この作品は、在日中国人作家=楊逸(ヤン・イー)氏によって書かれたものであり、1989年6月4日に起こった『天安門事件』を題材にしている。そこで中国の民主化、自由化、合理化を求めて戦った学生、知識人の群像が描かれ、武力弾圧に会った彼らの挫折と絶望、その後の人生が描かれている。しかし、そこには社会主義とは何か、人間の解放を宣言した社会主義国で何故このような無法がまかり通るのか?という根源的な問いかけはない。社会主義の本源的な矛盾なのか?中国社会主義の個別の矛盾なのか?その問いもない。更にこの事件後、挫折し絶望した人々は国と個人の矛盾に目を向けることなく、小市民的生活の中に埋没していく。人間の自由や希望、願いを抹殺し、小市民的生活の中に埋没せざるを得なくする中国社会主義の不条理さ、無慈悲さに対する問いかけもない。
この事件に溯る1986年にはソ連ではゴルバチョフによるペレストロイカが始められており、更に1991年にはエリツィンによるソ連邦の解体=ソ連社会主義の解体が行われている。中国政府の危機感の表れが『天安門事件』であったといえるであろう。中国政府の中にも民主化に理解を示すものもいたのである。
この作品を読んで思い出すのは『60年安保』事件である。既に45年の歳月が経ち風化した感があるが、僕にとっては直接に関与したものとして決して風化しえない事件である。それ故この作品を興味深く読ましてもらった。
僕が大学に入った年は60年安保のの時代、前年には『砂川闘争』があった。まさに動乱の時代であった。大学に行っているのか、デモに行っているのか判らない日々が続いた。東大生の樺美智子が死んだ6月15日、安保が自然成立した6月19日。この両日を忘れる事は出来ない。当時の首相=岸信介は「国会の周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつもの通りである。私には『声なき声が聞こえる』」とうそぶき、6月15日と19日の両日に当時の防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安維持出動を要請した。しかし赤城はこれを拒否する。もしこれが行われていたらと思うとゾットする。
1951年に(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和35年)頃から自由民主党の岸内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月、岸以下全権団が訪米、米大統領ドワイト・E・アイゼンハワーと会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日(中止になる)、で合意。6月19日に新条約が調印された。
新安保条約は、①内乱に関する条項の削除、②日米共同防衛の明文化(日本を米軍が守る代わりに、在日米軍の攻撃に対しても、自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)、③在日米軍の配置装備に対する両国政府の事前協議の設置など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供する条約から、日米共同防衛を義務付けた、より平等な条約に改正するものであった。しかし、新条約の承認をめぐる国会審議が始まると、社会党、共産党を始めとする革新陣営は『日本が戦争に巻き込まれる危険が増す』と、これに猛烈に反対した。学生、市民もこれを支持した。連日の激しい抗議デモ、ハガティー事件のは発生などにより、政府は来日するアイゼンハワーの安全を保障する自信を失い、訪日を無期延期とし、事実上の中止となった。60年安保闘争は空前の盛り上がりを見せたが、6月19日の自然成立によって収束した。しかし岸内閣は混乱の責任を取って6月23日総辞職する。その後を受けて池田勇人内閣が成立し、1960年の10月の総選挙に勝利した。安保条約の改定は国民の支持を得たのである。池田内閣による『所得倍増計画』はその後の経済成長に繋がりアメリカの核の傘のもと軍事費の負担をせずに成長を促したものとして、これを評価するものもいる。
