教会の成すべき使命とは
神を信じる者として、神のしもべとして、この日野キリスト教会の深夜祈祷会に参加できたことを深い喜びを持って、神であるあなたに深く感謝します。
教会とは目にみることの出来ない神と、私たち罪を抱えた人との間を仲立ちする組織であり、人と神とが出会える唯一の場所であると信じております。
イエスは処刑後3日にして復活し、以後の伝道を、その使徒たちに託し40日の後に昇天し、神の右側に座し(マルコの福音書16章19、エペソ人への手紙1章20~21)、我々を見守る存在となったのです(マタイの福音書28章20)。キリスト教の発展は、使徒たち、特にペテロとパウロの働きに依存しています。キリストの教会は、イエスの死後、キリストの目の見える肉体として福音宣教の使命を担いました。教会は、神と子と聖霊の3位一体を表しています。こうして教会はこの地上に神の義と愛を実現し、宣べ伝えるための場所となり、イエス・キリストを信じる人達の集いの場所となり、救いに至る唯一の道となったのです。聖書は云います「そして神様は、全てをキリストさまの足の下に従わせ、キリストさまを、教会の最高の頭とされました。教会はキリストさまの身体であって、全てを造り、全てを満たすキリストさまの霊が満ち溢れる場所です(エペソ人への手紙1章22~23)」と。
神によって教会が作られ、私たち人間にその恵みをお与えになる場所になったことを神様に深く感謝します。
一般に教会という組織が、その機能を十全に発揮するためには、その教会に集まる人の数=大衆に依存します。しかし、これらの人々は、それぞれ分散した個人であり、求めるものも、その考え方も、住む環境も様々です。単に人との交わりを求めているだけかもしれません。ゴスペルを歌いたいからかもしれません、聖書に対する学問的興味かもしれません。必ずしも神を求めているわけではないのです。教会に集まる人々の動機は何でもいいのです。牧師の使命は教会に集まるこれらの多様な要求を持つ人達と精神的、知的接触を図り、これら分散した個人の考えをまとめ、悟し、神の教えに導いていくことにあります。人々は団結によって統合され、知識によって導かれなければなりません。その基礎にあるものが聖書です。聖書の言葉=神の言葉を語り、教え導くものが牧師です。その責任は重大です。聖書は教えます、現象から本質へ、個別のものから普遍的なものへ。罪から救いへ、人から神へと、人の意識は変えられなければならないのです。これを忘れた教会は大衆の信頼を失い、没落します。
組織過程は同時に交通過程です。聖書によって内部を固めると同時に、横に繋がるネットワークを作らなければならないのです。カソリックは法王を中心に立て横に繋がるネットワークを持ち統合された存在です。それに反してプロテスタントは、カソリックのような全ての上に立つ法王のような存在は無く、四分五裂してまとまりを欠いています。対立しています。自由と混乱が同時にあります。これらの反省の上に立って、イエスキリストのもとに教会を一つに結びつけようという運動が起きています。エキュメニズムと言います。しかし利害の対立は激しく、その実現は困難です。
教会は戦闘的な実践の組織でなければならないのです。教会は自己目的ではなく、神の国を地上に作りだすために存在する闘争手段です。これに反対する勢力とは徹底的に戦わなければならないのです。神は単に慈悲に満ちた寛容な存在ではないのです。ひとたび怒れば罪に満ち、悪魔に支配された人々を滅ぼすのです。かつて神は大洪水を起こして、ノアと一対の生物を除いて、人類を滅ぼしています(創世記7章1~24)。更に、ソドムとゴモラという悪徳に満ちた街を、ロトを除いて、焼き尽くし滅ぼしています(創世記19章28)。
今、我々を取り巻く世界は、神の意向が、あまねく行きわたっている世界だとは、お世辞にも言えません。逆に悪魔によって支配されようとしています。
今こそキリスト者は、非キリスト者をも含め、すべての宗教の上に立つ神のもとに統一し、悪魔と戦わなければならないのです。それが教会の社会的使命なのです。神の怒りが再び我々の上に墜ちないうちに、教会は実践のための組織とならねばならないのです。
今、人は地球が危機的状況にあることを理解せず、理解していても何をなすべきかを知りません。全知全能な神様だけが、人に教え賜うことが出来るのです。その罪を罰するのではなく、その復活のために力をお貸しください。それが我々罪びとの切なる願いなのです。
