「華麗なる一族」が生まれた経済的背景
高度経済成長(昭和29年12月~昭和48年11月)の中、日本の企業と銀行は、順調に成長し、その繁栄を謳歌していた。特に銀行は「不況知らずの業種」といわれ、戦後30年間、産業界に君臨し続けてきた。産業界は設備を増設し、その資金を銀行に依存して発展を続けた。金利に依存する銀行は惜しみなく企業に資金を供給した。企業と銀行は共存共栄の存在であった。成長の結果企業は大型化し、国際競争に至るまでに成長した。途中いくつかの不況を経験したものの、神武景気、岩戸景気、オリンピック景気、大阪万博景気、いざなぎ景気などが、高成長を支えた。このような中池田勇人首相による「所得倍増計画」が昭和35(1960)年に実行され、10年で所得を倍増するという当初の計画は7年で達成された。昭和43(1968)年にはGDP(国民総生産)ベースで、ドイツを抜きアメリカについで世界第2位に躍進した。しかし、このような限りを知らない成長が永遠に続くと思われていたが、高度経済成長の後半には、昭和40年に始まった証券不況をきっかけに、企業の過剰設備と過剰生産が表面化し、銀行の過剰貸し出しが問題になり始めた。高度経済成長は陰りを見せ始めたのである。不況は長引く。
このような中、国は景気を刺激するため公定歩合の引き下げを実施した。銀行もそれに追随して企業への貸出金利を引き下げた。しかし、その損失分を預金金利の引き下げで対応することは出来なかった。銀行の数は多く、過当競争を繰り広げていた。競争は預金金利の引き下げを阻害した。例えば昭和45年万国博が大阪で開催された時、この地の地主から土地を買い上げるため、大阪府は莫大な買収費用を支払った。当然、銀行の間で、その金を巡って熾烈な預金獲得競争が起った。この状況が詳しくこの作品に描かれている。この時、預金金利を引き下げることなど到底できなかった。預金金利は据え置きか、切り上げであった。預金金利を引き下げることは預金獲得競争に敗れることを意味していた。その結果生じたものが逆さやであった。銀行は貸し出せば貸し出すほど損をするという事態に陥る。更に不況が追い打ちをかけた。成長期には資金需要は旺盛であり、銀行はいくらでもその資金を供給した。そこには担保なしの不良融資も存在した。しかしいったん不況に陥り、企業は売り上げ低下のため過剰設備、過剰生産に悩まなければならなかった。製品の価格は下がり、当然担保価値も下がった。その分を銀行は追加担保を要求した。担保なしの不良融資には担保を要求した。しかし不況に悩む企業はそれを支払うことは出来なかった。企業は倒産する。銀行は回収不能な不良債権を抱えて四苦八苦することになる。万年好況を誇り産業界に君臨していた銀行は、かくして構造不況業種に転落する。43年6月に「金融効率化行政」を掲げた「金融機関の合併及び転換に関する法律(通称合併転換法)」が施行される。成長期に大型化した企業に資金を供給するためには銀行自身の大型化が要求されたのである。中小の銀行の合併統合が促されたのである。これによって金融界を再編成して不況に立ち向おうとしたのである。
「華麗なる一族」はこのような時代背景のもとに生まれた作品である。万俵頭取は言う「中下位行である阪神銀行が、現状のままでは、やがて“座して死を待つのみ”という状況に追い込まれることが予測されます、となれば統率者なるものは、手段を選ばず、隙あれば相手を取って食おうと考えるのは当然のことでしょう」と。そこには、厳しい金融界の現実があった。長男の鉄平が事実上経営する阪神特殊鋼をトリックにして、倒産させ、さらに、大同銀行を金融的に追い込み、「小が大をのみ込む」銀行合併を実現したのである。
閨閥結婚
閨閥結婚とは何であろう?それは個人と個人に重きを置いた結婚ではない。家族と家族の結びつきである。家族と家族の結びつきと云う意味では、日本においては昔から行われていた見合い結婚がそれである。恋愛結婚は上流社会でははしたないものと思われていた。閨閥とは狭義では、妻の一族の勢力を中心に結ばれた血縁によるネットワークである。政界、官界、財界、さらに王室、貴族をも含めて、一族が自身の影響力の保持及び、増大を目的にして子弟、子女を婚姻させ強固な関係を構築することが目的である。恋愛と見合いとを結合させたものに、社交界がある。しかし、社交界に入るためには、厳しい条件がある。親の社会的地位、財産、名誉、本人の学歴、高度な趣味、等々家の格式が重んぜられる。一定水準以上でなければ入ることが出来ない。しかしいったん入ってしまえば、だれが誰と結びつこうが、そこには失敗が無い、安全である。上流社会を保っていくことが可能である。
華麗なる一族では万俵大介と寧子の夫婦が閨閥結婚である。万俵家に箔をつけるためにのみ、寧子は存在する。貧乏華族子爵の娘。子を産む以外何も出来ない。その代わりを務め万俵家を采配するのが高須相子である。彼女は万俵家の閨閥結婚に精を出す。次に長男鉄平と早苗の夫婦も閨閥結婚である。早苗は、政財界の実力者、通産大臣と国務大臣を務めた経験を持つ大川一郎の娘である。大介の長女万俵一子と美馬中の夫婦も閨閥結婚である。美馬中は、大蔵省主計局次長の肩書を持つエリート官僚である。将来大蔵次官、政界入りを狙っている。銀平と万樹子の夫婦も閨閥結婚である。万樹子は阪神銀行筆頭株主大阪重工の安田太左衛門の次女である。しかし結婚後破局する。万俵二子と細川一也。細川一也は佐橋総理夫人の甥っ子である。二人は見合い、婚約、式の日取りまで決っているにも拘らず、二子はこの話を蹴って、阪神特殊鋼の工場長の4男一之瀬四々彦と結婚する。三子はまだ大学の4年生。彼女が結婚する前に相子は万俵家から去ったのである。
このように万俵一族は政財界の大物と縁組を組み、大蔵省の進める金融再編を前に「小が大を食う合併」を成し遂げ、阪神銀行の基礎を盤石のものにしようと画策する。しかし、閨閥結婚は個人の意思を無視する、家同士の結びつきであるため、必ずしもうまくはいかない。破局があったり、浮気があったり、破談があったりする。
華麗なる一族 登場人物
