日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

第137回芥川賞受賞作品「アサッテの人」諏訪哲史作

2007年08月25日 | Weblog
 137回芥川賞受賞作品が発表された。かっての文学青年であった僕がこれを無視するわけにはいかない。早速読んでみた。不思議な作品である。
 今まで学んだことの無い外国語を聞くとき、話し手にとっては意味のある言葉でも、聞き手にとっては意味不明な音節の羅列に過ぎない。しかしそんな外国語もそのシチューエイション、話し手の態度、表情からその意味が分かってくる。例えば、朝会ってドーブロエ・ウートロと言われれば「おはよう」といわれているのだと判る。別れ際にダスビダーニャと言われれば「さようなら」だと判る。何か上げたときスパシーバと言われれば、「ありがとう」だとわかる。きつく抱きしめられてリュブリュウ・チェビャーと言われれば「愛してるよ」だと判る。そんな最初は意味不明で何をいっているか判らない言葉(ポンパ、チリパッパ、ホエミャ、タポンチュー)を自由に発する叔父(アサッテの人)の姿を私が描いていく。
 あくまでも最初に言葉ありきである。その言葉を分析、総合してシステム化したものが文法である。しかしいったん成立するや、文法は言葉の上に君臨してそれを支配する。自由な言葉より外化して生まれた文法が、本来の言葉を支配する。これを疎外と言う。叔父の発する奇妙な言葉や、流行語は、言葉の乱れとして排除される。文法の枠組みは厳然として守られねばならない。言葉の自由な動きは排除される。しかし流行語が慣用化して、定着することもあるように、不定形の定型化として文法の中に取り込まれる。そんな決まりに対して叔父=アサッテの人は抵抗する。自由を強調する。意味不明な言葉を連発する。ここには必然(文法)と自由(意味不明な言葉)との闘争がある。定型に対する反発があり、表現の自由に対するあこがれがある。
 それは言葉のみに限らない。アサッテの人=叔父はいう。「自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して、圧倒的に無関係な位置に至ること。これがあの頃の僕の、「アサッテ男」としての抵抗のすべてであった」と。
 そしてアサッテの方角は人生にも向けられる。生まれ、食べ、育ち、働き、結婚し、子孫を作り次の世代につなげて、死に至る。これは生きるための基本であり、すべての生物に共通することである。そして本能と言う人間の外にあってこれを支配する「神の意志」によって司ざれる。人間の意志(自由=アサッテの人)の入り込む余地は無い。神の意志によって許された範囲を超えたところに「アサッテの人」はありえない。このように人生とは神の意志によって動かされ、人間の種の存続のための神の巨大なプロジェクトの一環に過ぎない。
 不定形の定型化の連鎖によって「アサッテの方角」は行き詰まる。
 叔父の失踪し残されたものから発見された叔父の部屋の平面図の中に叔父に愛されながらも交通事故で亡くなった萌子夫人のポートレートが飾ってあった。その中に単なる生殖としての性(神の意志)ではなく、愛の発露としての性(人間の意志)が語られているような気がしてホッとしたのは私だけではあるまい。

渡辺淳一『失楽園』 愛の倒錯2

2007年08月17日 | Weblog
 この文章は渡辺淳一『失楽園』愛の倒錯の続編である。それ故この文章から読み始める人は、前の文章から読んで欲しい。
 文壇の寵児、有島武雄と美貌の婦人記者、波多野秋子の心中が、その遺書に『今、歓喜の頂点において、死を迎える』と書かれているように、2人はその愛の最高の時点で死を迎えたのである。凛子は問う『幸せだから死んだというの?』久木は答える『『遺書からはそうとしか思えない』そして彼ら(久木と凛子)を死に導くベクトルとして安部定による愛人石田吉蔵の猟奇殺人事件が挙げられる。吉蔵を愛し、その独占欲から、彼を殺しその局部を切り取り、その愛しき局部とともに死を願いながらも果たせず逮捕された事件である。有島武雄の心中も阿部定の殺人もともに愛の頂点において事件を起こしている。確かに愛は不確かであり、永遠には続かないかもしれない。永遠の愛を誓いながらも、時とともに風化し、破局を迎える愛は多い。人間の愛に絶対は無い。それゆえ愛の頂点において死を迎えたい、と言う気持ちはわかっても、そこに必然性は無い。不自然である。更に一般性は無い。一高生(今の東大)の藤村操が哲学上の煩悶から『人生これ不可解なり』と叫んで日光の華厳の滝に身を投じて自殺した事件はあまりに有名である。この考えに共感してこの場所で自殺をした若者が増えたと言う。しかし幸いなことに『失楽園』を読んで心中したという話は聞かない。一般性の問題である。
 愛は不確かなものであり、永遠性が保障されていないからこそ、その時々の一瞬の愛を大切にすべきではないのか?その努力もせず死を選ぶと言うことは、神が与えたもうた生にたいする冒涜である。
 『愛と死を見つめて』という往復書簡がある。不治の病(軟骨肉腫)に冒された女子高生みこ(大島みち子)と大学生まこ(河野実)の間で、出会いからその死に至るまでの3年間に交わされた往復書簡である。その愛ゆえに生きたいと願い、その限られた人生を『死(生)とは何か』『愛とは何か』と真剣に悩み苦しみ、死んでいった一人の人間の本物の純愛の物語である。それに比較して『失楽園』の愛はあまりにお粗末である。そこには『人生とは何か』『愛とは何か』『死とは何か』という真剣な悩みは無い。ただれた倒錯の愛にうつつを抜かし、それを本物の愛と勘違いして死を選ぶ。その死にざまも倒錯している。お互いにきつく抱き合ったまま青酸カリをあおったため、発見された時、死後硬直による局所の結合が固く、引き離すのが大変だったと言う。
 性の源は生(誕生)である。性愛から家族愛、精神愛を得て死によって聖に至る。それは無から無への弁証法的発展である。ホスピスの中で末期がんを宣告された男が、その延命治療を拒否し、死への恐怖、、家族への愛、物(者)への執着、生への執着、それらの煩悩の一つ一つを一心に念仏を唱えながら取り去り、百体近い仏像を彫り上げて死んでいった。死と直面し、限られた命を真剣に見詰め、死んでいった人間の素晴らしさをそこに見る。死は絶対であり、死は相対である。神によって与えられた命は自分だけのものではない。自分勝手な論理によって死を選ぶのは生に対する冒涜である。

