日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イザヤ書19 42章 地に公義を打ち立てるしもべ

2023年10月14日 | Weblog
 イザヤ書XIX 42章 地に公義を打ち立てるしもべ 
はじめに:この章(42章)で、主は、主のしもべが、神とイスラエルの間で結んだ契約を確かなものにすることによって、それに接ぎ木させる異邦人の民たちの救いも確かなものにすることが述べられています。神は、ご自身が選んだしもべに対して直接話しかけます。「天を造りだし、これを引き述べ、地と産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主は、こう仰せられる。『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り。あなたの民の契約とし、国々の光とする(42:5~6)」。神と人とのかかわりが描かれています。このかかわりは主がそのしもべをして「神の契約」とし「国々の光」とするためです。
 42章:主の言うメシアとは、イエス・キリストとその弟子たちです。そのお方の出現を主は預言します。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、私の心の喜ぶわたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす(42:1)」。わたしのしもべとは、イエス・キリスです。主は、この方に聖霊を授けます。その聖霊の力によって、この方は公の仕事(公義)を始められます。異邦伝道の仕事です。父なる神のみ心を行う忠実なしもべとして、主はイエス・キリストの存在を喜ばれているのです。イエスはもろもろの国々に道をさし示します。『彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない(42;2)』イエスは謙虚な方です。自分を大げさに宣伝することを好みません。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす(42:3)」。いたんだ葦、くすぶる燈心とは、汚され、消えかけている神の律法を指します。その律法を神のしもべであるイエス。キリスト(メシア)が再び燃え立たせます。イエスは言います「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです(マタイ5;17)」と。このみ言葉を、正しく理解し、律法を否定するのではなく、その存在を認める必要があります。「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む(42:4)」。イエスはさまざまな困難に打ち勝ち、衰えず、くじけず、宣教に努めます。その弟子たちは、世界宣教に努めます。彼らは、諸国に住む人々に霊と息を与え、神のしもべとされるのです。それを島々の民は待ち望んでいます。「神の国」が預言されています。旧約聖書に「国々」「諸国」「島々」『地の果て』と言う言葉が出てきたとき、それは、異邦、異教の国々を意味します。
 「天を造りだし、これを引き述べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた聖なる主は、こう仰せられる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守りあなたを民の契約とし、国々の光とする(42:5~6)」。天を創造し。万物、万象を造り出した神は、人をも造り、これに、霊を授けて、しもべとされます。メシアです。そのメシアの手を握り、見守られます。主はその民と契約を結び永遠の命を与えられます。そして、それを通して、異邦人の国々にも光と
なられます。彼らも主の教えを待ち望むようになるのです。「こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す(42~7)」。主は、罪のしがらみに苦しむ者を解放するのです。「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない(42:8)」他の者とは異教の人。刻んだ像とは偶像を指します。神の栄光と栄誉は、神を信じる者の、ものなのです。「先のことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう(42:9)」。預言とは何かが語られています。新しい預言とは、キリスト・イエスの初臨で在り、再臨です。そのことが起こる前に、あなたがたに、そのことを預言しよう、と主は仰せられます。
 「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山の頂から声高らかに叫べ(42:10~11)」。この歌(教え)は地の果てまで海を渡って遥か彼方にある島々にまで届きます。新しい歌とはイエス・キリストの生誕に対する賛歌です。その教えが全国津々浦々まで伝わるのです。世界宣教が、語られています。それを、喜びをもって賛美せよと主は仰せられます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は、新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(第2コリント5:17)」と。
 「主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。主は勇士のようにいで立ち戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。(42:12~13)」。ここには、キリストの福音が語られています。敵対する者にも新しい歌を歌うように召しておられるのです。これは終わりの時の徴です。主は優しいお姿で、真実をもって人々を自分に引き寄せたのち、再び来られる時(再臨)は、戦士として敵に対峙されます。ハルマゲドンの戦いが預言されています。
