書簡集6 ピリピ人への手紙 喜びの書簡
はじめに
新約聖書のパウロの書簡集(13書簡)のうち、既に報告した「エペソ人への手紙」、今回報告する「ピリピ人への手紙」、これから報告予定の「コロサイ人への手紙」、「ピレモン人への手紙」の4つはローマの獄中で書かれたので「獄中書簡」と呼ばれている。
ピリピの町は、アレクサンドル大王の父フィリポス2世にちなんでピリピ(フィリピ)と名付けられた町である。ピリピはパウロの時代にはローマ帝国の植民都市のひとつで、マケドニア地方の第一の都市として繁栄していた(使徒、16:12)。第2回伝道旅行の際、パウロはトロアスで一人のマケドニア人が彼の前に立って「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」という幻を見て(使徒16:8)ピリピに行く決心をし、ピリピに渡って宣教活動を行い、その地に教会を設立した。この教会はヨーロッパにおいてパウロが設立した最初の教会であったので、パウロはこの教会に特別な親近感を抱いていた。この教会もまたパウロの福音宣教に物心両面から協力していた。(4:14~20参照)。「物のやり取りをして」パウロの宣教活動を支えた唯一の教会でもあった(4:15参照)パウロはこの教会に喜びをもって感謝の意を示している。パウロとこの教会は、特別に深い絆で結ばれている様子が、この書簡を通して知ることができる。できることなら再度あなたたちの所を訪れたいとパウロは獄中より祈っている。しかしこの祈りは実現することはなかった。
この教会はパウロにとって「主に従った良い教会」ではあったが、決して完全であったわけではなく、内部に対立をはらんでいた(4:1~3)。パウロは「キリストの御名によって一致せよ」と勧め、それが実現することを心から願ったのである。
獄中書簡であるにもかかわらず、この書簡は最も喜びに満ちたものであるといわれている。パウロ自身イエス・キリストの啓示によって回心しそれまでの生活と決別し「主を信じる信仰」を義として生きているように、あなたがたもキリストの名のもとに義にかなった生活をするように」とパウロは聖徒たちに求めた。主において変わること。変わり続けること。それは、信仰を深めることを意味する。「信仰の進歩と喜びのために私と共に戦え」と、パウロは説いている。我々の信仰に完全はない。与えられた場所から出発せよ。完成に向かって走り続けよ、その結果として喜びが保障される。それ故この書簡は「喜びの書簡と言われている。
言葉の意味
喜び: ピリピ人の手紙を読むと、繰り返し「喜び」が語られている。別名「喜びの書簡」と呼ばれるゆえんである。その喜びの源泉はどこにあるのか。それは「我々の国籍は天にある」ことから来ている(3:20)。「そこから主イエスキリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです(4:20~21)」。これ以上の喜びがあるだろうか。パウロはピリピの聖徒たちに「私の喜び、冠よ」と呼びかけ「どうかこのように主にあって、しっかり立ってください。私の愛する人たち(4:1)」と語る。イエスを信じる人は新しく生まれ変わった人である。天に国籍のある人は、神の国の国民であるから、神のみ言葉を喜び、学び、語る。聖書の言葉を愛する。人生における本当の「喜び」とは、物質的なものや、楽しく快適な状況からくるものではないとパウロは強調する。喜びとは、自分が神の愛をいただいており、神様が私たちの人生において確かに働いておられるという静かな確信のことを意味する。どんなことがあろうと神様はそばにいて助けてくださるのです。イエス・キリストの臨在がいかに絶え間なく安定してあり続けるかを知って喜び、イエス様を通して我々も喜びを見出す必要があります。しかし、多くの人々は「キリストの十字架」の敵として歩んでいます。彼らの思いは地上のことだけです。彼らにあるのは滅びであって、彼らがどんなに彼らなりに努力しても「喜び」に至ることはない。
1章: 4,18,25,26節.2章:2,28節、3章:1節、4章:1,4,10節を参照のこと。
パウロ:キリスト教史の中では、パウロは最も重要な使徒である。小アジアのタルススでローマの市民権を持つユダヤ人の家庭に生まれる。パリサイ派の一員としてキリスト教徒を迫害したが、34年ごろ回心し、異邦人伝道を使命とし、3回の伝道旅行でエーゲ海一帯に福音を伝えた。エルサレムで捕らえられたが、ローマ市民の権利として皇帝に上訴。ローマに護送され、その後ネロ帝によって処刑されたらしい。この間の事情は「使徒の働き」に詳しい。キリスト教を普遍的宗教とした貢献者で、彼が各地の信徒にあてた書簡が新約聖書に収められている。回心前の名はサウロ、回心後の名はパウロである。サウロはイスラエルの初代の王サウロからとったといわれている。本書の3章においてパウロは次のように信仰告白をしている。「私は8日目の割礼を受けイスラエルの民族に属しベニヤミンの分かれのものです。生粋のへブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところの無い者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、一切のことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨ててそれらをちりあくた、と思っています。それは、私にはキリストを得、また、キリストの中にあるものと認められ、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです(3:5~9)」。と。
