東北大震災の意味するもの
この場所において、神が僕の主張を聞いて下さることに感謝します。
東北大震災を迎えて、早や3年。震災の状況を今、U-tubeで見ている。家が車があらゆるものが木の葉のように流されている。自然の力の前で、人間の造り上げたものはなんと弱々しいものか。この災害により幸せな生活を一瞬にして奪われた人たちがどのくらいいるのだろうか? 3年の歳月は風化していないし、風化させるべきではない。いまだに余震は続き、原発事故も解決していない。瓦礫の処理は進まず、長年にわたって営々と築きあげて来たものは崩壊した。家を失い、家族を失い、友人や恋人を失った。自分自身の中で何かが崩れ落ち、何かが変わった。人の心に与えた傷はいまだに癒えていない。
天災とは天が人に与えた災害である。天を神と云い替えても良いであろう。何故、神は人に災害をもたらすのか?この災害を終末の予兆と見なす人は多い。それほど人類は罪に満ちている。神は終末を前にして用意しろと云っている。神は、汚辱に満ちたソドムとゴモラの街を滅ぼした。しかしこの時、神はアブラハムの問いに応えて、「一人でも神に義なるものがいる場合これを滅ぼさず」と誓っている。しかし東北では神に義なる教会すら、滅ぼしている。東北の人々は叫んだであろう。「Oh、My God」と、今まで信じていたもの、愛していたもの、守っていたものは、一瞬にして崩壊した。神は存在するのか?この災害を神が人に与えた試練であるとみなす考えがある。試練ならそれに打ち勝たなければならない。現実に振り回されるのではなく、真正面から向かい合う必要がある。
とても受け入れがたいこんな現実の中で、過去へのこだわりを捨て、未来に生きる。人はどうやったら、再生のために、次の一歩を踏み出すことが出来るのだろうか?これらの人々の再生の努力を支援するために、我々日野キリスト教会の有志も、手を差し伸べている。何回か出かけているが、その報告は無い。僕は知りたい。何のために行き、何を目的としているのか?教会としていく限り、それは心のケヤーでなければならない。瓦礫の処理など他の人に任せておけばいい。深く傷ついた心を癒し、再生のための一歩を支援するためには何をなすべきか?それは愛だ。自分の目の前にいる人に心をこめて接し、暖かい思いを伝えることだ。愛の連帯だ。その事で少しでも傷ついた心を癒すことが出来たら、どんなに素晴らしい事だろうか?それによって神に対する疑いが氷解したら、どんなに素晴らしい事だろうか?それが何もかも失った人の自立のための力になる。今、彼らは変わろうとしている。当然それに接してあなた自身も変わった筈だ。それを僕は知りたい。
神に対する圧倒的な恐れ、神の前では人は弱々しいかもしれない。しかしそれによって人間の重さが減じるわけではない。人と神の正しい関係はそこから生まれる。
神よ東北の人々に恵みを与えん事を切に祈ります。
写真の説明(左から)
1、イエス・キリスト、2、福島第1原発、3、津波1,4、津波2、5、一本杉。
写真はサムネイルです。写真をクリックすると拡大します。写真以外の場所を右クリックし、前に戻るをクリックすると元に戻ります。
この場所において、神が僕の主張を聞いて下さることに感謝します。
東北大震災を迎えて、早や3年。震災の状況を今、U-tubeで見ている。家が車があらゆるものが木の葉のように流されている。自然の力の前で、人間の造り上げたものはなんと弱々しいものか。この災害により幸せな生活を一瞬にして奪われた人たちがどのくらいいるのだろうか? 3年の歳月は風化していないし、風化させるべきではない。いまだに余震は続き、原発事故も解決していない。瓦礫の処理は進まず、長年にわたって営々と築きあげて来たものは崩壊した。家を失い、家族を失い、友人や恋人を失った。自分自身の中で何かが崩れ落ち、何かが変わった。人の心に与えた傷はいまだに癒えていない。
天災とは天が人に与えた災害である。天を神と云い替えても良いであろう。何故、神は人に災害をもたらすのか?この災害を終末の予兆と見なす人は多い。それほど人類は罪に満ちている。神は終末を前にして用意しろと云っている。神は、汚辱に満ちたソドムとゴモラの街を滅ぼした。しかしこの時、神はアブラハムの問いに応えて、「一人でも神に義なるものがいる場合これを滅ぼさず」と誓っている。しかし東北では神に義なる教会すら、滅ぼしている。東北の人々は叫んだであろう。「Oh、My God」と、今まで信じていたもの、愛していたもの、守っていたものは、一瞬にして崩壊した。神は存在するのか?この災害を神が人に与えた試練であるとみなす考えがある。試練ならそれに打ち勝たなければならない。現実に振り回されるのではなく、真正面から向かい合う必要がある。
とても受け入れがたいこんな現実の中で、過去へのこだわりを捨て、未来に生きる。人はどうやったら、再生のために、次の一歩を踏み出すことが出来るのだろうか?これらの人々の再生の努力を支援するために、我々日野キリスト教会の有志も、手を差し伸べている。何回か出かけているが、その報告は無い。僕は知りたい。何のために行き、何を目的としているのか?教会としていく限り、それは心のケヤーでなければならない。瓦礫の処理など他の人に任せておけばいい。深く傷ついた心を癒し、再生のための一歩を支援するためには何をなすべきか?それは愛だ。自分の目の前にいる人に心をこめて接し、暖かい思いを伝えることだ。愛の連帯だ。その事で少しでも傷ついた心を癒すことが出来たら、どんなに素晴らしい事だろうか?それによって神に対する疑いが氷解したら、どんなに素晴らしい事だろうか?それが何もかも失った人の自立のための力になる。今、彼らは変わろうとしている。当然それに接してあなた自身も変わった筈だ。それを僕は知りたい。
神に対する圧倒的な恐れ、神の前では人は弱々しいかもしれない。しかしそれによって人間の重さが減じるわけではない。人と神の正しい関係はそこから生まれる。
神よ東北の人々に恵みを与えん事を切に祈ります。
平成26年3月28日(金)
深夜祈祷会
祈る人 守武 戢
深夜祈祷会
祈る人 守武 戢
写真の説明(左から)
1、イエス・キリスト、2、福島第1原発、3、津波1,4、津波2、5、一本杉。
写真はサムネイルです。写真をクリックすると拡大します。写真以外の場所を右クリックし、前に戻るをクリックすると元に戻ります。