イザヤ書XIX 42章 地に公義を打ち立てるしもべ
はじめに:この章(42章)で、主は、主のしもべが、神とイスラエルの間で結んだ契約を確かなものにすることによって、それに接ぎ木させる異邦人の民たちの救いも確かなものにすることが述べられています。神は、ご自身が選んだしもべに対して直接話しかけます。「天を造りだし、これを引き述べ、地と産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主は、こう仰せられる。『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り。あなたの民の契約とし、国々の光とする(42:5~6)」。神と人とのかかわりが描かれています。このかかわりは主がそのしもべをして「神の契約」とし「国々の光」とするためです。
42章:主の言うメシアとは、イエス・キリストとその弟子たちです。そのお方の出現を主は預言します。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、私の心の喜ぶわたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす(42:1)」。わたしのしもべとは、イエス・キリスです。主は、この方に聖霊を授けます。その聖霊の力によって、この方は公の仕事(公義)を始められます。異邦伝道の仕事です。父なる神のみ心を行う忠実なしもべとして、主はイエス・キリストの存在を喜ばれているのです。イエスはもろもろの国々に道をさし示します。『彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない(42;2)』イエスは謙虚な方です。自分を大げさに宣伝することを好みません。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす(42:3)」。いたんだ葦、くすぶる燈心とは、汚され、消えかけている神の律法を指します。その律法を神のしもべであるイエス。キリスト(メシア)が再び燃え立たせます。イエスは言います「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです(マタイ5;17)」と。このみ言葉を、正しく理解し、律法を否定するのではなく、その存在を認める必要があります。「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む(42:4)」。イエスはさまざまな困難に打ち勝ち、衰えず、くじけず、宣教に努めます。その弟子たちは、世界宣教に努めます。彼らは、諸国に住む人々に霊と息を与え、神のしもべとされるのです。それを島々の民は待ち望んでいます。「神の国」が預言されています。旧約聖書に「国々」「諸国」「島々」『地の果て』と言う言葉が出てきたとき、それは、異邦、異教の国々を意味します。
「天を造りだし、これを引き述べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた聖なる主は、こう仰せられる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守りあなたを民の契約とし、国々の光とする(42:5~6)」。天を創造し。万物、万象を造り出した神は、人をも造り、これに、霊を授けて、しもべとされます。メシアです。そのメシアの手を握り、見守られます。主はその民と契約を結び永遠の命を与えられます。そして、それを通して、異邦人の国々にも光と
なられます。彼らも主の教えを待ち望むようになるのです。「こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す(42~7)」。主は、罪のしがらみに苦しむ者を解放するのです。「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない(42:8)」他の者とは異教の人。刻んだ像とは偶像を指します。神の栄光と栄誉は、神を信じる者の、ものなのです。「先のことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう(42:9)」。預言とは何かが語られています。新しい預言とは、キリスト・イエスの初臨で在り、再臨です。そのことが起こる前に、あなたがたに、そのことを預言しよう、と主は仰せられます。
「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山の頂から声高らかに叫べ(42:10~11)」。この歌(教え)は地の果てまで海を渡って遥か彼方にある島々にまで届きます。新しい歌とはイエス・キリストの生誕に対する賛歌です。その教えが全国津々浦々まで伝わるのです。世界宣教が、語られています。それを、喜びをもって賛美せよと主は仰せられます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は、新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(第2コリント5:17)」と。
「主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。主は勇士のようにいで立ち戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。(42:12~13)」。ここには、キリストの福音が語られています。敵対する者にも新しい歌を歌うように召しておられるのです。これは終わりの時の徴です。主は優しいお姿で、真実をもって人々を自分に引き寄せたのち、再び来られる時(再臨)は、戦士として敵に対峙されます。ハルマゲドンの戦いが預言されています。