神を信じる者として、神のしもべとして、この日野キリスト教会の深夜祈祷会に参加できたことを深い喜びを持って、神であるあなたに深く感謝します。
教会とは目にみることの出来ない神と、私たち罪を抱えた人との間を仲立ちする組織であり、人と神とが出会える唯一の場所であると信じております。
イエスは処刑後3日にして復活し、以後の伝道を、その使徒たちに託し40日の後に昇天し、神の右側に座し(マルコの福音書16章19、エペソ人への手紙1章20~21)、我々を見守る存在となったのです(マタイの福音書28章20)。キリスト教の発展は、使徒たち、特にペテロとパウロの働きに依存しています。キリストの教会は、イエスの死後、キリストの目の見える肉体として福音宣教の使命を担いました。教会は、神と子と聖霊の3位一体を表しています。こうして教会はこの地上に神の義と愛を実現し、宣べ伝えるための場所となり、イエス・キリストを信じる人達の集いの場所となり、救いに至る唯一の道となったのです。聖書は云います「そして神様は、全てをキリストさまの足の下に従わせ、キリストさまを、教会の最高の頭とされました。教会はキリストさまの身体であって、全てを造り、全てを満たすキリストさまの霊が満ち溢れる場所です(エペソ人への手紙1章22~23)」と。
神によって教会が作られ、私たち人間にその恵みをお与えになる場所になったことを神様に深く感謝します。
一般に教会という組織が、その機能を十全に発揮するためには、その教会に集まる人の数=大衆に依存します。しかし、これらの人々は、それぞれ分散した個人であり、求めるものも、その考え方も、住む環境も様々です。単に人との交わりを求めているだけかもしれません。ゴスペルを歌いたいからかもしれません、聖書に対する学問的興味かもしれません。必ずしも神を求めているわけではないのです。教会に集まる人々の動機は何でもいいのです。牧師の使命は教会に集まるこれらの多様な要求を持つ人達と精神的、知的接触を図り、これら分散した個人の考えをまとめ、悟し、神の教えに導いていくことにあります。人々は団結によって統合され、知識によって導かれなければなりません。その基礎にあるものが聖書です。聖書の言葉=神の言葉を語り、教え導くものが牧師です。その責任は重大です。聖書は教えます、現象から本質へ、個別のものから普遍的なものへ。罪から救いへ、人から神へと、人の意識は変えられなければならないのです。これを忘れた教会は大衆の信頼を失い、没落します。
組織過程は同時に交通過程です。聖書によって内部を固めると同時に、横に繋がるネットワークを作らなければならないのです。カソリックは法王を中心に立て横に繋がるネットワークを持ち統合された存在です。それに反してプロテスタントは、カソリックのような全ての上に立つ法王のような存在は無く、四分五裂してまとまりを欠いています。対立しています。自由と混乱が同時にあります。これらの反省の上に立って、イエスキリストのもとに教会を一つに結びつけようという運動が起きています。エキュメニズムと言います。しかし利害の対立は激しく、その実現は困難です。
教会は戦闘的な実践の組織でなければならないのです。教会は自己目的ではなく、神の国を地上に作りだすために存在する闘争手段です。これに反対する勢力とは徹底的に戦わなければならないのです。神は単に慈悲に満ちた寛容な存在ではないのです。ひとたび怒れば罪に満ち、悪魔に支配された人々を滅ぼすのです。かつて神は大洪水を起こして、ノアと一対の生物を除いて、人類を滅ぼしています(創世記7章1~24)。更に、ソドムとゴモラという悪徳に満ちた街を、ロトを除いて、焼き尽くし滅ぼしています(創世記19章28)。
今、我々を取り巻く世界は、神の意向が、あまねく行きわたっている世界だとは、お世辞にも言えません。逆に悪魔によって支配されようとしています。
今こそキリスト者は、非キリスト者をも含め、すべての宗教の上に立つ神のもとに統一し、悪魔と戦わなければならないのです。それが教会の社会的使命なのです。神の怒りが再び我々の上に墜ちないうちに、教会は実践のための組織とならねばならないのです。
今、人は地球が危機的状況にあることを理解せず、理解していても何をなすべきかを知りません。全知全能な神様だけが、人に教え賜うことが出来るのです。その罪を罰するのではなく、その復活のために力をお貸しください。それが我々罪びとの切なる願いなのです。