僕は驚いた。
何気に、福島県東白川郡塙町の元町長だった金沢春友さんの『金沢愛子遺稿集/歌集 山桑の花』(富喜書房、昭和30年6月発行)を手に取り、パラパラとページをめくり「あとがき」を目にして驚いたのである。
あとがきの行替えをして句読点を取れば、それは一編の詩だった。とんでもないほどの愛にあふれた詩篇だった。こんな夫婦になれたらいいなぁ、と思った。
【あとがき】
愛子も予を遺して先立つとは、夢だに思はなかつた事であろう。常に親しんだ人々に話した事や、死後の遺品等から推断してもである。が然し妻の死は現実であり、天に向って叫べども、地に伏して泣きわめくとも、今は過去の悲哀となった。已に(すでに)一ヶ年は過ぎ、其の間の憂鬱と痛恨とには堪えて来たが、今後何年も何年も耐え得るであろうか。書かんもつらし、語るも悲しい。遂に予が心根は癒えざる苦悶に閉されている。
月日の光は変らず、郷土の山河は在りしままだが、妻は巳に亡し、天涯地角に伴なふ影なき寂しい予は、闇行く心地である。風赤き朝、雨白き夕、帰らぬ哀れな妻よ、今何処にぞ、樗(ぶな)の下なる奥津城に、深き眠りに落ちているのであろう。然れども予が眼に写る俤(おもかげ)は、脳裏に浮ぶ其の容姿は、灯火の上に、枕の下に、部屋の片隅に之を見る。嬉しと喜び勇んで起くれば、それは夢であり、襖に写る予の影のみ寂しい。
草の根をしめて墓木の下に永遠に眠られよ。仮令骸は土に埋もれ、朽ち果てても、魂魄は必す予が家に戻られよ。予も亦何時かは一基の墓の主となり、お前の翼に身を伸して飛び行くであろう。人は去れり、水も流れよ、雲も行け而して去って留らずである。
更け行く夜半に孤独を喞(かこ)ち、只一人涙に咽び、在りし日の事共思い出づればそれは広野に捨てられた心地であり春は廻れど人は返らずである。
人は旅より帰るとき
親しき妻を門に見む
は永遠に予には出来得ぬ事である。君を送りて道遠く行けども行けども帰らざるお前である。
荒草離々、虫秋に呻いて淋しき妻の霊を慰めてくれるであろう。