日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

旧約聖書、第6書『ヨシュア記』

2014年11月14日 | Weblog
 
 旧約聖書 ヨシュア記 
はじめに
 モーセの5書は「申命記」をもって終了する。イスラエルの民は、その罪により、40年もの長きにわたって、カナンの地を目前にして、シナイの荒野に留まっていた。聖俗の長であるアロンもモーセも、出エジプトを果たした世代と共に約束の地「カナン」に入ることなく没する。彼らは、神の前で完全では無かった。しかし、新しい世代が現れ彼らは神の前で従順であった。
 モーセとアロンの死後、歴史は新たな展開を見せる。これより「ヨシュア記」は始まる。モーセの死後、カナン入りと云う大事業はモーセの参謀であったヨシュアによって引き継がれた。神はヨシュアに対しカナン入りを命じる。その地には多くの王国が群雄割拠していた。これらの王国との戦いが始まる。神は常にイスラエルの民と共ににあった。神が命じ、先導し、神の保護の下、戦いは一つの例外(ヨシュア記7章:全節)を除いて、常にイスラエルの勝利に終わった。これは神の戦いであった。
 梗 概
 1、神はヨシュアに命じてヨルダン河を渡り、約束の地「カナン」に入れと命じる。
 2、ヨシュアは、ヨルダン川を渡り、その地を支配していた31の王国(都市国家)を滅ぼし、占領する(ヨシュア記7章7~24節)。
 3、この地の平定後、ヨシュアは、イスラエルの12氏族にこの地を分割し嗣業の地とする。各氏族の境界が定まり、レビ人の町も指定され、その中には「逃れの町」もあった。
 4、イスラエルの民と神との契約の再確認が行われ、神に対する信仰の確約がなされる。
 以上の様に「ヨシュア記」の主題は土地の取得と分配にある。神との契約の前半部分(約束の地の授与)は達成された。後半部分とは民の増大繁栄である。これに関しては後の歴史を見る必要があろう。それはヨシュア記の課題ではない。
ヨルダン河
標高2800mを超える主峰ヘルモン山の水を集めてガラリヤ湖に注ぎ、そこから流れ出し死海に注ぐヨルダン河は、イスラエルの民にとっては、聖なる川である。有名なわりには、小さな川である。しかし、今日までヨルダン河は貴重な水資源である。
 神はこの川をせき止めて、イスラエルの渡河を助けている(ヨシア記3章16節)。契約の箱をかつぐ祭司たちが民を先導し、およそ4万人の軍勢がそれに続いた。神はヨシュアに命じて12部族の長に12の石を取らせ、宿営地ギルガルに立てさせよ、と命じる。石は永遠を象徴する。ヨルダン河の渡河と12の石は、神とイスラエルの民との契約(大地の授与と、永遠の増大繁栄)の実現を象徴する。イスラエルの民が渡河を完了した時、ヨルダン河は、もとの流れに戻る。ここからイスラエルの神の戦いが始まる。
さて、ヨルダン河を意味するものは何であろうか?ヨルダン河をはさんで、東は荒野が、西にはカナンが存在する。荒野は俗(肉)を、カナンは聖(霊)を象徴する。出エジプトを果たしたイスラエルの民は、十戒を与えられたものの、常にエジプトを懐かしみ、神に抵抗し、荒野に留まっていた。神はこれを切り捨て自分に従順な新しい世代に期待した。古い世代は「肉」を止揚して、霊的な存在にはなれなかったからである。モーセもアロンも死に、神はヨシュアに期待した。神はヨシュアに新しい世代を引き連れ、向きを変えて出発せよと命じる。
このようにヨルダン河をはさんで西と東とはその意味するものは異なる。東は、肉、俗、罪を意味し、西は心(魂)、霊、救いを意味する。ヨルダン河を渡る意味は大きい。ヨルダン河に足を踏み入れると云う事は「洗礼」を意味する。ヨルダン河をわたった新しい世代は、この地で割礼を施されている。イエス・キリストは、この河で洗礼を受けている。
イスラエルの歴史において「水」は大きな役割を果たしている。水は命の源であり、命の源とは、神である。出エジプトを果たした世代は、エジプト軍に追われ、紅海まで追いつめられ、危機一髪の時、神はこの海を割り、イスラエルの民を助けている。荒野での生活が始まる。ヨルダン河を渡ることで荒野での生活は終わる。それは一つの転機を示す。紅海とヨルダン川、その意味は大きい。