渡辺淳一『失楽園』愛の倒錯

2007年08月16日 | Weblog
 この作品は、最初日本経済新聞に連載(1995年9月1日~1996年10月9日)され、後に大幅に加筆され、1997年2月に講談社より発行された。空前のベストセラーとなり、世紀末を飾るにふさわしい、真正面から性愛(エロス)を扱った優れた作品と評価されている。性愛を扱った作品だけに性表現は多く、全13章のうち最終章を除く12章において性表現があふれている。
 この作品は、渡辺作品に多く見られる不倫ものの一つである。不倫は精神的な倒錯である。そしてそのエロスの世界はサディズム(縛り、鞭打ち)あり、マゾヒズムあり、フェチシズムありで、倒錯の世界が表現される。
 不倫に付きまとう罪の意識、秘められた愛の悲しさ、寂しさ、世間の冷たい目、いつか不倫が明らかにされるのではないかと言う恐れ。それにも拘らず愛さざるを得ない性(さが)の悲しさ、心の葛藤。それらのものが性欲を高める道具となって、激しく燃える。愛はその障壁が高ければ高いほどその情熱の炎を掻き立てる。この小説の主人公、久木祥一郎と松原凛子の愛も妻子もちと人妻の不倫の愛である。ふたりは様々な性愛を経験した後、愛の不確実性と限界性を知り、今、自分たちの愛は頂点にあり、死こそ、その自己完結なりと宣言して、青酸カリを服用して心中する。 
 こうあるべきという社会的規制(法律、道徳、戒律、慣習、階級差、家族のつながり等々)とこうありたいと願う自由を求める心との葛藤、それが不倫である。その結果、自由を求め、社会的規制に抗して愛を貫いて滅び行くもの、愛しながらも定めに負けて、女性の愛を拒否して自ら身を引くもの、男の愛を拒否して自立の道を進むもの、元の鞘におさまるもの、等々その解決の仕方は様々である。しかし共通していることは社会的規制と自分の本当の心の相克である。それが作品(文学、ドラマ、映画、、舞台、歌)を成立させる。「不倫は文化なり」といった芸能人(=石田純一)がいたが、言いえて妙である。しかし、この作品のテーマはそこには無い。そのテーマは「愛」と「死」である。

自民党の敗北と、ノブレス・オブリージュ

2007年08月02日 | Weblog
 先日行われた参院選で自民党は歴史的惨敗を経験した。連続して起きた4人の閣僚のお粗末なスキャンダルと辞任が、敗北の一因になっていることを否定するものはおるまい。これに関して思い出すのが「ノブレス・オブリ-ジュ(フランス語)」と言う言葉である。その意味は、「貴族の義務」あるいは「高貴な義務」を意味する。一般的には財産、権力、社会的地位をもつものは社会の規範になるように振舞うべきだと言う社会的責任に関して用いられる。この言葉は聖書に由来している。「すべて多く与えられたものは、多く求められ、多く任されたものは更に多く要求される」(ルカによる福音書)と。
 議員、特に閣僚は人々によって選ばれた特権的エリートである。特権をもつものはそれだけ多くの社会的責任を負うという自覚を持って欲しい。自覚であるから他人によって強制されたものではなく、その自発性はきわめて高く、誇り高い意識によって実行されることを特徴とする。戦後の民主主義教育は平等主義が良いことのように教え、特権意識や、エリート意識を持つことが、あたかも悪いことのように考え、そのための教育を怠ってきた。貴族階級のいない日本で「貴族の義務」を云うのはおかしなことであるが、貴族の心をもって欲しい。高貴な心をもち社会的責任を自覚した人間に、社会的横領ともいえるスキャンダルなど起こせるわけが無いのだ。議員、閣僚としての自負、自尊の心をもって欲しい。武士道、剣道、柔道、華道、書道、茶道等々、道を極めたものは、それぞれプライドを持ち、師匠としての自覚と自負心を持って、弟子達を教えている。礼で始まり、礼で終わると言うように、技術を教えるだけではなく、道を極める心を教えている。日本人の心を教えている。議員や閣僚は議員(閣僚)道を極めて欲しい。自己の職業に誇りを持ち、社会のために貢献して欲しい。「ノブレス・オブリージュ」今この言葉の重要性を私は実感している。