日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

松本清張作『小説・帝銀事件』平沢貞通は真犯人か?

2011年07月11日 | Weblog
帝銀事件
帝銀事件は、戦後の混乱期、GHQ(連合軍総司令部)の占領下【1945(昭和20)年8月15日~1952(昭和27)年4月28日(対日講和条約、日米安保条約発効まで)】に起きた凶悪な毒殺事件であり、毒薬を飲まされた帝銀椎名町支店の行員16人のうち12人が死亡するという前代未聞の事件であった。この時代日本における国家権力はGHQという事実上のアメリカの支配下にあり、二重権力とはいうものの完全に日本政府はGHQに従属していた。捜査の対象は最初軍関係に向けられるが、巨大なGHQの圧力によって頓挫し、軍関係とは全く無関係な画家=平沢貞通が逮捕され、死刑判決が下される。しかし、いまだ多くの謎が解明されていない。冤罪ではないかとも云われている。現在でも養子の平沢武彦氏を中心に第19次再審請求が続けられている。

発生日時  1948(昭和23)年1月26日
発生場所  東京都豊島区 帝国銀行(のちの三井銀行、現在の三井住友銀行)椎名町支店
事件の概要  銀行閉店後の3時過ぎ、都衛生課員を名乗る中年の男が当銀行に訪れ、消毒液と偽って行員に青酸化合物を飲ませ、16人の行員のうち12人を殺害。現金合計、16万4千4百55円35銭、小切手1万7千4百50円、合計18万1千8百55円35銭を奪う。現在の貨幣価値で換算すると100倍になるという。
経過  その毒物に対する卓越した専門知識に注目した警視庁の捜査課は、
1、捜査の主流を、毒物の取り扱いを熟知した、旧陸軍細菌(毒物も含む)部隊(石井陸軍軍医中将指揮下にあった731部隊)の関係者におき、
2、平沢犯人説はあくまでも傍流であった。
 それが、突然、平沢犯人説が主流となり、1948年8月21日テンペラ画家で文展無鑑査の大家・平沢貞通(雅号は大)が逮捕される。旧軍人関係の捜査は不意に巨大な壁にぶつかって頓挫したのである。巨大な壁とは何か?それは、後に述べる。
 平沢は最初こそ、その厳しい取り調べ(拷問に近い取り調べがあったと言われる)に耐えきれず、殺人を認めたが、その後一貫として無罪を主張している。
 1955年5月7日平沢の死刑が確定する。
しかし謎の多い事件の為、えん罪かもしれぬという疑いはぬぐい切れず、代々の法務大臣は、死刑執行命令書に署名することを拒否している。平沢は長年宮城刑務所に収監されていたが、後に高齢のため体調を崩し、八王子医療刑務所に送られ、そこで肺炎を患い1987(昭和62)年5月10日、天寿を全うしている。享年95歳。結局、死刑の執行はなかった。確定死刑囚の収監期間32年は、当時としては世界最長の記録である。

 松本清張(1909年12月21日~1992年8月4日、享年83歳)は、この著『小説・帝銀事件』(1959年文藝春秋読者賞受賞)で平沢の冤罪を主張している。この作品の初版は1961年であり、事件後13年がたっている。この当時、まだ明らかにされず松本清張自身も、推察の域を出なかった新事実・GHQの秘密文書が公開され、1985年、読売新聞で以下の事実が報道された。
1、毒殺犯の手口が軍科学研究所の作成した毒薬に関する指導書に一致。
2、犯行時に使用した器具が同研究所で使用されたものと一致。
3、1948年3月、GHQ(先に述べた巨大な壁)が731部隊の捜査・報道を差し止めた。
 これは明らかに旧軍人関係者の事件への関与を示唆したものであったが、この報道後も、捜査は行われず、平沢は生きて拘置所から出ることはなかったのである。
 以上が事件の概略である。これから松本清張の「小説・帝銀事件」の紹介に入る。松本清張は一貫して平沢の無罪を前提に話を進めている。しかし、そこには、その主張ゆえの事実の歪曲や偏見はない。事実を事実として認めながらも、多くの疑問点を探り出し、平沢の事件への関与を否定している。
