今日、私の知り合いの子のお兄さんが亡くなりました。
今こうして私が、パソコンに向かっている時も、彼の家族は深い
悲しみの中にあるのです。
自分の体験した悲しみを重ねてみても、その悲しみの深さに
近づくことはできません。
今日は、アラスカの熊も思い浮かべることができません。
何かを求めるように開いた本に、柳澤桂子さんの文章がありました。
「人間には、人を癒す能力が備わっている。また、癒しを受ける
能力も備わっている。私は、そう確信しています。
しかし、人を癒す能力は、傷ついた相手を「助けよう」と思った
その瞬間に失われてしまう。そういった類のものであるように
私には感じられます。では、どうすればよいのでしょうか。
まず、「癒す」という気持ちを捨てることです。そして、苦しむ人
を、あるがままの状態で受け容れ、いかなる価値基準でも
その人を判断しないことが肝心なのでないでしょうか。
ちょうど、太陽の照りつける道を歩いてきた旅人に、涼しい
木陰を提供する大樹のように、無心になることです。
自分の枝の長いことも、葉が豊かなことも、樹は決して誇りは
しません。木陰で休む旅人の心を傷つけるようなこともしません。
ただ、黙ってそこに立っているだけです。」
この文章を読んだ時、初女先生の姿が浮かびました。
迷った時、苦しい時、悩んだ時、初女先生ならどうされるだろうと、
思うと、答えが見えてくる気がします。
そして、その人対して何も出来なくても、祈ることは出来ます。
祈ることが…
今こうして私が、パソコンに向かっている時も、彼の家族は深い
悲しみの中にあるのです。
自分の体験した悲しみを重ねてみても、その悲しみの深さに
近づくことはできません。
今日は、アラスカの熊も思い浮かべることができません。
何かを求めるように開いた本に、柳澤桂子さんの文章がありました。
「人間には、人を癒す能力が備わっている。また、癒しを受ける
能力も備わっている。私は、そう確信しています。
しかし、人を癒す能力は、傷ついた相手を「助けよう」と思った
その瞬間に失われてしまう。そういった類のものであるように
私には感じられます。では、どうすればよいのでしょうか。
まず、「癒す」という気持ちを捨てることです。そして、苦しむ人
を、あるがままの状態で受け容れ、いかなる価値基準でも
その人を判断しないことが肝心なのでないでしょうか。
ちょうど、太陽の照りつける道を歩いてきた旅人に、涼しい
木陰を提供する大樹のように、無心になることです。
自分の枝の長いことも、葉が豊かなことも、樹は決して誇りは
しません。木陰で休む旅人の心を傷つけるようなこともしません。
ただ、黙ってそこに立っているだけです。」
この文章を読んだ時、初女先生の姿が浮かびました。
迷った時、苦しい時、悩んだ時、初女先生ならどうされるだろうと、
思うと、答えが見えてくる気がします。
そして、その人対して何も出来なくても、祈ることは出来ます。
祈ることが…