この作品は企業小説であると同時に家庭小説でもある。
万俵家の人々
万俵啓介、万俵大介、その妻寧子、その愛人高須相子
この作品の主人公万俵大介は、父万俵啓介の事業を引き継ぎ、それをさらに発展させる。阪神銀行頭取、その系列に阪神特殊鋼、万俵不動産、万俵倉庫、万俵商事、を従える万俵コンツェルンの総帥である。その努力によって、阪神銀行を預金量にして都市銀行10位の地位にまで引き上げる。野心家であり、「小が大をのみ込む」大型合併を考え、さらなる発展を夢見ている。慶応大学経済学部卒。銀髪の端正な顔立ちを持ち、貴族的な冷たさの中に、品の良さを漂わせている。金融界の聖域を司る一分の隙もないまだ60歳代の紳士である。反面、一万坪の広大な敷地の中に住居を構え、妻寧子、愛人相子と同居する。それだけでなく、同衾をもするという妻妾同衾の獣のような性生活を送っている。一万坪という広大な敷地の中に守られ、その事実は家族以外知る者はいない。
妻寧子、貧乏華族・子爵の娘。万俵家に箔をつけるために莫大な支度金で万俵家に貰われて来た飾り物的存在。乳母日傘で育てられてきたために、子供を産む以外の才覚は何もない。愛人の相子に頭を押さえられている。本妻でありながら日陰的存在に甘んじている。純日本風の顔立ちをもち、洗練された上品さを持つ美人である。大介から相子との同衾を迫られ、それを拒否し実家に逃げ帰るが、その事実をその自尊心から家族に告げることが出来ない。我儘と判断され、結局は連れ戻される。自殺を図るが未遂に終わる。これ以降、その抵抗は止む。家を出て自活する能力は無く、頼みの実家は彼女を拒否する。行く場所は無い。やむを得ずあきらめの心境で大介との妻妾同衾の無謀に従う。薄倖の人。鉄平、銀平、一子、二子、三子の5人の子を生む。かつて寧子は大介の父啓介に犯された経験を持つ。その直後に長男鉄平が生まれる。大介は鉄平の出生に疑問を持つ。父啓介の子供ではないかと?血液型も、適合する。鉄平の血液型はA型。啓介の血液型はA型。寧子の血液型はO型。A型の子供が生まれてもおかしく無い。一方大介の血液型はAB型。O型の寧子との間にA型の子供が生まれてもおかしくない。どちらの子供かは判らない。寧子自身も判らない。そんなことから、大介は鉄平に対して親としての愛情を持つことが出来ない。鉄平も同じ苦しみを持つ。自分があまりにも祖父啓介に性格から物腰まで似ているからである。
高須相子、アメリカ帰りの語学力を買われ、万俵家の家庭教師として迎えられるが、いつしか大介との間に関係が出来、愛人となる。アメリカ人との間の離婚経験者。彫りの深い美貌と、豊満な肉体、その知性によって大介を虜にする。女にしておくのは惜しいほどの政治力を持ち、政官財界を渡り歩き、万俵家の閨閥づくりに精を出す。万俵家の陰の立役者である。しかし、銀行頭取は清廉潔白さを要求されるため、表向きは、あくまでも女執事の立場を維持している。妻妾同居・同衾の生活など隠し通さねばならない。そんな彼女とて今の生活に満足しているわけではなく、内心は子供を成して妻の座を奪い万俵夫人になりたいと願っている。どんなに気丈に振る舞っていてもそれが女心である。ときには別れた夫との間の貧しくはあったが充実した生活を思い出すこともある。嫌いで別れたわけではなく、夫の両親の東洋人に対する人種的偏見に反発したのである。今の生活は豊かで、ぜいたくで、派手ではあっても、決して心の安らぎを得ることは出来ない。更に、万俵家の子供たちは彼女の存在を厭うている。緊張の連続である。万俵家の長女一子の夫・美馬中(あたる)に浮気心もち遊んでみても、お互いに自分の立場を考え、先に進むことは避けている。一歩前で踏みとどまるいやらしさがある。そこにもやすらぎは無い。たとえ、情事があったとしても美馬のような立身出世主義のかたまりのような男との関係からは、体のぬくもりも、心のぬくもりにもならず、ただうそ寒さしか残らないであろうと相子は思う。最終的には相子は万俵のもとを去り、寧子は妻の座を守る。相子は万俵に利用されるだけ利用され捨てられたのである。そこには愛人の寂しさがある。
万俵鉄平、妻早苗 鉄平は東京大学工学部冶金工学科を優秀な成績で卒業し、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学、帰国して大介の妹の夫石川正治が社長を務める阪神特殊鋼に入り、38歳の若さで専務取締役となる。事実上の技術者兼経営者。自分の工場に高炉を作り、鉄鉱石から特殊鋼までの一貫作業を実現したいという理想をもち、父大介たち周囲の反対に抗して、その建設に立ち向かう。しかし時に利非ず、不況による売り上げの低下、アメリカの大型メーカーの高額な注文のキャンセル、高炉の爆発事故、等々鉄平の上には様々な不幸が見舞う。鉄平は資金繰りに苦労する。自分の反対を押し切ってまで高炉建設に立ち向かい、苦境に陥り、自分に頼ろうとする鉄平に対して大介は憎しみすら感じる。大介はこのような中メイン銀行であるにもかかわらず、阪神特殊鋼を見限り、融資を控え、その分をサブ銀行たる大同銀行に肩代わりさせる。そこには万俵頭取の策謀があった。阪神特殊鋼を倒産させ、大同銀行を貸付超過による経営危機に陥らせ、一気に合併に進もうと考えたのである。こうして、預金量10位の阪神銀行が8位の大同銀行を飲みこみ、一気に預金量5位の銀行に成りあがることを考えたのである。そしてこれは成功する。阪神銀行と大同銀行は合併し、太陽銀行として再出発する。鉄平は会社を追われ鉄平の唯一の理解者であり協力者であった大同銀行の三雲頭取も責任を取って退陣する。かくして「小が大をのみ込む」万俵の野望は実現する。しかし、その裏には大きな犠牲があった。鉄平は猟銃自殺をする。その血液型はB型。A型と信じられていたが、それは幼いころの検査間違いであったことがわかる。明らかに、鉄平は大介の子だったのである。大介は自分の実の子の会社を倒産させ、その理想を踏みにじり自殺に追いやったのである。さらに、優秀な後継者を失ったのである。自責の念に悩まされる。新生東洋銀行の頭取万俵大介は何処に行くのか?
その妻・早苗は、かつて、通産大臣と国務大臣を歴任した政界の実力者・大川一郎の娘である。二人の間には太郎と京子という二人の可愛い子供がいる。これも勿論閨閥結婚である。鉄平の理解者であった大川一郎は高炉建設に支援を惜しまなかったが、彼の急死後鉄平の立場は著しく弱くなる。鉄平の死後、国に帰る。万俵の私生活には批判的である。「わたしの父も愛人を持っていたが、けしって家に入れず、分を守らせていた。ましてや同居・同衾などもってのほかだ」と怒りを露わにする。
万俵銀平、その妻・万樹子
万俵啓介の二男。啓介と同様慶応大学経済学部卒。阪神銀行本店の貸付課長をしている。人生に対して諦観をもち、毎晩バーを飲み歩くプレイボーイ。全て投げやりで、ニヒルな感触を漂わせている。仕事にも人間関係にも冷たい、酷薄さを持つ。
その一つの例が、破産に瀕した大平スーパーに対する対処の仕方に現れている。融資を断り、情け容赦なく切り捨て、破産させ、その株式を全て万俵商事が引き受け、富士ストアーと合併させオーナー社長大平を経営陣から排除する。それによって阪神銀行と万俵コンツェルンの利益を図る。そこには人間的優しさは見受けられない。その冷たさは、まさに大介の息子である。鉄平が母・寧子似であるなら、銀平は父・大介似である。大介は、銀平を愛するが、鉄平には親子の情を示そうとはしない。
また、相子の考えた銀平の閨閥結婚の相手は阪神銀行の筆頭株主・大阪重工の安田太左衛門の次女・万樹子であった。銀平はそれが閨閥結婚であると知りながら、あえて反対せず結婚する。そこにも結婚に対する締感があった。大介や相子は、結婚すれば今までのような放縦な生活も改まるであろうと考えていたが、結婚後も、それは改まらず、毎晩バーを飲み歩くプレイボーイぶりは、一向に改まらなかった。万樹子はそんな銀平を自分に惹きつけようと努力はするが、万樹子に愛を感じない銀平の態度は。そんな万樹子に冷たい。銀平には過去があった。彼には小森章子という恋人がいた。画家の卵であった。二人は雨の降りしきる郊外の空き別荘の中ではじめて身体を重ねた。二人は愛し合っていた。しかし、それでも結婚に踏み切ろうとしない銀平の煮え切らない態度に怒り、章子は銀平と離れ、パリへと絵の修業に去っていった。そんな章子を思い出しながら、銀平は万樹子を抱いた。万樹子にも恋人がいた。尾形賢一という、スキーの上手な大学生であった。急斜面をさっそうと雪煙りをあげて滑り下りる彼の姿に魅了され、好意を抱き、そして結ばれた。しかし、都会での生活は厳しかった。彼は就職試験に落ち、二流の会社に勤める平凡なサラリーマンになった。大雪原で見せた魅力にあふれた姿はそこには無かった。更に、身分違いの相手は、万樹子にとっては、あくまでも遊び相手に過ぎず、結婚の対象にはならなかった。妊娠したが、堕胎した。万樹子の側から別れを云い、別れていった。そして、万俵銀平は彼女にとっては格好の相手であった。万俵コンツェルン総帥大介の御曹司である。生活は保障され、贅沢もしたい放題である。
しかし、期待に反して二人の仲は上手くいかなかった。妊娠するが流産する。子供はいらないと銀平は言う。そこには家族に対しても締感があった。一人の男を二人の女が共有する妻妾の同居・同衾、の父親の生活、自分のようなニヒルで、投げやりな子が生まれることの恐れと寂しさがあった。更に母・寧子の自殺未遂。少年のころそれを垣間見た銀平の心に深い衝撃を残した。同情と愛情その気持ちから銀平の心は母寧子に対して深い優しさを示すと同時に相子に対しては深い憎しみを感じる。しかし、表面はさりげなく振る舞い、裏面ではどろどろとした感情を押し隠していた。豊かな富を自由にし清廉潔白を装い、裏では地獄のような性生活を送る父親を見ながら、そんな生活に憎しみを感じながらも何も出来ない子供たち。いつしかそんな生活に慣れていくことの怖さ、そんなことから家族に対する締感が生まれ、家族を持つことの恐ろしさを銀平は感じていたのである。こんなことからニヒルで、投げやりな、銀平の性格が形作られたのであった
ふとしたことから万樹子は、妻妾同衾の秘密を知って愕然とする。相子はこの事実を喋れば、あなたの過去を公表すると脅しをかける。銀平の冷たさ、流産、家族の秘密、それを体験した万樹子の心は次第に銀平を離れていく。万樹子は実家に戻り、大介と相子の説得にもかかわらず、二人の仲は破局する。愛の無い政略結婚=閨閥結婚の虚しさ、挫折をこの作品は描いている。そして愛とは何か、結婚とは何かを追求する。
この後、閨閥結婚を拒否し、愛に生きた大介の次女・二子と阪神特殊鋼の技師一之瀬四々彦の結婚について述べていくつもりであるが、その前に順序として、一子と大蔵省主計局次長美馬中(あたる)の閨閥結婚について述べていきたい。
万俵大介の長女一子とその夫美馬中(あたる)
万俵大介の長女一子と、大蔵省主計局次長の美馬中の結婚は、高須相子の仕組んだ閨閥結婚第一号であった。大蔵省にコネを持つことは、万俵コンツェルンにとっては大蔵省の動きを知る上で、また、万俵コンツェルンの将来を占う上で不可欠な要素であった。美馬中は万俵大介から資金援助を受ける見返りに、大蔵省の機密文書を大介にもたらす役割を担っていた。彼は典型的な立身出世主義者で、主計局長官、大蔵次官を経て政界入りをすることを夢見ていた。その為に必要な資金を義父大介に頼ることを考えていた。二人の仲は持ちつ、もたれつの関係にあった。大蔵大臣と組んで、大介の目論む阪神銀行と大同銀行の大型合併を裏から支援するのもその為であった。政治、選挙には膨大な資金を必要としていた。閨閥結婚の目的はあくまでも実利であって、愛情ではない。女性はそのための手段であって、目的ではない。犠牲者である。一子も彼に裏切られる。
官僚、特に将来大蔵次官と注目される主計局次長美馬中は、周りからの誘惑は多い。女性も紹介される。その誘惑は抗し難い。浮気を断ち切るためには大きな意志の力が要求される。美馬中にはそんな力はない。妻一子は裏切られ続ける。夫中に絶望し愛想を尽かしていながらも、可愛い二人の子供・宏、潤のために我慢する。かつて、彼女には愛すべき男性がいた。結婚を考えていた。しかし、大介、相子の激しい求めに抗しきれずに、自分が本当に愛している人の目の前を、目をつぶって通り過ぎ、他の人・美馬中と結婚したのである。美馬中は、相子とも浮気をしようとする。相子はその気になりながらも、そのチャンスを失う。大介の影が後ろにあった。しかし美馬中は自分が大蔵省のエリート官僚であり、万俵大介にとって利用価値の高い、婿殿であることを熟知しているので、少々のことで大介が自分を見放すことは無いと、たかをくくっている。「お舅さんは、たとえ僕たちの現場に出くわしたって、何も言えよう筈は無いよ」とうそぶく。そこにはエリート官僚のいやらしさがあった。更に立身出世以外に生きがいを見いだせない男の姿勢に接し、相子は、この男との情事は、心の安らぎ与えてくれるものではないと思った。彼女は心身の安らぎとぬくもりを、求めていたのである。万俵家では大介の庇護のもと、大きな力を持ち、寧子に代わって万俵家を采配していても、鉄平をはじめとする子供たちの目は厳しく、それを跳ね返して生きているものの、そこには安らぎは無かった。美馬中にそれを求めて裏切られたのである。
美馬中には立身出世という目的しかなかった。阪神銀行と大同銀行の合併には大蔵大臣の協力のもと、その実現に努力したが、大蔵大臣はその上を考えていた。新生「太陽銀行」をより上位の五菱銀行と合併させようと意図していた。「豚は太らせて食え」。そんな大蔵大臣の意図を知って、美馬中は愕然とする。それに協力することは、義父大介を裏切ることになる。しかし、将来政治家を志す美馬中は、これに協力することを確約する。そこには政・官・財の権謀術数に渦巻く暗闘があった。万俵大介は何処に行くのか?
