日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

人の罪と罰、そして救い

2013年01月12日 | Weblog
  人の罪と罰、そして救い

 今回の「人の罪と罰、そして救い」は人の持つ罪を問い、宿業の世界に深針を入れ、人間の救済の可能性を追求したものであり、3つの文学作品と1つの映画を例に挙げ考察してみた。その作品とは、森村誠一作「人間の証明」、サマセット・モーム作「雨」、ドストエフスキー作「罪と罰」、マービン・ルロイ監督、映画「哀愁」である。ここで、人間によって後天的に獲得された知性、理性、道徳など心理的・社会的動機を離れたところにある、人知を超えた人の心の深層にある罪とは何かについて考えてみた。

  森村誠一「人間の証明」
 今をときめくファションデザイナー八杉恭子にはどこか過去を感じさせる陰のある美しさがあった。そのファッション・ショーが東京ロイヤルホテルの42階で華やかに開かれていた。その八杉のもとに混血の黒人男性が訪ねてくる。しかし彼はエレベータの中で何者かに胸をナイフで刺され殺される。捜査が始まる、殺された男性の名はジョニー・ヘイワード。その男性の身元を洗っていくうちに意外な事実が判明する。この黒人男性は八杉恭子の実の息子だったのである。戦後の混乱期、八杉恭子はGI相手の怪しげなバーで働いていた。その時知り合った黒人との間に生まれたのがジョニー・ヘイワードだった。ジョニーとその父親はアメリカに帰っていく。日本人の八杉恭子は共に帰ることが許されなかった。八杉恭子は未婚の母だったのである。息子と、その父親に去られた薄倖の母は、その苦しみをばねに、血の出るような努力を重ね人気絶頂の女流デザイナーにのし上がったのである。その将来はバラ色であった。この時八杉恭子の前に現れたのが息子のジョニーであった。久しぶりに息子のジョニーに会った八杉恭子はどんなに嬉しかったかは、想像するに余りある。思い切り抱きしめてやりたかったに違いない。しかし、その事実がマスコミに暴かれたらどうなるか?過去に黒人との間に関係のあった女、その息子との出会い。マスコミの好餌となる。その結果、彼女のデザイナー生命は絶たれるかもしれない。愛か名声か?思い悩んだあげく彼女の選んだ道は、過去を抹殺することであった。その犠牲者の最初の一人がショ二―だったのである。彼女は捜査が自らに及ぶ前に過去を知る人間を次々に殺していく。そして捜査の手が自らに及んだ時、霧降高原の高みから身を投げて死んでいく。それが彼女の罪と罰であった。愛を犠牲にしてまで名声を求める人間の心の弱さ、人間の性(さが)の悲しさ。それが罪である。罪とは悲しい。