キリストに向かう一致:パウロは4章でピリピの教会の中に不一致があったことを語る。それは、ユウオデヤとスントケと言う敬虔な女性信徒の間の確執を指している。パウロは教会の平安のために「キリストにあって一致せよ」と命じる。
不一致はなぜ起こるのか。バベルの塔の話に象徴されているように、人は、ややもすると、その高慢から自己を神格化しようとする。神は人の高慢を最も嫌うお方である。天にも届こうとする塔の建設を中止させるために、それまで一つであった言葉をバラバラにして不一致を起こさせる。意思の疎通は阻害される。「人による一致は高慢を生み、神による一致は恵みと平安を生む」。と。人による不一致は、神の御業であり、神による一致へと導く。これもまた神の御業である。
キリスト者の一致は、キリストから始まる。それはキリストに向かっていく。キリスト者の一致はお互いにキリストによって救われ赦され愛されているという共通の基盤から出発する。そしてキリストの福音のために働くということに向かっていく。一致は出発点とともに、到達点、目的、目標が必要である。そしてお互いが、一つの到達点を目指していくとき、そこに一致が育っていく。キリストにある一致、キリストのための一致、一致を助ける協力者の存在こそが福音を広めることを可能とする。
「どうか、私たちの父なる神と、主イエスキリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように(1:2)」。
パウロの死生観:パウロに限らず、キリスト者にとって生とは死のためにある。生は一時的なものであり、死は永遠である。死は肉体的には終わりであっても霊的には終わりではなく永遠の世界である。そこは神の住む真に自由な世界である(我々の国籍は天にあり)。しかし、この永遠の命をだれもが得られるわけではない。パウロは言う「あなたがたは霊を一つにして、しっかりと立ち、心を一つにして、キリストの福音にふさわしい生活をしなさい(1:27)」と。生とは永遠の命を得るための準備段階であり、神を信じる信仰によってのみ永遠の命が与えられるという確信こそが必要なのである。「神の国」の存在は科学的には証明できないからである。この確信こそが歴史の中にあってキリストの信徒たちが残酷な迫害にあっても、死をも恐れぬ信仰を貫くことができたのであろう。これが、「生きることはキリスト、死ぬことは益です(1:21)」の意味である。パウロは言う「あなたがたの信仰の進歩と喜びのために、私は生きながらえて(中略)いるのだ(1:24参照)」と。キリストを信じる信仰の世界に入った人間のみが、永遠の世界(神の国)に入ることができるのである。キリストによって霊的に変えられること恵みと平安が与えられること、これがパウロの書簡集の目標であり、聖書の目標でもある。
祈りの力:祈りは私たちの心を守る。私たちは祈るとき「イエスキリストの名によって祈ります」と言う。それにはイエスキリストを信じます。イエスキリストを通して祈ります。神がイエスキリストを通じて、この祈りに応えてくださることに感謝します」と言う意味が込められている。キリストの名のもとに祈るとき主は必ず応えてくださるのである。
本書の目的:「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安があなたがたの上にありますように(1:2)」。パウロはピリピ人から送られた贈り物への感謝の気持ちを伝え、真の喜びは、イエスキリスト以外からは受け取ることは出来ないという事実を語る。そして、より強いキリスト者になるためになすべきことを語り、より強くあれと励ます。そこにはピリピの教会に対する深い愛情があった。
著 者:キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテによって書かれた。テモテが代筆したともいわれている。
執筆年代:西暦61年ごろ:
執筆場所:ローマの獄中
内容構成:以下の表を参照
>各章ごとの説明
第1章:パウロはピリピの聖徒たちの協力に対して感謝の意を表し「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかってきたことに感謝しています(1:5)」「キリスト・イエスが来る日まで、それを完成させてくださることを、私は堅く信じています(1;7参照)」と祈る。
パウロは獄中生活を含め主に仕える際に経験した逆境は福音の前進に役立ったと語る。「私がキリストのゆえに投獄されたということを聖徒たちが知り、主にあって確信が与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神の言葉を語る、心を合わせようになりました(1;12~14参照)」「私にとっては『生きることはキリスト、死ぬことも益です(それ以上です)(1:21)』その上に、信仰を守るにあたり、、心を一つにして力強く立つようにとパウロは勧める。「あなたがたはキリストのために、信じる信仰だけでなくキリストのための苦しみをも賜ったのです(1:29)」。「私が経験したと同じ戦いをあなたがたは経験しているのです(1:30参照)」キリストを信じることは苦しさを伴うことであると語っている。
第2章:パウロはさらに聖徒たちに言う「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください(2:2)」と。一つにまとまっているかに見えたピリピの教会にも不一致はあったことがわかる。
そして、パウロは愛、従順さ謙遜さの模範として、自らを低くしてこの世に現れたイエス・キリストを模範として挙げる(2:5~11)。そして、キリストが神の定めた運命に粛々と従ったように「恐れおののいて、自分の救いの達成に努めなさい、神はみ心のままに、あなたがたのうえに働いて事を行わせてくださるのです(2:13)」「傷の無い神の子供になり、命の言葉をしっかり握って、彼ら邪悪な世代の間で世の光として輝き(2:15~16参照)なさい、と勧める。
獄中にいる自分の代わりに信仰深く福音宣教に心より務めているテモテと、自分が窮乏していた時、物質的な援助をしてくれたエパフロデトとをあなたがたの所に送り、彼らによって、あなたがたが、私に仕えることのできなかった分を果たしてくれるであろうとパウロは祈った。
第3章:パウロはピリピの聖徒たちに警告する「1、どうか犬に気をつけなさい。2、悪い働き人に気を付けてください。3、肉体だけの割礼のものに気を付けてください(3:2)」と。彼らはユダヤ化主義者であり,偽教師である。彼らはピリピだけではなくパウロが福音伝道を行った異邦人の国には必ず現れ、その宣教を妨害し、聖徒たちをたぶらかしていた。これに対してパウロは言う「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものに頼みにしない私たちのほうこそ割礼のものなのです(3:3)」と。パウロは信仰を義として生きることこそ、キリスト者の基本であり、この基本に帰るようピリピの聖徒たちに勧める。そして聖徒たちに私を見習うものになれという。「私が迫害者から、キリストの啓示によって、敬虔なキリスト者に変身したように、あなたがたも変身せよ」と。「しかし、私はまだまだ修行中であり、道の半ばにある」「だから、私たちは、すでに達しているところを基準として進むべきです。(3~16)」と、救いに至る道は狭き門であると、パウロは言うキリスト者になるのは易くとも、その奥義を窮めるのは難しいのである。パウロは言う「神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走れ(3:14)」立ちはだかる障壁を超えて進め。と言う。
パウロはこれをまとめて言う。「1、よい模範に目を向けよ(3:17)2、悪い模範を避けよ(3:18~19)3、私たちの国籍は天にあり(3:20)」と。1と2の結果3に至る。「キリストは万物を自身に従わせる御力によって、私たち卑しい体を、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです(3:21)」。神のご計画の最終目的は、罪びとたる人を神の似姿に変えていくことにある。
4章:この章は、本書の結論といって良いであろう。
パウロは言う「私を愛し、慕う兄弟たち、私の喜びの冠よ」「どうかこのように主にあってしっかり立ってください。私の愛する人たち」。この後、パウロはピリピの聖徒たちに励ましを与え、心を一つにして力強く立ち、信仰を守るために協力し合うように強く勧めている。ピリピの教会は主から与えられた恵みによって安定した穢れなき教会ではあったが、そこに問題がないわけではなかった。ユウオデヤとスントケと言う二人の敬虔な女性の聖徒の間に確執があったことをパウロは指摘する。そしてキリストの名のもとに一致せよと言い、教会員はその和解に手を貸せと命じている。その確執の原因をパウロは述べていないが、教会内部の確執であろう。この確執は教会内部に悲しみと不安を与え、最悪、教会の内部崩壊を引き起こす危険をはらんでいた。それは教会の敵にとっては朗報であった。そうならないために、パウロは言う「祈りと感謝によって心を一つにしてあなたの願い事(2人の和解)を神に知ってもらいなさい。そうすれば人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(4;6)」と。その結果として和解は成立し、教会の一致は保たれる。パウロは神の平安を確約する。
パウロは、「真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、誉れあること、徳と言われるもの、称賛に値するものを心にとめて、私から学び、受け、聞き、見たことを実行しなさい」とピリピの聖徒たちに信仰のより一層の深化を勧める。
肉から霊へ。パウロは足るを知る秘訣を神より授かっているがゆえに、どんな境遇にあっても満ち足り、どんなことでも出来ると、神からの恵みを感謝し喜びを表す。しかしピリピの教会から与えられた物的援助を決して忘れない。物的援助の奥にある霊的祝福をパウロは見る。ピリピの教会は信仰において深化し、神の国の近いことを示している。
「2019年夏季ファミリー聖会㏌御殿場」に参加して
2019年8月11日(日)の午後から8月13日(火)正午まで、2泊3日のファミリー聖会が御殿場のYMCA東山荘で行われた。今年は、天竜めぐみ教会(久志目栄司牧師)が聖会事務局を担当した。
第2礼拝後、参加者は各自の車に分乗して2時過ぎには日野キリスト教会を出発した。我々4人(進藤雄也、純子夫婦、中川さん、私)も同じころ出発し、途中サービスエリアで早い夕食をとり、受け付け開始の5時には東山荘に到着した。受付をすまし5号館の108号室に落ち着いた。
集会は19時から始まった。ゲスト講師は熊本の大津キリスト教会の米村英二牧師。牧師は白髪のやせ型で品のいい高齢者であった。その語り口は物静かではあったが迫力はあった。長澤牧師のように元気溌剌と言うわけではなかったが説得力のある語り口であり、好感が持てた。ご夫妻で参加された(写真参照)。
その話は、ご自分の具体的な体験を通じて,本質に迫るというもので、人とは何か、人は何のために生き、どのように生きるべきか、と言う本質的な問いかけが、その話の根底に貫いていた。そのテーマは「キリスト教信仰に基づく人間形成」にあり、それを聖書に照らして行うべきであると理解し、行ってきたと。と証しする。
その話は、エレミヤ書(1:5~8)、ロマ書(3;21~22,5:1,7:24)、使徒行伝(20:24)を下敷きにして語られた。
第1日目:神はエレミヤを生まれる以前より知り、預言者として聖別していた。同じく私たちもキリストを信じる信徒として主によって聖別されている。それにふさわしく歩まなければならない。そこにはキリストが受けたような苦しみ、悲しみ、信仰を妨げる壁があるかもしれない。主は私たちと常にともにあり、遠くから見守ってくれている。恐れずに主が私たちに備えてくれた道を歩もう。
第2日目:ロマ書は律法の行いからキリストを信じる信仰を義として生きよと語る。人はキリストによって変らねばならない。そこには神の愛、無条件の愛(アガペー)がある。今、家庭崩壊の中で犠牲になる子供たちがいる。この家庭に神はいない。変わらねばならない。神を取り戻し、喜びに満ちた、健全な家庭を築かねばならない。
第3日目:使徒行伝20章24節の言葉「けれども、私が走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることが出来るなら私のいのちは少しも惜しいとは思いません」。牧師はこの文章から、次の2つの言葉を選ぶ「走るべき行程を走り尽くし」と「神の恵みの福音をあかしする任務」である。走り尽くすとは、神が私たちのために備えてくださった道を、ひたすら目移りせず走ることであり、任務とは私人としてではなく公人として神に仕えよという意味である。「汝の隣人を愛せよ」と言う言葉があるように、人は一人で生きることは出来ない。お互いに影響しあって生きている。公人とは神に選ばれた人を指し、任務とは福音を宣べ伝えることを意味する。そこにあるのは愛であり、ゆるしである。我々は変えられ、新しい人間関係を築き上げねばならない。その役割を教会が担っている。一言で言うなら牧師の言葉は、次の聖書の言葉に尽きると思う。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです、古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました(Ⅱコリント人への手紙5章17節)」。
これで米村牧師の言葉は終わる。果たして牧師の言葉を正確に伝えられたかどうかは極めて心もとない。しかしこれが私、守武 戢の感想である。参加した人の意見を求む。
あかし:8月18日(日)、日野キリスト教会で特別礼拝があり。そこで、ナオス・キリスト教会の遊佐学伝道師の「あかし」を聞く。「1975年、栃木県生まれ。12歳の時に薬物を始める。18歳の時少年院に入り、出てから覚せい剤に溺れ始め新宿歌舞伎町でヤクザになる。薬物の症状で幻聴・幻覚・激しい被害妄想に襲われ、自宅マンションの5階から飛び降りる。集中治療室を経て、1年間の入院生活を余儀なくされる。その後、破門になり刑務所に2度服役。刑務所の中で人生を変える一冊の本と出合う元ヤクザの牧師の書いた「悪タレ極道のいのちのやりなおし」この本の中でイエス・キリストに出会い、生かされていることの意味を知る。出所後、3か月後に受洗。2019年伝道師になる。現在は依存症の施設で働き、神学校に通っている(説明書から)」。
あかしをした伝道師の姿には「地獄を見た人」にありがちな暗さは微塵もなかった。そこには、悔い改め、神に救われた人の喜びの姿があった。私は、神の恵みを知ることが、すべてを変えるカギである、と確信した。
令和元年9月10日(火)報告者守武 戢 楽庵会
はじめに
新約聖書のパウロの書簡集(13書簡)のうち、既に報告した「エペソ人への手紙」、今回報告する「ピリピ人への手紙」、これから報告予定の「コロサイ人への手紙」、「ピレモン人への手紙」の4つはローマの獄中で書かれたので「獄中書簡」と呼ばれている。
ピリピの町は、アレクサンドル大王の父フィリポス2世にちなんでピリピ(フィリピ)と名付けられた町である。ピリピはパウロの時代にはローマ帝国の植民都市のひとつで、マケドニア地方の第一の都市として繁栄していた(使徒、16:12)。第2回伝道旅行の際、パウロはトロアスで一人のマケドニア人が彼の前に立って「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」という幻を見て(使徒16:8)ピリピに行く決心をし、ピリピに渡って宣教活動を行い、その地に教会を設立した。この教会はヨーロッパにおいてパウロが設立した最初の教会であったので、パウロはこの教会に特別な親近感を抱いていた。この教会もまたパウロの福音宣教に物心両面から協力していた。(4:14~20参照)。「物のやり取りをして」パウロの宣教活動を支えた唯一の教会でもあった(4:15参照)パウロはこの教会に喜びをもって感謝の意を示している。パウロとこの教会は、特別に深い絆で結ばれている様子が、この書簡を通して知ることができる。できることなら再度あなたたちの所を訪れたいとパウロは獄中より祈っている。しかしこの祈りは実現することはなかった。
この教会はパウロにとって「主に従った良い教会」ではあったが、決して完全であったわけではなく、内部に対立をはらんでいた(4:1~3)。パウロは「キリストの御名によって一致せよ」と勧め、それが実現することを心から願ったのである。
獄中書簡であるにもかかわらず、この書簡は最も喜びに満ちたものであるといわれている。パウロ自身イエス・キリストの啓示によって回心しそれまでの生活と決別し「主を信じる信仰」を義として生きているように、あなたがたもキリストの名のもとに義にかなった生活をするように」とパウロは聖徒たちに求めた。主において変わること。変わり続けること。それは、信仰を深めることを意味する。「信仰の進歩と喜びのために私と共に戦え」と、パウロは説いている。我々の信仰に完全はない。与えられた場所から出発せよ。完成に向かって走り続けよ、その結果として喜びが保障される。それ故この書簡は「喜びの書簡と言われている。
言葉の意味
喜び: ピリピ人の手紙を読むと、繰り返し「喜び」が語られている。別名「喜びの書簡」と呼ばれるゆえんである。その喜びの源泉はどこにあるのか。それは「我々の国籍は天にある」ことから来ている(3:20)。「そこから主イエスキリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです(4:20~21)」。これ以上の喜びがあるだろうか。パウロはピリピの聖徒たちに「私の喜び、冠よ」と呼びかけ「どうかこのように主にあって、しっかり立ってください。私の愛する人たち(4:1)」と語る。イエスを信じる人は新しく生まれ変わった人である。天に国籍のある人は、神の国の国民であるから、神のみ言葉を喜び、学び、語る。聖書の言葉を愛する。人生における本当の「喜び」とは、物質的なものや、楽しく快適な状況からくるものではないとパウロは強調する。喜びとは、自分が神の愛をいただいており、神様が私たちの人生において確かに働いておられるという静かな確信のことを意味する。どんなことがあろうと神様はそばにいて助けてくださるのです。イエス・キリストの臨在がいかに絶え間なく安定してあり続けるかを知って喜び、イエス様を通して我々も喜びを見出す必要があります。しかし、多くの人々は「キリストの十字架」の敵として歩んでいます。彼らの思いは地上のことだけです。彼らにあるのは滅びであって、彼らがどんなに彼らなりに努力しても「喜び」に至ることはない。
1章: 4,18,25,26節.2章:2,28節、3章:1節、4章:1,4,10節を参照のこと。
パウロ:キリスト教史の中では、パウロは最も重要な使徒である。小アジアのタルススでローマの市民権を持つユダヤ人の家庭に生まれる。パリサイ派の一員としてキリスト教徒を迫害したが、34年ごろ回心し、異邦人伝道を使命とし、3回の伝道旅行でエーゲ海一帯に福音を伝えた。エルサレムで捕らえられたが、ローマ市民の権利として皇帝に上訴。ローマに護送され、その後ネロ帝によって処刑されたらしい。この間の事情は「使徒の働き」に詳しい。キリスト教を普遍的宗教とした貢献者で、彼が各地の信徒にあてた書簡が新約聖書に収められている。回心前の名はサウロ、回心後の名はパウロである。サウロはイスラエルの初代の王サウロからとったといわれている。本書の3章においてパウロは次のように信仰告白をしている。「私は8日目の割礼を受けイスラエルの民族に属しベニヤミンの分かれのものです。生粋のへブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところの無い者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、一切のことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨ててそれらをちりあくた、と思っています。それは、私にはキリストを得、また、キリストの中にあるものと認められ、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです(3:5~9)」。と。
キリストに向かう一致:パウロは4章でピリピの教会の中に不一致があったことを語る。それは、ユウオデヤとスントケと言う敬虔な女性信徒の間の確執を指している。パウロは教会の平安のために「キリストにあって一致せよ」と命じる。
不一致はなぜ起こるのか。バベルの塔の話に象徴されているように、人は、ややもすると、その高慢から自己を神格化しようとする。神は人の高慢を最も嫌うお方である。天にも届こうとする塔の建設を中止させるために、それまで一つであった言葉をバラバラにして不一致を起こさせる。意思の疎通は阻害される。「人による一致は高慢を生み、神による一致は恵みと平安を生む」。と。人による不一致は、神の御業であり、神による一致へと導く。これもまた神の御業である。
キリスト者の一致は、キリストから始まる。それはキリストに向かっていく。キリスト者の一致はお互いにキリストによって救われ赦され愛されているという共通の基盤から出発する。そしてキリストの福音のために働くということに向かっていく。一致は出発点とともに、到達点、目的、目標が必要である。そしてお互いが、一つの到達点を目指していくとき、そこに一致が育っていく。キリストにある一致、キリストのための一致、一致を助ける協力者の存在こそが福音を広めることを可能とする。
「どうか、私たちの父なる神と、主イエスキリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように(1:2)」。
パウロの死生観:パウロに限らず、キリスト者にとって生とは死のためにある。生は一時的なものであり、死は永遠である。死は肉体的には終わりであっても霊的には終わりではなく永遠の世界である。そこは神の住む真に自由な世界である(我々の国籍は天にあり)。しかし、この永遠の命をだれもが得られるわけではない。パウロは言う「あなたがたは霊を一つにして、しっかりと立ち、心を一つにして、キリストの福音にふさわしい生活をしなさい(1:27)」と。生とは永遠の命を得るための準備段階であり、神を信じる信仰によってのみ永遠の命が与えられるという確信こそが必要なのである。「神の国」の存在は科学的には証明できないからである。この確信こそが歴史の中にあってキリストの信徒たちが残酷な迫害にあっても、死をも恐れぬ信仰を貫くことができたのであろう。これが、「生きることはキリスト、死ぬことは益です(1:21)」の意味である。パウロは言う「あなたがたの信仰の進歩と喜びのために、私は生きながらえて(中略)いるのだ(1:24参照)」と。キリストを信じる信仰の世界に入った人間のみが、永遠の世界(神の国)に入ることができるのである。キリストによって霊的に変えられること恵みと平安が与えられること、これがパウロの書簡集の目標であり、聖書の目標でもある。
祈りの力:祈りは私たちの心を守る。私たちは祈るとき「イエスキリストの名によって祈ります」と言う。それにはイエスキリストを信じます。イエスキリストを通して祈ります。神がイエスキリストを通じて、この祈りに応えてくださることに感謝します」と言う意味が込められている。キリストの名のもとに祈るとき主は必ず応えてくださるのである。
本書の目的:「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安があなたがたの上にありますように(1:2)」。パウロはピリピ人から送られた贈り物への感謝の気持ちを伝え、真の喜びは、イエスキリスト以外からは受け取ることは出来ないという事実を語る。そして、より強いキリスト者になるためになすべきことを語り、より強くあれと励ます。そこにはピリピの教会に対する深い愛情があった。
著 者:キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテによって書かれた。テモテが代筆したともいわれている。
執筆年代:西暦61年ごろ:
執筆場所:ローマの獄中
内容構成:以下の表を参照
>各章ごとの説明
第1章:パウロはピリピの聖徒たちの協力に対して感謝の意を表し「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかってきたことに感謝しています(1:5)」「キリスト・イエスが来る日まで、それを完成させてくださることを、私は堅く信じています(1;7参照)」と祈る。
パウロは獄中生活を含め主に仕える際に経験した逆境は福音の前進に役立ったと語る。「私がキリストのゆえに投獄されたということを聖徒たちが知り、主にあって確信が与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神の言葉を語る、心を合わせようになりました(1;12~14参照)」「私にとっては『生きることはキリスト、死ぬことも益です(それ以上です)(1:21)』その上に、信仰を守るにあたり、、心を一つにして力強く立つようにとパウロは勧める。「あなたがたはキリストのために、信じる信仰だけでなくキリストのための苦しみをも賜ったのです(1:29)」。「私が経験したと同じ戦いをあなたがたは経験しているのです(1:30参照)」キリストを信じることは苦しさを伴うことであると語っている。
第2章:パウロはさらに聖徒たちに言う「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください(2:2)」と。一つにまとまっているかに見えたピリピの教会にも不一致はあったことがわかる。
そして、パウロは愛、従順さ謙遜さの模範として、自らを低くしてこの世に現れたイエス・キリストを模範として挙げる(2:5~11)。そして、キリストが神の定めた運命に粛々と従ったように「恐れおののいて、自分の救いの達成に努めなさい、神はみ心のままに、あなたがたのうえに働いて事を行わせてくださるのです(2:13)」「傷の無い神の子供になり、命の言葉をしっかり握って、彼ら邪悪な世代の間で世の光として輝き(2:15~16参照)なさい、と勧める。
獄中にいる自分の代わりに信仰深く福音宣教に心より務めているテモテと、自分が窮乏していた時、物質的な援助をしてくれたエパフロデトとをあなたがたの所に送り、彼らによって、あなたがたが、私に仕えることのできなかった分を果たしてくれるであろうとパウロは祈った。
第3章:パウロはピリピの聖徒たちに警告する「1、どうか犬に気をつけなさい。2、悪い働き人に気を付けてください。3、肉体だけの割礼のものに気を付けてください(3:2)」と。彼らはユダヤ化主義者であり,偽教師である。彼らはピリピだけではなくパウロが福音伝道を行った異邦人の国には必ず現れ、その宣教を妨害し、聖徒たちをたぶらかしていた。これに対してパウロは言う「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものに頼みにしない私たちのほうこそ割礼のものなのです(3:3)」と。パウロは信仰を義として生きることこそ、キリスト者の基本であり、この基本に帰るようピリピの聖徒たちに勧める。そして聖徒たちに私を見習うものになれという。「私が迫害者から、キリストの啓示によって、敬虔なキリスト者に変身したように、あなたがたも変身せよ」と。「しかし、私はまだまだ修行中であり、道の半ばにある」「だから、私たちは、すでに達しているところを基準として進むべきです。(3~16)」と、救いに至る道は狭き門であると、パウロは言うキリスト者になるのは易くとも、その奥義を窮めるのは難しいのである。パウロは言う「神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走れ(3:14)」立ちはだかる障壁を超えて進め。と言う。
パウロはこれをまとめて言う。「1、よい模範に目を向けよ(3:17)2、悪い模範を避けよ(3:18~19)3、私たちの国籍は天にあり(3:20)」と。1と2の結果3に至る。「キリストは万物を自身に従わせる御力によって、私たち卑しい体を、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです(3:21)」。神のご計画の最終目的は、罪びとたる人を神の似姿に変えていくことにある。
4章:この章は、本書の結論といって良いであろう。
パウロは言う「私を愛し、慕う兄弟たち、私の喜びの冠よ」「どうかこのように主にあってしっかり立ってください。私の愛する人たち」。この後、パウロはピリピの聖徒たちに励ましを与え、心を一つにして力強く立ち、信仰を守るために協力し合うように強く勧めている。ピリピの教会は主から与えられた恵みによって安定した穢れなき教会ではあったが、そこに問題がないわけではなかった。ユウオデヤとスントケと言う二人の敬虔な女性の聖徒の間に確執があったことをパウロは指摘する。そしてキリストの名のもとに一致せよと言い、教会員はその和解に手を貸せと命じている。その確執の原因をパウロは述べていないが、教会内部の確執であろう。この確執は教会内部に悲しみと不安を与え、最悪、教会の内部崩壊を引き起こす危険をはらんでいた。それは教会の敵にとっては朗報であった。そうならないために、パウロは言う「祈りと感謝によって心を一つにしてあなたの願い事(2人の和解)を神に知ってもらいなさい。そうすれば人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(4;6)」と。その結果として和解は成立し、教会の一致は保たれる。パウロは神の平安を確約する。
パウロは、「真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、誉れあること、徳と言われるもの、称賛に値するものを心にとめて、私から学び、受け、聞き、見たことを実行しなさい」とピリピの聖徒たちに信仰のより一層の深化を勧める。
