日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

第141回芥川賞受賞作品「終の住処」磯崎憲一郎作

2009年10月28日 | Weblog
 人が生存していく上で重要なものには人間関係(男女関係、夫婦関係、親子関係、友情関係)とその関係を成立させる生活環境(仕事、家)がある。これが社会環境である。これに時間=歴史を絡めた時、人生が生まれる。
 この作品には一人の人間の人生が描かれている。生まれ、育ち、就職し、恋愛し、結婚し、不倫をし、子をもうけ、家を建て、子を育て、子の親離れの結果、夫婦二人だけになり「終の住処」で一生を送るであろうという、いろいろとバリエーションはあるにしても、誰もが経験する人生である。そこには人生の悲哀、寂しさ、気だるさ、喜びがある。
 炎ように燃え上がった恋は当の昔に過去になった男女が、30を過ぎて結婚する。そこには昔体験したような恋の炎もなければ、それに伴う情熱もない。30を過ぎて独身でいるのは世間的に見て格好が悪いと思ったからにすぎない。だから二人は結婚当初からその顔には、あきらめたような、疲れたような表情が見られたのである。恋愛とは情熱であり、結婚とは生活であるといわれている。だから、恋の炎に焼かれどうにもならなくなって結婚するのが最善のようである。それがないといろいろ考えた挙句、晩婚、非婚になってしまう。
 この作品の主人公は、そんな男である。製薬会社に勤め、結婚後、不倫を繰り返していたが、そのうちに本気で一人の女性を好きになり、妻との離婚を考え、それを妻に告白しようとした矢先に、妻の妊娠を知る。男は愕然とする。しかしそれでもはとは考えない。妻との離婚を諦め、女とは別れる。仕事も落ち着き、娘も生まれる。一つの区切りとして家を建てることにする。当然安サラリーマンの淋しさローンを組む。これまでのように不倫を繰り返しているわけにいかない。仕事に精を出す。こんな時、彼の関心は、妻にではなく、娘に移っていた。女房は可愛くなくとも、子は可愛いという。妻との間に緊張関係があり、11年もの間、口を聞かないという生活が続いた。娘は妻との間の接着剤の役割を果たしてくれた。仕事に精出した結果、組織上営業の前線を離れ、一段上の地位に就く。米国の製薬会社の買収の話が出て彼がその交渉役となる。アメリカに単身赴任する。その日、妻と娘が見送りに来る。娘はすでに妻と同じ背丈になっていた。男はそこに時間の経過を感じる。交渉は難航する。男は交渉役を辞退したいと会社に申し出るが、首にされてもよいのかと脅かされ、いろいろと苦労した結果、何とか話をまとめる。そして帰国する。金木犀の木が見上げるようになっていた以外は、何も変わっていなかった。しかし何かが足りなかった。最愛の娘がいなかった。男は妻に尋ねる。「去年からアメリカに行っているのよ」。娘はとうの昔に親離れをして、親のもとを去っていたのである。残されたのは、古女房と、これからも住み続ける「終の住処」だけだった。彼は妻を抱きしめ、その顔を見つめる。そこには疲れたような、諦めたような、結婚当初にも見せた表情があった。そこには時間の過ぎていくことの残酷さ、寂しさ、悲しさ、あきらめ、疲れ、喜び、いやし、等々がある。そして彼ら夫婦は、二度と戻ることのない時間の中で、翻弄されながらも、一緒に過ごした時間の重さ故に理解し合っていく。そこには愛とか憎しみとかを超えた、まったく異なった生活の重さがある。
 これが普通の人間の人生である。生まれ、育ち、子を産んで死んでいく。人は様々なバリエーションを包含しながらも一定の道に従って歩んでいく。これを誰も止めることはできない。人は自分の死に臨んでその可能性と、限界を自覚する。人生とは何であろうか?人生は自分の意志というより何か別のものの意志によって動かされている。人は何のために生きるのか?この問いにはっきりと答えることのできるものはいるであろうか?そこに宗教が出現する。宗教では人は神の敷いた道を歩んでいるのだという。神の意志を実現するために生きているのだという。では神の意志とは何か?そんなことは誰もわからない。神とは我々人間とは全く異次元の世界に住む存在であり、不可知である。だからその存在を云々するのは傲慢であり不遜である。神の意志は善であり、その意志に従うのが最善の道であると信じることである。そして懸命に生きることである。抵抗は無駄であり、結局はその敷かれた道に沿って歩んでいるにすぎない。しかし人はそれを知らない。だから思い悩む。だから面白い。だから彼ら夫婦は結婚当初は、予感として、人生の終章を迎えては、確信として疲れたような,あきらめたような表情を見せたのである。

  磯崎憲一郎作「終の住処」雑誌 文芸春秋9月特別号 文芸春秋社刊
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