137回芥川賞受賞作品が発表された。かっての文学青年であった僕がこれを無視するわけにはいかない。早速読んでみた。不思議な作品である。
今まで学んだことの無い外国語を聞くとき、話し手にとっては意味のある言葉でも、聞き手にとっては意味不明な音節の羅列に過ぎない。しかしそんな外国語もそのシチューエイション、話し手の態度、表情からその意味が分かってくる。例えば、朝会ってドーブロエ・ウートロと言われれば「おはよう」といわれているのだと判る。別れ際にダスビダーニャと言われれば「さようなら」だと判る。何か上げたときスパシーバと言われれば、「ありがとう」だとわかる。きつく抱きしめられてリュブリュウ・チェビャーと言われれば「愛してるよ」だと判る。そんな最初は意味不明で何をいっているか判らない言葉(ポンパ、チリパッパ、ホエミャ、タポンチュー)を自由に発する叔父(アサッテの人)の姿を私が描いていく。
あくまでも最初に言葉ありきである。その言葉を分析、総合してシステム化したものが文法である。しかしいったん成立するや、文法は言葉の上に君臨してそれを支配する。自由な言葉より外化して生まれた文法が、本来の言葉を支配する。これを疎外と言う。叔父の発する奇妙な言葉や、流行語は、言葉の乱れとして排除される。文法の枠組みは厳然として守られねばならない。言葉の自由な動きは排除される。しかし流行語が慣用化して、定着することもあるように、不定形の定型化として文法の中に取り込まれる。そんな決まりに対して叔父=アサッテの人は抵抗する。自由を強調する。意味不明な言葉を連発する。ここには必然(文法)と自由(意味不明な言葉)との闘争がある。定型に対する反発があり、表現の自由に対するあこがれがある。
それは言葉のみに限らない。アサッテの人=叔父はいう。「自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して、圧倒的に無関係な位置に至ること。これがあの頃の僕の、「アサッテ男」としての抵抗のすべてであった」と。
そしてアサッテの方角は人生にも向けられる。生まれ、食べ、育ち、働き、結婚し、子孫を作り次の世代につなげて、死に至る。これは生きるための基本であり、すべての生物に共通することである。そして本能と言う人間の外にあってこれを支配する「神の意志」によって司ざれる。人間の意志(自由=アサッテの人)の入り込む余地は無い。神の意志によって許された範囲を超えたところに「アサッテの人」はありえない。このように人生とは神の意志によって動かされ、人間の種の存続のための神の巨大なプロジェクトの一環に過ぎない。
不定形の定型化の連鎖によって「アサッテの方角」は行き詰まる。
叔父の失踪し残されたものから発見された叔父の部屋の平面図の中に叔父に愛されながらも交通事故で亡くなった萌子夫人のポートレートが飾ってあった。その中に単なる生殖としての性(神の意志)ではなく、愛の発露としての性(人間の意志)が語られているような気がしてホッとしたのは私だけではあるまい。
今まで学んだことの無い外国語を聞くとき、話し手にとっては意味のある言葉でも、聞き手にとっては意味不明な音節の羅列に過ぎない。しかしそんな外国語もそのシチューエイション、話し手の態度、表情からその意味が分かってくる。例えば、朝会ってドーブロエ・ウートロと言われれば「おはよう」といわれているのだと判る。別れ際にダスビダーニャと言われれば「さようなら」だと判る。何か上げたときスパシーバと言われれば、「ありがとう」だとわかる。きつく抱きしめられてリュブリュウ・チェビャーと言われれば「愛してるよ」だと判る。そんな最初は意味不明で何をいっているか判らない言葉(ポンパ、チリパッパ、ホエミャ、タポンチュー)を自由に発する叔父(アサッテの人)の姿を私が描いていく。
あくまでも最初に言葉ありきである。その言葉を分析、総合してシステム化したものが文法である。しかしいったん成立するや、文法は言葉の上に君臨してそれを支配する。自由な言葉より外化して生まれた文法が、本来の言葉を支配する。これを疎外と言う。叔父の発する奇妙な言葉や、流行語は、言葉の乱れとして排除される。文法の枠組みは厳然として守られねばならない。言葉の自由な動きは排除される。しかし流行語が慣用化して、定着することもあるように、不定形の定型化として文法の中に取り込まれる。そんな決まりに対して叔父=アサッテの人は抵抗する。自由を強調する。意味不明な言葉を連発する。ここには必然(文法)と自由(意味不明な言葉)との闘争がある。定型に対する反発があり、表現の自由に対するあこがれがある。
それは言葉のみに限らない。アサッテの人=叔父はいう。「自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して、圧倒的に無関係な位置に至ること。これがあの頃の僕の、「アサッテ男」としての抵抗のすべてであった」と。
そしてアサッテの方角は人生にも向けられる。生まれ、食べ、育ち、働き、結婚し、子孫を作り次の世代につなげて、死に至る。これは生きるための基本であり、すべての生物に共通することである。そして本能と言う人間の外にあってこれを支配する「神の意志」によって司ざれる。人間の意志(自由=アサッテの人)の入り込む余地は無い。神の意志によって許された範囲を超えたところに「アサッテの人」はありえない。このように人生とは神の意志によって動かされ、人間の種の存続のための神の巨大なプロジェクトの一環に過ぎない。
不定形の定型化の連鎖によって「アサッテの方角」は行き詰まる。
叔父の失踪し残されたものから発見された叔父の部屋の平面図の中に叔父に愛されながらも交通事故で亡くなった萌子夫人のポートレートが飾ってあった。その中に単なる生殖としての性(神の意志)ではなく、愛の発露としての性(人間の意志)が語られているような気がしてホッとしたのは私だけではあるまい。