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ホセヤ書 罪と裁きと回復

2017年10月15日 | Weblog
   ホセヤ書 罪と裁きと回復

 はじめに
 ホセヤ書は12ある小預言書の一つである。預言書には大預言書と小預言書の二つがあり大預言書はイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書を三大預言書と呼び、これに「哀歌」とダニエル書を付加する聖職者もいる。小預言書は12書あり、ホセヤ書、ヨエル書、アモス書、オベデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書である。大預言書に比べて量が少ないのでこう呼ばれる。内容が劣っているわけではない。ホセヤの名前の由来はヨシュヤ(ヨセフ)、イエシュア(イエス)と同じ「主は救う」という意味である。(古代イスラエルにおいては名前にはその意味が与えられている)。ホセヤ書は捕囚期以前の預言書といわれており、他の預言書と同じくそのテーマは罪と裁きと回復である。
 ホセヤは前8世紀の後半にイスラエル王国(北)ヤロブアム2世の時代に活躍した預言者で、神=主への信仰の伝統に立って、民間に流布するバアル神への信仰を糾弾した。また外交面では、アッシリアないしは、エジプトへの依存政策を批判し、神に立ち返れと告げ、内政面では、バアル信仰に立つイスラエルの王制を批判した。
 この時代、イスラエルは南北に分裂(南ユダ、北イスラエル)していたが北イスラエルのヤロブアム2世の時代は、その物質的繁栄は極限にまで達しており、ダビデ、ソロモンの時代を凌ぐ勢いであった。そしてその繁栄は神のみ業であるにも拘らず、王も民も自らの力を誇り高慢となって神を忘れた。しかしヤロブアムの治世の末期には、その政権は、ようよう滅びに向かい、王の死後、シリア・エフライム戦争、王の暗殺、王権の簒奪と王国は混乱し、弱体化していく。他方アッシリアは力を増しイスラエルに圧力をかけ始める。アッシリアの属国となり、貢納と重税に苦しむイスラエルの民はその窮状から逃れるために、真の神を忘れ、バアル神信仰(偶像礼拝)に陥って行く。陥って行くというよりもイスラエル王国も、アッシリア帝国も偶像礼拝を勧めていたので、イスラエルの民は叫ぶ「私は恋人たちの後を追う彼らは私たちにパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる(2:5)」と。このように、一般の民衆にとって、真なる神もバアルの神もいずれであっても自分の生活を保障し守って、その欲望さえ満たしてくれればそれで充分だったのである。そこにあるのは生活の問題であって、信仰の問題では無かったのである。衣食足って礼節を知るである。そして紀元前722年サマリヤ(北イスラエルの首都)はアッシリアによって滅ぼされる。これは神の裁きだったのである。
 このような時代に生きたホセヤは預言する。「神にそむき続けるなら、イスラエルは滅亡する。神は反逆者イスラエルを見捨てる事はない。愛し続けるのである」と。
 しかし、神は無条件に恵みを与えるのではない。エフライム(北イスラエル)が悔い改め、主に立ち返った時(14:3)、主は言う「わたしは彼らの背信を癒し、喜んでこれを愛する。私の怒りは彼らを離れ去ったからだ(14:4)「エフライムよ、もうわたしは偶像とは何のかかわりもない」「わたしが答え、わたしが世話をする。わたしはもみの木のようだ。あなたは、わたしから実を得るのだ(14:8)」と。
今まで述べて来たように、主はイスラエルの背信の罪を糾弾しその罪を裁き、最終的には回復の預言をするのである。その彼方に千年王国を見ている。
 ホセヤはこの神の愛を彼の家族の崩壊と再婚(回復)を通して学び取るのである。

  ホセヤ書の構成
 1,ホセヤの結婚とその意味(1~3章)
 2.イスラエルの罪と罰(4~14章1節)
 3.回復と救済(14章2節~9節)