 この小説には松本清張らしき人物が登場する。R新聞論説委員の仁科俊太郎である。彼は多くの資料(強盗殺人被告人平沢貞通の捜査記録、検事調書、検事論告要旨、裁判記録、精神鑑定書、被告人手記、弁論要旨)を分析し、彼自身の推理を展開する。
 ここで問題になるのはテンペラ画伯の平沢貞通が事件を起こしたような毒物の専門知識を持っていたか?ということである。
 犯人は、青酸性の化合物を行員にのませる前に、その毒物を自分自身が、試飲して、行員を信用させている。まかり間違えれば自分自身が死ぬかもしれない。自分は被害を受けることなく、行員16人のうち12人を殺害する方法とは何か?犯人は行員が飲んだのと同じ容器に入った薬を試飲しているのであり、それは生き残った行員のすべてが証言している。その手品とは何か?警視庁ではこの犯行の玄人性、または専門性から、薬学関係の前歴者以外に犯人なしと確信し、平沢貞通の逮捕に至るまで、その根本方針を変更した事実はなかった、のである。
 かくして警視庁捜査課は捜査の重点を青酸化合物取扱者に絞り、民間と軍関係者の二つに分け、追及することにした。
1、民間では薬学ないしは理科学系の学歴を有する者、および電気メッキ処理、写真、その他の工業従事者に捜査の目を向けた。この条件に合う、多くの容疑者が捜査線上に浮かび、その数は5000名以上に及んだという。皮肉なことに、平沢貞通のみが、この条件を外れていたのである。彼は一人の画家にすぎなかった。彼は別の角度から犯人と特定されたのであるが、彼を犯人とするには、毒物の知識を含め、多くの謎が存在していた。
2、その二つ目は、軍関係者であり、薬品取り扱いの特殊学校(たとえば中野学校)、同じく研究所、及びこれに付属する防疫給水隊、もしくは憲兵、特務機関に従属の前歴を有する者などに嫌疑の目を向けた。そこに登場するのが、石井四郎陸軍軍医中将の指揮する731部隊(いわゆる石井部隊)であった。警視庁は帝銀事件で使用された毒物が731部隊で製造されたものであるという情報を根拠に内定を進める。しかし自信を持ってはじめられた捜索も、あと一歩というところでGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)という巨大な圧力の前で頓挫する。
 「こうして、軍関係がGHQという巨大な壁にぶつかって、捜査陣がつぶれようとしたときに、コルサコフ病という、過去のことを忘れっぽい、忘れたことは嘘で埋める、ほら吹きで話の上手い、怪しげな絵描き(平沢貞通)が引っ掛かってきたので安堵した」――というのが警視庁が考えたシナリオではなかったか?と松本清張は推理する。

 それでは石井部隊とは何であり、なぜ何千人もの捕虜となった中国人、ロシア人、モンゴル人、朝鮮人たちを生体実験までしたという彼らが、戦犯にもならず、また、南京虐殺に対してはあれだけ大々的に報じ大問題にしている中国が石井部隊を問題にしないのは何故か?石井部隊とGHQとの関係とは何か?なぜGHQは旧石井部隊の関係者に対する捜査を妨害したのか?さらに石井部隊の隊員の多くはソ連にも連行され戦犯になったが、そこで何があったのか?様々な疑問点が出てくるのである。ここでしばらく石井部隊について述べてみたいと思う。
 第二次世界大戦中に政府兵器行政本部の管轄下に、陸軍化学研究所があり、11の部門に分かれていた。そのうちの第6化学研究所(6研)は、毒薬の研究を行い、第9化学研究所(9研)は毒ガスの研究を行っていた。この研究所で開発・製造された毒ガスや毒薬は大陸に送られ、その地の謀略部隊、特務機関で使用されていた。石井中将率いる731部隊は代表的な謀略部隊であり、本国で作られた毒製品を保存・管理し、自らも膨大な敷地を持つ研究所を持ち、そこで生体実験までして、研究・開発された毒物の効果を確かめていた。名こそ関東軍防疫給水部本部であったが、その陰でこの部隊は、主体としての謀略(スパイ)活動のための研究を行っていたのである。
石井部隊(関東軍第731細菌部隊)とは?