「わたしは久しく黙っていた。静かに自分を抑えていた。今は子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ(42:14)」。主は民の罪と罪悪に対して静かに耐えておられました。しかし、子を産む女のように産みの苦しみを体験します。うめき、あえぎます。主は選びの民を裁かなければならないのです。それには痛みを伴います。しかし、子を産むと言うことは、苦しみがあると同時に、新しい時代の到来をも意味します。キリストの初臨であり再臨です。そのための準備が必要です。「わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし沢をからす。(42:15)主には、新しい時代を前にして、罪に満ちた自然をリセットする必要があるのです。「わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。(42:16)」。主は、救いの御業を行われます。暗闇の中にいて真理が見えず、理解出来なかった人々(盲人)が真理を知るようになり、その真理によって、主への道は、まっすぐにされます。「彫像により頼み、彫像に『あなたがたこそ、私たちの神々』と言う者は、退けられて、恥を見る(42:17)」。偶像崇拝をする者は、退けられて、裁かれます。恥を見るのです。彼らは、決して神の国の栄光に預かることは出来ないのです。ここまで、神とイスラエルの民との良好な関係が預言されました。いまだ、実現されてはいません これ以後、イスラエルの民の、実際の姿が語られます。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしが送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか(42:18~19)」。このしもべとは、異教の民ではありません。イスラエルの民です。主に買い取られた契約の民にも拘らず、彼らは、見ようとせず、聞こうともしないのです。「あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。主はご自分の義のために、み教えを広め、これを輝かすことを望まれた(42:20~21)」のです。イスラエルの民は敵(バビロン)との戦いに敗れ各地に散らされました。彼らは、その地に定着し、家族を持ち、子をもうけます。そして、異教の神を信じるようになります。真の神を信じるには差別と迫害に耐えなければなりません。それゆえに、主の道に歩まず、そのみ教えには聞き従わなかったのです。主は、自分の義のために、イスラエルの民が悔い改め、神に立ち返ることを望まれました。彼らがみ教えを広め、これを輝かすことを望まれたのです。神のイスラエルに対する深い御心が示唆されています。「これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、罠にかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾け、だれが後々のために注意して聞くだろうか(42:22~23)」。ここには、「バビロンの捕囚」と、その悲惨さが語られています。「だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず自分に燃えついても、心に留めなかった。(42:24~25)」。奪い取るものとは、アッシリヤやバビロンを指します。彼らは神の御手です。それにも拘らず、イスラエルの民は、主の道を歩まず、偶像を求めたのです。彼らは、主の激しい燃える怒りに接しても、その真意を悟ることはなく、偶像に頼ります。旧約聖書の段階では、神とイスラエルの和解はありません。彼らの救いは、イエス・キリストの出現まで、待たねばなりません(42:1~4参照)。
はじめに:この章(42章)で、主は、主のしもべが、神とイスラエルの間で結んだ契約を確かなものにすることによって、それに接ぎ木させる異邦人の民たちの救いも確かなものにすることが述べられています。神は、ご自身が選んだしもべに対して直接話しかけます。「天を造りだし、これを引き述べ、地と産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主は、こう仰せられる。『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り。あなたの民の契約とし、国々の光とする(42:5~6)」。神と人とのかかわりが描かれています。このかかわりは主がそのしもべをして「神の契約」とし「国々の光」とするためです。
42章:主の言うメシアとは、イエス・キリストとその弟子たちです。そのお方の出現を主は預言します。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、私の心の喜ぶわたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす(42:1)」。わたしのしもべとは、イエス・キリスです。主は、この方に聖霊を授けます。その聖霊の力によって、この方は公の仕事(公義)を始められます。異邦伝道の仕事です。父なる神のみ心を行う忠実なしもべとして、主はイエス・キリストの存在を喜ばれているのです。イエスはもろもろの国々に道をさし示します。『彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない(42;2)』イエスは謙虚な方です。自分を大げさに宣伝することを好みません。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす(42:3)」。いたんだ葦、くすぶる燈心とは、汚され、消えかけている神の律法を指します。その律法を神のしもべであるイエス。キリスト(メシア)が再び燃え立たせます。イエスは言います「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです(マタイ5;17)」と。このみ言葉を、正しく理解し、律法を否定するのではなく、その存在を認める必要があります。「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む(42:4)」。イエスはさまざまな困難に打ち勝ち、衰えず、くじけず、宣教に努めます。その弟子たちは、世界宣教に努めます。彼らは、諸国に住む人々に霊と息を与え、神のしもべとされるのです。それを島々の民は待ち望んでいます。「神の国」が預言されています。旧約聖書に「国々」「諸国」「島々」『地の果て』と言う言葉が出てきたとき、それは、異邦、異教の国々を意味します。
「天を造りだし、これを引き述べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた聖なる主は、こう仰せられる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守りあなたを民の契約とし、国々の光とする(42:5~6)」。天を創造し。万物、万象を造り出した神は、人をも造り、これに、霊を授けて、しもべとされます。メシアです。そのメシアの手を握り、見守られます。主はその民と契約を結び永遠の命を与えられます。そして、それを通して、異邦人の国々にも光と
