書簡集5 エペソ人への手紙 (獄中書簡)教会はキリストのからだなり
はじめに
「エペソ人への手紙」は、AD62年ごろ、ローマの獄中(3;1,4:1,6:20)で使徒パウロが小アジアのキリスト者の共同体(エペソの教会)にあてて書かれたものだという。パウロはエペソに3年間滞在し、聖徒たちに説教し、教えた。この書簡が書かれたのはパウロがエペソの指導者とミレトスで分かれて4年後ということである。この時パウロは異邦人伝道ゆえに捕らえられ、ローマにいた。比較的緩やかな軟禁状態にあり、「こうしてパウロは満2年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人をみな迎えて大胆に少しも妨げられなく、神の国を宣べ、伝え、主イエスのことを教えた(使徒の教え28:30)」。このようにパウロは比較的自由な生活が保障されていた中で「エペソ人への手紙」を書いたとされている。
「神のみ心によるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安があなたがたの上にありますように(1:1~2)」。ここから「エペソ人への手紙」は始まる。
エペソ人への手紙は異邦人の国に広がる偽使徒や、ユダヤ教徒などに対し、信仰の義を前に押し出して、特定の問題等に対して書かれたというよりも、作者パウロ自身のエペソ人に対する深い愛情を表明したものとされている。勿論、彼らがキリストの教えに従って生きることを望んでいないわけではないが、これまでの書簡集(ローマ、コリント、ガラテヤの各書簡書)と違ってパウロの救済の思想が描かれているというよりも、むしろ救いと教会との関係が描かれている。ここにこの書の特徴を見ることができる。
教会とは
パウロが創始した最大の教会の一つがエペソの教会である。パウロはエペソに3年間滞在し、この地の聖徒たちに説教をし、教えた。エペソの手紙は励ましの手紙である。パウロはこの手紙の中で教会とは何かを語り、教会の性質とその存在意義を説明し、その構造(肉的、霊的)を語った。イエス・キリストの教会とは、イエスを愛しイエスに仕えようと決意したあらゆる人種や国籍の人々の集まる聖なる共同体である。「そして神様は一切のものをキリストの足元に従わせ、一切のものの上に立つ頭(かしら)であるキリスト・イエスを教会にお与えになった。教会はキリストのからだであり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところです(1:22~23)」。まさに神のみ心を知るために、また、その御心を世界に広めるために神によって造られた場所(拠点)が神の教会である。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国民でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族(教会の一員)なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、イエスご自身がその礎石です。この方にあって組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたも共に建てられる御霊によって、神の住まい(教会)となるのです(2:19~22)」。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだ(教会)に連なり、ともに約束にあずかるものとなることです(3:6)」。「これは今、天にある支配と権威に対して、教会を通して神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠なるご計画によることです(3:10~11)」。「むしろ愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、頭(かしら)なるキリストに達することができるためです。キリストによってからだ全体(教会)は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して(教会が)愛のうちに建てられるのです(4:15~16)」。
5章後半(5:22~33)から6章前半(6:1~9)にかけては教会と家族についての勧め(教会と夫婦、両親と子供、主人と奴隷)が語られる。
1.キリストは教会の頭であったように(5:22~)
2.教会がキリストに従うように(5:24~)
3.キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように(5:25~)
家庭の頭である夫に妻は従えと、パウロは言う。
勿論、従うということは、イエスの十字架での贖罪が我々罪びとに対する愛であったように 夫と妻は愛をもって結ばれなければならない。夫は自分のすべてを妻に捧げ、妻は喜んでこれに従う。家庭における夫と妻との役割の重要性がここで語られている。この関係は両親と子供、主人と奴隷との関係にまで広げられている。6章の後半(6:10~24)では教会は自分を滅ぼそうとして攻撃を仕掛けてくるサタンとその手下たちに対して武装してこれに立ち向かえとパウロは命令する。教会は信仰の場であると同時に、サタンに対する防御かつ攻撃の場でもある。我々は教会によってすべての敵(内と外)から守られている。
>あらすじ
エペソ書は、まず初めに神のご計画から始まる。神はイスラエルの民に「汝らを諸国民の王とする」と語っている。ここから異邦人伝道が始まる。神を知らぬ異邦人は、この伝道によって選ばれた民となる。このように民が神を選んだのではなく、神が民を選んだのである。それゆえに、彼らは必ずしも神に従順ではなかった。道に迷い、闇の中を歩んでいた。しかし、神は選ばれた民のうちに聖霊を宿しているのを見て取っていた。その聖霊は明らかにされねばならなかった。神の恵みこそ、人を変えていく神の力である。律法とか義務とかでは人を変えることは出来ない。ただ神の恵みがそうするのである。パウロはエペソの聖徒たちに「私たちの父なる神と、主イエスキリストから」そうした「恵み」が注がれますようにと祝福のあいさつを送っている(1:2参照)。