 「わたしは久しく黙っていた。静かに自分を抑えていた。今は子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ(42:14)」。主は民の罪と罪悪に対して静かに耐えておられました。しかし、子を産む女のように産みの苦しみを体験します。うめき、あえぎます。主は選びの民を裁かなければならないのです。それには痛みを伴います。しかし、子を産むと言うことは、苦しみがあると同時に、新しい時代の到来をも意味します。キリストの初臨であり再臨です。そのための準備が必要です。「わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし沢をからす。(42:15)主には、新しい時代を前にして、罪に満ちた自然をリセットする必要があるのです。「わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。(42:16)」。主は、救いの御業を行われます。暗闇の中にいて真理が見えず、理解出来なかった人々(盲人)が真理を知るようになり、その真理によって、主への道は、まっすぐにされます。「彫像により頼み、彫像に『あなたがたこそ、私たちの神々』と言う者は、退けられて、恥を見る(42:17)」。偶像崇拝をする者は、退けられて、裁かれます。恥を見るのです。彼らは、決して神の国の栄光に預かることは出来ないのです。ここまで、神とイスラエルの民との良好な関係が預言されました。いまだ、実現されてはいません これ以後、イスラエルの民の、実際の姿が語られます。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしが送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか(42:18~19)」。このしもべとは、異教の民ではありません。イスラエルの民です。主に買い取られた契約の民にも拘らず、彼らは、見ようとせず、聞こうともしないのです。「あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。主はご自分の義のために、み教えを広め、これを輝かすことを望まれた(42:20~21)」のです。イスラエルの民は敵(バビロン)との戦いに敗れ各地に散らされました。彼らは、その地に定着し、家族を持ち、子をもうけます。そして、異教の神を信じるようになります。真の神を信じるには差別と迫害に耐えなければなりません。それゆえに、主の道に歩まず、そのみ教えには聞き従わなかったのです。主は、自分の義のために、イスラエルの民が悔い改め、神に立ち返ることを望まれました。彼らがみ教えを広め、これを輝かすことを望まれたのです。神のイスラエルに対する深い御心が示唆されています。「これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、罠にかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾け、だれが後々のために注意して聞くだろうか(42:22~23)」。ここには、「バビロンの捕囚」と、その悲惨さが語られています。「だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず自分に燃えついても、心に留めなかった。(42:24~25)」。奪い取るものとは、アッシリヤやバビロンを指します。彼らは神の御手です。それにも拘らず、イスラエルの民は、主の道を歩まず、偶像を求めたのです。彼らは、主の激しい燃える怒りに接しても、その真意を悟ることはなく、偶像に頼ります。旧約聖書の段階では、神とイスラエルの和解はありません。彼らの救いは、イエス・キリストの出現まで、待たねばなりません(42:1~4参照)。
令和5年10月17日(火)報告者 守武 戢 楽庵会




イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな

2023年10月01日 | Weblog
  イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな
 はじめに:人が、神託を語るとき、それは預言となり、語る者は預言者となります。その預言が正しいか、過ちであるかは、過去の預言が、現在において実現しているか否かにあります。語る言葉が、神託であれば実現します。彼は、神によって召命された者だからです。彼は、預言者となります。神託でなければ、実現しません。神と偶像の違いです。(41:22~24参照)。
 神は「裁きの座に近づけ」と。イスラエルの周辺の異邦かつ異教の国々に法廷闘争を呼びかけます。神は自分の力強さを、彼ら(周辺諸国)に見せつけ、だれがクロス王を使って異教の国々を滅ぼしたかと、自分の正しさを強調します。それゆえ、我に従えと訴えます。それに対して異教を信じる国々は、異教を信じる国々を統合して、共通の偶像を造って敵に抵抗することが、敵に勝つ最良の方法だと反論します。神か、偶像かの争いです。しかし、主は言います。「見よ。彼等はみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は、風のように形もない(41:29)。これが法廷闘争の結果です。 神に優るものは存在しません。
 41章を要約すると次の3つに分類されます。
 1,1~7節:イスラエルを取り巻く異教の諸国に対する法廷闘争が呼びかけられ、救いはどちらの神によってなされるか。神か偶像かの問いかけがあります。
 2,8~20節:イスラエル及び周辺諸国が主によって守られ、回復することが描かれています。
 3,21~29節:裁判の結果が語られ、バビロンに対する裁きと偶像の神々に対するイスラエルの勝利の宣告がなされています。
 41章:「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力をえよ。近寄って、今、語れ、われわれはこぞって、さばきの座に近づこう。(41;1)」。島々(諸国)とは、当時の強国アッシリヤの支配下で翻弄され、苦しみ、呻いていた異邦で異教の民のことです。主は、その国々に対して「わたしを信じて力を得よ」と彼らに勧告します。そして、預言者イザヤは、法廷(裁きの座)を開いて自分を救うものはだれかを決めよ、と法廷での闘争を呼びかけます。「神か、それともあなたがたの信じる偶像か」と。
「誰が一人の者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らを塵のようにし、その弓で藁のように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いたことのない道を安全に通っていく(41:2~3)」。だれが:主です。主は尊いお方です。汚れた仕事は自分ではしません。東からくる一人の者ペルシャの王クロスを使います。彼は、行く先々で異教の国々と戦い、勝利を収めます。彼(クロス)は、彼ら(諸国の民)を、何の苦労もなく(安全に)撃破していきます。
「誰がこれを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりと共にある。わたしがそれだ(41:4)」。誰がとは主です。「初めから代々の人に呼びかけた者」も主です。初めとは、天地創造を指します。この日より、この地の民に呼びかけた者は、神以外にはいません。終わりとは、新しいエルサレム(神の国)です。神の国の創造者も、また主です。天地創造から神の国まで、神は人類の歴史を造り、支配しておられます。これが、神のご計画なのです。天地創造はすでに見ました。しかし神の国は預言的未来です。まだ実現していません。しかし、預言的未来には預言と言う言葉がついているように必ず実現するのです。
 「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいてきた(41:5)」。地の果てとは地獄(クロス王)を指します。島々の民は、その地獄が近づく(滅び)のを恐れたのです。
 「彼らは互いに助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つものは、金床をたたく者に、はんだ付けについて『それで良い』と言い、釘で打ち付けて動かないようにする(41:6~7)」。彼らの視線は向かうべき真の神には向かわず、偽りの神、偶像に向きます。自分たちの危機にあって、互いに協力し合って共通の偶像を造ってそれを拝みます。それが強力な敵に対して、最も安全かつ強力な力になると考えたのです。これが法廷闘争における周辺諸国の立場です。しかし、この方法が、誤りであることは後に、明らかになります(41:29参照)。
 次の節から神のしもべ、イスラエルに対する防衛の保証と、祝福の約束が神によって、与えられます(41:8~20参照)。
 「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムの末よ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは私のしもべ、わたしはあなたを選んで捨てなかった』(41:8~9)」。イスラエルは、バビロンによって滅ぼされ、その民は各地に散らされました。しかしバビロンがペルシャの王クロスによって滅ぼされたとき、主はクロスを使って、散らされた民のエルサレムへの帰還を、お赦しになったのです。神が彼らをお見捨てにならなかった証拠です。しかし民の全てが帰還したわけではありません。散らされた期間が70年と長きに渡ったため、彼らの多くはその地に定着します。世代の交代も起こっています。更に、ユダヤ人のアイデンティティーを失わすような教育も行われました。いわゆる愛国教育と言う名の同化政策です。その一環として偶像崇拝も強制されます。ここに政治と宗教の一体化を見ることができます。為政者にとって、いつまでも反逆の民がいては困るのです。彼らは、その地の偽りの神、偶像を信じるようになります。特に第二世代はそうです。彼らは父の世代の本当の神を知りません。その地の偶像こそ神です。彼等は、強制ではなく、自らの意思でその地の神を信じます。これ等、様々な理由によって、散らされた民の多くは帰還を拒否します。そのような中にあって、70年もの長い間、神を信じる「残りの者」がいました。彼等は同化政策に従うことを潔よしとせず、ユダヤ人としてのアイデンティティー守り続けます。彼らの生活は、苦痛と困難に満ちていました。しかし、神を信じる姿勢を保ち続けます。それゆえの差別と迫害があったことは、想像に難くありません。彼らは、神の指示に基づいて、自らの意思で、エルサレムに戻ります。彼らは破壊された神殿の再建に、多くの障害を乗り越えて、努めます。そのため、神殿再建には長い時間がかかりました。このように、帰還を赦された民は、神を信じる者と、偶像を信じて、その地に止まった者の二種類に分かれます。神にも儘々にならないことがあるのです。神はこの事態に対処する必要に迫られます。それゆえに、「わたしを信じ、わたしに従え」と、彼らに呼びかけます。
 「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしは、あなたを強め、あなたを助け、私の義の右手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきり立つものは、みな、恥を見、辱めを受け、あなたと争う者たちは、ない者のようになって滅びる。あなたと言い争うものを捜しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしがあなたの右の手を堅く握り『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから(41:10~13)。このように、主は神のしもべイスラエルに、ゆるぎのない確かな約束を与えます。その約束とは、神とイスラエルの間で交わされた契約を現します。その契約によって、イスラエルは子々孫々の増大繁栄が約束されています。それで神は、イスラエルの民に「恐れるな」と言います。この約束を守る神が存在しているからです。
