イザヤ書30 54章1~17節 「無償の愛」
はじめに:54章は、「あなたの天幕を広げよ」という題名で語られています。前回、私たちは、この書のクライマックスとも言える部分を見てきました。主の選ばれたしもべは、苦難のしもべでした。主は、私たちの背きの罪のため刺し通され、咎のため砕かれたのです。彼への懲らしめが私たちに、平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されたのです。その結果が、この54章に描かれています。それは、「回復の約束」です。主に一時的に見捨てられたイスラエルが、回復して捕囚の地(バビロン)から帰還するのです。イスラエルは、神の恵みによって、再建されます。主は、どのようにしてイスラエルを回復するのでしょうか。それがこの章に描かれています。1,あなたの天幕の場所を広げよ(54:1~3)。2,あなたは恥を見ない(54:4~6)。3,永久に変わらぬ愛(54:7~10)。4,無償の愛(54:11~17)。です。
54章「『子を産まない不妊の子よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ』と主は仰せられる(54:1)」。主は回復後のイスラエルに語ります。彼らは、もはや、不妊や産みの苦しみ(罪)から解放された民です。主は、彼らに喜び、歌えと叫びます。「夫に捨てられた女の子供」とは、これも、イスラエルのことです。イスラエルは主が約束してくださった子孫の繁栄を一時的に失います。アッシリヤによって北イスラエルは滅亡し、南ユダはバビロンによって捕囚の民となります。イスラエルの地は廃墟となります。しかし、イスラエルは回復します。主の代理人であるイスパニヤのクロス王によって復活します。イスラエルは、アブラハム契約によってその増大繁栄は保障されています。民の数は、契約以前よりも、さらに、増え広がることが、イザヤによって預言されています。
「『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り延ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ(54:2)』。「あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し荒れ果てた町々を人の住むところにするからだ(54:3)」。天幕とは、神と人がともに住む住居を指します。主はイスラエルの民に、その子々孫々に、大地を与え、増大繁栄の約束を与えています。イスラエルは、国をつくり、今、その居住地は広がり開拓によって、荒れ地は、町となります。その町を強固にし、外敵から国を守れと、主は、命じます。神の民が「増え広がる」ことが預言されています。
「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめの時代のそしりを、もう思い出さない(54:4)」。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている(54:5)」。「主は、あなたを、夫に捨てられた。心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる(54:6)」。若かったころの恥とは豪華絢爛を誇ったダビデ、ソロモンの時代ではなく、分裂後のイスラエルの恥を指します。アッシリヤによる北イスラエルの滅亡であり、やもめの時代の謗りとはバビロンの捕囚を指します。彼らは、言葉を失い、文化も失い、自由に自分の神を礼拝することもできませんでした。勿論、神殿も失いました。それは、まさに恥であり、そしりであり、侮辱でした。このように、イスラエルは、長期にわたり外敵の支配下にあり、惨めな思いをしてきました。しかし、クロス王を道具とした主の働きにより、その思いから解放されます。彼らは、もはや、恐れることも、恥を見ることもなくなったのです。そこには主によるイスラエルに対する優しい愛があります。ここで、神は、自分のことを、「あなたの夫」と言っています。神とイスラエルは、夫婦関係にあります。愛と真実に基づく契約関係です。しかし、この関係が破られるのです。姦淫が行われたのです。偶像崇拝です。神は怒り一時的にイスラエルを捨てられたのです。しかし、神はイスラエルの悔い改めを見てこれを救われます。「若い時の妻」をお救いになるのです。
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める(54:7)」。「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる(54:8)」。主がほんのしばらくの間イスラエルを見捨て、イスラエルの前から姿を隠したのは、アッシリヤやバビロンのイスラエルへの侵攻を赦したことを指します。主は、この二つの大国を使って自分に従わないイスラエルを懲らしめたのです。しかし、主は、憐みをもって、また、永遠の変わらぬ愛をもって、契約の民をお救いになるのです。主は、愛のむちをおふるいになられたのです。