使徒パウロが「エペソ人への手紙」を書いた目的の一つは、すでに立ち上げられていた教会を、さらに強めることにあった。イスラエル人と異邦人との間に存在するすべての隔ての壁(律法主義、選民意識と差別意識)を打ち壊し、平和を実現し、キリストにあってすべてが一つになり、異邦人とキリスト者の一致という神のご計画=夢を実現することにあった。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかるものとなるのです」このように神のご計画は壮大で、その福音宣教の幅をイスラエルから世界へと広げていくのである。しかし、そのためには選民として選ばれた異邦人は、新しく作り替えられねばならなかった。パウロはエペソの聖徒に言う「イスラエル人も異邦人もキリストにあって神に近づけ」、「神を知るために、召しにふさわしく歩め」と。そして言う「どうか、私たちの主イエス、キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示と御霊をあなたがたに与えてくださいますように(1:17)」と、パウロは祈る。この後、パウロは5章と6章の前半にかけて教会と夫婦の関係、親子の関係、さらに主人と奴隷の関係を取り上げ、そのより良いかかわりを築くことこそが神を喜ばすことになるのだと強調する。そしてこのすばらしい教会をサタンの攻撃から守るために、神の武具で武装せよと命じる。これ以上は「教会」の項で述べたので省略する。そして最後に「どうか、父なる神と主イエス・キリストから平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちにありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって、愛する人々の上に恵みがありますように(6:23~24)」と、この書簡を結んでいる。
">>この書簡の作者:使徒パウロ(これにつては疑義もあるが、専門的になるので指摘するにとどめる)。
>書かれた年代:西暦60年ごろ。ローマに収監されていた時。
この書簡は果たして獄中書簡か:
この書簡は一般的には獄中書簡と言われているが「使徒の働き」によると「私たち(作者ルカとその仲間)がローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された(使徒の働き28:16)」「自費で借りた家に住み(使徒20:30)」とパウロが牢に繋がれていたという記述はない。軟禁されてはいても行動のある程度の自由は保障されていたようである。「エペソ人への手紙」はこのような状況下で書かれたのであろう。しかし、「エペソ人の手紙」の中には「鎖に繋がれていても(6:20)」という表現は存在する。これは「捕らわれの身」の象徴的表現なのであろうか。聖書にはこのような食い違いは随所に存在する。しかし、書かれた場所も、時代も、さらに書いた人も違っているのだから仕方がないのかもしれない。しかし、聖書は神からの啓示の書であるという観点からみると、ちょっとお粗末である(冗談)。
「使徒の働き」:作者はルカ。パウロの書簡集を読む場合、この書を読むことは必須である。特に後半部分はパウロの回心とその後の異邦人伝道について詳しく述べられている。イエス・キリストの死後、パウロ等の働きによってキリスト教が世界各地に伝わっていく経過がこの書には描かれている。
はじめに
「エペソ人への手紙」は、AD62年ごろ、ローマの獄中(3;1,4:1,6:20)で使徒パウロが小アジアのキリスト者の共同体(エペソの教会)にあてて書かれたものだという。パウロはエペソに3年間滞在し、聖徒たちに説教し、教えた。この書簡が書かれたのはパウロがエペソの指導者とミレトスで分かれて4年後ということである。この時パウロは異邦人伝道ゆえに捕らえられ、ローマにいた。比較的緩やかな軟禁状態にあり、「こうしてパウロは満2年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人をみな迎えて大胆に少しも妨げられなく、神の国を宣べ、伝え、主イエスのことを教えた(使徒の教え28:30)」。このようにパウロは比較的自由な生活が保障されていた中で「エペソ人への手紙」を書いたとされている。
「神のみ心によるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安があなたがたの上にありますように(1:1~2)」。ここから「エペソ人への手紙」は始まる。
エペソ人への手紙は異邦人の国に広がる偽使徒や、ユダヤ教徒などに対し、信仰の義を前に押し出して、特定の問題等に対して書かれたというよりも、作者パウロ自身のエペソ人に対する深い愛情を表明したものとされている。勿論、彼らがキリストの教えに従って生きることを望んでいないわけではないが、これまでの書簡集(ローマ、コリント、ガラテヤの各書簡書)と違ってパウロの救済の思想が描かれているというよりも、むしろ救いと教会との関係が描かれている。ここにこの書の特徴を見ることができる。
教会とは
パウロが創始した最大の教会の一つがエペソの教会である。パウロはエペソに3年間滞在し、この地の聖徒たちに説教をし、教えた。エペソの手紙は励ましの手紙である。パウロはこの手紙の中で教会とは何かを語り、教会の性質とその存在意義を説明し、その構造(肉的、霊的)を語った。イエス・キリストの教会とは、イエスを愛しイエスに仕えようと決意したあらゆる人種や国籍の人々の集まる聖なる共同体である。「そして神様は一切のものをキリストの足元に従わせ、一切のものの上に立つ頭(かしら)であるキリスト・イエスを教会にお与えになった。教会はキリストのからだであり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところです(1:22~23)」。まさに神のみ心を知るために、また、その御心を世界に広めるために神によって造られた場所(拠点)が神の教会である。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国民でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族(教会の一員)なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、イエスご自身がその礎石です。この方にあって組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたも共に建てられる御霊によって、神の住まい(教会)となるのです(2:19~22)」。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだ(教会)に連なり、ともに約束にあずかるものとなることです(3:6)」。「これは今、天にある支配と権威に対して、教会を通して神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠なるご計画によることです(3:10~11)」。「むしろ愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、頭(かしら)なるキリストに達することができるためです。キリストによってからだ全体(教会)は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して(教会が)愛のうちに建てられるのです(4:15~16)」。
