エレミヤ書 第Ⅰ部(1~25章)災いの預言
「エレミヤ書」は「イザヤ書」「エゼキエル書」と並んで三大預言書の一つです。預言書はこのほかに「ホセア書」から「マラキ書」に至る12の小預言書から構成されています(旧約聖書の目次参照)。
エレミヤ書は、その冒頭に述べられているように、ヨシア王の治世13年に預言者として召され、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ王の時代を経て、バビロニアによるエルサレムの陥落までの時代に活躍した預言者です。この時代はイスラエルの歴史における大きな曲がり角に当たる最も悲劇的な時代でした。第25章(エレミヤ書の第Ⅰ部をまとめた書)において主なる神は云います「あなた方は。わたしの言葉に聞き従わなかったために、見よ、わたしは北の全ての種族を呼び寄せる―主の御告げ―すなわち私の僕(しもべ)バビロンの王ネブカドレザルを呼び寄せ、この国とその住民とその周りの全ての国々とを攻めさせ,これを聖絶し、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする―中略―この国は全部廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロン王に70年仕える(25:8~14)」。しかし、主はイスラエルを罰しはするものの、ペルシャの王クロスを使ってバビロニアを滅ぼし、捕囚の民を帰還させます。ここには主による裁きと救いが語られています。
エレミヤは、この時代にあって、主の言葉に従って、イスラエルの民に「神に立ち返れと」と再三再四「心を尽くし精神を尽くして」繰り返し呼びかけます。偶像の神から離れるよう諭します。民の罪を執りなし神に赦しを請います。しかし頑なな民はこれに従いません。それどころか彼の暗殺すら試みます(18:18)。エレミヤはこの事態に直面し、絶望します。「わたしの生まれた日は呪われよ」と悲痛な言葉を叫びます。「なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか、私の一生は恥の内に終わるのか(20:14~18)」と神を恨みます。義なる者の苦しみ、悩みは『ヨブ記』においてもみられます。エレミヤは「涙の預言者」と言われるほど、悲しみを体験した預言者だったのです。
しかし、主は裁きだけを与えるお方ではありません。必ず、救いを用意しています。どんなに怒り、民を罰しても、これを完全には滅ぼしたりはしません。それでは絶望し将来に希望を失ったエレミヤは何に希望を託すのでしょうか。
このような時代に現れるのは、偽の預言者です。彼らはイスラエルの民に対して心に心地よいが、決して真実ではない預言をし、苦悩する民に刹那的な喜びを与えます。しかも「神の宣告」と云う言葉を使います。「主はあなた方に平安があると告げられた」「あなた方に災いは来ない」と。神は怒ります。「わたしは彼らを遣わした覚えはない」と云い、「彼らに語らなかったことを彼らは預言する」と怒り、悲しみます。そして言います。「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、私の言葉を聞く者は、私の言葉を忠実に語らねばならない(23:28)」と。主の言葉は真実を語るが故に、民にとっては重荷になるのです。人は心地よさを求めて、重荷を拒否するのです。そして滅びに向かって歩んでいくのです。ここに神と人との間の葛藤があります。これは永遠の課題かもしれません。
神は人間の根本悪とは何かを問い、肉体の割礼ではなく、心の割礼(4:4、9:25~26)を要求します。イスラエルが神への服従を拒んだのは、人の本性上拒まざるを得なかったのであり、反逆の源は、心に割礼を受けていないことにあるという。こうした根源悪、原罪の洞察へと行きついたエレミヤは何処に希望を託すのでしょうか。
神が人の心を変えない限り、民の復興と更新は起こり得ない。そこに希望がある。
絶対的恩恵:神の国の到来、エデンの園
相対的恩恵:新しい契約(新約聖書=キリスト)
言 葉
ヨシヤの宗教改革:イスラエルはバビロニアによって滅ぼされ、政治国家としては滅亡し、宗教的教団へとその姿を変えて行く。政治的枠組みを失ったイスラエルの統合の象徴は宗教であった。ヨシヤの行った宗教改革は申命記改革と呼ばれた。異教の神に犯された民を集めまとめて行く為には厳しい律法を必要とした。しかしヨシヤの改革はヨシヤの死亡により頓挫する。後の王たちは改革の実行には積極的ではなかった。
公義と正義:この二つの言葉はセットで用いられる。この二つを行わなかった王家の宮殿は神の杖(バビロニア)によって破壊される。その後。主は公義と正義を行うメシアの到来を預言する。旧約聖書の最後の王たちは公儀と正義を行わなかったことにより断罪されている。
公義:神の統治と支配の総称。それは人に自由意志を与え、神への信仰と従順を求めることによって成り立つ統治理念。そこには数々の神の計らいや計画を導き。時には懲罪的な訓練も含む。
正義:神と人との正しい関わりを意味するがその内容は、自分自身では自らの権利を確保できない貧しい人を擁護し助けることを意味する。つまり「他人のために犠牲を払うこと」「施しをすること」を意味し、それがやがて「救い」を意味するようになる。
彼らはわたしの民になり、わたしは彼らの神になる:どちらが先か?神の恩寵が先にあって、民がこれに従うのか、民の信仰が先にあって、この民に神の恩寵が下るのか。
神の選びが先にあって、人に恩寵を与え、人が神を知ってこれに従う(聖書の立場)
神が人の心を変えることが無い限り、民の復興と更新は起こり得ない。
新しい契約:「見よその日が来る。―主の御告げ―その日、わたしはイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を結ぶ。それはモーゼとの間に結ばれた古い契約ではない。その契約は破られてしまった。しかし、わたしは彼らの咎を許し、彼らの罪を二度と思いださない(31:31)。それは新約聖書に現された約束である。
エレミヤの神観:エレミヤの神観は聖書に描かれている神観と同一であって目新しいものではない。唯我独尊、異教の神を決して認めず、これを邪教として排除し、虚しい者、幻と見做し忌み嫌う。旧約聖書に出てくる異教の神の代表的なものにはバアル神がいる。豊饒の神である。イスラエルの民がこの神を自分より尊び、敬い、信仰するのを見て、妬み深いイスラエルの神は、これを攻撃する。これはエレミヤ書に限った事ではない。この神は創世記に描かれているように天地万物万象の創造者にして歴史の支配者である。神は預言者を通じて福音宣教を行い全世界に自分の光を注ごうとする。イスラエルを自分の選びの民として、これに希望を託す。イスラエルから全世界へと壮大なご計画である。その意味では普遍的な神観である。この神は倫理的で公正にして正義の神であるが、あくまでもイスラエルの神であって、その範囲は限られてくる。自分の行く手を妨げる者は徹底的に排除しようとする。皆殺しも辞さず、破壊尽くし焼き尽くす。ヨシア記を読むと、これが神様の申し子のやることかいなと思ってしまう。あらゆる宗教は互いに互いを認めあって生きて行くべきなのである。宗教戦争は御免である。
平成28年12月13日(火)報告者 守武 戢 楽庵会