日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヘミングウエイ作『日はまた昇る』高見 浩訳 神の復活

2010年04月14日 | Weblog
この作品はアメリカの小説家アーネストヘミングウエイの長編小説であり、1926年10月に発表された。彼は短編、長編と数多く発表しているが、この作品は彼の最初の長編小説であり、また出世作でもある。その内容は1890年代に生まれ、青春の一時期を第一次世界大戦のさなかに過ごした、いわゆるロストジェネレーション(失われた世代、自堕落な世代)の荒廃した生活を僕ジェイク・バーンズの目を通じて描いたものであり、それからの解放とは何かを追及したものである。
 時は第一次世界大戦後の社会的にも、思想的にも混乱した時代。物語はフランス,パリのカルチェラタンと、スペインのパンプローナの二つの地域を中心に描かれる。カルチェラタンはセーヌ川左岸に位置し、ソルボンヌ大学をはじめ大学が集中しており、昔から学生街として有名である。カルチェは「地区」ラタンは「ラテン語」を意味し「ラテン語を話す(教養のある)学生の集まる地区」と云うのが語源である。日本では千代田区駿河台が「日本のカルチェラタン」と呼ばれており、明治大学等の学生を中心にした「神田カルチェラタン闘争(1968~1969年」)は有名である。
 当時(1920年代)のパリは自由な空気に満ちており、精神の解放区と云われ、世界中からシュールレアリスト、ダダイスト、社会主義者等,多くの芸術家、思想家が集まり青春を謳歌していた。しかしロストジェネレーションと云う言葉が意味しているように彼らは大戦によって心身共に傷つき、従来のピューリタニズムの抑圧的な価値観に絶望し、それを否定しながらがらも、それに代わるべき様々な価値観が混在する中、それに満足できず、その結果、自堕落な放恣な生活に身をまかしていた。この作品の登場人物、ブレッド・アシュリ―、ロバート・コーン、マイク・キャンベル、ビル・ゴードン、そして僕ジェイク・バーンズはその一人であった。
この作品は、僕ジェイク・バーンズを観察者として、前半はこの作品の女主人公ブレッド・アシュリーの自由で奔放な性生活と、彼女に翻弄される男たちのどろどろした人間関係が中心に描かれる。しかしこのような不毛な荒れ地にさ迷いながらも、多くの若者がそうであったように僕は心のどこかでそこからの脱出を求めていた。僕とビル・ゴードンは共にスペインに出かける。パンプローナでのフェイスタ(祝祭)見学がその目的であった。ブレッド、コーン、マイクも後から来ることになっていた。ここから後半が始まる。ここに登場する人物は名前こそ変わっているが、ヘミングウエイの周辺にいた実在の人物である。モデルになった人物の中には、名誉を傷つけられたとして拳銃を持ってヘミングウエイを追い回した者もいたという。
 僕らはまずブリゲーテのイラティー渓谷で鱒釣りを楽しみ、その後、パンプローナのフェスタ(お祭り)で闘牛を見学することになっていた。当時のスペインは内戦(1936~39年)以前にあり第一次共和制下にあった。不完全ながらも資本主義が育っていた。資本家と労働者の対立もあり、その間に多くの混乱があったにもかかわらず、内戦がおこるまでの間、曲がりなりにも平和を保っていた。第一次世界大戦には中立を守り大戦には参加しなかった。しかし、大戦による荒廃はなかったものの、住民の生活は貧しかった。
 パンプローナはフランスとの国境に近い町で、フェスタで行われるスペインの国技闘牛は有名であった。僕らはパンプローナに行く前にイラティー渓谷に出かけた。そこに到るまでの自然の美しさは僕らの心を慰めてくれた。しかしその反面人を寄せ付けない厳しさ、神秘性に接し、感動する。さらに清冽な谷側に身を置き、マス釣りを楽しみながら、神の創り賜うた大自然に感激する。その中で僕らは享楽と虚無の街パリでの汚れた生活によって染みついた垢を洗い流し、魂の癒しを得たのである。この後パンプローナに出かけるのであるがそこで出会ったのが闘牛士のロメロであった。彼は既成の価値観に絶望し、奔放に自堕落に生きる僕らとは対極に生きる存在であった。絶えず闘牛と云う生死をかけた場に身を置き、孤独で、ストイックに生きる彼の姿は威厳と誇りに満ちていた。僕らは人間の魂をいやし、人間の罪を含めすべてを包み込んで、なおかつ清い大自然の中に神を見、孤高で誇り高く生きる闘牛士ロメロの中にも神を見たのである。
 第一次世界大戦の中で、神のいない世界を体験し、古い価値観に幻滅し、新しい価値観を求めながらも求めえず、精神の退廃と、混乱の中で自堕落と虚無に生きた僕らの世代であったが、『日はまた昇る(伝道の書)』神は死んでいなかったのである。僕らが体験した神、その中に虚無とと自堕落な生活からの再生があるのではなかろうか?