なられます。彼らも主の教えを待ち望むようになるのです。「こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す(42~7)」。主は、罪のしがらみに苦しむ者を解放するのです。「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない(42:8)」他の者とは異教の人。刻んだ像とは偶像を指します。神の栄光と栄誉は、神を信じる者の、ものなのです。「先のことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう(42:9)」。預言とは何かが語られています。新しい預言とは、キリスト・イエスの初臨で在り、再臨です。そのことが起こる前に、あなたがたに、そのことを預言しよう、と主は仰せられます。
「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山の頂から声高らかに叫べ(42:10~11)」。この歌(教え)は地の果てまで海を渡って遥か彼方にある島々にまで届きます。新しい歌とはイエス・キリストの生誕に対する賛歌です。その教えが全国津々浦々まで伝わるのです。世界宣教が、語られています。それを、喜びをもって賛美せよと主は仰せられます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は、新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(第2コリント5:17)」と。
「主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。主は勇士のようにいで立ち戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。(42:12~13)」。ここには、キリストの福音が語られています。敵対する者にも新しい歌を歌うように召しておられるのです。これは終わりの時の徴です。主は優しいお姿で、真実をもって人々を自分に引き寄せたのち、再び来られる時(再臨)は、戦士として敵に対峙されます。ハルマゲドンの戦いが預言されています。
「わたしは久しく黙っていた。静かに自分を抑えていた。今は子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ(42:14)」。主は民の罪と罪悪に対して静かに耐えておられました。しかし、子を産む女のように産みの苦しみを体験します。うめき、あえぎます。主は選びの民を裁かなければならないのです。それには痛みを伴います。しかし、子を産むと言うことは、苦しみがあると同時に、新しい時代の到来をも意味します。キリストの初臨であり再臨です。そのための準備が必要です。「わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし沢をからす。(42:15)主には、新しい時代を前にして、罪に満ちた自然をリセットする必要があるのです。「わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。(42:16)」。主は、救いの御業を行われます。暗闇の中にいて真理が見えず、理解出来なかった人々(盲人)が真理を知るようになり、その真理によって、主への道は、まっすぐにされます。「彫像により頼み、彫像に『あなたがたこそ、私たちの神々』と言う者は、退けられて、恥を見る(42:17)」。偶像崇拝をする者は、退けられて、裁かれます。恥を見るのです。彼らは、決して神の国の栄光に預かることは出来ないのです。ここまで、神とイスラエルの民との良好な関係が預言されました。いまだ、実現されてはいません これ以後、イスラエルの民の、実際の姿が語られます。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしが送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか(42:18~19)」。このしもべとは、異教の民ではありません。イスラエルの民です。主に買い取られた契約の民にも拘らず、彼らは、見ようとせず、聞こうともしないのです。「あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。主はご自分の義のために、み教えを広め、これを輝かすことを望まれた(42:20~21)」のです。イスラエルの民は敵(バビロン)との戦いに敗れ各地に散らされました。彼らは、その地に定着し、家族を持ち、子をもうけます。そして、異教の神を信じるようになります。真の神を信じるには差別と迫害に耐えなければなりません。それゆえに、主の道に歩まず、そのみ教えには聞き従わなかったのです。主は、自分の義のために、イスラエルの民が悔い改め、神に立ち返ることを望まれました。彼らがみ教えを広め、これを輝かすことを望まれたのです。神のイスラエルに対する深い御心が示唆されています。「これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、罠にかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾け、だれが後々のために注意して聞くだろうか(42:22~23)」。ここには、「バビロンの捕囚」と、その悲惨さが語られています。「だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず自分に燃えついても、心に留めなかった。(42:24~25)」。奪い取るものとは、アッシリヤやバビロンを指します。彼らは神の御手です。それにも拘らず、イスラエルの民は、主の道を歩まず、偶像を求めたのです。彼らは、主の激しい燃える怒りに接しても、その真意を悟ることはなく、偶像に頼ります。旧約聖書の段階では、神とイスラエルの和解はありません。彼らの救いは、イエス・キリストの出現まで、待たねばなりません(42:1~4参照)。
令和5年10月17日(火)報告者 守武 戢 楽庵会