  サマセットモーム「雨」中野好夫訳
 布教の情熱に燃え、狂信的で冷酷無比な宣教師デヴィドソンは、任地に赴く途中、南海のアメリカ領サモア諸島の一つパゴパゴ島に上陸する。時は雨期、激しく降り続ける雨と、麻疹(はしか)の発生による、検疫のため、船は2週間程の足止めを余儀なくされる。ここで彼は同じ船の2等船客でいかがわしい商売女サディー・トムソンと同宿になる。彼女はその無聊を慰めるため、部屋に船員を連れ込み、蓄音機を鳴らし、乱痴気騒ぎを繰り返した。激しい雨と女たちの乱痴気騒ぎはデビッドソンの心を狂わせた。忍耐にも限界があった。彼は彼女をキリストの教えで導き真人間にするべく教化に乗り出す。
 サディー・トムソンにはセクシュアルで、みだらな魅力に富み、どこか憎めない、人を惹きつける魔力があった。それに反して宣教師デヴィドソンは、神の教えを守ること、広めることを絶対の義務とする人に特有な、どこか抑圧された火のようなものがあり、いつ崩れるか分からない不安を人に抱かせた。決して親しみを人に感じさせる存在ではなかった。
 宣教師デヴィドソンと商売女トムソンは対決する。何日にも及んだ説得は、勝利を収めたかに見えた。トムソンはおとなしくなり、人の心を狂わせていたレコードの音は止み、乱痴気騒ぎは治まった。ただ雨だけが激しく降っていた。
 しかし事態は意外な方向に展開する。説得により、神の愛を示し、彼女の中に神の愛を求めていた、宣教師デヴィドソンの水死体が浜辺に上がったのである。自殺であった。
 何故か?作者はそれについては何も語っていない。ただ「男なんてみんなおんなじだ、豚だ」と叫んだ彼女の叫びから想像するだけである。
 悪徳に染まった女性を正しい宗教的道徳によって導き、更生させようとした宣教師デヴィドソンが、結局自らの欲望に抗しきれず、破れ去った姿がそこにあった。彼は彼女に誘惑されたのである。
 「汝、姦淫することなかれ」という戒律を犯したデヴィドソンは人一倍戒律に厳しい牧師であったが故に、事が終わり、オスがヒトとなり、ヒトが聖職者に戻った時、自分の犯した罪におののき愕然とする。女は男を軽蔑のまなざしで見、嘲笑したであろう。それに耐え得る図太さは彼には無かった。死を選ぶ以外に方法は無かったのである。自殺はキリスト者には禁じられている。彼は二つの罪を犯したのである。
 トムソンはもとのみだらな商売女に戻っていた。商売女は聖職者に勝ったのである。性は聖に勝ったのである。
 そこには、人間の弱さ、業の深さ、人間の性(さが)の悲しさがある。それが人の持つ罪である。罪とは悲しい。
 雨は人間の欲望を募らせ、人の心を狂わせる象徴である。時は雨期、連日のように降る激しいスコールは次第に登場人物の心を狂わせていく。
 人間の根元にある本性、欲望、情念、性(さが)、そして人間の表層にある理性、道徳、知性、との闘いが宣教師デヴィドソンと商売女トムソンとの間に繰り広げられたのである。その結果を示すものがこの作品である。是非読んでほしい。

  ドストエフスキー「罪と罰」米川正夫訳
 次にあげるのは「罪と罰」に出てくるマルメラードフである。マルメラードフはこの作品の主人公ではない。主人公はラスコーリニコフという「ナポレオン主義」という彼独特の哲学を持ち金貸しの老婆を殺害する青年である。その罪と罰については述べる機会があるかもしれない。
 マルメラードフは下級官吏(九等官)の職を持ちながらもその仕事に熱意を示さず、酒に身を持ち崩した酔漢である。彼は場末の酒場で出会ったラスコーリニコフと卓を囲みながら酒に身を持ち崩した理由を縷々語る。家族の窮状を、悲惨な運命を訴える。そんな中で自分の生きる道を探り、求め、求めながらも、求め得ず、自分を見失っていく。その結果出会ったものが酒である。しかし酒は彼を、救わない。救わないが故に酒を求める。自分を忘れたいのである。そんな姿をラスコーリニコフに見せつける。
 働かず、いや働けず、酒代を、彼の娘で、ラスコーリニコフの恋人となるソーニャに頼り、肺病やみで、働くことの出来ない母親と3人の幼い異母弟妹を養うために、自分の身を売ってまで、稼いだ血の出るような金を取り上げそれを酒にあてる。そんな彼に対して、何一つ文句を言わず、とがめ立てもせず、怒りもせず、黙って金を差し出す娘の憐れむような眼差しに接して、自分を磔にされても足りないほどの邪悪な人間だと良心の呵責に責め苛まれながらも、自分を制することが出来ない。酒への誘惑と、欲望に負けてそれに溺れていく。こうして、次第、次第に苦痛と屈辱の泥沼の中に吸い込まれていく。そこから這い上がれないし、這い上がる意志も持たない。そんな生活に浸りながらもそれに快感すら味わう敗残者である。その結果肺病やみの妻は発狂して血を吐いて死んでいく。彼自身も酔っぱらったあげく馬車に轢かれて死んでいく。多分自殺であろう。弱さを典型的にあらわした人間としてドストエフスキーは彼を描いていく。そこには人間の持つ、その意志とは関係のない業の深さ、悲しさ、寂しさがある。それが罪である。
 人は神の声を知らずして罪を犯すのではない。神の意志を知りながら、罪の欲求に抗しかね自ら欲せずして、これを欲する。これが罪である。彼は絶叫する。現実世界では得られなかった神の愛と慈悲の心が来世において与えられんことを。求めに対して神は応え賜う。しかし知者、賢者は神に問う「なぜ彼のような豚が救われるのか?」と。神は応えて云われる「彼の中に、それに値するものが何もないからだ」と。

