日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

東北大震災の意味すつもの

2014年03月30日 | Weblog
東北大震災の意味するもの


 この場所において、神が僕の主張を聞いて下さることに感謝します。
 東北大震災を迎えて、早や3年。震災の状況を今、U-tubeで見ている。家が車があらゆるものが木の葉のように流されている。自然の力の前で、人間の造り上げたものはなんと弱々しいものか。この災害により幸せな生活を一瞬にして奪われた人たちがどのくらいいるのだろうか? 3年の歳月は風化していないし、風化させるべきではない。いまだに余震は続き、原発事故も解決していない。瓦礫の処理は進まず、長年にわたって営々と築きあげて来たものは崩壊した。家を失い、家族を失い、友人や恋人を失った。自分自身の中で何かが崩れ落ち、何かが変わった。人の心に与えた傷はいまだに癒えていない。
 天災とは天が人に与えた災害である。天を神と云い替えても良いであろう。何故、神は人に災害をもたらすのか?この災害を終末の予兆と見なす人は多い。それほど人類は罪に満ちている。神は終末を前にして用意しろと云っている。神は、汚辱に満ちたソドムとゴモラの街を滅ぼした。しかしこの時、神はアブラハムの問いに応えて、「一人でも神に義なるものがいる場合これを滅ぼさず」と誓っている。しかし東北では神に義なる教会すら、滅ぼしている。東北の人々は叫んだであろう。「Oh、My God」と、今まで信じていたもの、愛していたもの、守っていたものは、一瞬にして崩壊した。神は存在するのか?この災害を神が人に与えた試練であるとみなす考えがある。試練ならそれに打ち勝たなければならない。現実に振り回されるのではなく、真正面から向かい合う必要がある。
 とても受け入れがたいこんな現実の中で、過去へのこだわりを捨て、未来に生きる。人はどうやったら、再生のために、次の一歩を踏み出すことが出来るのだろうか?これらの人々の再生の努力を支援するために、我々日野キリスト教会の有志も、手を差し伸べている。何回か出かけているが、その報告は無い。僕は知りたい。何のために行き、何を目的としているのか?教会としていく限り、それは心のケヤーでなければならない。瓦礫の処理など他の人に任せておけばいい。深く傷ついた心を癒し、再生のための一歩を支援するためには何をなすべきか?それは愛だ。自分の目の前にいる人に心をこめて接し、暖かい思いを伝えることだ。愛の連帯だ。その事で少しでも傷ついた心を癒すことが出来たら、どんなに素晴らしい事だろうか?それによって神に対する疑いが氷解したら、どんなに素晴らしい事だろうか?それが何もかも失った人の自立のための力になる。今、彼らは変わろうとしている。当然それに接してあなた自身も変わった筈だ。それを僕は知りたい。
 神に対する圧倒的な恐れ、神の前では人は弱々しいかもしれない。しかしそれによって人間の重さが減じるわけではない。人と神の正しい関係はそこから生まれる。
 神よ東北の人々に恵みを与えん事を切に祈ります。
平成26年3月28日(金)
深夜祈祷会

祈る人 守武 戢
 

写真の説明(左から)
1、イエス・キリスト、2、福島第1原発、3、津波1,4、津波2、5、一本杉。
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ヤコブ=12部族の祖

2014年03月20日 | Weblog

 ヤコブ(イスラエル12部族の祖

 アブラハムは、その妻サラとの間にイサクを儲けた。そしてイサクは故郷のハランでリベカを嫁として迎えた。「イサクは、リベカを愛し、亡くなった母に代わる慰めを得た」。しかし、リベカはなかなか子宝に恵まれなかった。そこでイサクは神に子を与えてくれるように願った。神はこれを聞き届け、リベカは、エサウとヤコブと云う双子を身ごもり、これを生んだ。先に生まれたのがエサウであり、後の生まれたのがヤコブであった。この時イサクは60歳であった。兄弟は成長した。エサウは狩りに長じた野の人となり、ヤコブは天幕に住む非の打ちどころのない人となった。この非の打ちどころのないヤコブが、母のリベカと組んでエサウの持つ長子権を奪うのである。長子権とは、古代イスラエルにおいては特別に価値あるものとみなされ、その権利は重く、人(奴隷)も家畜も、あらゆる財産は親から長子に受け継がれたのである。

