日常一般

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井イザヤ書Ⅷ 21~22章 朝の来ない夜はない

2022年11月28日 | Weblog
イザヤ書Ⅷ 21~22章 朝の来ない夜はない
 はじめに:今回は21章から、再びバビロンとそれを破壊するメディア・ペルシャからです。そのタイトルは、「朝の来ない夜はない」です。
21章:21章は3つの民族に対する主の戒めの宣告です。
1、海の荒野(バビロン):バビロンについては、既に13章と14章で語られましたが、ここで再び語られます(21:1~10)。砂漠の中の民族です。アッシリヤに滅ぼされます。
,ドマ:エドムの別名。アッシリヤに滅ぼされる。エドムは、ヤコブとエサウの双子の兄弟のうち、兄のエサウを先祖とします。ヤコブを先祖とするのはイスラエルです。
,アラビヤ:今のソウジアラビヤ。その意味は「砂漠」です。イシュマエルを先祖とします。彼はアブラハムの長男。アブラハムの女奴隷ハガルの子。アラブ人はイシュマエルを先祖とします。ちなみに、ユダヤ人はイサクを先祖とします。この預言は、アッシリヤの王サルゴンがアラビヤを攻めたときの話です。この節には2つの町が出て来ます。デタンとテマです。デタン人は避難民でテマは避難民を助ける避難所です。テマは豊かなオアシスの中の清らかな地下水に恵まれた町です。
1,海の荒野に対する宣告:ーフラテスと言う水量の海の荒野とはバビロンを指します。バビロンは広大な砂漠地帯に位置します。この砂漠地帯にはティグリス・ユーフラテスという水量の多い海のような大河が流れており、この大地を潤しています。この砂漠のオアシスの中に生まれたのがバビロンだったのです。そのため、バビロンは「海の荒野」と呼ばれていました。バビロンは堅牢な城壁に守られていました。バビロンの首長たちは、その堅牢さに高をくくり、高慢になり、油断して無防備だったのです。彼らは、「食卓を整え、座席を並べて、飲み食いをしていた」のです。乱痴気騒ぎをしていたのです。メディア・ペルシャの連合軍が目の前に迫っていました。この事態にイザヤは、恐れ、おののき、事態の深刻さを理解しない首長たちに「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ」と。出陣の呼びかけを行ったのです。メディア・ペルシャの連合軍は、バビロンに迫っていました。主はイザヤに告げます。「見張りを立たせて見たことを告げさせよ。ペルシャの大群の影を見たら、よくよく注意してそれに備えさせよ」と。すると見張りの兵士(獅子)はこれに応答して言ったのです。「私は昼夜を問わず物見の塔で見張っていました(21:8参照)」。「ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。倒れた。バビロンは倒れた。その神々全ての刻まれた像も、地に打ち砕かれた」と。見張りは、その偶像と共にバビロンが砕かれた姿を見せつけられたのです。預言者イザヤは、バビロンの民に言います。「踏みにじられた私の民、打場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ(21:10)」と。真の神・主に逆らう神を信じる者は、どんなに繁栄を謳歌していても、滅びる運命にあることを、イザヤは語っているのです。
 バビロンは偶像崇拝の発祥地、この世の偽りの宗教の発祥地です。「バベルの塔」を思い出してください。バビロンの民は、神をまねて、天にも届く塔を築こうとしました。まさに偶像です。神は怒りこれを砕き、その民を散らしました。この時以来、人は真の神を忘れ自分の神を造ろうとしています。この世の歴史は、神と偽の神の戦いであり、その繰り返しです。
2,ドマに対する宣告:イザヤが預言を行っている時期はアッシリヤが勢力を拡大していた時期です。ドマの一つの民セイルは、アッシリヤの侵攻を受け、その圧政に苦しんでいました。夜回り(イザヤ)はこれを、夜に例えています。セイルの民はイザヤに問います。「アッシリヤから解放されて朝になるのはいつか」と。イザヤは応じます。「朝が来た、また夜が来る。―――」と。アッシリヤが滅びてもその後にはバビロンが控えているのだ、と預言しているのです。彼らは異国に住む異教の民です。彼らの神を捨て真の神に立ち帰らない限り朝は来ないよ」と諫めているのです。
3,アラビヤに対する宣告:「デタン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。テマの地の住民よ。渇いている者に会って水をやれ。のがれてきたものにパンを与えてやれ。彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いからのがれてきたのだから(21:13~15)」。「だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲なさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる(ヨハネの福音書7:38)」と。キリストは生ける水だと言われています。キリストの与える水を飲むものは決して渇くことないのです。