 1、ホセヤの結婚とその意味(1~3章)
 ホセヤに対して主から次のような召命が下る。「行って姦淫の女(ゴメル)をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨ててはなはだしい淫行にふけっているからだ」(1:2)と。神からの召命とは、ある使命を果たす為に預言者や祭司たち聖職者に下る神からの啓示である。「この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ」。この言葉は、これから述べるホセヤ書の根幹を成している。淫行とは偶像礼拝のことである。神を忘れ、バアル神を信仰するイスラエルの民を、姦淫の女ゴメルによって象徴しているのである。結婚後ゴメルは3人の子を成す。結婚によってゴメルの生活を正常に戻すという事は、バアル神信仰に犯されたイスラエルの民を偶像礼拝から解放し神のもとに立ち返らせることを意味している。しかし、ゴメルとの結婚生活は思惑どおり行かず、失踪あり、姦淫あり、別居ありと多難を極める。ホセヤは離婚に踏み切るが、またまた神から召命があり、だまされて奴隷に売られたゴメルと再婚せよという。ホセヤは大きな代償を支払って彼女を買い取る。そして再婚する。姦淫を繰り返さないことを確約するが、約束とはあくまでも約束であって、その後のことは分からない。この過程はバアル信仰に犯されたイスラエルの民にも適用できる。契約によって深く結び付いているはずの神とイスラエルの民の関係も多難を極める。バアル信仰は生活に結びついた土着の信仰ゆえに神への立ち返りは難しい。しかし、バアル神は最終的にはイスラエルを救えない。
 それではホセヤとゴメルの3人の子供はどうなったのか。
 長子の名はイズレエル(種子を蒔く、の意)
 2子は、女子でその名はロー・ルハマー(愛されない者)
 3子は、男子でその名はロー・アンミー(私の民では無い)
   ローは強い否定語。次に来る語を否定する。
 いずれも神が名付け親であり、その由来を次のように言う。「あなた方は、わたしの民で無く、わたしはあなたがたの神ではないからだ(1:9後半)」と。彼らは母親のゴメルを含め異邦人であり、愛されない者ということは異教徒(バアル神信者)であることを示している。しかし、この異邦人かつ異教徒が将来において、自分の神を捨て、真の神に目覚めた時イズレエルの日は大いなるものになり、
 ロー・ルハマー(愛されない者)は、ルハマー(愛される者)になり、
 ロー・アンミー(わたしの民で無いもの)は、アンミー(私の民)になり
 イズレエルは(わたしに向かって)「あなたはわたしの神」と言おう。
 これは姦淫を犯したものが目覚め、正しい妻となった時(神を信じた時)神が与える恵みの預言である。この預言は未来完了形であり、神の預言は、その完全性から必ず実現することを現している。ローという否定語は取り去られる。
ここで述べられていることは、将来メシア王国(千年王国)において成就する回復の預言である。ユダとイスラエルの人々が「一人のかしら(1:11)、すなわちメシアによって一つに集められ、すべてが神の民になり、神に憐れまれぬ者は愛される者となる。

 2、イスラエルの罪と罰(4~13章) 
 4章から13章まではイスラエルの姦淫(偶像礼拝)の罪と、神による裁きが描かれている。その詳細は省略してキーワードのみを説明する。

 姦淫(偶像礼拝)
 姦淫とは正規の妻がいながら他の女性と関係を持つことを言う。これは、神との契約下にあるイスラエルが他の神を礼拝することを指している。イスラエルの場合、偶像礼拝とは豊饒をもたらすバアル神崇拝だけでなく、対外的には生存と防衛を保障する為に大国(エジプト、アッシリア)に拠り頼むことも指している。
ここにイスラエルの伝統がある。アブラハム以来、神によって与えられ引き継がれて来た伝統(神による選びと、神との契約)それは神の壮大な計画を現している。イスラエルから世界へ、艱難時代からメシア王国へ。この歩みを妨げるものは、徹底的に排除されねばならない。神による偶像崇拝に対する執拗なまでの攻撃は神の存亡をかけての戦いだったのである。だからイスラエルがどんなに神に逆らっても、これを罰しはしても、絶対に滅ぼしたりしないのである。神は悔い改めを要求する。お互いは相思相愛にならねばならない。ホセヤとゴメルのように。

 偽預言者
 預言者とは神から預けられた言葉を一般の民衆に伝える役割を持つ。ホセヤは神からの言葉をイスラエルの民に伝えた。預言者と偽預言者の差はその現状分析の違いにある。主観を大事にし、神の啓示を無視する。更に悔い改めが必要な時、悔い改めを求めないで神の恩恵だけを宣言する。ホセヤ書9章では偽預言者に対する神の怒りが描かれている。「イスラエルよ、知るがよい。預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ。これは、あなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである。エフライムの見張り人は、わたしの神と共にある。しかし預言者はすべての道にしかけるわなだ。彼の神の家には憎しみがある。彼らはギアブの日のように真底まで堕落した。主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する--------(9:7~17参照)」。本来預言者は神の言葉を忠実に表現して、これをイスラエルの民に伝えねばならない。それをしないで神の怒りを買っているのは彼が偽預言者の証拠である。艱難時代には民の心に心地よい預言をしてその関心を買う偽預言者が増えるのである。「私の神は彼(預言者)らを退ける、それは彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国の神のうちに、さすらい人となる(9:17)」。

 エジプト、アッシリア
 エフライムは自分の作り主を忘れ、その契約を忘れ、強大大国(エジプト、アッシリア)に頼り自国の独立を保とうとした。しかし人間の画策は、全て徒労に終わる。エフライムは、本来、主と共に歩むべきであったにもかかわらず自分勝手に歩むロバのようになった。結局アッシリアに滅ぼされる。それは主の裁きであった。

 荒 野
 「私は切にあなたを求めます」主ととの関わりを求めるとき、荒野はそれを可能にする。「荒野」とは神だけをあてにする世界であり、神から来る恩寵を味わう世界である。黙示録では、荒野はイスラエルの民の逃げ場になった。イエスは荒野でサタンの試練を受けた。出エジプトではイスラエルの民はカナンにはいる前40年間、荒野で待機した。

 3、回復と救済(14:1~14 ) 
 神はエフライムを許すために立ち帰りの勧告をした(14:1~4)それは強国に頼るな、軍事力に頼るな、偶像に頼るな、であった。それは全て人間の創造物であった。その上で赦しと癒しの約束をする(14:5~10)。「わたしは彼の背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ」。このようにして神の民は復活する。その彼方にメシア王国がある。
平成29年10月10日(火)報告者守武 戢 楽庵会