、石坂浩二のナレーション、は、一時期、西域ブームを起こしました。
 NHKが力瘤を入れて、何年もかけて製作し、自信満々で流したあの番組。
 あれは「NHKだけが」、「初めて取材」した、ということで、評判にもなり、驚異的なヒットとなったのですが、ちょっと深呼吸してみれば。

 「何故、NHKだけだったのか」「なぜ、あの中共が、支配の確実でない西域へカメラの入ることを許可したのか」
 好意的に考えましょう。NHKが報道記者魂で頼み込んだ。
 それに対し、「政情不安、放射能汚染の危険のある西域」に、熱意だけで入ることを、許可するか?
 不都合なことは撮影不許可、撮影内容チェック。中共に具合の悪いことは撮らない。あの時、間違いなくNHKは北京放送局日本支局、として行動していた。

 本当は、日中国交樹立時から、始まっているのです。
 国交を樹立すれば、大使館が置かれます。NHKはこの時、北京支局開設を「許可」されています。NHKだけ、です。
 
 天下のNHKです。国家間の取り決めはきちんと守ります。
 身勝手な行動はとらず、中共政府の支持は完璧に守り、中共のテレビ局とは比較にならない高品質な番組を短時間でつくり上げる。何より、中共の嫌がること、禁止していることは絶対にやらない。

 日本人なら当たり前のことだし、NHKからも約束を墨守するよう厳命されているからなのですが、早い話、それで、信頼を得、特別扱い、優遇されるようになるわけです。
 「NHKなら、良いだろう」
 「NHKなら、丁寧に応対しろ」
 「国営局だ、優遇してやれ」
 これが数年以上繰り返されるとどうなるか。

 中共は変わりません。
 しかし、「職人集団」ではあっても、「歴史学者集団」ではないNHKのメンバーは、中共に対し、全幅の信頼を措くようになる。のみならず、当然、好意を持って見る(撮る)ようになる。
 そして、それはNHK全体の共通知識(NHKは特別に優遇される)となる。

 「プロジェクトJAPAN」は、昨年の「台湾」からのつながりでなく、併行して、教育テレビで放送されていた、「日本と朝鮮」の(古代からの)通史の延長線上のものです。
 日韓、日中間で行なわれている歴史に関する共同研究と同じ方向でつくられています。
 韓国でも同様のことが起こりつつあります。
 やっぱり、「NHKなら良いだろう」「NHKなら、優遇する」。
 あちらの言い分を100パーセント受け入れるからです。

 そして、NHKの職員は「何だ、日本で聞いた韓国の印象と全く違うではないか。『我々には』こんなに親切だ。それより、日本はこんな酷いことをしてきたのか」とショックを受けます。

 こうやって、工作員化します。
 そして、「それ、おかしいよ」と誤認を指摘すると、「韓国に気の毒」「NHKのプライド」が燃え上がり、焼入れをします。
 そして「鋼の工作員」の出来上がり。


 ん?安重根は、どこへ行った!?(次回は本線に戻るかも)
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