ヨシュアは神の助けを借り、約束の地「カナン」を我が物とした。その前にヨシュアは、2人の斥候をこの地に送り、娼婦ラハブに助けられ、カナンの地に入る準備を完了する。カナンへの侵攻はエリコの勝利より始まる。次に、アイに向かうが、ここで、ユダ部族に属すアカンの、神に対する不義(窃盗)によって、初戦は破れるものの、後は神と共に侵攻し、31の王国を絶滅して、この地を占領する。アカンの不義と、その処罰(石打ちによる死刑)は、この戦いが神の戦いであったことを示している。神は自分に対する不義を決して許さない。神はこの地をイスラエルの12部族に嗣業の地として分け与える。
 さて、ここでわれわれ異国の民が、この戦いを見て違和感を覚える事は、その戦いのやり方である。占領地の民は、兵士だけでなく、女、子供に至るまで皆殺しにされている、ことである。勿論、町は破壊され焼き払われた。これが神のなさることか?
神のなさることは全て善きこと
ここで確認しなければならない事は、旧約の神は、あくまでも、イスラエルの神である、ということである。神は数多の民の中からイスラエルの民を選び、これに土地を与え、永遠の増大繁栄を約束した。神にとって、この契約を守ることは絶対条件であった。その為にイスラエルの民は神の前で従順でなければならなかった。この時、約束の地「カナン」には、異教徒が住み、偶像を作り、これを敬い、拝んでいた。神が攻撃したものは、これらの、邪教であり、悪魔の申し子であった。それ故、その戦いは聖戦であり、宗教戦争であった。お互いがお互いを悪魔とみなし、自分を神とみなした。このような戦いは壮絶を極める。殺し尽くし、破壊し尽くし、焼き尽くす。その街の再建は禁止された。神は復讐を恐れたのである。皆殺しはイスラエルに対する神の義であり愛であった。確かに、これらの所業は、人の立場から見る時、神とは不条理な存在であり、理解できない。特に、殺すな、盗むな、犯すな、姦淫するな、は神がイスラエルの民に与えた律法である。それを自ら犯している。イスラエルの民に強制する。神は言う「地上に平和をもたらすために私が来たと思うな、平和ではなく剣を投げ込むために来たのである(マタイ10章34節)」「我は欲するところの善を行わず悪を行う」と。神は倫理や道徳を否定してこれを破棄するのであろうか。これを超越するのであろうか。これを義とするのであろうか?しかし神は言う「われ聖なれば、汝もまた聖なれ」と。聖なれと云う事はこの世の中の、あるいは、心の中の罪を皆殺しにせよということである。ここにはパラドックスがある。この時、神の義とはイスラエルの民に与えた契約の成就である。それ無くしてイスラエルに対して、神の立場を守ることは出来ない。それ無くしてイスラエルの民を救うことは出来ない。善きことばかりしていたらイスラエルの民は救えない。それでなくとも相手は強敵である。手段を選んではいられない。この場合の救いは魂の救い(贖い)も含んでいる。
このような犠牲の上に、約束の地「カナン」は、イスラエルの民に与えられた。神は強敵を前に恐れおののく民に対し「恐れるな、勇気をもって、これに当たれ、私があなた方についている。私はあなた方の神だ」「ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つも無かった。彼ら(イスラエルの民)は戦って、全てのものを取った。彼らの心を頑なにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶する為であった(ヨシュア記)11章19~20節)」と。ここに神の意志がある。これは神の戦いであった。自分を敬い、拝む者には勝利を、反抗する者には死を与えた。唯我独尊。これが一神教の理論である。多神教の伝統を持ち、他を認める神の下に生きる我々には皆殺しの理論は、違和感を覚えるのは止むを得えないことである。
 嗣業の地
 神はイスラエルの12氏族に、この地を分割して嗣業の地として与えた。嗣業の地とはイスラエルの民の増大繁栄を象徴する。イスラエルの民は、この地の経営によって、自分の子孫を増大させ、繁栄させなければならない。聖書はこれについて多くのページを割いている(ヨシュア記13章~22章)。これによって神とイスラエルの契約は一応完成する。
 この嗣業の地は、ヨルダン河をはさんで東と西に割り当てられた。東の地はルベン、カド、マナセの半部族にモーセの生前、モーセによって与えられているが、ヨシュアによっても確認されている。これに反対する氏族もいたが、和解が成立している。この地の分割と云う大事業は必ずしもスムースに行ったわけではない。大体は、その地を征服した氏族のものになってはいたが、それが解体され、くじ引きで割り当て地が決まったことで、多くの混乱が生じた。くじ引きで決まったとはいえ、それは必ずしも公平では無かった。山地や平野、土地の肥沃度、資源の有無、特に水資源の問題は重要であった。このように与えられた土地には様々な環境的な差異があった。それ故、境界をめぐって氏族間の争いが起り、ヨシュアに対する不満も起こり、再分割が要求されたりした。更に、占領されていない町が与えられたりして、その氏族は武力をもってこれを我が物にしなければならなかった。いずれにしてもこの分割は曲りなりにも成就する。
 ここで特記しなければならない事は、この時代、女性に対しても嗣業の地が与えられたことである(ヨシュア記17章3~4節)。前にも述べたが、祭司族であるレビ族には嗣業の地は与えられなかった。神に仕えるものは、この世に政治的、経済的勢力をもっては成らず、霊的な仕事に専念すべきであるという原則が貫かれたのである。しかし祭司族とは言え生活していかねばならない。その生活は社会的負担とすべきである、とされた。それ故、他の氏族の中に、嗣業の地が与えられたのである。この中には、逃れの町もあった。
 これらを成し遂げた後ヨシュアはその波乱万丈の生涯を閉じた。110歳であった。
 ヨシュアの遺言 
 ヨシュア記を終わるに当たり、ヨシュアの遺言の一部を引用してこの書の纏めとしたい。
「あなた方の為に戦ったのは、あなた方の神、主である(ヨシュア記23章3節」)」
「あなた方の神、主が、あなた方について約束した全ての良いことが、一つも違わず、みな、あなた方の為に実現した(ヨシュア記23章14節)」。
「あなた方は、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない(ヨシュア記23章6節)」。そして異教の神との交わりを禁じ、礼拝を禁じ、ただ、ただ、我が、神にのみすがらねばならないと諭す。
平成26年11月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする