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イザヤ書Ⅵ 15~18章 諸国に及ぶ主の救い

2022年08月22日 | Weblog
 イザヤ書Ⅵ 15~18章 諸国に及ぶ主の救い1
 はじめに:今回は15章から始めます。イザヤは13章からイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する主からの警告の言葉を語ります。バビロン、アッシリヤ、ペリシテと続き、今回はモアブに対する主の警告の預言です。
 モアブ:死海ヨルダン東岸の高地に住んでいた民族。肥沃なモアブ平野から、ネボ、ピスカの峰を持つアバリム山脈に至る領土を擁す。首都はキル・・ハラセテ、他にアロエル、メデバ、ネボ、ヘシュボン、エルアル、ヤハツなどの町を有す。ダビデからアハブの時代、イスラエルの属国となり、アッシリヤの脅威がパレスチナを襲うと、これに屈服する。捕囚期にはバビロニアの属州となる。そしてBC1世紀にマカべア家アレクサンドロス・ヤンエウス王によって完全に滅び去ります。イスラエル人はモアブ人を血縁の民族とみなしていました。宗教はバアル宗教で神の名は、バル・ペオルです。(関根清三訳、岩波書店、「イザヤ書」より)。
 15章:15章と16章は主によるモアブの罪に対するさばきです。
1,モアブの滅亡、そして泣き叫びⅠ
 「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び失せた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅び失せた。モアブは宮に、ディポンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。その巷では、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。その魂はわななく(15:1~4)」。主はアッシリヤを道具として、主に反抗するモアブを一夜のうちに滅ぼします。その時のモアブの状況がこの部分に預言されています。神のさばきは突然にして起こります。「アル」とか「キル・モアブ」と言うのはモアブの中心的な大きな町です。その町が滅びるということはモアブ自身の滅びを意味します。このようにモアブはアッシリヤによって滅ぼされます。その後、アッシリヤが滅亡すると一時的には回復を果たしますが、やがて復活した大バビロンによって征服されます。そしてBC1世紀に復活したユダヤの王朝マカベア家によって完全に滅ぼされます。それはともかくとして、アッシリヤの侵攻を受けて滅亡に瀕したモアブの民は自分たちの偶像ケモシュ(ディポンと言う町の高き所に置かれていた)のまつられている宮にのぼり助けを求めますが、ケモシュはモアブを助けることが出来なかったのです。偶像ゆえの限界です。侵入したアッシリヤは、モアブの男性の頭髪をそり落とし、ひげも切り取って、その尊厳を貶めて、屈辱と、耐えがたい苦痛を与えたのです。その結果、モアブの民は、荒布を腰にまとい、みな涙を流し、嘆きや悲しみを現したのです。その叫び声は遠くヤハツまで届いたのです。この時、モアアブの兵士たちは恐れと恐怖に包まれ、まったく士気を失い、泣き喚いたのです。
 2,私の心は叫ぶ「悔い改めよ」と。「私の心はモアブのために叫ぶ(15:5)」モアブはケモシュと言う偶像を造りこれを拝んでいた民です。当然罰せられるべき民であり、実際に、主はアッシリヤをその裁きの杖として用い、モアブを罰せられたのです。悔い改めよと叫んだのです。モアブはアッシリヤにその祖国を追われ、ツオアルからエグラテ・シェリシャまでのがれ、ルヒテの坂を泣きながら上り、ホロナイムの道で破滅の叫びをあげるのです。アッシリヤは他の民を侵略するときに水源を塞ぐという方法を用いました。「ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった(15:6)」のです。水を絶たれた民の悲惨さが語られています。
3.主はのがれた者と残りの者とに獅子を向ける。
 モアブの民は戦乱によって荒廃した大地から避難を余儀なくされます。水を絶たれ、生活の糧を失った民は国外へと逃亡します。彼らは「残していたものや、貯えていたものを、アラム川を越えて運んでいく(15:7)」のです。避難中や、避難先での生活を支えるためです。
 アッシリヤの侵攻は、厳しいものであったと言われています。制圧して支配するのではなく破壊しつくすのです。人は殺さず、傷つけたまま放置するのです。「ああ、叫ぶ声がモアブ領土に響き渡り、その泣き声がエグライムまで、その泣き声がベエル・エリムまで届いた(15:8)」のです。主は、アッシリヤを用いてここまでするだけでなく「ああ、ディモンの水は血で満ちた。わたしはさらにディモンに災いを増し加え、モアブの逃れた者と、その土地の残りの者とに獅子(アッシリヤ)を向けよう(15:9)」と語ります。主は、モアブのすべての民(逃れた者、残ったもの)に、獅子を差し向けて滅ぼす、と言うのです。ディモンとは、モアブの偶像ケモシュの祭られている場所です。その場所でモアブの民は虐殺されたのです。主は、異教の民と、異邦の民には厳しい方です。いつまでも主に歯向かい、悔い改めのない者は厳しく罰せられるのです。しかし、人はすべて主の創造物です。平等に主の恵みを受けることが出来るはずです。主は、隣り人を愛せよと言っています。一人でも滅びる者の出ることをお赦しにならないお方です、しかし、ダビデ契約は律法です。
 16章:主は「モアブの逃れた者と、その土地(ディモン)の残りの者とに獅子(アッシリヤ)を向けよう」と、アッシリヤがモアブを徹底的に荒らすのをお許しになりました。しかし、主は決して裁くだけのお方ではないのです。救いの道も用意しておられるのです。さばきと救い、その間には悔い改めがあります。アッシリヤは悔い改めの道具なのです。主はモアブをその裁きからのがれる道をも用意しておられるのです。『子羊をこの国の支配者に送れ、セラから荒野を経てシオンの娘の山に(16:1)』と、主は言います。シオンの娘の山とは、ユダでありエルサレムのことです。このエルサレムに小羊(貢物)を送り、助けを求めよと言っているのです。この時モアブの民はアッシリヤに追われて逃げまどっていたのです。他方、主はエルサレムに対しては、「逃れてくるものを見つからないようにかくまい、アッシリヤに渡すな、隠れ家になれと、と進言しています。そして、虐げる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消え失せるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられ、裁きをなし、公正を求め、正義を速やかに行うものが、ダビデの天幕で、真実をもって、そこに座る(16::4B~5)」。ここには艱難時代の終了と、メシアの出現が語られ、神の国の到来が預言されています。しかし、この預言が実現するのは、はるか遠い将来のことです。多くの困難を解決しなければならないのです。その証拠にモアブは、神に立ち返らず、主に逆らったのです。「我々はモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない(16:6)」。モアブはせっかくの主の忠告に対して聞く耳を持たず逆らったのです。主は怒りをもってモアブを裁かれるのです(16:7~11参照)。モアブが悔い改め、「高き所に詣でて身を疲れさしても、祈るためにその聖所に入っていっても、もう無駄(16:12)」なのです。主に逆らうものは滅びが運命づけられているのです。
 17章:ダマスコの崩壊。17章はダマスコに対する宣告です。ダマスコとはシリアの首都であり、聖書の時代には、アラムと呼ばれていました。サウロ(パウロ)がキリストに出会い回心した都市です。「みよ、ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。アロエル(シリアの町)の町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこにふすが、それを脅かすものもいなくなる(17:2)」と主は言います。しかし、歴史的に見た場合、ダマスコ(シリア)はこれまで一度も廃墟になったことはありません。現存しています。廃墟になるとしたら将来のことです。しかし、主の預言は必ず実現します。「ダマスコは王国を失います」。
 アラムの残りの者:主の裁きの中で多くの者が罰せられた中に、わずかではあるが、主に忠実な者が残されていたのです。彼らは、信仰深きイスラエル人のように扱われるのです。
 その日:その日とは、具体的にはアラムの滅びの日であり、霊的には世界の終わりの日です。「その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。刈り入れ人が立ち穂を集め、その腕が刈り入れるときのように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。オリーブを打ち落とすときのように取り残された実が残される。二つ三つの熟れた実が梢に、四つ五つが実りある枝に残される。(17:4-6)」主は、刈り入れ時として、「立穂のとき」と、オリーブを打ち落とすとき」の二つを挙げています。この収穫のときにわずかではあっても残る実があります。これと同じように、裁きを受けたアラムの民中にも残りの者が存在するのです。主はアラムの中にも主を信じ従う敬虔な民を残しておられるのです。アラムの教会はこのような残りの者によって守られ、支えられ、前進していくのです。