「『このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う(54:9)』。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と、あなたをあわれむ主は仰せられる(54:10)」。「ノアの方舟」は、旧約聖書「創世記」(6~9章)に登場する、大洪水にまつわる、物語を指します。このとき、地は堕落に満ち、主の怒りを買います。主は、洪水をおこし、地上の人々と、すべての生物を、滅ぼすことを決意します。信仰深きノアに「方舟」の建設を命じます。ノアは、それを達成します。方舟には、ノアの家族と、すべての動物の一つがいを乗せます。そこには、種を絶やさないための配慮がありました。怒りの洪水は40日、40夜、続き、地上の生物をすべて滅び尽くします。主は、洪水によって全地に裁きを下されましたが、方舟から出てきたノアが捧げた全焼のいけにえの煙の臭いをかがれたとき、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことをすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことをすまい」。あなたを怒らず、あなたを攻めない。その証として、主は、虹を天に掲げたのです。そして言います。いかなる天変地異が起ころうとも、わたしのイスラエルに対する愛は変わらない、と。この愛は、ギリシャ語で「アガペー」と言います。この虹は、十字架に例えられます。神は、十字架をご覧になるとき、主(キリスト)を信じる者は、決して裁かないと約束(契約)しています。十字架は、その契約のしるしです。あなたが、イエスを自分の救い主として信じるならば、神の怒りがあなたに臨むことは、決してないのです。キリストが、その裁きのすべてを一身に背負って死んでくださったからです。
『苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め(54:11)、』「あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする(54:12)」。苦しめられ、もてあそばれ、慰められなかった女とは、大国に虐げられていたエルサレムを指します。そのエルサレムが、主によって選ばれ、天に挙げられ、神の国になることが、イザヤによって預言されています。天のエルサレムは、宝石の輝きを持つ都です。それを、苦界において、男に弄ばれた女が、見受けされ、回復し、宝石で身を飾る姿になぞらえています。
「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある(54:13)」。私たちに真の平安を与えるものは、主の教えです。これ守ることによって、イスラエルの子々孫々の増大繁栄は、保障されるのです。ここには、アブラハム契約があります。その彼方には、神のご計画があり、神の国があります。
「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない(54:14)」。イスラエルの民は、王なるメシアから直接、教えと導きを受ける者となり、主の祝福を受ける者となります。主の守りによって「、神の都エルサレム」は守られ、しいたげをもくろむ者は近づけなくなります。だから、恐れるな、と主は言います。宝石の輝きを持つ「神の都エルサレム」の、その美しさと、栄光と、安定は、義という土台の上に、堅く立てられるのです。これは、天に挙げられたエルサレムの姿です。イザヤの預言です。
「見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される(54:15)」。アッシリヤにしてもバビロンにしても、それは、イスラエルの罪を裁くために主が遣わした道具でした。けれども、今や、主は、イスラエルを懲らしめようとは考えていません。逆に、イスラエルをあわれむことを考えています。どんな強力な敵が攻め寄せても、それに打ち勝つ力を、主は、イスラエルにお与えになっています。
「見よ。炭火を吹き起こし武器を造り出す職人を創造したのはわたしである。それを壊してしまう破壊者を創造したのもわたしである(54:16)」。主は、主権者です。創造も破壊も自由です。「あなたを攻めるために作られた武器は、どれも役立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責め立てるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ――(54:17)」。戦いとは、武器によるものだけでなく、情報(舌)戦もあります。神を信じる者は、信じないもの(偶像崇拝者)に対して、その双方(武器と情報)に勝つ必要があります。
「見よ。わたしはすぐ来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるためにわたしの報いを携えてくる。わたしはアルファでありオメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示録22章12~13節)」。
ここには、主の神聖さと、永遠性が描かれています。主は、完璧なのです。
「私は、この書の預言の言葉を聞くすべての者にあかしする。もし、これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書の言葉をすこしでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22章18~19節)」。
この書とは聖書を指します。聖書の完璧さが描かれています。この書には、取り除くものもなければ、付け加えるものもないのです。完璧なのです。同時に、聖書にみ言葉を啓示された、主の完璧さも表しています。
はじめに:54章は、「あなたの天幕を広げよ」という題名で語られています。前回、私たちは、この書のクライマックスとも言える部分を見てきました。主の選ばれたしもべは、苦難のしもべでした。主は、私たちの背きの罪のため刺し通され、咎のため砕かれたのです。彼への懲らしめが私たちに、平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されたのです。その結果が、この54章に描かれています。それは、「回復の約束」です。主に一時的に見捨てられたイスラエルが、回復して捕囚の地(バビロン)から帰還するのです。イスラエルは、神の恵みによって、再建されます。主は、どのようにしてイスラエルを回復するのでしょうか。それがこの章に描かれています。1,あなたの天幕の場所を広げよ(54:1~3)。2,あなたは恥を見ない(54:4~6)。3,永久に変わらぬ愛(54:7~10)。4,無償の愛(54:11~17)。です。
54章「『子を産まない不妊の子よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ』と主は仰せられる(54:1)」。主は回復後のイスラエルに語ります。彼らは、もはや、不妊や産みの苦しみ(罪)から解放された民です。主は、彼らに喜び、歌えと叫びます。「夫に捨てられた女の子供」とは、これも、イスラエルのことです。イスラエルは主が約束してくださった子孫の繁栄を一時的に失います。アッシリヤによって北イスラエルは滅亡し、南ユダはバビロンによって捕囚の民となります。イスラエルの地は廃墟となります。しかし、イスラエルは回復します。主の代理人であるイスパニヤのクロス王によって復活します。イスラエルは、アブラハム契約によってその増大繁栄は保障されています。民の数は、契約以前よりも、さらに、増え広がることが、イザヤによって預言されています。
「『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り延ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ(54:2)』。「あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し荒れ果てた町々を人の住むところにするからだ(54:3)」。天幕とは、神と人がともに住む住居を指します。主はイスラエルの民に、その子々孫々に、大地を与え、増大繁栄の約束を与えています。イスラエルは、国をつくり、今、その居住地は広がり開拓によって、荒れ地は、町となります。その町を強固にし、外敵から国を守れと、主は、命じます。神の民が「増え広がる」ことが預言されています。
「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめの時代のそしりを、もう思い出さない(54:4)」。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている(54:5)」。「主は、あなたを、夫に捨てられた。心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる(54:6)」。若かったころの恥とは豪華絢爛を誇ったダビデ、ソロモンの時代ではなく、分裂後のイスラエルの恥を指します。アッシリヤによる北イスラエルの滅亡であり、やもめの時代の謗りとはバビロンの捕囚を指します。彼らは、言葉を失い、文化も失い、自由に自分の神を礼拝することもできませんでした。勿論、神殿も失いました。それは、まさに恥であり、そしりであり、侮辱でした。このように、イスラエルは、長期にわたり外敵の支配下にあり、惨めな思いをしてきました。しかし、クロス王を道具とした主の働きにより、その思いから解放されます。彼らは、もはや、恐れることも、恥を見ることもなくなったのです。そこには主によるイスラエルに対する優しい愛があります。ここで、神は、自分のことを、「あなたの夫」と言っています。神とイスラエルは、夫婦関係にあります。愛と真実に基づく契約関係です。しかし、この関係が破られるのです。姦淫が行われたのです。偶像崇拝です。神は怒り一時的にイスラエルを捨てられたのです。しかし、神はイスラエルの悔い改めを見てこれを救われます。「若い時の妻」をお救いになるのです。
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める(54:7)」。「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる(54:8)」。主がほんのしばらくの間イスラエルを見捨て、イスラエルの前から姿を隠したのは、アッシリヤやバビロンのイスラエルへの侵攻を赦したことを指します。主は、この二つの大国を使って自分に従わないイスラエルを懲らしめたのです。しかし、主は、憐みをもって、また、永遠の変わらぬ愛をもって、契約の民をお救いになるのです。主は、愛のむちをおふるいになられたのです。