  登場人物
 僕=ジェイク・バーンズ:この作品の語り手で主人公。第一次世界大戦中に負傷し、性能力を失う。この作品の女主人公ブレッド・アシュレーと相思相愛にありながら、それ故に結婚をあきらめている。スペインに旅行しそこで神に出会う。ヘミング・ウエイ自身と考えられる。
 ブレッド・アシュレー:この作品の女主人公(34歳)最愛の恋人を赤痢で失なている。第一次世界大戦中、救急看護奉仕隊に所属。負傷した僕の看護に当たる。戦中にアシュレー卿と結婚、それ故、爵位をもつ(レディー・アシュレー)。現在離婚手続き進行中。離婚成立後にマイク・キャンベルとの結婚を考えている。既成の性道徳の観念を嫌い、自由奔放に生きる女性。良く云えば自由な、悪く言えばふしだらな女性。彼女によって多くの男性(ロバート・コーン、マイク・キャンベル等)が翻弄される。セックスをむさぼることはできても、真の愛を得られない枯渇感に苦しむ女性。闘牛士ロメロを愛し一夜を共にするが、結婚したいという彼を拒否する。彼を不倫の対象として、その尊厳を貶め「落ちた偶像」にすることを潔しとしなかったのである。彼女は僕に云う。「性悪の女になるまいと決めたので、なんだか気持がいいの」と、自由奔放に生きた女の最後の矜持だったのかもしれない。この後、彼女はマイクとの結婚を決意する。
 ロバート・コーン:プリンストン大学出身。ボクシングのミドル級チャンピオン。ユダヤ人。3人の子持ち、離婚後フェスタと交際。にもかかわらずブレッド・アシュレ―に首ったけ、性関係を持つも、嫌われている。
 マイク・キャンベル:ブレッドの離婚後、結婚を約束しているが、ブレッドの自分を無視した奔放な性行動に悩まされる。ロバート・コーンとブレッド・アシュレ―の関係に嫉妬する。
 ビル・ゴードン 作家、僕とスペインに出かける。登場人物の中で唯一ブレッド・アシュレーと性関係を持たない男性。
 ペドロ・ロメロ(闘牛士):闘牛と云う生と死のはざまに立ち、孤高と誇りに満ちて生きる男。ブレッドに愛され一夜を共に過ごす。結婚を申し込むが拒否される。
  最後に
 この時代と同じ状況が19世紀後半のロシの封建制から資本制に向かう端境期にあり、政治的にも文化的にも混乱した時代にあった。多くの若者たちは古きものを否定し、新しきものを求め、何をなすべきかに悩み、その答えを得られず自堕落な生活に堕した人もいた。ドストエフスキーはそんな人々の生活を描いている。まさにそれはドッラガーの云う「断絶の時代」であった。 そしてその一つの解決が、ロシアにおける社会主義革命であった。しかしそれは進歩的若者にとっては希望の星であったにもかかわらず最終的には挫折する。今、現在同じ状況に立たされているのではなかろうか?我々は何をなすべきか?何を求めるべきなのであろうか?

  ヘミング・ウエイ作『日はまた昇る』高見 浩訳 新潮文庫