  映画「哀愁」マービン・ルロイ監督
 この映画は、ロバート・テイラー演ずる英国将校ロイ・クローニン大尉が、ウォータールーの橋のたもとで、今は亡き恋人でビビアンリー演ずるバレエダンサー、マイラ・レスターを追想して、思い出に耽るシーンから始まる。この映画は第一次世界大戦のもと、運命のいたずらに翻弄されて、悲劇的な結末を迎える美しくも、悲しい恋物語である。
 舞台は、第一次世界大戦下のロンドン。空襲警報鳴り響くウォータールーの橋の上で、ロイとマイラは知り合い、瞬く間に恋に陥り、結婚の約束までする。しかし、ロイに応召の知らせが届く。ロイは戦場に、マイラは健気に彼の帰還を待つ。その彼女が見たものが彼の戦死の情報であった。彼女は絶望する。その悲しみから立ち直れない。彼女は毎夜街に出てロイに似た男に声をかけ、関係を持つ。次第に夜の女に転落していく。そしてそんな堕落した生活の中で、彼女が知ったのは、彼の戦死が誤報であったことである。彼は帰還する。二人は再会する。ロイもマイラも喜びを隠せない。しかし、マイラは自分の今の境遇に悩み葛藤する。ロイの家に行きロイの母親に会う。母親は彼女の真実を知る。彼女は彼と結婚できない。諦める。ロイはそれを知らない。彼女は絶望のあまりウォータールーの橋の上で軍用トラックに身を投げて死んでいく。橋にたたずみマイラの思い出に浸るロイの心の中にあったものは、決して汚れた彼女の姿ではなく、まだ汚れを知らなかったころの清純で、純真な彼女の姿であった。
 この作品にはいくつかの「もしも」がある。もしも、ロイが戦地に行かなかったら、もしも戦死の誤報が無かったら、当然運命は変わっていたであろう。しかし人生において「もしも」は考えられない。時間は不可逆性であり、もとに戻らないからである。「これしかない」のである。マイラの死は運命づけられていたのである。選択の余地はない。運命は神が作る、人は運命に従う以外ない。
 ロイを偲び、ロイを求めて夜の女に転落したマイラ、その罪と罰は何によって贖うべきか?罪とは悲しい。

 以上のように人は原罪を抱えた存在であるが故に、常に罪を犯す可能性を秘めている。その可能性は人の持つ霊性、社会的規制によって、その現実性は、日頃は抑えられている。しかし、人間の行為の中には闇の部分が多くあり、暗いエネルギーを蓄えている。それ故、人の行為は、論理的因果関係を断ち切る、奈落の意識をたたえている。その意識が実現するかどうかは、人間自身にも不可知である。人は欲せずして、欲するのである。それが罪として現実化する。罪とは恐ろしく、かつ悲しい。

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人は神になれるか?

2013年01月02日 | Weblog
 人は神になれるか?
 神は仰せられた「さあ人を作ろう、我々の形として、われらに似せて。彼らが海の魚、空の鳥、家畜,地の全てのものを支配するように(創世記第1章26)」神は人の住める全ての環境を整えた後、最後に人を作ったのである。それは6日目であった。そして7日目に全ての業を離れて安息日にした。このように神は自分に似せて人を作ったのである。最初の人間とはアダムとイブである。アダムは大地の塵から作られ、男となった。イブはアダムの肋骨から作られ女となった。これが人の原初形態である。しかし神は異次元の存在であり、隠れた存在であるが故にその形は見る事は出来ない、不可知である。だから、アダムとイブの姿を見る事によって、人は逆に神の姿を知るのである。それはキリストの場合も同じである。新約聖書はキリストの生誕から始まる。キリストは神の精霊と、処女マリアの間に生まれた存在であり、神と子(キリスト)と聖霊の三位一体として神とみなされる。キリストも神に似せて作られたのである。この場合もキリストを通じてのみ神の姿が知らされるのである。「キリストさまは、目に見えない神様に生き写しの方であり--------」(新約聖書コロサイ人への手紙第1章15)。ここには人の姿から神の姿を知るという逆転がある。逆も真なりである。この逆説が人間存在を知る上での基本となる。このことから、神は人の観念が生み出した存在であるという唯物論者の理論に根拠を与える。これは極めて重要な問題であり、神と人との関係を探る上で大きな課題を提起するが、ここでは取り上げない。何時か語ることもあると思う。
 神は、自分の姿、形に似せてだけ人を作ったのではない。当然その神聖なる心も人に譲渡したと考えるべきであろう。人は人としての肉体をもった存在であると同時に、神としての精霊を持った存在として作られたのである。このように人とは霊的存在として神の像を内に持つと同時に、アダムとイブの犯した罪により原罪を持つ存在として、そのうちに悪魔の像を併せ持つ矛盾した存在となる。しかし人は、罪に先立って霊的存在になったということにより、人間の内なる神の像は、人間の犯した原罪によっては破壊されないのである。
 さきに述べたように人は神の似姿として作られたが為にその内部に精霊を持つ霊的存在でもある。それ故、全ての聖者、聖母マリア、そしてキリストの持つ一切の善等々をアプリオリに、先験的に持つ存在である。神はそれを照らし、人に示してくれる。その為にキリストをこの世に遣わされた。インマニュエル(キリスト)、神は人と共にある。同時に、贖罪によってその罪は贖われる。神と人とは和解する。神からの一方的恵み=啓示によって人は救われるのではない。
 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という短編小説を思い出す。大悪党のカンダタという男が煉獄の中で苦しんでいる姿を、お釈迦さまが天からご覧になって、これを救おうとなさる。カンダタは大悪党ではあったが、一匹の蜘蛛をその慈悲心から踏みつぶさず救ったことがあった。そんな、ほんの少しの慈悲心を知ったお釈迦様は蜘蛛の糸を垂らしてこれを救おうとする。カンダタはその糸にすがりつき天を目指して登り始める。そして下を見た時、多くの罪人たちがカンダタのあとについて登り始めているのに気づく。自分だけが救われたいと思うカンダタは叫ぶ。「この糸は俺のためにだけ下された救いの糸なのだ、手を離せ」と。この時一陣の風が吹き。蜘蛛の糸は切れ、カンダタは煉獄に逆戻りする。神の愛と、自分だけが救われたいと云う人間の弱さをあらわした短編である。その気持ちを考えると悲しい。そこには人間の性(さが)の悲しさがある。これは、カンダタの中に潜む善と悪とを典型的にあらわした物語である。どんな大悪党の中にも慈悲の心がもともと備わっているのである。しかし別の見方をすれば、お釈迦さまがカンダタの中にある善なる心を認め、それをカンダタに知らしめたのである。カンダタはその救いを拒否する。人間の神からの自立をあらわしたものと考えても良いかもしれない。そこには近代的自我の萌芽を読み取ることが出来る。芥川ほどの作家が、単に因果応報の物語を書いたとも思えないのである。近代とは神と人間の戦いを示している。
 人は神に似せて作られたのである。その似姿とは何であろうか?似姿とは、あくまでも似姿であって、神そのものではない。神に従い。神に近づく存在として、神のために作られた存在が似姿なのである。似姿は模倣に過ぎない。神の下位に位置する存在である。人は神になれるのか?