「恐れるな、虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。…主の御告げ…あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者(41:14)」。主は、なぜ選ばれた民イスラエルを「虫けら」と呼ぶのでしょうか。当時ヒゼキヤを生んだイスラエルは決して神に従順ではなかったのです。み使いがアッシリヤをその包囲から解放したとき、彼らは自分の手柄のように高ぶりました。主の最も嫌われることです。主は軽蔑を込めて「虫けら」呼んだのです。しかし、「虫けら」であるからこそ、救いの対象となるのです。裁きの対象ではありません。これが、イザヤ書の後半部分の特色です。神はイスラエルに言います。「あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者」と、それは、イエス・キリストです。と。
「見よ。わたしはあなたを、鋭い、新しい,両刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて、粉々に砕く。丘を籾殻のようにする。あなたがそれを仰ぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る(41:15~16)」。主の前にはもはやイスラエルに敵対する者はいなくなります。イスラエルは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。のです。
 「悩んでいる者や貧しいものが水を求めても水はなく、その舌は乾きで干からびるが、わたし、主は、彼らに応え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、沙漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉やアカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒れ地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心を留めて、共に悟るためである(41:17~20)」。イスラエルの神は、飢え渇いている者を決して見捨てません。荒れ地や荒野や沙漠に泉や川を造り、オアシスとして水を貯え、荒れ地では育たないと言われている様々な木々の栽培を可能にします。文字通り「乳と蜜の流れる豊かな地に」変えられるのです。そのことを偶像を信じる者は、はっきりと知り、心を神に向けて、神の偉業を、諸国の民たちは、悟らなければならないのです。
 「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。持ってきて、後に起ころうとすることを告げよ。先にあったことは何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれはそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来るべきことをわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。(41:21~23)
 あなたがた、とは偶像を信じる「諸国の民」です。その民に法廷に出廷して「あなたがたの訴え」を出せ、と主は仰せられるのです。主は、彼らを試みておられるのです。「あなたがたの神の言葉が神託であり、必ず実現する」と言うのなら、その証拠を法廷に提出せよ」と。そのとき、主はそれを神託と認めよう。と仰せられます。しかし偶像には、その力はありません。「見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたの業はむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい(41:24)」。ここには、偶像を信じることの虚しさが、語られています。偶像の選びは、忌まわしいのです。
 「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出るところから、私の名を呼ぶ。彼は長官たちを漆喰のように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように(41:25)」。北からの人、とは、ペルシャのクロス王です。主の要望に応えて、彼は異国の支配者(長官)たちを破滅させます。陶器師が粘土を踏みつけるように。「だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに『それは正しい』と言うようにさせただろうか。言う者は一人もなく、聞かせたものも一人もなく、あなたがたの言うことを聞いたものもだれ一人、いなかった(41:26)」。このこととは、ペルシャが世界帝国になり、バビロンを滅ぼし、ユダの民を解放したことを指します。100年以上も後に起こることです。それを預言できるものは神以外におりません。他のものには、預言は出来ません。預言は神のしもべである預言者の専売特許です。「私が、最初にシオンに、『見よ。これを見よ』と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう(41:27)」。よい知らせとは、神の国の到来であり、それを伝えるものとはキリストであり、その再臨を指します。ここには「神のご計画」が描かれています。「わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない(41~28)」。主は、神のしもべであるユダヤ民族の救いを語っています。それは神の国の実現において達成されます。それが出来るものは、主以外には存在しません。天地創造から神の国まで、神は、選びの民イスラエルを使って神の国を完成されるのです。
この章は、神か、偶像かの法廷での争いをテーマとしています。偶像を信仰するものは、この世には多くいます。しかし神である主は言います。「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない(41:29)。真の神に比べ偶像の神の偽りと、むなしさが語られています。ここには法廷闘争の神の勝利が語られています。

令和5年10月17日(火)報告者 守武 戢 楽庵会