 長子権を奪うヤコブ
 しかし、エサウはこの長子権を軽んじ、弟のヤコブにわずかな食べ物と引き換えに、この権利を与えてしまう。しかしこれはあくまでも口約束であって、実質的力をもたない。実質的決定権は父親のイサクが持つ。イサクは、エサウを愛していたが、リベカはヨセフを愛していた。イサクは長子権と云う恵みをエサウに与えるべく、準備をしていた。それを知ったリベカは奸計をめぐらし、ヨセフをエサウと偽る。年老いて目を患うイサクは騙され、本来エサウが受けるべき恵み(長子権)をヤコブに与えてしまう。もはや元には戻らない。エサウは当然怒り狂う。口約束とはいえ、エサウは、長子権をヤコブに与えているのである。怒るのはおかしい。しかしそれが人間と云うものである。エサウは、イサク亡き後ヤコブを殺そうと思う。

 ハランでのヤコブの生活
 それを知ったリベカは兄ラバンの住むハランに、ヤコブを逃がし、暫時、エサウの怒りの収まるのを待つようには云う。ヤコブは、伯父ラバンの保護下に入る。リベカはイサクに次のように云ってその行為を弁明する「ヤコブがカナンで異邦人と結婚しないため」だと。イサクはこれを認め、ヤコブに云う「ハランに行ってラバンの娘と結婚せよ」と。ラバンには2人の娘がいた。姉はレアと云い、妹はラケルと云った。ヤコブは妹のラケルを好きになり、求婚する。ラバンはこれを認めるが、ヤコブの閨に入って来たものはレアであった。ヤコブはラバンに詰問する。ラバンは言う「姉より先に妹を嫁がせるわけにはいかない」と。結局ヤコブは2人の娘と結婚することになり、その代償として、20年間ラバンのもとで働くことになる。暫時の筈が、何と長くなったことか。レアとその婢ジルパ、ラケルとその婢ビルハとの4人の間に生まれた男子は12人であった。レナは、ディナと云う娘も生む。ヤコブの愛はラケルにあり自分にはないと知ったレアには子を産むことによってヤコブの愛を獲得したいと云う女の悲しさと、寂しさがあった。多くの子に恵まれながらも、ヤコブとラケルとの間に生まれた子はヨセフとベニヤミンの2人であった。ハランを脱出してカナンに向かう途中にベニヤミンを難産の末に産んだ後、ラケルは死亡する。

 ヤコブの脱出
 ハランの地でヤコブはラバンのもとで20年間働き多くの富を得るが、その生活は苦難に満ちていた。富の大部分はラバンによって奪われていた。既にラバンとの契約(14年+α)を果たしたヤコブは、この地を去り、カナンに戻ろうと決心する。ラケルがヨセフを生んだ後、「わが一族を、わが土地、わが国に送りだしてくれ」と頼む。神もヤコブに云う「あなたの父祖の地に、親族の下に帰りなさい。私はあなたと共にいる」と。ヤコブはハランの地を脱出する。ラバンはこれを追う。追いつき争いが起る。神の仲介で2人は和解する。契約を結ぶ。ヤコブ一族(12人の息子と一人の娘ディナ)は、全財産をもって父イサクの住むカナンに向かう。まさに大移動である。

 兄エサウとの和解
 カナンに戻る途中、ヤコブは兄のエサウに会わねばならなかった。兄から長子権を奪った自分の行為を、謝罪せねばならぬと思ったからである。兄の下に多くの贈り物をつけて、使者をつかわす。兄の怒りが、いまだ残っていて自分たち一族に害を与えないかと恐れたからである。そして神に自分たちをエサウの手からお救いくださいと祈る。兄のエサウは400人もの従者を引き連れてヤコブに会いにきた。ヤコブの恐れは杞憂であった。20年もの歳月はエサウを変えていた。エサウはヤコブと再会するや否や、ヤコブを力強く抱きしめ、その首に顔を埋め、たがいに口づけをして喜びに感極まり激しく泣いた。和解が成立したのである。エサウは自分は富むものになったからと云って、ヤコブからの贈り物を固辞したが、自分は神からすべてを与えられていると長子権を得たことを暗示したので。エサウはそれを快く理解し我が物としたのである。ヤコブはエサウと別れ無事に父イサクの住むカナンに帰りつく。

 ヤコブと神との闘い
 ヤコブは神と格闘しこれに勝っている。ヤコブがエサウに会う前に、一族を先に行かせ、ひとりになった時、ひとりの男が現れヤコブに戦いを挑む。ヤコブはこれと闘い、勝利を得る。この男は神の化身であった。神は自分に勝ったヤコブに感激し、以後イスラエルと名乗るように命じる(創世記32章23~33節)。是と同じ表現が創世記35章10節~13節にも述べられている。それを引用しよう。神はヤコブにその名をイスラエルに替えよと命じた後「私は全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民、諸国の民の集いが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。私はアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にも、その地を与えよう」。神に選ばれた民が、自分たちの強さの根拠をヤコブに求め、以後自分たちの国をイスラエルと呼ぶようになる。旧約聖書には、カナンの地を永遠の「約束の地」と呼んでいる。

 ディナと二人の兄、そしてその罪 
 かくてヤコブは、無事にカナンの地シケムの町へやってきた。そこで一つの事件が起こる。レアとヤコブの間に生まれた唯一の女性ディナがこの地の族長ヒビ人ハモルの息子シケムに犯されたのである。ヤコブの子らは激怒する。シケムは彼女を愛し嫁にしたいと父親のハモルに告げる。ハモルは、ヤコブのところに来て、ディナを嫁に欲しいという。最高の条件を提出し願いをかなえて欲しいという。それに対してヤコブとその子らは「割礼をうけよ」と、条件を出す。それはイスラエルの神を信仰せよということである。一つの民になるということである。ハモルはそれに同意し、男子の全てに割礼を受けさせる。そして傷の痛みに苦しんでいる時、ヤコブの2人の息子シメオンとレビは、おのおの刀を執り、難なくその町に侵入し、全ての男子を殺した。ハモルもシケムも例外ではなかった。女、子供は奴隷とされ、財産のすべては略奪された。それが、妹ディナを犯された兄たちの復讐であった。ヤコブは完全に無視されていた。ヤコブは恐れおののき、息子たちを非難する。息子たちの答は「ならば、われらの妹を娼婦のように扱ってよいとでも云うのですか」と云うものであった。酷いものである。割礼まで受け、信者となったものをだまし、これを殺し、町の全てを略奪し、自分の怒りを爆発させる。しかしこんな兄弟を神は見逃している。強姦がどんなに大罪であったとしても(創世記34章7節)、彼らのやったことに比べれば軽いものである。しかも、シケムはディナを嫁に迎えたいと云い、これを愛したのである。是は酷過ぎるのである。ここから考えられる事は、旧約聖書の神は、あくまでもイスラエルの神であって、それ以外ではないということである。ヤコブ一族は神によって選ばれた民であり、さらに「約束の地」カナンに向かう途中であった。自分を信仰し、自分と契約し、子々孫々まで残していくべき大きな目的をもっている者を罰するわけにはいかないのである。この事件は大事の前の小事であったのかもしれない。しかもハモル一族は、割礼をうけたとはいえ、異教徒であった。しかし、神は契約に際して、「わが前において完全であれ」と云っているのである。彼らは完全であったか?神はヤコブの前に現れた。ヤコブはその命令に従って、その地に祭壇を築き、一族の持つ偶像を木の下に埋め、かつ破壊した。これが神がヤコブ一族に与えた裁きであった。神の判断は人知を超えたところにある。神の意志は、事の善悪ではなく、信仰の強弱によってきまるのである。また、神の好き嫌いによっても、決まるのである。神のなす事は全て善きこと、とでも云っておこう。
 聖書はこの後もいろいろと述べているが、重要とは言えないので省略する。ただ、旅の途中、ヤコブの妻ラケルは、難産の末、ヨセフの弟ベニヤミンを生んで死んだ事、ヤコブとレナの間に生まれた長男ルベンがヤコブの側妻ビルハと性的関係をもった事を述べておこう。近親相姦である。12人も息子がいると色々な人間がいるものである。そんな人間を束ねていかねばならなかったヤコブの気苦労はどんなに大変であったかは想像できるのである。ヤコブの人生は多彩であった。兄エサウから長子権を奪った事、怒る兄、ハランへの脱出、伯父のラバンのもとでの生活、2人の妻のヤコブを巡る葛藤、2人の側妻との生活、出来の悪い兄弟、兄エサウとの和解、等々、ヤコブを取り巻く環境は余りに人間的である。この後12人の息子達からイスラエル民族の12部族が生まれるのである。

 旧約聖書を読む理由
 旧約聖書を何故読むのか?それは現代中東をめぐるイスラエルと、アラブの争いを考える上で、絶対の条件を提供するからである。それは神とイスラエルの民との契約である。神はカナン(現代のパレスチナ)の地を、イスラエルの民に永遠の地として与えると契約し、子々孫々の増大繁栄を約束している。イスラエルの民はローマによってその地を奪われ、流浪の民となるが、この契約を金科玉条のように信じ、シオニズムを生み、宗教的団結を生み、1948年の建国まで、その信仰を崩す事は無かった。イスラエル人とは、母親がユダヤ人であること、ないしはユダヤ教を信じる事を条件としている。3000年に近い間、各地、各国で混血を繰り返しながらも、その心の中の宗教的団結を崩す事は無かった。心の中で繋がっていた。それが民族としての滅亡を避け得た絶対の条件であった。
平成26年3月11日(火)楽庵会
報告する人 守武 戢 

日本の「節供」とキリスト教

2014年03月11日 | Weblog

  日本の「節供」とキリスト教
 私の祈りを聴いて下さる神に感謝します。
 そろそろ5節供の一つ「ひな祭り・桃の節供」が訪れます。今は新暦の3月3日に定められていますが、もともとは桃の開花の時期、旧歴の3月の最初の巳(み)の日に行われていました。正式名(漢名)は上巳(じょうし)の節供と云います。「禊をして穢れを祓い、身代わりの人形に穢れを移して河川、海などに流し、巳(へび)が脱皮するように、身を軽くして、暖かい季節を迎えよう」と云う意味をもっています。ひな人形を飾り、ひし餅や白酒を備えて祝うようになったのは江戸時代の頃からだと云われています。今は、女の子の祭りと云われていますが、本来は、女の子も含めた庶民のものだったのです。
 五節供と云っても、今や一般の人にはなじみが薄くなっているので、簡単に説明します。
1,1月7日 人日(じんじつ)、七草の節供 
  七草粥(邪気を払って、1年の無事を祈る)。
2,3月3日 上巳(じょうし)、桃の節句、ひなまつり(女の子の節供)
  菱餅、白酒で祝う
3、5月5日 端午 菖蒲の節供(男の子の節供)
  菖蒲酒。関東では柏餅、関西でちまき。菖蒲湯で祝う習俗あり。
4,7月7日 七夕(しちせき)、七夕(たなばた)笹の節供
  裁縫の上達を願い素麺が食される。織姫、彦星の話は有名。
5、9月9日 重陽(ちょうよう)、菊の節供
  菊の花を飾り邪気を払って長寿を祈る。菊を浮かべた酒を飲む。
 私の目的は、節供の説明をすることではありません。
キリストの生まれたイスラエルのような厳しい自然環境の中で生活する人々と違って、四季の明確な日本で、昔から営まれて来た季節や自然に寄り添って、生活出来る、神からの恵みを、享受できる私たちの幸せを知ってほしいのです。
 太陽の巡りを観察して、月の満ち欠けから季節の節目を感じ特別な料理や儀式で祝う「節供」の意味を知って欲しいのです。この事により、日常の暮らしや、自分自身を見つめ直し、神に感謝する時間を作って欲しいのです。神は永遠の同伴者なのです。
 中東の世界のように、大地の大部分を砂漠に覆われた社会で生きていくためには、厳しい規制が必要です。それなくしては生きていく事は出来ません。ここから一神教の世界が生まれました。民は一つにまとまる必要があるのです。それに反して、豊かな自然に恵まれ、節目、節目で神の恵みに感謝できる日本人からは、一神教の厳しい戒律は生まれません。そこから生まれるものは他を認める多神教です。「古事記」にみられるように、多神教の神はみんなおおらかです。極めて人間的です。だから日本人は全人口のわずか1%がキリスト者であるに過ぎません。多神教の伝統をもつ日本人には、一神教の厳しい教えは馴染まないのです。ここに福音宣教の難しさがあります。
 日本人は、人生の節目、節目も祝います。生れた時、七・五・三は神様(神道)、結婚式は教会(キリスト教)、葬式はお寺様(仏教)と、生活の中で何の矛盾も無く定着しています。こんな事は一神教の世界では考えられません。宗教的寛容があります。
 私が云いたい事とは何なのか?と問われる事でしょう。私は去年の8月4日に洗礼を受けました。立派なクリスチャンです。でも日本に伝わる文化や、慣習には従いたいのです。大切にしたいのです。日本古来の行事を取り入れることにより先人の智慧に触れ、感動し、日本人の伝統文化の本質を知り、祝いたいのです。
 日本には「郷に入っては郷に従え」と云う、処世術があります。生活をしていくうえでいらざる摩擦を起こしてはならないのです。それは日常生活を健やかに保つためのシステムなのです。だから私はクリスチャンとしての心をもちながらも、他を認める心も持ちたいのです。宗教には色々あっても神様は一つだと思いたいのです。
 私の願いを神様が認めて下さるように心から祈ります。ア―メーン。
平成26年2月28日(金)
祈る人 守武 戢 
深夜祈祷会