 救いの神を忘れるな:主はその日シリアの民を2つに区別します。一つは救われる人々であり(17::7~8)であり、もう一つは滅びる人々です。救われる人々とは「人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシュラ像(女神)や香の台を見もしない。(17:7~8)」。ここには真の神に対する信仰と偶像礼拝に対する否定があります。それに対して滅びの民とは「その堅固な町々は森の中の見捨てれられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになりそこは荒れ果てた地のようになる。(17:9)」その原因は「あなたが救いの神を忘れて、あなたの力の岩を覚えていないからだ(17:10)」。それだけでなく、偶像(好ましい植木、他国のぶどうの蔓)を崇拝しそれを続ける限り救いはありえないのです。
 「ああ。多くの国がざわめき―――海のざわめきのようにざわめいている。ああ、国民の騒ぎ―――大水の騒ぐように騒いでいる。国民は、大水が騒ぐように騒いでいる(17:12~13)」。アッシリヤは、多国籍の軍隊からなる巨大な軍力でした。この軍隊の侵攻を前にして、イスラエルを含め、周辺諸国は恐れおののいたのです。おそらくアッシリヤは、占領地の軍隊を統合し、拡大して多国籍軍を形成したものと思われます。「しかし、それを叱ると遠くへ逃げる」「山の上で風に吹かれる籾殻のように、つむじ風の前で渦巻く塵のように、彼らは吹き飛ばされる(17:13)」。叱るのは誰だろうか。それは主である。しかし主は、決して自らの手を汚さない。道具を使います。。アッシリヤを滅ぼしたのは具体的にはバビロンです。「夕暮れには、見よ、突然の恐怖。夜明け前に、彼らはいなくなる。これこそ、私たちから奪い取る者たちの分け前、私たちをかすめ乳母会う者たちの割り当て(17::14)」これがアッシリヤに包囲されたエルサレムが見た光景です。エルサレムの民が起きてみるとアッシリヤの陣営の18万5千人が、みな、死体になっていたのです。主は終わりの日に起きることを預言しているのです。
 18章:ああ。クシュのかなたにある羽こうろぎの国。この国は、パピルスの船を水に浮かべて、海路、使いを送る。すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民の所に。あちこちで恐れられている民の所に。多くの川の流れる国。力の強い踏みにじる国に(18:1~2)」、クシュ;現在のエチオピヤを指す。クシュの川々:ナイル川の支流。この羽こうろぎの国から海路使いを送れとイザヤは言う。一体、どこへ、何の目的で。それはイスラエル=南ユダです。この当時、アッシリヤが隆盛を極めており、シリヤ、北イスラエル、ペリシテ、ヨルダン、モアブ、アラビアを支配し、さらに南下してエジプトにまで迫っていました。そこでクシュはこのアッシリヤに対抗するために南王国に使いを送り同盟を結ぼうと画策したのです。しかし信仰深い南ユダは、この誘いには乗らず「世界のすべての住民よ、地に住むすべての者よ。山に旗が掲るときは見よ。角笛が吹き鳴らされた時は聞け。主が私にこう仰せられたからだ『わたしは静まってわたしのところから眺めよう―――(18:3~4)』」と。クシュは人に頼って苦難を乗り越えようとしましたが、イザヤは主により頼むことが事態を打開する最善の道だと悟っていたのです。
「刈り入れ前に蕾が開き、花房が育って、酸いぶどうになるとき、人はその枝をかまで切り、その弦を取り去り、切り除くからだ(18:5)」「それらは一緒にして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし。野獣はみなその上で冬を過ごす(18:6)」。酸いぶどうは食用には適しません。弦ごと刈り取られて猛禽や野獣のえさになります。この酸いぶどうの刈り入れは、主のアッシリヤに対するさばきを現します。南ユダの軍隊を取り囲んでいた18万5000人のアッシリヤの軍隊は翌日死体となって倒れていました。彼らは猛禽や野獣のえさになったのです。
 「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国。力の強い踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る(18:7)」。この国とはアッシリヤかクシュか迷ったが、この章がクシュに対する主からの宣告である以上、この国とは、クシュ(エチオピヤ)と考えるのが妥当であろう。クシュはアッシリヤの侵攻を前にして、主に頼るのではなく、人に頼り南ユダに同盟を求めている。それは、明らかに主に反抗する態度であり、それゆえに、主の怒りにふれ、アッシリヤに滅ぼされている。イザヤは、そんなクシュに対して最大限の賛辞を送っている。この国はかつてはエジプトと並んで強大な力を持ち、周辺諸国に恐れられていたのである。この文章は、クシュの悔い改めの表明である。シオンの山エルサレムに送られた物とは悔い改めの心と、敬虔な主に対する信仰心といって良いであろう。悔い改める者を主は喜んで受け入れるのです。この大文章は、異邦人に対する救いの一つの形を現しています。
令和4年9月13日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会