「『このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う(54:9)』。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と、あなたをあわれむ主は仰せられる(54:10)」。「ノアの方舟」は、旧約聖書「創世記」(6~9章)に登場する、大洪水にまつわる、物語を指します。このとき、地は堕落に満ち、主の怒りを買います。主は、洪水をおこし、地上の人々と、すべての生物を、滅ぼすことを決意します。信仰深きノアに「方舟」の建設を命じます。ノアは、それを達成します。方舟には、ノアの家族と、すべての動物の一つがいを乗せます。そこには、種を絶やさないための配慮がありました。怒りの洪水は40日、40夜、続き、地上の生物をすべて滅び尽くします。主は、洪水によって全地に裁きを下されましたが、方舟から出てきたノアが捧げた全焼のいけにえの煙の臭いをかがれたとき、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことをすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことをすまい」。あなたを怒らず、あなたを攻めない。その証として、主は、虹を天に掲げたのです。そして言います。いかなる天変地異が起ころうとも、わたしのイスラエルに対する愛は変わらない、と。この愛は、ギリシャ語で「アガペー」と言います。この虹は、十字架に例えられます。神は、十字架をご覧になるとき、主(キリスト)を信じる者は、決して裁かないと約束(契約)しています。十字架は、その契約のしるしです。あなたが、イエスを自分の救い主として信じるならば、神の怒りがあなたに臨むことは、決してないのです。キリストが、その裁きのすべてを一身に背負って死んでくださったからです。
『苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め(54:11)、』「あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする(54:12)」。苦しめられ、もてあそばれ、慰められなかった女とは、大国に虐げられていたエルサレムを指します。そのエルサレムが、主によって選ばれ、天に挙げられ、神の国になることが、イザヤによって預言されています。天のエルサレムは、宝石の輝きを持つ都です。それを、苦界において、男に弄ばれた女が、見受けされ、回復し、宝石で身を飾る姿になぞらえています。
「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある(54:13)」。私たちに真の平安を与えるものは、主の教えです。これ守ることによって、イスラエルの子々孫々の増大繁栄は、保障されるのです。ここには、アブラハム契約があります。その彼方には、神のご計画があり、神の国があります。
「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない(54:14)」。イスラエルの民は、王なるメシアから直接、教えと導きを受ける者となり、主の祝福を受ける者となります。主の守りによって「、神の都エルサレム」は守られ、しいたげをもくろむ者は近づけなくなります。だから、恐れるな、と主は言います。宝石の輝きを持つ「神の都エルサレム」の、その美しさと、栄光と、安定は、義という土台の上に、堅く立てられるのです。これは、天に挙げられたエルサレムの姿です。イザヤの預言です。
「見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される(54:15)」。アッシリヤにしてもバビロンにしても、それは、イスラエルの罪を裁くために主が遣わした道具でした。けれども、今や、主は、イスラエルを懲らしめようとは考えていません。逆に、イスラエルをあわれむことを考えています。どんな強力な敵が攻め寄せても、それに打ち勝つ力を、主は、イスラエルにお与えになっています。
「見よ。炭火を吹き起こし武器を造り出す職人を創造したのはわたしである。それを壊してしまう破壊者を創造したのもわたしである(54:16)」。主は、主権者です。創造も破壊も自由です。「あなたを攻めるために作られた武器は、どれも役立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責め立てるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ――(54:17)」。戦いとは、武器によるものだけでなく、情報(舌)戦もあります。神を信じる者は、信じないもの(偶像崇拝者)に対して、その双方(武器と情報)に勝つ必要があります。
「見よ。わたしはすぐ来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるためにわたしの報いを携えてくる。わたしはアルファでありオメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示録22章12~13節)」。
ここには、主の神聖さと、永遠性が描かれています。主は、完璧なのです。
「私は、この書の預言の言葉を聞くすべての者にあかしする。もし、これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書の言葉をすこしでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22章18~19節)」。
この書とは聖書を指します。聖書の完璧さが描かれています。この書には、取り除くものもなければ、付け加えるものもないのです。完璧なのです。同時に、聖書にみ言葉を啓示された、主の完璧さも表しています。