いずれにしても安保闘争は革新陣営の敗北に終わった。連日のデモに加わり、集会に参加したわれわれの敗北感、挫折感、絶望感は大きかった。国会を取り巻いた大群衆、何かが起こると思った。希望があり、期待があった。東大生樺美智子は死んでいったけれど、その屍の上に何かが起こると思っていた。しかし何も起こらなかった。ロシア語を学ぶ仲間と腕を組み、国際学連の歌を歌い、インターナショナルを歌った。芸術論や、文学論や政治論を戦わした。夢を語り、希望を語った。そこには連帯感があった。同志的結合があった。そんな連帯感の中から、恋も生まれた。『時が滲む朝』でも実は結ばなかったが、謝志強と白英露の恋が描かれている。敗北は僕(僕らか?)の心にぽっかりと穴をあけた。
6月15日(樺美智子の死んだ日)、国会議事堂の正門前で、われわれは機動隊と対峙した。当時最鋭部隊といわれた第8機動隊である。それが無表情で立ち並んでいる。剣道何段、柔道何段という、われわれの2倍もあると思われる鍛えられた身体を乱闘服に身を包み、頭にはフルフェイスのヘルメット、手甲脚絆、手には長い警棒、ジュラルミンの盾、靴は1トンの重さにも耐えれる強靭なもの、まさに完全武装である。それに対してわれわれはナッパ服に、ズック靴、よれよれの帽子、到底、機動隊と対峙できる格好ではない。機動隊に対して後ろから石が投げられる。われわれにも当たる。止めてくれと叫ぶ。議事堂の中に入ろうとデモ隊は後ろから押してくる。それはならじと機動隊も押し返す。真ん中にいるわれわれの苦しさは、例えようもない。非力なわれわれは結局は押し返されて、なだれをうって総退却、総崩れである。喧嘩の専門家に適うわけがない。逃げるわれわれを機動隊は追ってくる。彼らはわれわれに対して情け容赦をしない。靴で蹴飛ばすは、警棒で殴るは、盾で突き飛ばし、倒れたわれわれを、叩きのめす。メタメタにやられてしまう。抵抗すれば公務執行妨害、棒でも持とうものなら、凶器準備集合罪で逮捕される。結局逃げる以外にない。逃げ出したわれわれは国会の外にたむろする。バリケード代わりの装甲車に火をつけて気勢をあげる。散水車から放水される。われわれは水浸しになる。またまた機動隊が出動する。何人死んだ、何人死んだという流言飛語が飛ぶ。このとき死者こそでなかったが、重傷者が出たし、逮捕者も数知れずであった。われわれは朝日新聞社の構内に逃げ込む。警備員は出てくれとは云うものの疲れきったわれわを見て何も言わなくなる。
『天安門事件』もこんなものだったのではなかろうか?この時解放軍はデモ隊に対し発砲している。何千人という群集が虐殺されている。
安保の敗北後、われわれはしばらくは立ち上がれなかった。そしてこの敗北の原因の一つに我々の勉強不足があると認識し、『社会科学研究会』を立ち上げた。露文化の学生を中心に会は運営された。マルクスの基本文献の読書会から始められた。そこで僕は始めてマルクス主義を学んだ。そこで僕は社会、政治、経済、文化に渡るグローバルな人間解放の世界観に接して、これこそ自分の進むべき道を照らすものと確信した。それはひとつの喜びであった。そこには知的な探究心があった。猛烈に勉強した。マルクスの基本文献は全て読破してやろうと決心した。
『時を滲む朝』の中でも、主人公の梁浩遠と謝志強の二人は憧れの秦漢大学に入学し、そこで中国政府によって説かれている公式見解とは異なる考え方に接する。革命歌しか知らなかった彼らは、テレサテンや、尾崎豊の歌や台湾、香港のいわゆる中国政府の言う『資本主義の害毒』に侵された歌に接して感動する。そこには人間があった。人生の喜びや悲しみがあった。革命歌にはないものがあった。アメリカに留学を志して勉強している馬大材先輩の話を聞き、アメリカに対する考え方を新たにする。アメリカは中国政府の言うように帝国主義侵略を行う悪の権化かもしれない。しかしアメリカは良いもの、悪いもの併せ呑んで、なおかつ清い、懐の深い偉大なる大国である。そこには異なった意見を認める民主主義があり、自由がある。高度に進んだ技術国家であり、文化国家である。一つの偏狭な考え方を押し付け、他を認めない中国にはないものがある。
ひとつの考え方の押し付けの典型的なものに毛沢東によって推し進められた『文化大革命』がある。この運動によって中国のその後の発展は20年も遅れたという。
この運動の基礎には物を生む労働のみが生産的とみなす、マルクス主義の基本的な考え方がある。そのため、知的労働を含むサービス労働は物を生まない不生産的労働とみなされ、物を作る生産的労働の生み出した剰余価値で生きる、いわゆる搾取階級とみなされ、労働者の敵とみなされたのである。それ故、知的労働者は農村に下放され、肉体労働に従事させられた。若者たちを中心にした『紅衛兵』が組織された。この運動によって多くの知的労働者が虐殺された。この考え方はカンボジヤのポルポト政権にも引き継がれ、ここでも多くの知的労働者は虐殺されている。
確かに知的労働は直接的には物は作らない。その限りにおいては不生産的である。しかしこの考え方の誤りは、知的労働は人間を作るという観点が忘れられていることである。今日のように高度技術社会になると生産的労働者は技術的に訓練されねばならない。知的労働者によって訓練された労働によって物の価値は高められる。その意味では生産的労働とみなされるのである。こんな常識的な事が硬直的な教条主義的な頭をもった一部のマルキストにはわからない。時代は変化する。その時代の変化に応じて考え方も変化しなければならない。それが弁証法である。『生産的労働の理論』はマルクス経済学では『剰余価値の理論』と並んで基本的理論の一つである。
文化大革命によってどんなに多くの科学技術や、すばらしい人間味豊かな作品が抹殺されていったことであろうか。
梁浩遠や謝志強を中心に文化サークルが作られる。文化だけでなく中国の抱えた様々な問題に関しても学習が行われる。自由とは何か、民主主義とは何か、中国に足りないものは何か?が討議された。サークルは一つの運動体になった。天安門で起ていることを知る。そこでは高級官僚の汚職や腐敗に怒りをぶつけ、自由や民主主義を要求した学生・市民がいた。彼らから梁浩遠たちのサークルに応援の要請がくる。梁浩遠たちは甘先生に率いられて北京の天安門まで2日間の旅をする。そこで彼らは全国から集まってきて天安門広場を埋め尽くした何万人という学生・市民にあう。そこで彼らとの連帯感を持つ。しかし大学に戻り数日後、『装甲部隊』が天安門に突入した,という報に接する。自由や、民主主義を要求し新しい中国を期待した学生・市民たちの夢は無残にも抹殺された。甘先生はアメリカに亡命し、梁浩遠、謝志強他の学生は退学処分となり、謝志強の恋した白英露は行方不明となる。これがこの物語の第一部である。
そして10年の歳月が流れる。大学を放逐された梁浩遠は退学した後、数年間を謝志強と共に地方で農民工として働く。そして中国残留孤児の2世=梅と結婚し訪日し、日本に定住する。中国民主同士会日本支部の幹事長になり北京市の第29回夏季オリンピック開催に反対し署名活動を行っている。実生活ではパソコンを学び、印刷工場の正社員になり実務家として活躍する。女房の梅は餃子屋の女主人となり、支店を持つまでになる。
謝志強は心の中に現実離れした気持ちを秘めながらも、結婚してデザイナーとして独立し、10数名のデザイナーを抱える経営者となる。行方不明だった白英露は、フランスで甘先生と会い、一緒になり、中国に帰る途中に日本に立ち寄り梁浩遠と会う。甘先生は中国の地方で小学校の先生になり子供たちを教えたいという。
それぞれが自立し、小市民的生活の中に安住していく。あるいは安住しようとしている。人間の切なる希望や、期待や夢を抹殺する中国政府を僕は憎む。
謝志強は云う。『何かの為にあんなにも我を忘れて、全身全霊、頑張った事はこれまでなかった。この後もないからだ。それだけは確かだ。それが何の為だったのかを考え始めると切なさが体の中から沸いてくる』。この想いは、梁浩遠にも、白英露にも、甘先生にも共通する気持ちであろう。
そして甘先生は白英露と共に中国へ帰っていく。『ふるさとって何』梁浩遠の息子民生は問う。『ふるさとはね、自分の生まれる、そして死ぬところです。お父さんやお母さんや兄弟のいる暖かい家ですよ』梁浩遠は答える。『じゃあたっくンのふるさとは日本だね』民生は云う。中国籍のままでいる梁浩遠は寂しく微笑む。父のふるさと中国は次代をになっていく民生にとっては決してふるさとではなかったのである。この言葉はこの物語の作者である楊逸の気持ちを代弁したものであり、中国政府に対する彼女自身の絶望感を現したものであろう。
社会主義社会の変貌と頽廃、それは社会主義者であり、マルキストを自認していた僕の心に深い絶望感と挫折感をもたらした。そして大きな転機となったのである。この僕自身の心の変遷についてはいつか述べる機会があると思う。
この事件に溯る1986年にはソ連ではゴルバチョフによるペレストロイカが始められており、更に1991年にはエリツィンによるソ連邦の解体=ソ連社会主義の解体が行われている。中国政府の危機感の表れが『天安門事件』であったといえるであろう。中国政府の中にも民主化に理解を示すものもいたのである。
この作品を読んで思い出すのは『60年安保』事件である。既に45年の歳月が経ち風化した感があるが、僕にとっては直接に関与したものとして決して風化しえない事件である。それ故この作品を興味深く読ましてもらった。
僕が大学に入った年は60年安保のの時代、前年には『砂川闘争』があった。まさに動乱の時代であった。大学に行っているのか、デモに行っているのか判らない日々が続いた。東大生の樺美智子が死んだ6月15日、安保が自然成立した6月19日。この両日を忘れる事は出来ない。当時の首相=岸信介は「国会の周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつもの通りである。私には『声なき声が聞こえる』」とうそぶき、6月15日と19日の両日に当時の防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安維持出動を要請した。しかし赤城はこれを拒否する。もしこれが行われていたらと思うとゾットする。
1951年に(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和35年)頃から自由民主党の岸内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月、岸以下全権団が訪米、米大統領ドワイト・E・アイゼンハワーと会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日(中止になる)、で合意。6月19日に新条約が調印された。
新安保条約は、①内乱に関する条項の削除、②日米共同防衛の明文化(日本を米軍が守る代わりに、在日米軍の攻撃に対しても、自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)、③在日米軍の配置装備に対する両国政府の事前協議の設置など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供する条約から、日米共同防衛を義務付けた、より平等な条約に改正するものであった。しかし、新条約の承認をめぐる国会審議が始まると、社会党、共産党を始めとする革新陣営は『日本が戦争に巻き込まれる危険が増す』と、これに猛烈に反対した。学生、市民もこれを支持した。連日の激しい抗議デモ、ハガティー事件のは発生などにより、政府は来日するアイゼンハワーの安全を保障する自信を失い、訪日を無期延期とし、事実上の中止となった。60年安保闘争は空前の盛り上がりを見せたが、6月19日の自然成立によって収束した。しかし岸内閣は混乱の責任を取って6月23日総辞職する。その後を受けて池田勇人内閣が成立し、1960年の10月の総選挙に勝利した。安保条約の改定は国民の支持を得たのである。池田内閣による『所得倍増計画』はその後の経済成長に繋がりアメリカの核の傘のもと軍事費の負担をせずに成長を促したものとして、これを評価するものもいる。
いずれにしても安保闘争は革新陣営の敗北に終わった。連日のデモに加わり、集会に参加したわれわれの敗北感、挫折感、絶望感は大きかった。国会を取り巻いた大群衆、何かが起こると思った。希望があり、期待があった。東大生樺美智子は死んでいったけれど、その屍の上に何かが起こると思っていた。しかし何も起こらなかった。ロシア語を学ぶ仲間と腕を組み、国際学連の歌を歌い、インターナショナルを歌った。芸術論や、文学論や政治論を戦わした。夢を語り、希望を語った。そこには連帯感があった。同志的結合があった。そんな連帯感の中から、恋も生まれた。『時が滲む朝』でも実は結ばなかったが、謝志強と白英露の恋が描かれている。敗北は僕(僕らか?)の心にぽっかりと穴をあけた。
6月15日(樺美智子の死んだ日)、国会議事堂の正門前で、われわれは機動隊と対峙した。当時最鋭部隊といわれた第8機動隊である。それが無表情で立ち並んでいる。剣道何段、柔道何段という、われわれの2倍もあると思われる鍛えられた身体を乱闘服に身を包み、頭にはフルフェイスのヘルメット、手甲脚絆、手には長い警棒、ジュラルミンの盾、靴は1トンの重さにも耐えれる強靭なもの、まさに完全武装である。それに対してわれわれはナッパ服に、ズック靴、よれよれの帽子、到底、機動隊と対峙できる格好ではない。機動隊に対して後ろから石が投げられる。われわれにも当たる。止めてくれと叫ぶ。議事堂の中に入ろうとデモ隊は後ろから押してくる。それはならじと機動隊も押し返す。真ん中にいるわれわれの苦しさは、例えようもない。非力なわれわれは結局は押し返されて、なだれをうって総退却、総崩れである。喧嘩の専門家に適うわけがない。逃げるわれわれを機動隊は追ってくる。彼らはわれわれに対して情け容赦をしない。靴で蹴飛ばすは、警棒で殴るは、盾で突き飛ばし、倒れたわれわれを、叩きのめす。メタメタにやられてしまう。抵抗すれば公務執行妨害、棒でも持とうものなら、凶器準備集合罪で逮捕される。結局逃げる以外にない。逃げ出したわれわれは国会の外にたむろする。バリケード代わりの装甲車に火をつけて気勢をあげる。散水車から放水される。われわれは水浸しになる。またまた機動隊が出動する。何人死んだ、何人死んだという流言飛語が飛ぶ。このとき死者こそでなかったが、重傷者が出たし、逮捕者も数知れずであった。われわれは朝日新聞社の構内に逃げ込む。警備員は出てくれとは云うものの疲れきったわれわを見て何も言わなくなる。
『天安門事件』もこんなものだったのではなかろうか?この時解放軍はデモ隊に対し発砲している。何千人という群集が虐殺されている。
安保の敗北後、われわれはしばらくは立ち上がれなかった。そしてこの敗北の原因の一つに我々の勉強不足があると認識し、『社会科学研究会』を立ち上げた。露文化の学生を中心に会は運営された。マルクスの基本文献の読書会から始められた。そこで僕は始めてマルクス主義を学んだ。そこで僕は社会、政治、経済、文化に渡るグローバルな人間解放の世界観に接して、これこそ自分の進むべき道を照らすものと確信した。それはひとつの喜びであった。そこには知的な探究心があった。猛烈に勉強した。マルクスの基本文献は全て読破してやろうと決心した。
『時を滲む朝』の中でも、主人公の梁浩遠と謝志強の二人は憧れの秦漢大学に入学し、そこで中国政府によって説かれている公式見解とは異なる考え方に接する。革命歌しか知らなかった彼らは、テレサテンや、尾崎豊の歌や台湾、香港のいわゆる中国政府の言う『資本主義の害毒』に侵された歌に接して感動する。そこには人間があった。人生の喜びや悲しみがあった。革命歌にはないものがあった。アメリカに留学を志して勉強している馬大材先輩の話を聞き、アメリカに対する考え方を新たにする。アメリカは中国政府の言うように帝国主義侵略を行う悪の権化かもしれない。しかしアメリカは良いもの、悪いもの併せ呑んで、なおかつ清い、懐の深い偉大なる大国である。そこには異なった意見を認める民主主義があり、自由がある。高度に進んだ技術国家であり、文化国家である。一つの偏狭な考え方を押し付け、他を認めない中国にはないものがある。
ひとつの考え方の押し付けの典型的なものに毛沢東によって推し進められた『文化大革命』がある。この運動によって中国のその後の発展は20年も遅れたという。
この運動の基礎には物を生む労働のみが生産的とみなす、マルクス主義の基本的な考え方がある。そのため、知的労働を含むサービス労働は物を生まない不生産的労働とみなされ、物を作る生産的労働の生み出した剰余価値で生きる、いわゆる搾取階級とみなされ、労働者の敵とみなされたのである。それ故、知的労働者は農村に下放され、肉体労働に従事させられた。若者たちを中心にした『紅衛兵』が組織された。この運動によって多くの知的労働者が虐殺された。この考え方はカンボジヤのポルポト政権にも引き継がれ、ここでも多くの知的労働者は虐殺されている。
確かに知的労働は直接的には物は作らない。その限りにおいては不生産的である。しかしこの考え方の誤りは、知的労働は人間を作るという観点が忘れられていることである。今日のように高度技術社会になると生産的労働者は技術的に訓練されねばならない。知的労働者によって訓練された労働によって物の価値は高められる。その意味では生産的労働とみなされるのである。こんな常識的な事が硬直的な教条主義的な頭をもった一部のマルキストにはわからない。時代は変化する。その時代の変化に応じて考え方も変化しなければならない。それが弁証法である。『生産的労働の理論』はマルクス経済学では『剰余価値の理論』と並んで基本的理論の一つである。
文化大革命によってどんなに多くの科学技術や、すばらしい人間味豊かな作品が抹殺されていったことであろうか。
梁浩遠や謝志強を中心に文化サークルが作られる。文化だけでなく中国の抱えた様々な問題に関しても学習が行われる。自由とは何か、民主主義とは何か、中国に足りないものは何か?が討議された。サークルは一つの運動体になった。天安門で起ていることを知る。そこでは高級官僚の汚職や腐敗に怒りをぶつけ、自由や民主主義を要求した学生・市民がいた。彼らから梁浩遠たちのサークルに応援の要請がくる。梁浩遠たちは甘先生に率いられて北京の天安門まで2日間の旅をする。そこで彼らは全国から集まってきて天安門広場を埋め尽くした何万人という学生・市民にあう。そこで彼らとの連帯感を持つ。しかし大学に戻り数日後、『装甲部隊』が天安門に突入した,という報に接する。自由や、民主主義を要求し新しい中国を期待した学生・市民たちの夢は無残にも抹殺された。甘先生はアメリカに亡命し、梁浩遠、謝志強他の学生は退学処分となり、謝志強の恋した白英露は行方不明となる。これがこの物語の第一部である。
そして10年の歳月が流れる。大学を放逐された梁浩遠は退学した後、数年間を謝志強と共に地方で農民工として働く。そして中国残留孤児の2世=梅と結婚し訪日し、日本に定住する。中国民主同士会日本支部の幹事長になり北京市の第29回夏季オリンピック開催に反対し署名活動を行っている。実生活ではパソコンを学び、印刷工場の正社員になり実務家として活躍する。女房の梅は餃子屋の女主人となり、支店を持つまでになる。
謝志強は心の中に現実離れした気持ちを秘めながらも、結婚してデザイナーとして独立し、10数名のデザイナーを抱える経営者となる。行方不明だった白英露は、フランスで甘先生と会い、一緒になり、中国に帰る途中に日本に立ち寄り梁浩遠と会う。甘先生は中国の地方で小学校の先生になり子供たちを教えたいという。
それぞれが自立し、小市民的生活の中に安住していく。あるいは安住しようとしている。人間の切なる希望や、期待や夢を抹殺する中国政府を僕は憎む。
謝志強は云う。『何かの為にあんなにも我を忘れて、全身全霊、頑張った事はこれまでなかった。この後もないからだ。それだけは確かだ。それが何の為だったのかを考え始めると切なさが体の中から沸いてくる』。この想いは、梁浩遠にも、白英露にも、甘先生にも共通する気持ちであろう。
そして甘先生は白英露と共に中国へ帰っていく。『ふるさとって何』梁浩遠の息子民生は問う。『ふるさとはね、自分の生まれる、そして死ぬところです。お父さんやお母さんや兄弟のいる暖かい家ですよ』梁浩遠は答える。『じゃあたっくンのふるさとは日本だね』民生は云う。中国籍のままでいる梁浩遠は寂しく微笑む。父のふるさと中国は次代をになっていく民生にとっては決してふるさとではなかったのである。この言葉はこの物語の作者である楊逸の気持ちを代弁したものであり、中国政府に対する彼女自身の絶望感を現したものであろう。
社会主義社会の変貌と頽廃、それは社会主義者であり、マルキストを自認していた僕の心に深い絶望感と挫折感をもたらした。そして大きな転機となったのである。この僕自身の心の変遷についてはいつか述べる機会があると思う。