ヨブ記(義人の苦難)
序曲
今回は「ヨブ記」について語ります。「ヨブ記」は、苦渋に満ちた物語です。ヨブは豊かな生活に恵まれた神も認める高潔な人です(ヨブ記1章1~5節)。しかし、この高潔な人に次から次へと不幸が襲います。彼の息子や、娘は死に、土地や家畜と言った財産は奪われ、更に世の人が嫌悪し忌避する皮膚病(ツアラートか)に罹ります、皮膚は膿ただれ、崩れ落ち、周囲の人は彼を避けます。彼らは今まで彼を慕い尊敬していた人だったのです。彼は苦しみます。一夜にして乞食同然の境遇に陥ります。神の前で非の打ちどころのない高潔な人が、何故苦しむのか?不条理と、理不尽の世界が展開します。「義人の苦難」、これがこの「ヨブ記」のテーマです。
その原因は天上における神とサタンの対話にあったのです。サタンはヨブの高潔さに疑問を抱き、その信仰を試すよう神に提案したのです。神はヨブを殺さないことを条件に、これを承認します。その結果が上記の姿だったのです。この時のサタンは、神に対立する存在ではなく、神の僕として現れます。それ故、神はサタンを通じて、自分の意志を貫いた、と考えられます。ヨブの妻はヨブの苦しむ姿を見てヨブに云います。「それでも、なを、自分の誠実を堅く保つのですか。神を呪って死になさい(ヨブ記2章9節)」神を捨て、死によって平安を得よという。ヨブはこれに応えて云う「お前まで愚かなことを言うのか、私たちは神から幸福を頂いたのだから、不幸もいただこうではないか(ヨブ記2章10節)」「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名は褒むべきかな(ヨブ記1章21~22節)」と。この言葉を私たちはしっかりと押さえておく必要があります。なぜならヨブが試練に打ち勝ち、神の御許に回帰した時、再度この言葉に戻るからです。ここにはどんな時にも、神を信頼し、動揺しないヨブの信仰の姿を見ることが出来ます。
しかしこれはあくまでも神の前での建てまえであって、本音は別にあることが3章を読むことによって明らかになります。ヨブは苦しみに耐えかね、神に怒りをぶつけます。神を呪います。自己の誕生を呪い、生きることに絶望し、死を望みます。人間の弱さをさらけ出します。しかし、死ぬことは出来ません。神がそれを許さないからです。「苦痛を与えても殺してはならぬ」神と悪魔の契約があったのです。そこには肉と霊の葛藤があります。肉体の痛みに霊は打ち勝つことが出来るのか?一切の希望を失い、死の一歩手前にあっても、なお神を求めてやまない心がそこにあります。ヨブは生きていく為には、乗り越えねばならない信仰の壁と向き合います。
3人の友人(エリファス、ツォファル、ビルダテ)、エリフとの討論
ここまでが「ヨブ記」の前半です。これからが本論です。3人の友人が現れ、ヨブとの間に神議論を展開します。神と人間との正しい関係とは何か。神とは何か?神は存在するのか?神は正義なのか?人は神から見たとき何者なのか?ヨブは3人の友人(賢者)との討論を通じてその答えを探ります。しかしヨブは3人の答には、納得できません。
3人はいろいろと議論を提出しますが、結局、それは因果応報論で、「汝に罪ありき、故に罰あり、悔い改め神の恵みを待て」と言います。それに対し「われは義なり、故に罰は不当なり、悔い改めの必要なし」とヨブは因果応報論を否定します。3人との対話は3回(ツォファルとは2回)に及びます。両者はすれ違い、結局この繰り返しで循環論法に陥ります。解決はありません。エリフも登場し神議論を展開します。しかし、4人の回答には満足できないヨブは、直接、神を求めます。しかし、神はなかなか現れません。4人の友人(賢者)との討論の後に、最終的には神が現れます。その偉大さをヨブに示し『天地万物、万象を創造したものは誰か』と問います。ヨブは、自分の小ささを認識し、「私は罪を犯し、道義を曲げた」と云い、神の前にひれ伏します。ヨブは変わったのです。神はヨブを元の姿に戻します。傷を癒やし、更に、2倍の恵みを与えます。140歳と云う長寿も与えました。