肉から霊へ。パウロは足るを知る秘訣を神より授かっているがゆえに、どんな境遇にあっても満ち足り、どんなことでも出来ると、神からの恵みを感謝し喜びを表す。しかしピリピの教会から与えられた物的援助を決して忘れない。物的援助の奥にある霊的祝福をパウロは見る。ピリピの教会は信仰において深化し、神の国の近いことを示している。
「2019年夏季ファミリー聖会㏌御殿場」に参加して
2019年8月11日(日)の午後から8月13日(火)正午まで、2泊3日のファミリー聖会が御殿場のYMCA東山荘で行われた。今年は、天竜めぐみ教会(久志目栄司牧師)が聖会事務局を担当した。
第2礼拝後、参加者は各自の車に分乗して2時過ぎには日野キリスト教会を出発した。我々4人(進藤雄也、純子夫婦、中川さん、私)も同じころ出発し、途中サービスエリアで早い夕食をとり、受け付け開始の5時には東山荘に到着した。受付をすまし5号館の108号室に落ち着いた。
集会は19時から始まった。ゲスト講師は熊本の大津キリスト教会の米村英二牧師。牧師は白髪のやせ型で品のいい高齢者であった。その語り口は物静かではあったが迫力はあった。長澤牧師のように元気溌剌と言うわけではなかったが説得力のある語り口であり、好感が持てた。ご夫妻で参加された(写真参照)。
その話は、ご自分の具体的な体験を通じて,本質に迫るというもので、人とは何か、人は何のために生き、どのように生きるべきか、と言う本質的な問いかけが、その話の根底に貫いていた。そのテーマは「キリスト教信仰に基づく人間形成」にあり、それを聖書に照らして行うべきであると理解し、行ってきたと。と証しする。
その話は、エレミヤ書(1:5~8)、ロマ書(3;21~22,5:1,7:24)、使徒行伝(20:24)を下敷きにして語られた。
第1日目:神はエレミヤを生まれる以前より知り、預言者として聖別していた。同じく私たちもキリストを信じる信徒として主によって聖別されている。それにふさわしく歩まなければならない。そこにはキリストが受けたような苦しみ、悲しみ、信仰を妨げる壁があるかもしれない。主は私たちと常にともにあり、遠くから見守ってくれている。恐れずに主が私たちに備えてくれた道を歩もう。
第2日目:ロマ書は律法の行いからキリストを信じる信仰を義として生きよと語る。人はキリストによって変らねばならない。そこには神の愛、無条件の愛(アガペー)がある。今、家庭崩壊の中で犠牲になる子供たちがいる。この家庭に神はいない。変わらねばならない。神を取り戻し、喜びに満ちた、健全な家庭を築かねばならない。
第3日目:使徒行伝20章24節の言葉「けれども、私が走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることが出来るなら私のいのちは少しも惜しいとは思いません」。牧師はこの文章から、次の2つの言葉を選ぶ「走るべき行程を走り尽くし」と「神の恵みの福音をあかしする任務」である。走り尽くすとは、神が私たちのために備えてくださった道を、ひたすら目移りせず走ることであり、任務とは私人としてではなく公人として神に仕えよという意味である。「汝の隣人を愛せよ」と言う言葉があるように、人は一人で生きることは出来ない。お互いに影響しあって生きている。公人とは神に選ばれた人を指し、任務とは福音を宣べ伝えることを意味する。そこにあるのは愛であり、ゆるしである。我々は変えられ、新しい人間関係を築き上げねばならない。その役割を教会が担っている。一言で言うなら牧師の言葉は、次の聖書の言葉に尽きると思う。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです、古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました(Ⅱコリント人への手紙5章17節)」。
これで米村牧師の言葉は終わる。果たして牧師の言葉を正確に伝えられたかどうかは極めて心もとない。しかしこれが私、守武 戢の感想である。参加した人の意見を求む。
あかし:8月18日(日)、日野キリスト教会で特別礼拝があり。そこで、ナオス・キリスト教会の遊佐学伝道師の「あかし」を聞く。「1975年、栃木県生まれ。12歳の時に薬物を始める。18歳の時少年院に入り、出てから覚せい剤に溺れ始め新宿歌舞伎町でヤクザになる。薬物の症状で幻聴・幻覚・激しい被害妄想に襲われ、自宅マンションの5階から飛び降りる。集中治療室を経て、1年間の入院生活を余儀なくされる。その後、破門になり刑務所に2度服役。刑務所の中で人生を変える一冊の本と出合う元ヤクザの牧師の書いた「悪タレ極道のいのちのやりなおし」この本の中でイエス・キリストに出会い、生かされていることの意味を知る。出所後、3か月後に受洗。2019年伝道師になる。現在は依存症の施設で働き、神学校に通っている(説明書から)」。
あかしをした伝道師の姿には「地獄を見た人」にありがちな暗さは微塵もなかった。そこには、悔い改め、神に救われた人の喜びの姿があった。私は、神の恵みを知ることが、すべてを変えるカギである、と確信した。
令和元年9月10日(火)報告者守武 戢 楽庵会