次女二子と一之瀬四々彦(よしひこ)
万俵二子は万俵家の次女である。高須相子は、彼女の結婚に関してもその辣腕をふるう。佐橋総理夫人の妹の子・総理夫人の甥っこで帝国製鉄の秘書課に勤めるエリートサラリーマン細川一也を結婚相手として選ぶ。父は著名な建築家細川信也、その兄節也は参議院議長と万俵家の相手としては何一つ不足の無い良縁である。
しかし二子には、思いを寄せている男性がいる。鉄平が専務を務める阪神特殊鋼の一之瀬工場長の4男・四々彦である。彼は鉄平と同じく鉄に生きる男である。東京大学工学部冶金学科卒。大学卒業後、父の勤める阪神特殊鋼に入社。その優秀さが認められ、休職しアメリカのマサチューセッツ工科大学の冶金科に留学。二子とは四々彦が東大生、二子が女子大生の頃からの友人である。その頃からお互いに好意を持ちあっていた。
しかしそんな事にはお構いなく縁談は、二子を無視してとんとん拍子にすすめられる。見合い、婚約、結婚式の日取りまで決められる。二子は慌てる。何度も父や相子に断ってくれるように頼むが無視される。兄鉄平に相談する。鉄平は二子の気持ちを理解しながらも、「無理はしない方が良いよ、結婚というのは、双方の家庭環境というものが必要だからな」と閨閥結婚には否定的でありながらもその有効性も認めているのである。鉄平も、時の大物大川一郎の娘・早苗を貰うと云う閨閥結婚の経験者であり、二人の子供を作り上手くいっているのである。業を煮やした二子は、見合い結婚のしきたりを無視して、仲人の小泉元駐仏大使夫人を通さずに、直接に細川一也に会い、その婚約解消を伝える。小泉夫人は自分を無視した非礼に対して怒り狂う。相子自身も顔をつぶされた思いで、陳謝に努めるが、二子に対しては憎しみを感じる。こんな良縁を断る気持ちが判らない。万俵家にとっては良縁であっても、二子にとっては迷惑千万な話なのである。たとえ四々彦の存在が無くとも、彼女には、その博学多才ぶりを振りまく細川一也には好意は持てず、我慢が出来なかった。事態はこう着状態のまま進むが、この間、阪神特殊鋼の破産、鉄平の猟銃自殺が起り、四々彦は帝国製鉄に合併された会社には残らず退職しアメリカのペンシルバニアにあるピッツバーグのUSスチール技術開発研究所に研究員として勤めることになった。鉄平の死によって、二子と細川一也の婚約は正式に解消した。細川家には自殺者を出した家として、婚約辞退を申し入れ、細川一也の体面を保ったのである。万俵大介は二子と四々彦の結婚を了承した。二子は四々彦を追ってアメリカに旅立っていく。そこには、結びつく男女の気持ちを無視し、社会的地位の向上を図り、家柄や毛なみ、本人の履歴、両親の社会的地位によって結びつく閨閥結婚の虚しさ、無残さからの解放があり、好きな人と結婚できる喜びがあった。
万俵家における相子の立場は微妙に変化していく。銀平と万樹子夫婦の破局、二子と細川一也の婚約解消、と閨閥結婚を通じて万俵家を牛耳っていた相子は、その立場を失っていく。彼女は何処へ行くのか?
大同銀行の三雲祥一頭取と綿貫千太郎専務
大同銀行の三雲頭取は、日銀天下りの頭取であって、大同銀行生え抜きの綿貫専務とは対立していた。この対立は副頭取人事を巡って決定的となる。綿貫専務の副頭取昇格が、日銀からの圧力で保留になってしまったのである。日銀からの天下りとは、その銀行を日銀の植民地にすることを意味している。対立は決定的となる。
万俵大介は大事故を起こし深手を負い、苦境に立ち、資金繰りに狂奔する長男鉄平が事実上采配する阪神特殊鋼の倒産を目論む。阪神特殊鋼のメイン銀行でありながら、徐々に融資を削減し、その代わりにサブ銀行である大同銀行にそれを肩代わりさせ、その融資を過熱させ、不良貸し付けを誘導し、大同銀行を危機におとしいれる。阪神特殊鋼の倒産によってそれは決定的となる。大量の不良債権を抱える。大介はこれに乗じて大同銀行を飲み込もうと意図した。これによって預金額10位の阪神銀行が預金額8位の大同銀行を合併して4大銀行に次ぐ第5位の地位を確保しようとしたのである。大介は副頭取を餌に綿貫の懐柔を図る。綿貫は、日銀天下りには反対ではあったが、生え抜きを中心に自立した銀行経営を夢見ていた。合併など論外であった。それ故、自行より下位にある阪神銀行との合併という誘いに乗ることには躊躇する。合併で問題になるのはポストである。合併後もそれぞれのポストは保障すると聞き、結局は押し切られる。大同銀行は危機的状態にあり、これからの解放も視野の中にあった。日銀派役員を除く、生え抜き派の役員を集めて説得にあたる。8位の銀行が5位となり、ポストも確保されるとなれば、反対の理由は無い。「名よりも実」を取ったのである。勿論クーデターである以上三雲頭取は蚊帳の外である。日銀派役員を除いた15人中11人の役員の連判状を綿貫は三雲に突きつける。クーデターは成功し、三雲は退陣し、合併は成功する。再生銀行の名は「太陽銀行」。頭取は万俵大介、副頭取は綿貫千太郎であった。
三雲頭取は鉄にかけ、高炉を建設し、銑鉄一貫体制を作り上げようとする万俵鉄平の理想と情熱に共感し、その協力を惜しまず、大介のペテンとも知らず、融資を続け、それが不良債権となる。大介は阪神特殊鋼をトリックにして大同銀行をのみ込むことを意図したのであり、それを成功させる。三雲は退陣し、鉄平はその責任を取って自殺する。鉄平の葬式の席で、万俵と三雲は対決する。万俵は「金融再編成の波の中では、その波を乗り切って生き残るためには手段を選ぶことは出来なかった」と弁明する。三雲は言う「万票さん孟子の教えに『天下ヲ得ルニハ 一不義ヲ成サズ 一無辜ヲ殺サズ』という言葉がありますねぇ」と云う。天下を得るには、一つの不義もなさず、ひとりの罪なき者も殺してはならないと云う意味である。
「鉄平君、さらば--------」、三雲は心の中で、そう最後の別離を告げ、万俵大介に背を向け、葬儀の場を去っていった。
万俵三子。万俵大介の三女。この作品には主要な登場人物ではない。まだ大学の4年生である。
『華麗なる一族』山崎豊子作 新潮文庫 上・中・下 新潮社版
高度経済成長(昭和29年12月~昭和48年11月)の中、日本の企業と銀行は、順調に成長し、その繁栄を謳歌していた。特に銀行は「不況知らずの業種」といわれ、戦後30年間、産業界に君臨し続けてきた。産業界は設備を増設し、その資金を銀行に依存して発展を続けた。金利に依存する銀行は惜しみなく企業に資金を供給した。企業と銀行は共存共栄の存在であった。成長の結果企業は大型化し、国際競争に至るまでに成長した。途中いくつかの不況を経験したものの、神武景気、岩戸景気、オリンピック景気、大阪万博景気、いざなぎ景気などが、高成長を支えた。このような中池田勇人首相による「所得倍増計画」が昭和35(1960)年に実行され、10年で所得を倍増するという当初の計画は7年で達成された。昭和43(1968)年にはGDP(国民総生産)ベースで、ドイツを抜きアメリカについで世界第2位に躍進した。しかし、このような限りを知らない成長が永遠に続くと思われていたが、高度経済成長の後半には、昭和40年に始まった証券不況をきっかけに、企業の過剰設備と過剰生産が表面化し、銀行の過剰貸し出しが問題になり始めた。高度経済成長は陰りを見せ始めたのである。不況は長引く。
このような中、国は景気を刺激するため公定歩合の引き下げを実施した。銀行もそれに追随して企業への貸出金利を引き下げた。しかし、その損失分を預金金利の引き下げで対応することは出来なかった。銀行の数は多く、過当競争を繰り広げていた。競争は預金金利の引き下げを阻害した。例えば昭和45年万国博が大阪で開催された時、この地の地主から土地を買い上げるため、大阪府は莫大な買収費用を支払った。当然、銀行の間で、その金を巡って熾烈な預金獲得競争が起った。この状況が詳しくこの作品に描かれている。この時、預金金利を引き下げることなど到底できなかった。預金金利は据え置きか、切り上げであった。預金金利を引き下げることは預金獲得競争に敗れることを意味していた。その結果生じたものが逆さやであった。銀行は貸し出せば貸し出すほど損をするという事態に陥る。更に不況が追い打ちをかけた。成長期には資金需要は旺盛であり、銀行はいくらでもその資金を供給した。そこには担保なしの不良融資も存在した。しかしいったん不況に陥り、企業は売り上げ低下のため過剰設備、過剰生産に悩まなければならなかった。製品の価格は下がり、当然担保価値も下がった。その分を銀行は追加担保を要求した。担保なしの不良融資には担保を要求した。しかし不況に悩む企業はそれを支払うことは出来なかった。企業は倒産する。銀行は回収不能な不良債権を抱えて四苦八苦することになる。万年好況を誇り産業界に君臨していた銀行は、かくして構造不況業種に転落する。43年6月に「金融効率化行政」を掲げた「金融機関の合併及び転換に関する法律(通称合併転換法)」が施行される。成長期に大型化した企業に資金を供給するためには銀行自身の大型化が要求されたのである。中小の銀行の合併統合が促されたのである。これによって金融界を再編成して不況に立ち向おうとしたのである。
「華麗なる一族」はこのような時代背景のもとに生まれた作品である。万俵頭取は言う「中下位行である阪神銀行が、現状のままでは、やがて“座して死を待つのみ”という状況に追い込まれることが予測されます、となれば統率者なるものは、手段を選ばず、隙あれば相手を取って食おうと考えるのは当然のことでしょう」と。そこには、厳しい金融界の現実があった。長男の鉄平が事実上経営する阪神特殊鋼をトリックにして、倒産させ、さらに、大同銀行を金融的に追い込み、「小が大をのみ込む」銀行合併を実現したのである。
閨閥結婚
閨閥結婚とは何であろう?それは個人と個人に重きを置いた結婚ではない。家族と家族の結びつきである。家族と家族の結びつきと云う意味では、日本においては昔から行われていた見合い結婚がそれである。恋愛結婚は上流社会でははしたないものと思われていた。閨閥とは狭義では、妻の一族の勢力を中心に結ばれた血縁によるネットワークである。政界、官界、財界、さらに王室、貴族をも含めて、一族が自身の影響力の保持及び、増大を目的にして子弟、子女を婚姻させ強固な関係を構築することが目的である。恋愛と見合いとを結合させたものに、社交界がある。しかし、社交界に入るためには、厳しい条件がある。親の社会的地位、財産、名誉、本人の学歴、高度な趣味、等々家の格式が重んぜられる。一定水準以上でなければ入ることが出来ない。しかしいったん入ってしまえば、だれが誰と結びつこうが、そこには失敗が無い、安全である。上流社会を保っていくことが可能である。
華麗なる一族では万俵大介と寧子の夫婦が閨閥結婚である。万俵家に箔をつけるためにのみ、寧子は存在する。貧乏華族子爵の娘。子を産む以外何も出来ない。その代わりを務め万俵家を采配するのが高須相子である。彼女は万俵家の閨閥結婚に精を出す。次に長男鉄平と早苗の夫婦も閨閥結婚である。早苗は、政財界の実力者、通産大臣と国務大臣を務めた経験を持つ大川一郎の娘である。大介の長女万俵一子と美馬中の夫婦も閨閥結婚である。美馬中は、大蔵省主計局次長の肩書を持つエリート官僚である。将来大蔵次官、政界入りを狙っている。銀平と万樹子の夫婦も閨閥結婚である。万樹子は阪神銀行筆頭株主大阪重工の安田太左衛門の次女である。しかし結婚後破局する。万俵二子と細川一也。細川一也は佐橋総理夫人の甥っ子である。二人は見合い、婚約、式の日取りまで決っているにも拘らず、二子はこの話を蹴って、阪神特殊鋼の工場長の4男一之瀬四々彦と結婚する。三子はまだ大学の4年生。彼女が結婚する前に相子は万俵家から去ったのである。
このように万俵一族は政財界の大物と縁組を組み、大蔵省の進める金融再編を前に「小が大を食う合併」を成し遂げ、阪神銀行の基礎を盤石のものにしようと画策する。しかし、閨閥結婚は個人の意思を無視する、家同士の結びつきであるため、必ずしもうまくはいかない。破局があったり、浮気があったり、破談があったりする。
華麗なる一族 登場人物
この作品は企業小説であると同時に家庭小説でもある。
万俵家の人々
万俵啓介、万俵大介、その妻寧子、その愛人高須相子
この作品の主人公万俵大介は、父万俵啓介の事業を引き継ぎ、それをさらに発展させる。阪神銀行頭取、その系列に阪神特殊鋼、万俵不動産、万俵倉庫、万俵商事、を従える万俵コンツェルンの総帥である。その努力によって、阪神銀行を預金量にして都市銀行10位の地位にまで引き上げる。野心家であり、「小が大をのみ込む」大型合併を考え、さらなる発展を夢見ている。慶応大学経済学部卒。銀髪の端正な顔立ちを持ち、貴族的な冷たさの中に、品の良さを漂わせている。金融界の聖域を司る一分の隙もないまだ60歳代の紳士である。反面、一万坪の広大な敷地の中に住居を構え、妻寧子、愛人相子と同居する。それだけでなく、同衾をもするという妻妾同衾の獣のような性生活を送っている。一万坪という広大な敷地の中に守られ、その事実は家族以外知る者はいない。
妻寧子、貧乏華族・子爵の娘。万俵家に箔をつけるために莫大な支度金で万俵家に貰われて来た飾り物的存在。乳母日傘で育てられてきたために、子供を産む以外の才覚は何もない。愛人の相子に頭を押さえられている。本妻でありながら日陰的存在に甘んじている。純日本風の顔立ちをもち、洗練された上品さを持つ美人である。大介から相子との同衾を迫られ、それを拒否し実家に逃げ帰るが、その事実をその自尊心から家族に告げることが出来ない。我儘と判断され、結局は連れ戻される。自殺を図るが未遂に終わる。これ以降、その抵抗は止む。家を出て自活する能力は無く、頼みの実家は彼女を拒否する。行く場所は無い。やむを得ずあきらめの心境で大介との妻妾同衾の無謀に従う。薄倖の人。鉄平、銀平、一子、二子、三子の5人の子を生む。かつて寧子は大介の父啓介に犯された経験を持つ。その直後に長男鉄平が生まれる。大介は鉄平の出生に疑問を持つ。父啓介の子供ではないかと?血液型も、適合する。鉄平の血液型はA型。啓介の血液型はA型。寧子の血液型はO型。A型の子供が生まれてもおかしく無い。一方大介の血液型はAB型。O型の寧子との間にA型の子供が生まれてもおかしくない。どちらの子供かは判らない。寧子自身も判らない。そんなことから、大介は鉄平に対して親としての愛情を持つことが出来ない。鉄平も同じ苦しみを持つ。自分があまりにも祖父啓介に性格から物腰まで似ているからである。
高須相子、アメリカ帰りの語学力を買われ、万俵家の家庭教師として迎えられるが、いつしか大介との間に関係が出来、愛人となる。アメリカ人との間の離婚経験者。彫りの深い美貌と、豊満な肉体、その知性によって大介を虜にする。女にしておくのは惜しいほどの政治力を持ち、政官財界を渡り歩き、万俵家の閨閥づくりに精を出す。万俵家の陰の立役者である。しかし、銀行頭取は清廉潔白さを要求されるため、表向きは、あくまでも女執事の立場を維持している。妻妾同居・同衾の生活など隠し通さねばならない。そんな彼女とて今の生活に満足しているわけではなく、内心は子供を成して妻の座を奪い万俵夫人になりたいと願っている。どんなに気丈に振る舞っていてもそれが女心である。ときには別れた夫との間の貧しくはあったが充実した生活を思い出すこともある。嫌いで別れたわけではなく、夫の両親の東洋人に対する人種的偏見に反発したのである。今の生活は豊かで、ぜいたくで、派手ではあっても、決して心の安らぎを得ることは出来ない。更に、万俵家の子供たちは彼女の存在を厭うている。緊張の連続である。万俵家の長女一子の夫・美馬中(あたる)に浮気心もち遊んでみても、お互いに自分の立場を考え、先に進むことは避けている。一歩前で踏みとどまるいやらしさがある。そこにもやすらぎは無い。たとえ、情事があったとしても美馬のような立身出世主義のかたまりのような男との関係からは、体のぬくもりも、心のぬくもりにもならず、ただうそ寒さしか残らないであろうと相子は思う。最終的には相子は万俵のもとを去り、寧子は妻の座を守る。相子は万俵に利用されるだけ利用され捨てられたのである。そこには愛人の寂しさがある。
万俵鉄平、妻早苗 鉄平は東京大学工学部冶金工学科を優秀な成績で卒業し、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学、帰国して大介の妹の夫石川正治が社長を務める阪神特殊鋼に入り、38歳の若さで専務取締役となる。事実上の技術者兼経営者。自分の工場に高炉を作り、鉄鉱石から特殊鋼までの一貫作業を実現したいという理想をもち、父大介たち周囲の反対に抗して、その建設に立ち向かう。しかし時に利非ず、不況による売り上げの低下、アメリカの大型メーカーの高額な注文のキャンセル、高炉の爆発事故、等々鉄平の上には様々な不幸が見舞う。鉄平は資金繰りに苦労する。自分の反対を押し切ってまで高炉建設に立ち向かい、苦境に陥り、自分に頼ろうとする鉄平に対して大介は憎しみすら感じる。大介はこのような中メイン銀行であるにもかかわらず、阪神特殊鋼を見限り、融資を控え、その分をサブ銀行たる大同銀行に肩代わりさせる。そこには万俵頭取の策謀があった。阪神特殊鋼を倒産させ、大同銀行を貸付超過による経営危機に陥らせ、一気に合併に進もうと考えたのである。こうして、預金量10位の阪神銀行が8位の大同銀行を飲みこみ、一気に預金量5位の銀行に成りあがることを考えたのである。そしてこれは成功する。阪神銀行と大同銀行は合併し、太陽銀行として再出発する。鉄平は会社を追われ鉄平の唯一の理解者であり協力者であった大同銀行の三雲頭取も責任を取って退陣する。かくして「小が大をのみ込む」万俵の野望は実現する。しかし、その裏には大きな犠牲があった。鉄平は猟銃自殺をする。その血液型はB型。A型と信じられていたが、それは幼いころの検査間違いであったことがわかる。明らかに、鉄平は大介の子だったのである。大介は自分の実の子の会社を倒産させ、その理想を踏みにじり自殺に追いやったのである。さらに、優秀な後継者を失ったのである。自責の念に悩まされる。新生東洋銀行の頭取万俵大介は何処に行くのか?
その妻・早苗は、かつて、通産大臣と国務大臣を歴任した政界の実力者・大川一郎の娘である。二人の間には太郎と京子という二人の可愛い子供がいる。これも勿論閨閥結婚である。鉄平の理解者であった大川一郎は高炉建設に支援を惜しまなかったが、彼の急死後鉄平の立場は著しく弱くなる。鉄平の死後、国に帰る。万俵の私生活には批判的である。「わたしの父も愛人を持っていたが、けしって家に入れず、分を守らせていた。ましてや同居・同衾などもってのほかだ」と怒りを露わにする。
万俵銀平、その妻・万樹子
万俵啓介の二男。啓介と同様慶応大学経済学部卒。阪神銀行本店の貸付課長をしている。人生に対して諦観をもち、毎晩バーを飲み歩くプレイボーイ。全て投げやりで、ニヒルな感触を漂わせている。仕事にも人間関係にも冷たい、酷薄さを持つ。
その一つの例が、破産に瀕した大平スーパーに対する対処の仕方に現れている。融資を断り、情け容赦なく切り捨て、破産させ、その株式を全て万俵商事が引き受け、富士ストアーと合併させオーナー社長大平を経営陣から排除する。それによって阪神銀行と万俵コンツェルンの利益を図る。そこには人間的優しさは見受けられない。その冷たさは、まさに大介の息子である。鉄平が母・寧子似であるなら、銀平は父・大介似である。大介は、銀平を愛するが、鉄平には親子の情を示そうとはしない。
また、相子の考えた銀平の閨閥結婚の相手は阪神銀行の筆頭株主・大阪重工の安田太左衛門の次女・万樹子であった。銀平はそれが閨閥結婚であると知りながら、あえて反対せず結婚する。そこにも結婚に対する締感があった。大介や相子は、結婚すれば今までのような放縦な生活も改まるであろうと考えていたが、結婚後も、それは改まらず、毎晩バーを飲み歩くプレイボーイぶりは、一向に改まらなかった。万樹子はそんな銀平を自分に惹きつけようと努力はするが、万樹子に愛を感じない銀平の態度は。そんな万樹子に冷たい。銀平には過去があった。彼には小森章子という恋人がいた。画家の卵であった。二人は雨の降りしきる郊外の空き別荘の中ではじめて身体を重ねた。二人は愛し合っていた。しかし、それでも結婚に踏み切ろうとしない銀平の煮え切らない態度に怒り、章子は銀平と離れ、パリへと絵の修業に去っていった。そんな章子を思い出しながら、銀平は万樹子を抱いた。万樹子にも恋人がいた。尾形賢一という、スキーの上手な大学生であった。急斜面をさっそうと雪煙りをあげて滑り下りる彼の姿に魅了され、好意を抱き、そして結ばれた。しかし、都会での生活は厳しかった。彼は就職試験に落ち、二流の会社に勤める平凡なサラリーマンになった。大雪原で見せた魅力にあふれた姿はそこには無かった。更に、身分違いの相手は、万樹子にとっては、あくまでも遊び相手に過ぎず、結婚の対象にはならなかった。妊娠したが、堕胎した。万樹子の側から別れを云い、別れていった。そして、万俵銀平は彼女にとっては格好の相手であった。万俵コンツェルン総帥大介の御曹司である。生活は保障され、贅沢もしたい放題である。
しかし、期待に反して二人の仲は上手くいかなかった。妊娠するが流産する。子供はいらないと銀平は言う。そこには家族に対しても締感があった。一人の男を二人の女が共有する妻妾の同居・同衾、の父親の生活、自分のようなニヒルで、投げやりな子が生まれることの恐れと寂しさがあった。更に母・寧子の自殺未遂。少年のころそれを垣間見た銀平の心に深い衝撃を残した。同情と愛情その気持ちから銀平の心は母寧子に対して深い優しさを示すと同時に相子に対しては深い憎しみを感じる。しかし、表面はさりげなく振る舞い、裏面ではどろどろとした感情を押し隠していた。豊かな富を自由にし清廉潔白を装い、裏では地獄のような性生活を送る父親を見ながら、そんな生活に憎しみを感じながらも何も出来ない子供たち。いつしかそんな生活に慣れていくことの怖さ、そんなことから家族に対する締感が生まれ、家族を持つことの恐ろしさを銀平は感じていたのである。こんなことからニヒルで、投げやりな、銀平の性格が形作られたのであった
ふとしたことから万樹子は、妻妾同衾の秘密を知って愕然とする。相子はこの事実を喋れば、あなたの過去を公表すると脅しをかける。銀平の冷たさ、流産、家族の秘密、それを体験した万樹子の心は次第に銀平を離れていく。万樹子は実家に戻り、大介と相子の説得にもかかわらず、二人の仲は破局する。愛の無い政略結婚=閨閥結婚の虚しさ、挫折をこの作品は描いている。そして愛とは何か、結婚とは何かを追求する。
この後、閨閥結婚を拒否し、愛に生きた大介の次女・二子と阪神特殊鋼の技師一之瀬四々彦の結婚について述べていくつもりであるが、その前に順序として、一子と大蔵省主計局次長美馬中(あたる)の閨閥結婚について述べていきたい。
万俵大介の長女一子とその夫美馬中(あたる)
万俵大介の長女一子と、大蔵省主計局次長の美馬中の結婚は、高須相子の仕組んだ閨閥結婚第一号であった。大蔵省にコネを持つことは、万俵コンツェルンにとっては大蔵省の動きを知る上で、また、万俵コンツェルンの将来を占う上で不可欠な要素であった。美馬中は万俵大介から資金援助を受ける見返りに、大蔵省の機密文書を大介にもたらす役割を担っていた。彼は典型的な立身出世主義者で、主計局長官、大蔵次官を経て政界入りをすることを夢見ていた。その為に必要な資金を義父大介に頼ることを考えていた。二人の仲は持ちつ、もたれつの関係にあった。大蔵大臣と組んで、大介の目論む阪神銀行と大同銀行の大型合併を裏から支援するのもその為であった。政治、選挙には膨大な資金を必要としていた。閨閥結婚の目的はあくまでも実利であって、愛情ではない。女性はそのための手段であって、目的ではない。犠牲者である。一子も彼に裏切られる。
官僚、特に将来大蔵次官と注目される主計局次長美馬中は、周りからの誘惑は多い。女性も紹介される。その誘惑は抗し難い。浮気を断ち切るためには大きな意志の力が要求される。美馬中にはそんな力はない。妻一子は裏切られ続ける。夫中に絶望し愛想を尽かしていながらも、可愛い二人の子供・宏、潤のために我慢する。かつて、彼女には愛すべき男性がいた。結婚を考えていた。しかし、大介、相子の激しい求めに抗しきれずに、自分が本当に愛している人の目の前を、目をつぶって通り過ぎ、他の人・美馬中と結婚したのである。美馬中は、相子とも浮気をしようとする。相子はその気になりながらも、そのチャンスを失う。大介の影が後ろにあった。しかし美馬中は自分が大蔵省のエリート官僚であり、万俵大介にとって利用価値の高い、婿殿であることを熟知しているので、少々のことで大介が自分を見放すことは無いと、たかをくくっている。「お舅さんは、たとえ僕たちの現場に出くわしたって、何も言えよう筈は無いよ」とうそぶく。そこにはエリート官僚のいやらしさがあった。更に立身出世以外に生きがいを見いだせない男の姿勢に接し、相子は、この男との情事は、心の安らぎ与えてくれるものではないと思った。彼女は心身の安らぎとぬくもりを、求めていたのである。万俵家では大介の庇護のもと、大きな力を持ち、寧子に代わって万俵家を采配していても、鉄平をはじめとする子供たちの目は厳しく、それを跳ね返して生きているものの、そこには安らぎは無かった。美馬中にそれを求めて裏切られたのである。
美馬中には立身出世という目的しかなかった。阪神銀行と大同銀行の合併には大蔵大臣の協力のもと、その実現に努力したが、大蔵大臣はその上を考えていた。新生「太陽銀行」をより上位の五菱銀行と合併させようと意図していた。「豚は太らせて食え」。そんな大蔵大臣の意図を知って、美馬中は愕然とする。それに協力することは、義父大介を裏切ることになる。しかし、将来政治家を志す美馬中は、これに協力することを確約する。そこには政・官・財の権謀術数に渦巻く暗闘があった。万俵大介は何処に行くのか?
次女二子と一之瀬四々彦(よしひこ)
万俵二子は万俵家の次女である。高須相子は、彼女の結婚に関してもその辣腕をふるう。佐橋総理夫人の妹の子・総理夫人の甥っこで帝国製鉄の秘書課に勤めるエリートサラリーマン細川一也を結婚相手として選ぶ。父は著名な建築家細川信也、その兄節也は参議院議長と万俵家の相手としては何一つ不足の無い良縁である。
しかし二子には、思いを寄せている男性がいる。鉄平が専務を務める阪神特殊鋼の一之瀬工場長の4男・四々彦である。彼は鉄平と同じく鉄に生きる男である。東京大学工学部冶金学科卒。大学卒業後、父の勤める阪神特殊鋼に入社。その優秀さが認められ、休職しアメリカのマサチューセッツ工科大学の冶金科に留学。二子とは四々彦が東大生、二子が女子大生の頃からの友人である。その頃からお互いに好意を持ちあっていた。
しかしそんな事にはお構いなく縁談は、二子を無視してとんとん拍子にすすめられる。見合い、婚約、結婚式の日取りまで決められる。二子は慌てる。何度も父や相子に断ってくれるように頼むが無視される。兄鉄平に相談する。鉄平は二子の気持ちを理解しながらも、「無理はしない方が良いよ、結婚というのは、双方の家庭環境というものが必要だからな」と閨閥結婚には否定的でありながらもその有効性も認めているのである。鉄平も、時の大物大川一郎の娘・早苗を貰うと云う閨閥結婚の経験者であり、二人の子供を作り上手くいっているのである。業を煮やした二子は、見合い結婚のしきたりを無視して、仲人の小泉元駐仏大使夫人を通さずに、直接に細川一也に会い、その婚約解消を伝える。小泉夫人は自分を無視した非礼に対して怒り狂う。相子自身も顔をつぶされた思いで、陳謝に努めるが、二子に対しては憎しみを感じる。こんな良縁を断る気持ちが判らない。万俵家にとっては良縁であっても、二子にとっては迷惑千万な話なのである。たとえ四々彦の存在が無くとも、彼女には、その博学多才ぶりを振りまく細川一也には好意は持てず、我慢が出来なかった。事態はこう着状態のまま進むが、この間、阪神特殊鋼の破産、鉄平の猟銃自殺が起り、四々彦は帝国製鉄に合併された会社には残らず退職しアメリカのペンシルバニアにあるピッツバーグのUSスチール技術開発研究所に研究員として勤めることになった。鉄平の死によって、二子と細川一也の婚約は正式に解消した。細川家には自殺者を出した家として、婚約辞退を申し入れ、細川一也の体面を保ったのである。万俵大介は二子と四々彦の結婚を了承した。二子は四々彦を追ってアメリカに旅立っていく。そこには、結びつく男女の気持ちを無視し、社会的地位の向上を図り、家柄や毛なみ、本人の履歴、両親の社会的地位によって結びつく閨閥結婚の虚しさ、無残さからの解放があり、好きな人と結婚できる喜びがあった。
万俵家における相子の立場は微妙に変化していく。銀平と万樹子夫婦の破局、二子と細川一也の婚約解消、と閨閥結婚を通じて万俵家を牛耳っていた相子は、その立場を失っていく。彼女は何処へ行くのか?
大同銀行の三雲祥一頭取と綿貫千太郎専務
大同銀行の三雲頭取は、日銀天下りの頭取であって、大同銀行生え抜きの綿貫専務とは対立していた。この対立は副頭取人事を巡って決定的となる。綿貫専務の副頭取昇格が、日銀からの圧力で保留になってしまったのである。日銀からの天下りとは、その銀行を日銀の植民地にすることを意味している。対立は決定的となる。
万俵大介は大事故を起こし深手を負い、苦境に立ち、資金繰りに狂奔する長男鉄平が事実上采配する阪神特殊鋼の倒産を目論む。阪神特殊鋼のメイン銀行でありながら、徐々に融資を削減し、その代わりにサブ銀行である大同銀行にそれを肩代わりさせ、その融資を過熱させ、不良貸し付けを誘導し、大同銀行を危機におとしいれる。阪神特殊鋼の倒産によってそれは決定的となる。大量の不良債権を抱える。大介はこれに乗じて大同銀行を飲み込もうと意図した。これによって預金額10位の阪神銀行が預金額8位の大同銀行を合併して4大銀行に次ぐ第5位の地位を確保しようとしたのである。大介は副頭取を餌に綿貫の懐柔を図る。綿貫は、日銀天下りには反対ではあったが、生え抜きを中心に自立した銀行経営を夢見ていた。合併など論外であった。それ故、自行より下位にある阪神銀行との合併という誘いに乗ることには躊躇する。合併で問題になるのはポストである。合併後もそれぞれのポストは保障すると聞き、結局は押し切られる。大同銀行は危機的状態にあり、これからの解放も視野の中にあった。日銀派役員を除く、生え抜き派の役員を集めて説得にあたる。8位の銀行が5位となり、ポストも確保されるとなれば、反対の理由は無い。「名よりも実」を取ったのである。勿論クーデターである以上三雲頭取は蚊帳の外である。日銀派役員を除いた15人中11人の役員の連判状を綿貫は三雲に突きつける。クーデターは成功し、三雲は退陣し、合併は成功する。再生銀行の名は「太陽銀行」。頭取は万俵大介、副頭取は綿貫千太郎であった。
三雲頭取は鉄にかけ、高炉を建設し、銑鉄一貫体制を作り上げようとする万俵鉄平の理想と情熱に共感し、その協力を惜しまず、大介のペテンとも知らず、融資を続け、それが不良債権となる。大介は阪神特殊鋼をトリックにして大同銀行をのみ込むことを意図したのであり、それを成功させる。三雲は退陣し、鉄平はその責任を取って自殺する。鉄平の葬式の席で、万俵と三雲は対決する。万俵は「金融再編成の波の中では、その波を乗り切って生き残るためには手段を選ぶことは出来なかった」と弁明する。三雲は言う「万票さん孟子の教えに『天下ヲ得ルニハ 一不義ヲ成サズ 一無辜ヲ殺サズ』という言葉がありますねぇ」と云う。天下を得るには、一つの不義もなさず、ひとりの罪なき者も殺してはならないと云う意味である。
「鉄平君、さらば--------」、三雲は心の中で、そう最後の別離を告げ、万俵大介に背を向け、葬儀の場を去っていった。
万俵三子。万俵大介の三女。この作品には主要な登場人物ではない。まだ大学の4年生である。
『華麗なる一族』山崎豊子作 新潮文庫 上・中・下 新潮社版