 人の目的するものが、永遠の命を預かることにあるならば、すなわち、神になることにあるならば、不滅性と不死性を持つ神に対し、有限であり、可死性の存在である人はいかにして神になり得るのか?人は生きて神になれると考えるとしたら神話になる。人はその為には霊的な存在になる必要がある。神を信じ霊的な復活の後に永遠の生を得て、神の国に入る。永遠の命は死後の世界にある。かくして人は霊的に完成する。
 しかし、個人としてではなく、種としての人を考える場合、永遠の命が現実において、与えられてもおかしくない。神は人の現実の世界に神の国が来る事を願っている。その為には万人が神を信じ、永遠の命を得なければならない。気の遠くなるような長い、長い道のりである。神の教えが地上に浸透し、全人類が高められねばならない。しかし。今、神を信じる者は少ない。
すべての人に神は門戸を開いているという。決して拒まない。ただ神を信じさえすれば、あなたは救われるという。こんな上手い話はないという。しかし、世界の圧倒的多数の人は神を知らない。興味すら示さない。そんな中、自分達の教えこそ真実であり、それを信じる者だけが救われるという。そこには独善的な排他性があり、偏見があり、自己絶対化の論理があり、自分のみを尊しとする狭隘な選民思想がある。それ故、横に繋がるネットワークを持たない。他を認める寛容さが無い。キリスト教だけでも多くの宗派があり、拮抗している。更にキリスト教以外にも、イスラム教、ユダヤ教、仏教、神道等々があるが、圧倒的多数は宗教には無関心である。もう、これ以上は書きたくはない。云わんとしている事は分かっていると思う。要はキリスト者のみが救われてもあまり意味が無いと云いたいのである。神はキリスト者だけのために存在しているのではない。すべての人間のために、神を信じる人にも、神を信じない人にも開放されているのである。自己絶対化から自己を相対化し、横に繋がるネットワークを作ることが必要なのである。宗教的偏見からは何も生み出さない。僕が神に期待するのは、世界平和と、地球の再生である。神と言っても、悪魔と言っても実態のある存在ではない。それは人の心の中に存在しているのである。人は矛盾した存在である故に、神にも成れるし悪魔にも成れる。悪魔は絶えず囁きかける、「この世の富を全てお前に与えるから私を信じろ」と。しかしその結果を示さない。悪魔の目的は、神の作りたもうた地球を破壊することにある。そうならないためには、心の中に神の国を作ることなのである。
 さて、近代~現代は心の時代から、物の時代に移行した時代である。日本を例にとれば高度成長期は、努力すれば報われた時代であった。その結果、物は巷にあふれ、贅沢は日常になった。使い捨て文化は資本の回転を早め、資本主義の発展を促した。日本はアメリカの後追いをしていると云われている。アメリカンドリームという言葉がはやり「ジャイアンツ」という映画にみられるように努力は巨大な富をもたらした。しかし、その結果は決して幸せをもたらさなかった。景気は停滞し、格差は拡大し、人の心は乱れた。何の理由も無く、銃は乱射され、多くの子供たちが殺された。そんな社会は我々にとって一つの見本にならなければならなかった。今、日本はそんなアメリカを後追いしている。アメリカと同じく経済は停滞し、景気循環は阻害され、長期停滞社会が訪れている。未来を正確には予想できず、人口減、高齢化、少子化が進み、製造業の海外流出による空洞化、失業の激化、就職難、等々将来を悲観する要素に溢れている。物を追求することにより地球の破壊は進み、低開発国と先進国の格差は広がり、低開発国の犠牲のもとに先進国は富んでいる。世界平和は阻害され、戦いは日常的になり、人の心は荒んでいる。
 全ての国が富んだらどうなるか?その結果は見えている。限られた資源は枯渇し、国土は荒廃し、自然は破壊され、限られた資源を巡って争いが起る。そこに未来はない。物を追求する時代は終わったことを人は理解しない。絶対的幸福とは何か?もはや物は幸せをもたらさない。
 加藤登紀子は仏教国ブータンを訪れ、そこに貧しくとも、人と人とが愛と善意をもって触れ合える素朴で牧歌的世界が存在しているのを感じたという。そこにはGDP(国内総生産)神話はない。貧しくとも、心の平安と安定があるという。日本のような物礼讃の中に育った人間には違和感を感ずる世界ではあっても、そこには本来の社会があるのを感じたという。そこには贅沢はない。生活するに最低限のものしか用意されていないが、それに文句を言う者はいないという。足るを知る社会である。僧侶は街に溢れ尊敬されているという。人々は貧しくとも喜捨することを当然と考え、それに喜びを感じているという。神は人と共にある。我々とは求めるものが違うのである。
 物から心の時代へ、神を求める世界へ。絶対的幸福とは何か?今それを真剣に考える時ではないだろうか。
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