5章後半(5:22~33)から6章前半(6:1~9)にかけては教会と家族についての勧め(教会と夫婦、両親と子供、主人と奴隷)が語られる。
1.キリストは教会の頭であったように(5:22~)
2.教会がキリストに従うように(5:24~)
3.キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように(5:25~)
家庭の頭である夫に妻は従えと、パウロは言う。
勿論、従うということは、イエスの十字架での贖罪が我々罪びとに対する愛であったように 夫と妻は愛をもって結ばれなければならない。夫は自分のすべてを妻に捧げ、妻は喜んでこれに従う。家庭における夫と妻との役割の重要性がここで語られている。この関係は両親と子供、主人と奴隷との関係にまで広げられている。6章の後半(6:10~24)では教会は自分を滅ぼそうとして攻撃を仕掛けてくるサタンとその手下たちに対して武装してこれに立ち向かえとパウロは命令する。教会は信仰の場であると同時に、サタンに対する防御かつ攻撃の場でもある。我々は教会によってすべての敵(内と外)から守られている。
>あらすじ
エペソ書は、まず初めに神のご計画から始まる。神はイスラエルの民に「汝らを諸国民の王とする」と語っている。ここから異邦人伝道が始まる。神を知らぬ異邦人は、この伝道によって選ばれた民となる。このように民が神を選んだのではなく、神が民を選んだのである。それゆえに、彼らは必ずしも神に従順ではなかった。道に迷い、闇の中を歩んでいた。しかし、神は選ばれた民のうちに聖霊を宿しているのを見て取っていた。その聖霊は明らかにされねばならなかった。神の恵みこそ、人を変えていく神の力である。律法とか義務とかでは人を変えることは出来ない。ただ神の恵みがそうするのである。パウロはエペソの聖徒たちに「私たちの父なる神と、主イエスキリストから」そうした「恵み」が注がれますようにと祝福のあいさつを送っている(1:2参照)。
使徒パウロが「エペソ人への手紙」を書いた目的の一つは、すでに立ち上げられていた教会を、さらに強めることにあった。イスラエル人と異邦人との間に存在するすべての隔ての壁(律法主義、選民意識と差別意識)を打ち壊し、平和を実現し、キリストにあってすべてが一つになり、異邦人とキリスト者の一致という神のご計画=夢を実現することにあった。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかるものとなるのです」このように神のご計画は壮大で、その福音宣教の幅をイスラエルから世界へと広げていくのである。しかし、そのためには選民として選ばれた異邦人は、新しく作り替えられねばならなかった。パウロはエペソの聖徒に言う「イスラエル人も異邦人もキリストにあって神に近づけ」、「神を知るために、召しにふさわしく歩め」と。そして言う「どうか、私たちの主イエス、キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示と御霊をあなたがたに与えてくださいますように(1:17)」と、パウロは祈る。この後、パウロは5章と6章の前半にかけて教会と夫婦の関係、親子の関係、さらに主人と奴隷の関係を取り上げ、そのより良いかかわりを築くことこそが神を喜ばすことになるのだと強調する。そしてこのすばらしい教会をサタンの攻撃から守るために、神の武具で武装せよと命じる。これ以上は「教会」の項で述べたので省略する。そして最後に「どうか、父なる神と主イエス・キリストから平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちにありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって、愛する人々の上に恵みがありますように(6:23~24)」と、この書簡を結んでいる。
">>この書簡の作者:使徒パウロ(これにつては疑義もあるが、専門的になるので指摘するにとどめる)。
>書かれた年代:西暦60年ごろ。ローマに収監されていた時。
この書簡は果たして獄中書簡か:
この書簡は一般的には獄中書簡と言われているが「使徒の働き」によると「私たち(作者ルカとその仲間)がローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された(使徒の働き28:16)」「自費で借りた家に住み(使徒20:30)」とパウロが牢に繋がれていたという記述はない。軟禁されてはいても行動のある程度の自由は保障されていたようである。「エペソ人への手紙」はこのような状況下で書かれたのであろう。しかし、「エペソ人の手紙」の中には「鎖に繋がれていても(6:20)」という表現は存在する。これは「捕らわれの身」の象徴的表現なのであろうか。聖書にはこのような食い違いは随所に存在する。しかし、書かれた場所も、時代も、さらに書いた人も違っているのだから仕方がないのかもしれない。しかし、聖書は神からの啓示の書であるという観点からみると、ちょっとお粗末である(冗談)。
「使徒の働き」:作者はルカ。パウロの書簡集を読む場合、この書を読むことは必須である。特に後半部分はパウロの回心とその後の異邦人伝道について詳しく述べられている。イエス・キリストの死後、パウロ等の働きによってキリスト教が世界各地に伝わっていく経過がこの書には描かれている。
令和元年7月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会