これは、ヨブが低次の次元から高次の次元へと進化したことを意味します。しかし、神は自分の偉大さを強調はしても、ヨブの投げかけた疑問『わたしの罪とは何か』には直接には応えていません。神は人知を超えた存在です。「屁理屈をこねずに我に従え」と言っています。それがあなたの出来る最善の道だと諭します。人は苦難を、災厄を、試練として受け止め、神に祈ることによって神との関係を修復することが出来ます。神に祈る人は、どのような場合でも、決して神の扱いを不当だと抗議することはありません。そこにあるのは忍耐と服従です。神は決して「耐えることの出来ない試練を」人には与えないのです。
試練の意味
さて、神がヨブに与えた試練の意味は何だったのでしょうか?神はヨブの信仰を試されただけでは無く、その信仰をより高度のものにし、自分に近づけようとしたのです。ヨブ自身が気づくことのない罪に気付かせ、自分の似姿にしようとしたのです。そこには正、反、合の弁証法的発展がありました。ヨブは3人の友人との対話を通じて、エリフの弁論を聴いて、自分自身の神認識と世界認識を進化させていきます。神とも対決します。神の前での自分の小ささを認識します。神を信仰することの偉大さに気付き、信仰の壁を乗り越えたのです。より次元の低い自分から出発して、幾多の討論を通じてより進化した自分に到達します。その事によって自分を変えたのです。2倍の恵みを得たのです。このことが無い限り神はサタンに勝ったことにはならないのです。
弁証法:テーゼ(意見)とアンチテーゼ(反対意見)」との対立・矛盾を通じてより高い認識=ジンテーゼ(総合)に至る哲学的方法を云います。より高次の認識に到達することをアウフヘーベン(止揚)と云います。その発展過程は正・反・合です
さてこの事件を神とサタンの関係で述べてみたいと思います。
サタンは天使の姿をして人に近づくと言われています。今回は神の僕(天使)の姿をしてヨブに近づきます。ヨブに乗り移り、自分(サタン)の正しさを主張します。ここに神とサタンとの対決を見ることが出来ます。神に対抗できるものはサタン以外には居ないのです。かくして、ヨブの内に神とサタンとの二重化が生じます。内なる霊は神を求め、外なる肉はサタンとなり神に対抗します。ヨブの肉は破れ、膿み、ただれ、崩れ落ちています。ヨブは苦しみます。そこがサタンのつけ目です。「義なる人になぜ罪が生じるのか」、「理不尽かつ不条理ではないか」と神に問わせます。
人は神とサタンとの中間にある存在です。それ故、人はそれを併せ持つ存在です。盾の両面と云っても良いかもしれません。ある時は神が、ある時はサタンが前面に出ます。
3人のヨブの友人は、神の偉大さ、万能性を説き、ヨブに「汝に罪あり、故に罰あり」と諭します。しかしヨブの霊なる心は「もしかしたら私には私の知らない罪があるかもしれない」と思いながらも、サタンの命に従って「われは義なり、故に罰は不当なり」と訴えます。しかし、ヨブは苦しみの中から「私の全てを知る神よ、私の罪とは何か」と問います。守られているもの(神)におびえ、おびえながらすがり、すがりながら憎む、そして、憎みながら信じる。神は現れず試練は続きます。
しかし、神は旋風の中から突然現れ「知識も無く云い分を述べて、摂理を暗くするこの者は誰か」と問い、そしてヨブに云います。「天地を創造し、万物・万象を作ったものは誰か」と。神は時空を超えた宇宙の創造者であり、その一部である地球を創造し、その地上での生きとし生けるものに生を与え、活動を許したのです。神は偉大であり人知を超えた存在です。神がヨブの中にいるのではなく、ヨブが神の中にいるのだと説きます。人を正しく扱われる筈の神が、自分と共にいるヨブを滅ぼすわけがないのです。肉体の痛みはサタンから来た試練であって、神は信仰の力によって、それに耐えることを命じたのです。忍耐と服従、神に至る道は決して楽な道ではないのです。狭き門なのです。
神は云う「それでも私に盾つくのか」と。ヨブは神の前にひれ伏し、その小ささを悟り、サタンとの決別を果たし、神への信仰を誓ったのです。
平成27年11月10日(日)報告者 守武 戢 楽庵会