goo

家に来た蜘蛛は追い払わない!

2021年02月14日 | 気ままな横浜ライフ
先日、ハエが室内から飛び去ったと思ったら、小さな蜘蛛が壁をちょこちょこ歩いていた。



母から「夜、家に入ってきた蜘蛛を粗末にしてはいけない。『よくも(夜蜘蛛)来てくれた』と歓迎こそすれ、邪険にすべからず」と教わった。



カミさんは嫌がるが、私は昼間に来た蜘蛛もスマホで撮って、そのままにしておいた。翌日、蜘蛛の姿は見当たらない。雲がぐれ? 
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

大航海時代の日本の戦国時代について

2021年02月14日 | O60→70(オーバー70歳)
1月23日の深夜、NHK再放送の『戦国』(1〜2)を見てしまいました。すごく刺激を受けて、感銘を受けたことを以下のとおり書き留めてみました。
----------
1600年に徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、オランダは1602年に東インド会社を設立しています。迅速な海外進出が目的であり、世界初の株式会社でした。スペインと戦争をしていたオランダは、スペインの海外での収益を奪うためでした。当時のスペインは銀の大産出国で、その財力で世界の貿易を独占し、強大な軍事力を保持していました。

そこで、オランダはスペインの銀独占を打破するため、新たな入手先を探していました。

日本の銀に目をつけていたのはスペインも同様で、徳川家康が開発した佐渡鉱山(2300トンの銀埋蔵量)に、50000人の採掘労働者を動員することまで提案しますが、キリスト教王権国家の欲にかられて、結果的に家康にさから嫌われ、後のキリシタン禁止に至るのですね。

徳川家康は、豊臣勢力に対抗するため、世界の銀生産量の3分の1に相当する日本の銀で、兵器を充実させるために世界との交易に参加しました。まさに、銀貨のよる世界貿易圏の誕生した時期でした。

スペインやオランダは、強大な軍事国家となっていた当時の日本を武力で征服する可能性は低いと判断していたのです。スペインとは異なり、オランダは貿易による富国強兵によって、スペインからの独立後の戦いに勝とうとしていました。

一方、徳川家康との交渉に失敗したスペインは、豊臣秀頼とキリシタン布教の約束を取り付け、キリシタン勢力の強かった九州勢力とも連携し、軍事的支援を活発にしていきます。大坂の陣は、見方を換えるとオランダとスペインの覇権争だったのですね。

そんな中で、ヨーロッパの軍事産業はオランダが最も進んでおり、大阪の陣で豊臣勢を攻めきれなかった家康は、オランダに最新鋭の大砲提供を求め、オランダは速やかに大砲を提供しました。今まで大阪城まで達しなかった大砲が、オランダの大砲によって城を直撃し落城に至り、150年も続いた日本の戦国時代が終わったのですね。

ちなみに、大阪の陣でオランダは銀貨12000枚を得たとも言われ、その後のスペインとオランダの植民地争奪戦に大きく貢献するのです。さらにオランダは、進化していた日本の武器と戦闘力あふれるサムライを傭兵として、徳川家康に派遣を要請しだというのです。(いや〜っ、知らなかったなぁ!)

天下統一後のサムライの武力は不要になり、オランダの傭兵として商品化され、モルッカ諸島(インドネシア)の争奪戦で大活躍したのです。船から大砲を撃ち、上陸したサムライが槍や日本刀で接近戦を制したそうです。長く続いた30年戦争では、やっとオランダはスペインに勝利したのです。

その勢いで、オランダは世界海運・軍船の3分の2を保有するまでなりました。大航海時代・宗教の時代(スペインは世界をキリスト教で、世界を支配することを目的としていた)から、オランダが目指した貿易(商業資本主義)の時代へ転換していったのですね。

徳川家康が鎖国したのはスペインの野望を知っていたからであり、オランダに長崎での交易を許したのは、世界とのつながり(宗教ではなく交易に伴う各種情報)を重視していたからなのですね。

こうしてみると、大仏次郎さんの『天皇の世紀』に至る背景につながります。鎖国をぶち破ったのはアメリカですが、それ以前から接触していたオランダ、そして遅れて参加してきたイギリス、ドイツ、ロシアなどが複雑に絡み合い、明治維新に突入していきます。
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )