日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ドストエフスキー作「未成年」工藤精一郎訳

2009年05月11日 | Weblog
 この作品はドストエフスキーの中でもっとも難解な作品といってよいであろう。いくら読み進んでも本筋が見えてこない。途中で投げ出したくなったほどである。しかし最終のエピローグでやっと作者の考えがわかってくる。それは愛に関する思想に関する、親と子の対立であり、苦悩である。この対立を最終的に止揚するもこそ「未成年」だというのである。
 親とは農奴解放によって、その経済的基盤を失いつつある、滅び行く運命を背負った貴族階級であり、その文化、道徳などの古い価値観である。子とはようやく発展し始めた資本主義の波の中全般的貧困の進行する中で、失われた古い価値観に変わる新しい価値観を見出せず、混沌と無秩序の中で、翻弄されていく若者たちを指している。そしてロシアを最終的に救うもとして、若者たちの中に現れてくる貴族でもなければ農奴でもない新しい知識層=雑階級人の中にそれを求めたのである。
 この作品は、私(アルカージー・マカローヴィチ・ドルゴーキー)の手記という形をとっている。私は地主貴族(アンドレイ・ペトローヴィッチ・ヴェルシーロフ)とその家僕=農奴(マカールイワーノヴィッチ・ドルゴーキーの妻(ソフィア・アンドレーブナ)の間に生まれた私生児である。当時離婚が認められていなかったので、私はマカールの籍に入れられ、里子に出され、長年親の顔も知らずに育った。その出世の秘密に対する屈辱、いじめ、貧しさの中で世の不条理を怒り、不正を正すため、私はユダヤ人の大富豪ロスチャイルドになる夢を抱く。金は世界を支配する。ロスチャイルドは資本主義の権化である。資本を得るために、私は、苦行僧のような生活に入る。忍耐と維持さえあれば可能なのだ。将来の物質的欲望を得るために、現在の欲望を制限する。無駄を最大限に排除し、人との付き合いも最小限にとどめる。そこには完全な孤独があった。しかし金のもたらす自由と、権力に対する憧れもあった。これが私の理想であった。これなくして私は生きていけない。しかし現実に接して見て、理想との乖離を知る。資本家本人が望もうと望むまいと必然的に陥る社会に対する背徳性と堕落があることを知る。ランベルトの次の言葉はそれを象徴している。『金持ちになったら、最大の楽しみは、貧乏人の子供たちが飢えかけている時、パンや肉を犬にたらふく食わせることだ。そして貧乏人の子供たちが焚くものがなくて困っていたら、薪屋の薪をすっかり買占めて、野原に積み上げて、どんどん燃やし、貧乏人には一本もやらないことだ。』この言葉は当時の資本主義を象徴している。一方に富が蓄積し他方に貧困が蓄積し、両者は結合しない。製品の値下がりを避けるためその何分の一かを廃棄処分する。これは過剰生産恐慌の時代に実際に起こったことである。
 この時代はアダム・スミス流の見えざる手の自由経済の理論が主流を占め、恐慌は恐慌によって解決されねばならなかった。ここには後に出てくる国家(独占)資本主義的考えは生まれてはいなかった。国家資本主義とはいわる国家による財政出動を意味し、国家が経済に関与することである。当時、国家は国防と、治安維持のみに力を注げば良いと考えられていたので180℃の転換であった。これはルーズベルトによって始められたニューディール政策に典型的に見られる。ケインズによる有効需要政策の実現であった。国家は国債を発行し銀行に眠っている金を吸い上げ、これを巨大ダム建設(アスワンハイダム)に回したのである。経済は動き出す
。道路建設、トラック需要、労働者住宅、食品店、資材調達、給料の支払い等々この波及効果は大きくさしもの恐慌も収束に向かったのである。最近実施された定額給付金も有効需要政策の一つである。給付金総額2兆円で、おそらく10兆円の経済効果を狙ったのであろう。使い捨て文化(賞味期限も含む)も有効需要政策の一つである。商品の回転を促進するための手段に過ぎない。この政策は無駄の制度化ともいわれている。巨大な穴を掘るのに金を使い、その穴を埋めるのに金を使う。一見無意味に見える無駄な行為が経済効果を生む。これに類したことは現在でも行われている。これは過剰生産の社会を前提としている。今、国家は経済活動によって大きく膨らみ、非効率的活動によって赤字を増やし、膨大な財政赤字を出しており、新古典派的考えの台頭を許している。国有企業の多くを民間に払い下げ、民間の活力をを利用しようと言うのである。それはアダムスミスへの回帰である。
 余計なことに言葉を浪費してしまった。本筋に戻ろう。富に対する憧れと、富が必然的にもたらす背徳性と堕落に対する嫌悪感、分裂する自己に悩みつつ、私は、社会的富の増大が決して人々の幸せにつながらないことに気づく。文明の開化、発展が資本の自己増殖の手段であることにも気づく。私の苦行僧のような生活は、このような事実を知って持ちこたえることが出来ない。だからといって、新思想に対しても同調できない。一転して、私は飲酒や賭博や社会悪の泥沼の中に若公爵セルゲイ・ペトローヴィチ・ソコリフスキー若公爵と共にのめりこんで行く。居場所のないロシア人の苦悩する姿を典型的に現している。私はどこに行けばよいのであろうか?苦悩の末、私は今までの生活を改め大学に行くことにする。その学習の過程で、私は自分の行くべき道を突き止めることが出来るであろう。
 ドストエフスキーはこの苦悩する姿を、親の世代と子の世代の対立、抗争、和解の中に見ようとしたのである。親の世代としては旧時代を代表する知識人ヴェルシーロフ(地主貴族にして私の実父、この作品の主人公)、それに古きよき時代の姿を典型的に現す善良で心優しい貴族ニコライ・イワーノヴィチ・ソコリフスキー老公爵、さらに老公爵とは遠い姻戚関係にありヴェルシーロフと遺産相続問題で争った老公爵と同名のソコリフスキー公爵、さらに私を養子に迎えた農奴夫婦マカール老人とその妻ソフィア挙げることが出来よう。マカールは妻をヴェルシーロフに奪われた後、巡礼となって諸国を歩き回る。当時農奴は領主の土地に縛られ移動の自由を持たなかったが、ヴェルシーロフはマカールの妻を奪った後、その代償として彼を農奴から解放し、国内旅行証を与え、マカールの死後ソフィアとの結婚を確約したのである。これは当時としては異例なことで農奴の妻が領主の欲望の対象となり犯されることはままあることで、いくばくかの金銭で泣き寝入りするのが常であった。ヴェルシーロフはソフィアを欲望の対象としてではなく本当に愛してしまい彼女もその愛に応えたのである。マカールとその妻ソフィアはロシアの土着思想(民族精神)と結びついた原始キリスト教精神の体現者として位置づけられている。
 子の世代としては、私(アルカージー)そして老公爵の娘で未亡人のカテリーナ・ニコラエブナ・アフマコーワ、ヴェルシーロフと遺産相続問題で争ったアフマコーワ公爵の息子で堕落公爵のセルゲイ若公爵、ならずもののラムベルト、出口のない夢想家ワーシン等々、この時代の混乱と無秩序の中でうごめく若者たちである。
 この親の世代とが交錯するする中で織り成す人間模様(恋、対立、抗争、脅し、和解、自殺など)がこの物語を構成している。
 この物語には『手紙』が大きな役割を果たしている。
 私はヴェルシーロフによって日陰の生活を余儀なくされたことに対する父への恨みを持つと同時に母ソフィアを愛しながらも私がひそかに愛するカテリーナに対しても愛を抱く父に対して嫌悪感を持っていた。しかし里子として人の愛を知らずに育った者の常として父母の愛を渇望していた。この愛憎半ばする気持ちに決着をつけたのが、遺産相続問題でヴェルシーロフが示した潔さであった。裁判で勝利が確定していたにもかかわらず、彼には不利な、しかし人道的意味しか持たない、裁判の結果にはいささかも影響しない手紙を私から受け取ったヴェルシーロフは、遺産の相続をきっぱりと拒否し、その権利を裁判相手のソコリフスキー公爵に譲ったのである。私はこの潔さに感動し以後彼を父親として尊敬し、愛するようになる。
 第一の手紙がヴェルシーロフに関するものだとすれば、第2の手紙はカテリーナに関するものである。老公爵が病に倒れたとき、娘のカテリーナは弁護士のアンドロニコフに手紙を送り『法律によって老公爵を禁治産者か、無能力者と宣告できないか?』と、問うたのである。これによって老公爵の持つ財産を保全しその相続権を獲得しようとしたのである。しかし公爵の健康は回復し通常の生活に戻る。しかし手紙は残った。私はこの手紙をアンドロニコフから手に入れたのである。もしもこの手紙が老公爵の手元に渡ったならばカテリーナは老公爵の怒りに触れその財産の相続権を失い、破滅するかもしれない。彼女は何とかしてその手紙を奪い返そうとする。しかし彼女はその所在を知らない。私はこの手紙を無条件で彼女に返そうとする。しかしこの手紙をならずものラムヴェルトに奪われる。彼は彼女に失恋したヴェルシーロフと組んでカテリーナを脅迫する。ラムベルトは金3万ルーブリだけでなく暗に体まで要求する。誇り高き彼女はこれを無視する。脅迫は失敗する。この後事件が起こる。ラムベルト、ヴェルシーロフ、私の争いが起こる。ラムベルトはヴェルシーロフによってピストルで殴り倒され、気を失い、ヴェルシーロフはカテリーナに銃口を向け無理心中を図る。私はそれをとどめる。ヴェルシーロフは傷を負う。惨劇は終わる。しかし大きなスキャンダルにはならなかった。V某なる男の失恋の果ての惨劇と報道されただけで、ラムベルトの名前すら出なかった。
 私の実父ヴェルシーロフはきわめて恋多き男性である。ソフィアを愛しながらもカテリーナにも恋をする。ヴェルシーロフはソフィアとの恋を人道的かつ神を愛するような愛といい、カテリーナに対する愛を宿命的な愛という。地上的な愛と、天上的な愛に引き裂かれた彼は、苦悩の末マカールから与えられた聖像を断ち割り地上的な愛に生きようとしてカテリーナに向かう。しかしその恋はうまくいかず、傷を負う。結果的にはソフィアの愛の中に安らぎを見出す。
 ロシア社会の混乱と無秩序を背景に信仰と不信、地上的愛と天上的な愛に引き裂かれ苦悩し、混乱した人間としてヴェルシーロフは描かれる。最終的には彼は神の愛の中に安らぎを見出すのである。
 これは滅び行く貴族階級に示された唯一の救いなのである。

  ドストエフスキー作『未成年』上、下 工藤精一郎訳 新潮文庫