 正式名称 大日本帝国陸軍防疫給水部(満州事変勃発の翌々年1933年8月に創設された特殊部隊の名称。371部隊はその略称かつ秘匿名。初代隊長の名を取って石井部隊と言われた)。部隊設置に当たっては大日本陸軍命令(大陸令)が出された。
 目的   関東軍管轄区域内の防水、給水業務。
 研究内容 細菌、科学戦研究(そのために生体解剖も行われた)。
 初代部隊長 石井四郎陸軍軍医中将(1892~1959年 享年67歳)。
 設置場所  1933年に中国東北部(当時の満州)のハルビン郊外に居を定め、後に(1939年)ビンファン郊外に移転する。移転先は6㌔平方メートルわたる広大な敷地を持ち、その中には各種の研究棟が存在し、細菌研究、実践研究、濾水機製造、細菌製造などが行われた。部隊というよりは研究施設であった。そのほかには、捕虜を収容する監獄(彼らは生体実験の為に使われ“まるた”と呼ばれていた)。死体焼却所、実験に供される動物(ウサギ、モルモット、ネズミ)の動物舎、さらに鉄道引き込み線、研究者、技術者の宿舎、飛行場まで用意されており、この区域は特別軍事区とされ、機密保持のため、その上空は日本軍機の飛行さえ禁じられていた。
 部隊には東大や京大をはじめとした国立大学の医学部、医科大学の優秀な教授、医師、さらに民間の研究所の研究員が、軍属・技師として、競って赴いた。その数は2600人を超えていた。
 これらの研究班が行った研究には以下のものがある。
1、細菌兵器として利用可能な猛毒細菌の研究、開発。
2、細菌戦のデータを収集するための、ペスト、赤痢、コレラ、チフス、結核菌等、猛毒細菌の研究。
3、ノミやウイルス、リケッチアの中国東北部(満州)の風土病(流行性出血熱など)に及ぼす影響、とその治療法の研究し、日本人兵士への伝播を予防した。
4、ノミの抱えるペスト菌を研究し、その伝播、繁殖方法から、細菌戦における散布方法の研究。
5、凍傷研究班は、凍傷治療の有効性を研究し、日本人兵士の凍傷から身を守る方法を研究した。さらに、冬季における細菌戦の方法も研究課題であった
6、病理研究班は、生体解剖、死体解剖、によって得られた資料によって、組織標本を作製した。
7、血清研究班は、伝染病への対処療法や、ワクチンの研究・開発を行い、
8、薬理研究班は即効性、遅効性の毒物、化学薬品を生体実験して敵要人暗殺用の特殊兵器を開発していた。
 これらの研究には生体実験があったことを特筆しておく必要があろう。これらの実験に供された捕虜の数は1939年から1945年までで、3000人以上であったと言われている。
 生体実験までして得られた研究成果は大きく、戦後、GHQや、ソ連(当時)がその成果に注目しこれを利用しようと企てたとしても何ら不思議ではない。
 戦後数年して朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日 休戦―平和条約は今もって結ばれていない)が勃発するが、この地で展開された細菌戦や、毒ガス戦は、この研究成果と無関係とは言えないかもしれない。
 GHQやソ連と石井部隊との関係とは何だったのだろうか?そこには取引があったのではないか?研究成果を引き渡す見返りに、東京裁判で戦争犯罪人としての追及を免れたのではないか?東京裁判は明らかに、戦勝国による敗戦国に対する復讐裁判であり、裁判の公正さを疑問視する考えは戦勝国側にもあり、石井中将を代表とする371部隊の隊員たちが罪を免れたことは充分に考えられるのである。そればかりではなく、彼らは戦後、高給で、官公庁、国立大学、薬学研究所、病理学研究所、製薬会社、自衛隊などそのKnow・Howを評価されて就職しているのである。
GHQと石井部隊の間に取引があったとしても、それは秘密でなければならない。たとえ公然の秘密であったとしても秘密は秘密である。「秘密は、墓場まで持っていかねばならない」。
 帝銀椎名町支店で毒殺事件が起こる。捜査の手が伸びる。例え、そこに犯人がいようといまいと、そこには暴露されてはならない真実がある。当時、GHQの権力は絶対である。その圧力には警視庁といえども屈せざるを得ない。
