ゼパニヤ書
はじめに
アッシリアの支配下、南ユダ16代目の王ヨシアの時代、王族の系統に繋がる預言者ゼパニヤに主の召命が下る。その言葉を記したものがゼパニヤ書である。
ゼパニヤは「主の日」を「さばき」の到来する日と預言しているが、その範囲はイスラエルだけでなく、その周辺諸国にも及んでいる。その周辺諸国とは西はペリシテ、東はモアブ、アモン、南はクシュ(エチオピア)北はアッシリアであり、いわゆる反ユダ反イスラエルと呼ばれている諸国である。
第1章ではイスラエルが「反逆と穢れに満ちた暴力の町」と見做され、第2章では周辺諸国が「神をないがしろにしておごり高ぶり、主の選びの民をそしり侵略した」として、主が、これを罰した。3章ではゼパニヤ書の纏めと言ってよく「さばき」と「回復」が語られている。「さばき」は主の家から始まる、と言われているようにそれはイスラエルの民に対する主の愛を現している。主は愛する者を厳しく諫める。それゆえ、主はイスラエルの罪を厳しく罰しても、これを滅ぼしたりしない。「さばき」の中から悔い改め、主に立ち返った者を「残りの者」として回復するのである。選びの民は回復されるが、反イスラエルの周辺諸国は決して回復されない。これが主のご計画における統治の原則である。反イスラエルの諸国は滅ぼされ、イスラエルを脅かす者はもはや存在しない。主は喜び、民も喜ぶ。主の喜びは民の喜びであり、民の喜びは主の喜びである。
主のご計画は決して「さばき」で終わるのではなく、新しい主の民(残りの者)を確立させるためにある。その彼方に新天新地があり、神の似姿がある。喜びの声でゼパニヤ書は終わっている。他の預言書と同じく「さばき」と「回復」、これがゼパニヤ書の主題である。
歴史的背景
善王として名高い父王ヒゼキヤの後を継いだマナセ、アモンは背教の王として有名である。彼らは自己保全のためアッシリアに頼り、主に頼ろうとはしなかった。彼らの後を継いだヨシア王は、マナセ、アモン(暗殺)の背教を正し善政を敷き宗教改革を断行する。このヨシア王の治世の初期にゼパニヤは主から召命を受ける。彼は王と共に改革に関わったであろう。しかし、マナセ、アモンの背教の後遺症は甚だしく主の怒りを解くことは出来なかった。主は怒り「私に帰れ」と勧告する。その当時の様相がゼパニヤ書には描かれている。さらに、ヨシア王はエジプトとのメギドの戦いに戦死し、その改革は道半ばにして挫折する。ヨシア王の後を継いだ王たちも拉致されたり、傀儡政権になったりでイスラエルは急速に滅びへと進んでいく。彼らは決して主に立ち返ることは無かった。歴史的結果は滅びであってゼパニヤ書に描かれているのような救いでは無かった。
北王国は既に滅び、南ユダ王国も滅びの運命にある時、ヨシア王の治世下の初期に王(ヒゼキヤ)の身内であるゼパニヤがイスラエルに対して、主の「さばき」と「回復」の言葉を語ったのである。
イスラエルの歴史は主と民との葛藤の歴史であり、主は民の罪をさばき、これを罰する。しかし主はイスラエルがどんなに自分に逆らおうとも、これを滅ぼそうとはしなかった。それどころか、一貫として取り戻そうとしてきた。本来において人間を人間たらしめているものは何か。人は神の似姿として生まれて来た。だから人の心の底には神が存在している。その心の神は原罪によって潜在化し、隠されたが、消失したわけではない。それは悔い改めによって蘇る。イエスの十字架の死と蘇り、そこに原罪からの解放がある。遠い遠い将来、人は神の似姿を取り戻す。
ゼパニヤ書の内容構成は次の3つに分類される。
1.主の怒りの日、ユダに対する「さばき」の宣告と悔い改めへの勧告(1:2~2:3)。
2.ユダの周辺諸国(アッシリア、モアブ、アモン、クシュ=エチオピア、ペリシテ)に対する、主の「さばき」の宣告(2:4~3:8)。
3.エルサレムに対する回復の預言。シオンの娘よ、喜び歌え(3:9~20)。
章ごとの説明
1章1節~2章3節
「ユダの王、アンモンの子ヨシアの時代、クシュの子ゼパニヤにあった主の言葉」とあるようにアッシリアの支配下ヨシア王の時代にゼパニヤに主の召命が下ったのである。1章は主の厳しい怒りの言葉から始まる。ヨシア王はマナセ、アモンの長年にわたる(56年)背教の結果、退廃した国を引き継ぐ。ヨシア王は改革を行うことによって主の意向に沿って退廃からの解放を試みる。主の怒りの激しさから判断してゼパニヤが預言したのは改革以前の退廃した社会に向けてであることが判る。「さばき」の主題はバアル信仰であり、おごり高ぶりであり、神殿聖娼であり、異教の神モレコム礼拝であり、主に対する不信仰に対してであった。また長年にわたる親アッシリア政策は文化的にも異教的慣習に染まっていた。これら全てを取り除くと主は宣言する。これらは主の日に行われる。主の日にイスラエルの民は激しい怒りに接する。この日は苦難と苦悩の日であり、荒廃と滅亡の日であり、闇と暗黒の日であり、雲と暗闇の日であり、角笛と鬨の声の日であり、城壁のある町々と四隅の塔が襲われる日である。金銀財宝はこの罪から解放することは出来ない。しかし主は「主の日」に「さばき」だけを行うわけではない。主の「さばき」が訪れる前に悔い改めるならば、神に立ち返るならば主は定めを行う。主は怒りを治める(2:1~3参照)。残りの者の思想がこの時現れる。
言 葉
ゼパニヤ:南ユダのヨシア王の時代、主によってユダの民を救うために召命された預言者。エルサレムと、その周辺諸国に対して「さばき」と「回復」を預言する。ヒゼキヤ王に繋がる由緒正しき預言者(異論もあり)。
残りの者:イスラエルの民は、主に逆らい退廃していた。そんな中にあって主を尊び、敬い、信仰して従う者があった。主はこれらのものを聖別して「残りの者」と呼ぶ。
残り者の思想はイザヤ書において顕著に表れる。「残り者の思想」とメシアとの関係は極めて重要である。主との契約を破棄した不義なるイスラエルの民に主の審判が望むが、その民の中からあたかも切り株から生命が芽生えるように「残り者」と言う少数の真のイスラエルが生じて聖なる末を形作る(イサヤ6:13)この聖なる末こそ、もう再び、自分を打つ者(アッシリア)に頼らずイスラエルの聖なるお方、主にまことを持って頼る残りの者、ヤコブの残り者は、力ある神に立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち帰る(イザヤ10:20~22)者たちである。この「残り者」こそ、メシア王国(千年王国)、及び、「永遠の御国」における「新しい聖なる都」の成員となる。
「私を待て」:ここには終末論的待望論がある。主は自分自身にも「待」て、と言う。主は、民の悔い改めと、主への立ち返りを待ち、民は、主の恵みを待つ。
2章4~15節 ユダの周辺諸国に対する審判預言
周辺諸国とはイスラエルを取り巻く反ユダヤ主義の国々を指し、これらの国々対する主の「さばき」の預言が第2章で語られている。その国々とは、西は、ペリシテ(海辺に住む者たち、ケレテ人の国、ペリシテ人の国カナン)でカザ、アシュケロン、アシュドデ、エクロンがその範囲内にある。東はモアブ、アモン、南はクシュ=エチオピア(含むエジプト)、北はアッシリアを指している。
ユダの周辺諸国に対する審判預言
第3章 エルサレムへの「さばき」とその回復
ゼパニヤの活躍した時代は、アッシリア支配による覇権の続いていた時代であり、彼はその力を誇り、おごり高ぶっていた。他方イスラエルはアッシリアの支配下、真の神はそこにおらず、反逆と穢れに満ちた暴力の町に成り下がっていた。不正を行うものは恥を知らない。呼びかけを聞こうともせず、主に信頼せず、懲らしめを受けようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。神は怒りこれを罰する。しかし回復の道を用意している。選びの民を滅ぼさない。悔い改め主に立ち返るならば「その住まいは断ち滅ぼされまい」。そのためにはイスラエルを罪に貶めている反ユダの諸国は滅ぼされなくてはならない。主は言う「その日を待て」と。主の日は決して「さばき」だけで終わるのではなく、新しい主の民(残されたもの)を確立するためにある。
唇を変えて清くする 「その時わたしは、国々の民の唇を変えて清くする。彼らはみな主の御名によって祈り一つになって主に仕える(3:9)」。清い唇とは、純正な言葉、唯一の真理を現し、神によって変えられた唯一の言葉を意味する。バベルの塔の事件によって散らされた言葉は、ここに、再び、統一される。言語の統一は諸国の民を共通の言語でまとめ、主に祈ることを可能とする。言葉の違いによる相互不信は無くなり、主の定めの日に主の家の構築を可能とする。
「クシュの川の向こうからわたしに願い事をする者、私に散らされた者たちが贈り物を持ってくる(3:10)」。贈り物とは悔い改めと、神への立ち返りの言葉を指している。それ故、「その日には、あなたは、私に逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることは無い(3:10)」のである。
主の日、主は選びの民を聖別する。「あなたの中から、おごり高ぶる者どもを取り去り」「へりくだった寄るべない民を残す」と。「彼らはただ主の御名に身を避ける(保護を求める)。イスラエルの残りの者は不正を行わず偽りを言わない--------。彼らを脅かす者はいない(3:11~13参照)ここには最後の審判が描かれている。主に逆らうものは滅ぼされ、主に忠実な「残された者」が残されるのである。
3章14~20節にはイスラエルの神とその選びのイスラエルの民の回復の喜びが描かれている。その日、エルサレムは(主から)こう言われる「シオンよ恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主はあなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びを持って、あなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌って、あなたのことを喜ばれる(3:16~17)」と。主はメシア王国の時に、主は恩寵として選んだシオンの娘(エルサレム)を単に「集め」、「連れ帰る」だけでなく彼らに本来与えられていた名誉と栄誉という特権を回復して下さるのである(3:20参照)
はじめに
アッシリアの支配下、南ユダ16代目の王ヨシアの時代、王族の系統に繋がる預言者ゼパニヤに主の召命が下る。その言葉を記したものがゼパニヤ書である。
ゼパニヤは「主の日」を「さばき」の到来する日と預言しているが、その範囲はイスラエルだけでなく、その周辺諸国にも及んでいる。その周辺諸国とは西はペリシテ、東はモアブ、アモン、南はクシュ(エチオピア)北はアッシリアであり、いわゆる反ユダ反イスラエルと呼ばれている諸国である。
第1章ではイスラエルが「反逆と穢れに満ちた暴力の町」と見做され、第2章では周辺諸国が「神をないがしろにしておごり高ぶり、主の選びの民をそしり侵略した」として、主が、これを罰した。3章ではゼパニヤ書の纏めと言ってよく「さばき」と「回復」が語られている。「さばき」は主の家から始まる、と言われているようにそれはイスラエルの民に対する主の愛を現している。主は愛する者を厳しく諫める。それゆえ、主はイスラエルの罪を厳しく罰しても、これを滅ぼしたりしない。「さばき」の中から悔い改め、主に立ち返った者を「残りの者」として回復するのである。選びの民は回復されるが、反イスラエルの周辺諸国は決して回復されない。これが主のご計画における統治の原則である。反イスラエルの諸国は滅ぼされ、イスラエルを脅かす者はもはや存在しない。主は喜び、民も喜ぶ。主の喜びは民の喜びであり、民の喜びは主の喜びである。
主のご計画は決して「さばき」で終わるのではなく、新しい主の民(残りの者)を確立させるためにある。その彼方に新天新地があり、神の似姿がある。喜びの声でゼパニヤ書は終わっている。他の預言書と同じく「さばき」と「回復」、これがゼパニヤ書の主題である。
歴史的背景
善王として名高い父王ヒゼキヤの後を継いだマナセ、アモンは背教の王として有名である。彼らは自己保全のためアッシリアに頼り、主に頼ろうとはしなかった。彼らの後を継いだヨシア王は、マナセ、アモン(暗殺)の背教を正し善政を敷き宗教改革を断行する。このヨシア王の治世の初期にゼパニヤは主から召命を受ける。彼は王と共に改革に関わったであろう。しかし、マナセ、アモンの背教の後遺症は甚だしく主の怒りを解くことは出来なかった。主は怒り「私に帰れ」と勧告する。その当時の様相がゼパニヤ書には描かれている。さらに、ヨシア王はエジプトとのメギドの戦いに戦死し、その改革は道半ばにして挫折する。ヨシア王の後を継いだ王たちも拉致されたり、傀儡政権になったりでイスラエルは急速に滅びへと進んでいく。彼らは決して主に立ち返ることは無かった。歴史的結果は滅びであってゼパニヤ書に描かれているのような救いでは無かった。
北王国は既に滅び、南ユダ王国も滅びの運命にある時、ヨシア王の治世下の初期に王(ヒゼキヤ)の身内であるゼパニヤがイスラエルに対して、主の「さばき」と「回復」の言葉を語ったのである。
イスラエルの歴史は主と民との葛藤の歴史であり、主は民の罪をさばき、これを罰する。しかし主はイスラエルがどんなに自分に逆らおうとも、これを滅ぼそうとはしなかった。それどころか、一貫として取り戻そうとしてきた。本来において人間を人間たらしめているものは何か。人は神の似姿として生まれて来た。だから人の心の底には神が存在している。その心の神は原罪によって潜在化し、隠されたが、消失したわけではない。それは悔い改めによって蘇る。イエスの十字架の死と蘇り、そこに原罪からの解放がある。遠い遠い将来、人は神の似姿を取り戻す。
ゼパニヤ書の内容構成は次の3つに分類される。
1.主の怒りの日、ユダに対する「さばき」の宣告と悔い改めへの勧告(1:2~2:3)。
2.ユダの周辺諸国(アッシリア、モアブ、アモン、クシュ=エチオピア、ペリシテ)に対する、主の「さばき」の宣告(2:4~3:8)。
3.エルサレムに対する回復の預言。シオンの娘よ、喜び歌え(3:9~20)。
章ごとの説明
1章1節~2章3節
「ユダの王、アンモンの子ヨシアの時代、クシュの子ゼパニヤにあった主の言葉」とあるようにアッシリアの支配下ヨシア王の時代にゼパニヤに主の召命が下ったのである。1章は主の厳しい怒りの言葉から始まる。ヨシア王はマナセ、アモンの長年にわたる(56年)背教の結果、退廃した国を引き継ぐ。ヨシア王は改革を行うことによって主の意向に沿って退廃からの解放を試みる。主の怒りの激しさから判断してゼパニヤが預言したのは改革以前の退廃した社会に向けてであることが判る。「さばき」の主題はバアル信仰であり、おごり高ぶりであり、神殿聖娼であり、異教の神モレコム礼拝であり、主に対する不信仰に対してであった。また長年にわたる親アッシリア政策は文化的にも異教的慣習に染まっていた。これら全てを取り除くと主は宣言する。これらは主の日に行われる。主の日にイスラエルの民は激しい怒りに接する。この日は苦難と苦悩の日であり、荒廃と滅亡の日であり、闇と暗黒の日であり、雲と暗闇の日であり、角笛と鬨の声の日であり、城壁のある町々と四隅の塔が襲われる日である。金銀財宝はこの罪から解放することは出来ない。しかし主は「主の日」に「さばき」だけを行うわけではない。主の「さばき」が訪れる前に悔い改めるならば、神に立ち返るならば主は定めを行う。主は怒りを治める(2:1~3参照)。残りの者の思想がこの時現れる。
言 葉
ゼパニヤ:南ユダのヨシア王の時代、主によってユダの民を救うために召命された預言者。エルサレムと、その周辺諸国に対して「さばき」と「回復」を預言する。ヒゼキヤ王に繋がる由緒正しき預言者(異論もあり)。
残りの者:イスラエルの民は、主に逆らい退廃していた。そんな中にあって主を尊び、敬い、信仰して従う者があった。主はこれらのものを聖別して「残りの者」と呼ぶ。
残り者の思想はイザヤ書において顕著に表れる。「残り者の思想」とメシアとの関係は極めて重要である。主との契約を破棄した不義なるイスラエルの民に主の審判が望むが、その民の中からあたかも切り株から生命が芽生えるように「残り者」と言う少数の真のイスラエルが生じて聖なる末を形作る(イサヤ6:13)この聖なる末こそ、もう再び、自分を打つ者(アッシリア)に頼らずイスラエルの聖なるお方、主にまことを持って頼る残りの者、ヤコブの残り者は、力ある神に立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち帰る(イザヤ10:20~22)者たちである。この「残り者」こそ、メシア王国(千年王国)、及び、「永遠の御国」における「新しい聖なる都」の成員となる。
「私を待て」:ここには終末論的待望論がある。主は自分自身にも「待」て、と言う。主は、民の悔い改めと、主への立ち返りを待ち、民は、主の恵みを待つ。
2章4~15節 ユダの周辺諸国に対する審判預言
周辺諸国とはイスラエルを取り巻く反ユダヤ主義の国々を指し、これらの国々対する主の「さばき」の預言が第2章で語られている。その国々とは、西は、ペリシテ(海辺に住む者たち、ケレテ人の国、ペリシテ人の国カナン)でカザ、アシュケロン、アシュドデ、エクロンがその範囲内にある。東はモアブ、アモン、南はクシュ=エチオピア(含むエジプト)、北はアッシリアを指している。
ユダの周辺諸国に対する審判預言
第3章 エルサレムへの「さばき」とその回復
ゼパニヤの活躍した時代は、アッシリア支配による覇権の続いていた時代であり、彼はその力を誇り、おごり高ぶっていた。他方イスラエルはアッシリアの支配下、真の神はそこにおらず、反逆と穢れに満ちた暴力の町に成り下がっていた。不正を行うものは恥を知らない。呼びかけを聞こうともせず、主に信頼せず、懲らしめを受けようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。神は怒りこれを罰する。しかし回復の道を用意している。選びの民を滅ぼさない。悔い改め主に立ち返るならば「その住まいは断ち滅ぼされまい」。そのためにはイスラエルを罪に貶めている反ユダの諸国は滅ぼされなくてはならない。主は言う「その日を待て」と。主の日は決して「さばき」だけで終わるのではなく、新しい主の民(残されたもの)を確立するためにある。
唇を変えて清くする 「その時わたしは、国々の民の唇を変えて清くする。彼らはみな主の御名によって祈り一つになって主に仕える(3:9)」。清い唇とは、純正な言葉、唯一の真理を現し、神によって変えられた唯一の言葉を意味する。バベルの塔の事件によって散らされた言葉は、ここに、再び、統一される。言語の統一は諸国の民を共通の言語でまとめ、主に祈ることを可能とする。言葉の違いによる相互不信は無くなり、主の定めの日に主の家の構築を可能とする。
「クシュの川の向こうからわたしに願い事をする者、私に散らされた者たちが贈り物を持ってくる(3:10)」。贈り物とは悔い改めと、神への立ち返りの言葉を指している。それ故、「その日には、あなたは、私に逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることは無い(3:10)」のである。
主の日、主は選びの民を聖別する。「あなたの中から、おごり高ぶる者どもを取り去り」「へりくだった寄るべない民を残す」と。「彼らはただ主の御名に身を避ける(保護を求める)。イスラエルの残りの者は不正を行わず偽りを言わない--------。彼らを脅かす者はいない(3:11~13参照)ここには最後の審判が描かれている。主に逆らうものは滅ぼされ、主に忠実な「残された者」が残されるのである。
3章14~20節にはイスラエルの神とその選びのイスラエルの民の回復の喜びが描かれている。その日、エルサレムは(主から)こう言われる「シオンよ恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主はあなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びを持って、あなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌って、あなたのことを喜ばれる(3:16~17)」と。主はメシア王国の時に、主は恩寵として選んだシオンの娘(エルサレム)を単に「集め」、「連れ帰る」だけでなく彼らに本来与えられていた名誉と栄誉という特権を回復して下さるのである(3:20参照)
平成30年6月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会