 22章:22章は、主の「幻の谷」に対する宣告です。幻の谷とは、エルサレムのことです。「これはいったいどうしたことか。お前たちは皆、屋根に上って」。下を見下ろせ、そこには「喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都」エルサレムがある。「おまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく戦死したのでもない」。アッシリヤやバビロンに攻撃され、なすべき術を持たず、戦わずして、殺されたり、捕らえられて殺されたり、捕囚の民になったりしたのです。「なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るから(22:5)」です。エルサレムは契約の民です。その民に主の宣告が下ったのです。主は「えこひいき」をなさらないお方です。契約の民であろうとなかろうと、各人の行いに応じて報いられるのです。契約の民(エルサレム)は、主からの幻を受け取り御前にひれ伏さねばならないのです。しかし、エルサレムは、そうではなかったのです。主は怒り、お裁きをお与えになったのです。イザヤは己の民イスラエルが裁かれるのを見て、その心は張り裂けんばかりの悲しみでした。
 幻の谷(エルサレム)に対するアッシリヤの侵攻が始まります。イザヤはエルサレムの城壁の崩壊を預言します。シオンの山に祈り、天に向かって叫んだのです。アッシリヤの軍隊(エラムとキル)は戦闘体制に入り、エルサレムの美しい谷を取り囲んだのです。
 こうして、ユダの覆い(城壁)は、崩壊の危機にあったのです。このような状況に接し、ユダの王ヒデキヤは、かつてのソロモンの武器庫に目を向けます。アッシリヤを迎え撃つためには武器の準備は不可欠だからです。さらにヒデキヤとその民は、無防備なダビデの町の補強に乗り出します。城壁を補強し、水源を確保したのです。これらをなした背後には、神の御手が働いていたことを、彼らは知ろうともしなかったのです。神に救いを求めながらも、真の救いとは何かを知らず、目に見える武器や水源の確保、城壁の修復といった、物に頼ろうとしたのです。しかし、最終的に私たちは、主の前にひざまずいて、へりくだって、主に祈り求めなければならないのです。 悔い改めて神に求めましょう。
 アッシリヤの侵攻を前にして、万軍の神、主は、悔い改めを呼びかけられたのに、なんとお前たちは、絶望して、やけっぱちになって飲んだくれ、『どうせ、明日は死ぬのだから』と言ってその場限りの楽しみにうつつを抜かしている。絶望を希望に変えることのできる主に立ち返ろうとはしなかった。そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。『この罪は、お前たちが死ぬまでは決して赦されない』と、主は仰せられた(22:12~14)。これが神を信じない者の姿です。彼らに取ってこの世がすべてです。地上にいる間に、楽しめる限り楽しもうというのです。死者の復活、永遠の命は、彼らにとっては単なる神話に過ぎないのです。お伽噺なのです。しかし、信仰に生きる者にとってはこの希望があるからこそ、艱難辛苦に耐えることが出来るのです。キリストの十字架上での死と、復活、初臨。再臨への希望。これが永遠の命の証なのです。主は今もわれらと共に生きておらます。
 これから後半(15~25節)に入ります。後半では具体的にユダの指導者(シェブナとエルヤキム)を取り上げ、その政策と指導について主の言葉を伝えます。シェブナもエルヤキムもユダの王ヒデキヤの下で働く宮内庁の議官でした。シェブナはその権力を利用して高いところに墓を造り、豪華な建物に住んでいました。しかし主のもと、へりくだる心に欠いていました。それゆえ、主の怒りを買い、その職を解かれたのです。反面。エルヤキムは主がシェブナの職を彼に継がしたように、主に対して敬虔で忠実なしもべでした。かくして、彼はエルサレムの民と、ユダの家との父となったのです(22:22B)」。権力の上にあぐらをかき、権力を個人的欲望のために使用したシェブナは、さばかれ、主に対して敬虔に、忠実に生きたエルヤキムは、主の守りと祝福を受けたのです。  主はイスラエルのことを「確かな場所に打ち込まれた釘」とのべています。契約の民を指しています。その民がキリストを認めなかったのです。それゆえ、彼らは神によって抜き取られ折られてしまったのです。旧約聖書ではイスラエルと神の間には和解は成立していません。和解はキリストの出現(新約聖書)まで待たねばならないのです
>令和4年12月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会