 ここから平沢貞通犯人説が浮上する。傍流は主流に転じる。帝銀事件は世間を震撼させた大事件であり、これを迷宮入りさせることは警視庁の名誉にかけても出来ない。
 軍関係の取り調べと並行して平沢貞通を犯人と確信して追及していた刑事がいた。古志田警部補である。古志田という名はあくまでも作品中の名前であり、実際の刑事の名は伝説の名刑事平塚八兵衛と思われる(この作品に登場する人名は平沢貞通以外はすべて仮名)。
 軍関係の捜査が頓挫した結果、平沢貞通犯人説が急浮上するわけであるが、捜査の初期段階においては、それはまだ分かってはいなかった。犯人の様子は生き残った被害者の証言によると「50歳前後、5尺3,4寸、中肉、色蒼白、油けなくきめ細かき方、鼻筋通り、頭髪丸刈りにて、前髪やや長く、白髪交じり、一見上品にて、柔和な好男子。左頬に径5分くらいの薄シミ2個あり(老人特有の斑点と思われる)左の耳下の顎に長さ2㌢くらいの傷痕あり」というものであった。これは生き残った被害者の証言を総合したものであって、これをもとにモンタージュ写真が作られた。その結果被疑者が5000人以上に上り、平沢貞通もこのうちの一人であった。しかし、平沢貞通逮捕後の被害者との面通しでは、似ているというもの、似ていないというもの様々であり、この男だと断定したものは一人もいなかった。
 「人間の知覚は不完全なものである。その知覚した像を記憶の中に存しておく記憶力も貧しいものがある。ここに忘却という大きな作用が働く。さらにこれを証言として供述するときには、また表現力の不十分、言葉の不確実性が働く。それで人相表現はその確実度において決して高いものではない」と弁護士はその心理的知見を述べている。さらに重要なことは、証人の主観(犯人かもしれない、あるいはそうでないかもしれない)が、その証言に影響を与えることである。このように人間の記憶力は極めて頼りないものであって、これを持って犯人と断定することは出来ない。更に平沢貞通以外の複数のそれらしい容疑者の面通しにつきあわされた被害者が混乱するのは当然である。過去に容貌が似ており、その他の条件が備わっていることで、犯人と特定され、死刑になり、後に真犯人が発見された冤罪事件もある。
「平沢貞通の場合は、他の被疑条件、例えば松井名刺とか、小切手の裏書の文字とか、金に困っていたとか、大金が事件後に入ったとか、というような諸条件の中で、彼の人相が生きるのであって、その背景の条件が希薄になれば---色あせてしまうのである」と、松本清張は主張する。
そして松本清張は被疑条件(名刺、小切手の裏書、大金の入取など)をひとつひとつ考察していく。こうしてこれらの被疑条件をつぶしていくことによって平沢犯人説を覆そうとする。
 平沢貞通を犯人と決める重要なキーワードに松井 蔚(しげる)という名刺がある。この名刺がなかったら、おそらく平沢の名前は犯人として浮上することはなかったであろう。
 そこには、古志田警部補の地道な捜査があった。
犯人と決める決め手と考えられたものには次のものを挙げることができる。
1.松井蔚という名刺
2,小切手の裏書(その筆跡鑑定)
3.曖昧なアリバイ
4.事件後平沢の手に入った被害金額と、ほぼ同額の金額。その出所。
この4項目について、述べていきたいと思う。
  名刺関係
 帝銀事件との類似事件
 安田銀行江原支店 1947(昭和22)年10月14日の閉店直後に「厚生技官、医学博士、松井蔚(しげる)厚生省予防局」という名刺を出した男性が訪ねてきて、帝銀事件と同じ手口で薬を行員にのませるも、死者は出ず未遂に終わる。名刺そのものは本物であり、そのため松井は厳しく問い詰められたが、アリバイがあり、人相等にも違いがあり、解放される。この名刺を本人以外に誰が使ったかが問題となり、捜査の結果、平沢の名が捜査線上に浮かびあがった。
 三菱銀行中井支店 1948(昭和23年)年1月19日の閉店後、「厚生省技官、医学博士、山口五郎、東京都防疫課」という名刺を出した男が訪れる。帝銀事件と同じ手口で薬を飲ませようとするが、不審に思った支店長の機転で未遂に終わる。名刺は偽物と判明。

  松井蔚(しげる)の名刺の行方
昭和22年25日に松井博士は100枚の名刺を作る
そのうちの一枚が安田銀行江原支店で使われる。
警視庁はその名刺の行方を追う
印刷所に保管されていたもの       Ⅰ枚
松井博士の手元に残っていたもの     6枚
事故名刺               23枚               
回収したもの             62枚
行方不明                8枚
 合計                  100枚
 事故名刺23枚の内9枚は安田銀行事件後になくなっているので、事件に使用された可能性なしとして、残りの14枚の中に犯人の使用した名刺はあると判断し捜査が始まる。
 この間に捜査員は、同博士と名刺を交換した相手の名刺128枚を借り出し交換先を調べ始める。この中に平沢大という名刺を発見する。こうして初めて平沢の名が捜査線上に浮かんだのである。捜査員はこの名刺の人物について博士に訊ねる。
「昭和22年4月25日に北海道に出張して、そのかえり26か27日に、青函連絡船恵福丸の一等船室で皇太子殿下に献上画を持って上京するところだという平沢と乗り合わせ」名刺を交換した」という。捜査員は名刺回収のために平沢貞通を訪れるが、平沢貞通はその名刺を鞄の中に入れておいたが、鞄ごと盗まれて持っていないという。被害届は出しておいたという。結局、名刺の回収は不可能であった。後にこの名刺こそ帝銀事件に使われたものであり、盗まれたというのは偽りの証言ということになった。被害届そのものは証言どおりであったが、名刺がその中にあったかどうかは確認されなかった。
 このように平沢の名は名刺捜査の初期において浮上していたのであるが、当時ようやく捜査の主力が軍関係に向いており、文展無鑑査の大家で皇太子殿下に献上画を持参するほどの一流画家に、帝銀事件のような大それた罪を犯すわけはないし、犯せるわけはないと、捜査の主流からは外れていたのである。事件から5ヵ月後の6月25日、各警察宛てにだされた捜査指示には「犯人は医療防疫、薬品取り扱い、または研究試験などに関係あるものでとくに引揚者や、軍関係の医療防疫関係者、及び、特務機関員、憲兵などを再適格者と見なし、彼らに対し慎重な注意が向けられている」と述べられている。このように、平沢貞通の捜査は継続されてはいたが、それはあくまでも傍流であった

 小切手の裏書と、その筆跡鑑定、アリバイ。
 帝銀事件の2日後の1月28日午前10時、ようやく被害金額が確定し、盗まれた小切手を手配する。まもなく、安田銀行板橋支店長からその盗まれた小切手が捜査本部に届けられた。大胆なことに犯人はこの小切手を事件の翌日に、安田銀行板橋支店の窓口にきて現金に換えていったのである。捜査本部は切歯扼腕する。もう少し早くこの小切手の存在が判っていたなら、現金を下ろしに来た段階で逮捕できていたからである。しかし、犯人の筆跡という重大な証拠の入手、という収穫もあった。この小切手は事件発生直前に後藤豊治という人物によって帝銀椎名町支店に預け入れられたものであった。犯人はその小切手を現金化するとき後藤豊治という名と、その住所「板橋区3の3661」を裏書きすることで、現金を受け取ったのである。人相は変装はしていたものの、行員の証言から帝銀事件の犯人と確認された。当然、その筆跡も犯人のものと決定され、捜査当局はこの男の捜査をその捜査方針とし、警視庁捜査刑事部各課は、ほとんど全力をこの事件に集中した。管下全警察はもとより、全国の警察機関の積極的な協力も求めた。このように、捜査は前例のないほどに膨れ上がった。
 平沢貞通逮捕後、当然ながら筆跡鑑定が行われた。多くの著名な鑑定人にその鑑定は依頼されたが、その結果は黒と出る。検事は、この筆跡が「平沢被告のものであることについては、慶応大学の伊木鑑定人を除いては7名の鑑定人が全部一致して、その同一性または酷似性を認めているところで、特に高村鑑定人が木篇の縦棒に節のある特徴を把握しての個性鑑定には動かし難い信憑力がある」と言っている。
 もちろん、弁護側は反論する。
 弁護人は世紀の冤罪事件と云われたドレーフェス事件を引き合いに出し筆跡鑑定の絶対性を否定する。
 ドレーフェス(砲兵大尉、ユダヤ系フランス人)はドイツのスパイと見做されて、逮捕され有罪判決を受けて罪に服するのであるが、この有力な証拠が筆跡鑑定であった。この場合も帝銀事件と同様、パリ銀行の筆跡鑑定人ゴベールによって成された鑑定結果は「ドレーフェスの筆跡に非らず」というものであった。しかし他の鑑定人の鑑定結果はドレーフェスに不利なものであり、結局ドレーフェスは他の間接証拠と併せて、有罪となる。しかし、後にエステラージという真犯人が現れ、これを隠し通そうとする軍部と弁護人との間に確執があり、エミール・ゾラなどもその作家生命をかけてドレーフェスに味方する。結局ドレーフェスは無罪となる。
 弁護人はこの例を引き合いに出し、筆跡鑑定の絶対性を否定する。更に筆跡鑑定の結果有罪となり、後に。無罪を勝ち取った2件の冤罪事件を挙げ、その鑑定人の一人が平沢を黒と断定していたと指摘する。確かに平沢の字は犯人の筆跡に似ていることは事実であっても、そのことによって平沢を犯人と決めつけることは出来ない。平沢は書いたかもしれないが、書かなかったかもしれない、のである。要するに物的証拠としては迫真性(信頼性)を持たないのである。
 このように、その人相にしても、筆跡にしても、間接証拠としては有力なものであるとしても、ともに証拠としては科学的客観性を持たない。面通しの結果としての、記憶力の不正確さ、筆跡鑑定の曖昧さが、この作品で明らかにされている。共に世間的暗示という主観に左右される要素が大きいのである。

 更にアリバイとなるともっと曖昧である。
犯人は未遂事件と小切手の払い戻しを含めて4つの銀行に顔を出している。更に、名刺の作成依頼、とその受け取りの為に、銀座の露天印刷所、斎藤某のところにも訪れている。もしも犯人が同一人であるとすれば、このうちの一つでもアリバイが成立すれば、その嫌疑は晴れるのである。捜査当局は平沢のアリバイ探し、あるいはアリバイ崩しに狂奔する。
 事件当日、午後1時ごろ、平沢は丸の内にある船舶運営会に娘婿の山口某を訪れている。このことは女事務員広瀬正子によって確認されている。しかし何時に帰ったかは確認されていない。広瀬は2時にはもういなかったと言っているが、正確な時間は証言していない。平沢貞通は山口と会い、しばらく(広瀬の証言によれば30分程度)会話を交わして退出したという。会を辞した後、平沢貞通は伝染病発生個所である相田小太郎宅(これを理由に犯人は消毒と称して、行員に毒薬を飲ましている)を探し出し、その後に椎名支店を訪れており、行内に入る前に吉田所長代理と会話をしている。事件はその日の3時20分~4時00分の間に起っている。
 運営会を去った時間さえ確認されれば、平沢貞通のアリバイの成立、不成立が確認できるのである。証言は広瀬証人だけでなく、現場にいた市川係長、川上社員、山口某によってもなされている。
 これらの人の証言は検事側、弁護側の両者に対して行われた。その証言によると、平沢貞通が会を訪れた時間も、辞した時間も、まちまちである。更に証言後の変更などがある。ここには、記憶力の曖昧さがあると同時に、検事側、弁護側による自己を有利に導くための誘導があったとも思われる。
 いずれにしても弁護側は平沢貞通が会を辞したのは早くとも2時25分であり、丸の内から椎名町の銀行に至るのは到底無理と判断し、アリバイは完ぺきであると断言する。広瀬の云う2時には既にいなかったという証言を否定する。
 これに対し、検察側は、広瀬の云う2時には既にいなかったという証言を重視し、遅くとも2時に会を辞したとすれば、充分に帝銀椎名町支店に、事件発生時の3時20分には到着可能である、とそのアリバイを否定する。そしてこれは平沢貞通の自供と一致しているという。実際に平沢貞通を2時に丸の内を出発させ椎名町支店に至る行程を行動させたとき、3時24分30秒には到着した、と述べている。4分30秒は誤差の範囲内なのだろうか?

  運営会を辞した後の平沢のアリバイ
 帝銀事件の起こった時刻のアリバイとして平沢貞通の弁護側の証言によると、運営会を辞したのち平沢貞通は4時ころ山口家を訪れ、お茶を飲んだだけで、上にはあがらず、自分の家に帰ったという(山口の妻の証言)。平沢貞通の二男の瞭が自宅に戻った時、平沢貞通とその妻マサ、姉の静子とその子、妹の窕子(ちょうこ)とその友人GHQの軍曹エリーがおり、トランプを楽しんでいたという(平沢貞通の家族の証言)。弁護士は次のように言う「このことは4時ごろまだ明るいうちに平沢貞通が省線鴬谷に近い山口家に寄った事実、その後、中野の自宅に存在していた事実を証明するものである」と。このように弁護側は平沢貞通のアリバイを主張することにより帝銀事件への関与を否定する。しかしこのアリバイはあくまでも家族の証言であって、裁判所で採用されることはなかった。しかし家族の証言ではあってもGHQの軍曹の存在を主張する以上、これを無視するわけにいかず捜査が行われたが、その存在を確認することは出来なかった。存在そのものがなかったのか、それとも急きょ本国に帰国したのか、それは神のみぞ知るである。いずれにしても平沢にとっては不幸であった。
 このように、帝銀事件におけるアリバイは微妙なので、他の6つの出来ごとのアリバイを調べる必要があり、検事側も当然行ったと思われるが、これについてはこの作品では描かれていない。

 多額の金銭の出所に関する疑惑
 事件後、平沢には出所不明な多額の金額が入っており、1月29日以後東京銀行に8万円が預金されており、さらに、妻には5万4千円の金額が渡されている。その合計13万4千円の出所に関する証言はあいまいであり、明らかでない。
 このことが主任弁護士をつとめていた正木亮をして主任弁護士を辞退させることになる。平沢貞通は主任弁護士に対してさえ真実を述べようとはしなかった。正木亮弁護士は次のように述べている。「平沢という人は記録を通覧してみると実に嘘つきである、ことに、本件を解決する最も重要なる、昭和23年1月28日から3日間にわたって所持していた13万4千円の金をどこから入手したかということについて、あるいは清水虎之助にもらったといい、あるいは花田卯造から出たといい、あるいは椎名熊三郎というように、次から次へと嘘を言っている。この点さえ真実を述べれば、事件は数刻を得ずして片付くのである。平沢被告は、この金をどこからか入手していることは間違いない。あるいは帝銀の金かもしれない。あるいは意外な人から出た金かもしれない。本当に本件と関係のない金なら、弁護士にだけにそっと知らせてくれたらよさそうなものである。--------」と。「このことは同弁護士さえも、平沢貞通に疑惑を感じ始めたことを意味する」。「この平沢に手に入った金が、事件直後、二日置いた、1月28,29,30日の三日間であることは、どうしても26日の帝銀犯行日に結び付くように思われるのである。これは平沢にとって、最大の欠陥であり、彼が入手先を明らかにしないことだけで、彼を「黒」と決めてもいいくらいのものである」、とまで松本清張は述べている。
 そこで松本清張は推理する。平沢貞通は秘戯画(春画)を描いたのではないか?と。当時、画家は、超大家級は別として、仕事は少なく、生活に困っていた。当時、有名な画家が秘戯画を描いていたということは、よく聞く話である。普通の絵よりもずっと高価に売れるのである。テンペラ画の画風は、超リアリズムであり写真を思わせるものがある故に、春画には適しており、好事家にはたまらないものがあったという。平沢画伯がそれをしなかったと断言はできない。とくに平沢の場合、妻の他に女がおり、そのためにお金が必要だった。その上、絵も売れない、テンペラ画会の復興も考えており、何やかやで膨大の金銭を必要としていたのである。高い金を払って春画を描いてもらったという女性からの投書もあり、弁護士がそれを平沢に確かめたところ、これを頑強に否定したという。春画を描いていたということは、画家としての名誉に関することであり、その画家生命にも影響を与える。それは松本清張自身認めるところである。しかし問題は死刑が掛っているのである。自分の命をかけてまで守らねばならない画家生命なのだろうか?死と、画家的生命とは、どちらが重いのか?ここにも、平沢貞通の普通人には理解できない変質的、偏執的な、異常性格をみて取ることができる、と松本清張は言う。しかし、平沢貞通が春画を描いていたか、描かなかったかは、立証することは出来なかった。実際に描かれたものは発見されていない。描いたかもしれぬということは、あくまでも想像である、と松本清張は言う。それならば、彼が帝銀事件の犯人でないとすれば、その金はどこから出たのか?平沢貞通がそれを明らかにしない以上、疑惑は残る。
 この金の出所問題は、検事の言う間接証拠としては、最も強く、他の弱い直接証拠を圧倒している、のである。

 微妙なアリバイ、小切手の裏書、松井蔚の名刺、人相の相似性、事件後の多額の金銭の入手、等々疑うべきことは多いが、反面、毒物の取り扱いの専門性、など平沢貞通と断定できない要素も多々あり、さらに軍関係の捜査のGHQによる中止命令など、この事件には多くの疑問点もあることは事実であり、歴代の法務大臣が死刑執行命令にサインを拒否しているなど、平沢貞通の冤罪事件であるという見方もあり、謎は残されたままである。
 平沢貞通は極悪非道の殺人犯なのか、検事側によってでっちあげられた殺人犯なのか?既に事件後63年がたち、人々の記憶からは消えつつある事件であるが、ここに提起された問題は古くはあっても新しい、のである。
 松本清張は次のように言う「帝銀事件は旧刑訴法による最後の事件であった。旧刑訴法によると、自白重点主義である。しかし平沢の場合の自白は『長い拘禁による精神錯乱状態の中に検事に誘導された自白』の疑いがあり、映画に取られた犯行実演も、『検事に指導された』疑いが持たれる以上、ひどく弱いのである。
 新刑訴法は証拠第一主義だから、新法によると平沢は当然無罪になる可能性がある。旧刑訴法の最後の事件だったことに平沢の不運があるが、詐欺、窃盗犯の微罪ならともかく、死刑か無罪かというようなこれほどの被告には、新とか旧とかの人間の引いた線がある筈はない。証拠第一の新刑訴法の精神で判決すべきではないか」と、仁科俊太郎に代弁させている。

 2010年9月10日の午後、大阪地方裁判所は郵便割引制度に関係した偽の証明書発行事件で、虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた厚生労働省の元雇用均等・児童家庭局長、村木厚子被告人(54)に対して無罪(求刑懲役1年6月)を言い渡した。横田信行裁判長は「共謀があったとは認定できない」と明確に述べた。
 捜査段階で村木元局長の事件への関与を認めたとされる、上村被告や元部長らが証人尋問で、その証言を一転し「調書はでっちあげだ」「事件は壮大な虚構」などと説明した。横田裁判長は5月、検察側が立証の柱とした上村被告らの供述調書、計43通のうち34通について「調書は検事の誘導で作られた」などと判断し、証拠の不採用を決定した。
 特捜部の取り調べは、はじめに筋書きありで、それに合わせて調書が作られていく。この特捜検察の常識が、村木事件では通用しなかったのである。この事件は検察のストーリーによって作られた冤罪だったのである。更に、大阪地検特捜部の主任検事による押収したFDデータの改ざんもあった。かくして、検察の正義に関する信頼は大幅に失墜したのである。

 これはごく最近起きた事件である。
 それでは60年以上前に起こった帝銀事件はどうだったのであろうか?軍関係の捜査が頓挫し、それでも犯人を挙げねばならない特捜部にとっては、平沢貞通は犯人にでっちあげるには格好の人物だったのではなかろうか?この疑いは未だに晴れていない。悪を罰する筈の機関が、職業上の保身のために無辜の人間を犯人にでっちあげる悪に手を染めて良いのであろうか?松本清張はこの作品の中で、黒いベールに覆われたこの事件の真相を暴こうとする。しかし清張自身、もしかしたら?という疑いもあり、平沢貞通の無罪を確信しているとは思えない。少なくともこの作品を書いた段階では。また一審で死刑判決を出した裁判長も、まさに「最高裁がある」であって2審、3審、最高裁で真相が暴かれることを期待していたのではないかと松本清張は推理する。それほどこの事件は、検事側にとっても、弁護側にとっても、決定的物的証拠を欠いた、状況証拠の寄せ集めの事件であって、事件の真相は闇の中である。

『小説・帝銀事件』松本清張作 角川文庫 初版 昭和36年8月15日 その後多く版を重ねているが私の参考にしたのは第43版(昭和60年7月30日)である。