イザヤ書Ⅶ 19~20章 諸国に及ぶ主の救い
はじめに:19章から20章で、主はイスラエルとユダの周辺諸国のうちクシュ(エチオピヤ)とエジプトに対してその懲らしめの宣告を行います。この宣告によって13章から始まった周辺諸国に対する懲らしめの宣告は終了します。その目的は決して懲らしめることではないのです。主は、苦しめ、試し、ついには、彼らを幸せにすることが、目的だったのです。勿論、そのためには、彼らの、悔い改めと、主への立ち返りが条件でした。
19章:1、おののくエジプトの神々 19章はエジプトに対する主の宣告です。時代は、アッシリヤがイスラエル、モアブ、ペリシテの地偽の神々域を超えて南進しているときの事です。主は、アッシリヤを通してエジプトを打たれたことを「速い雲に乗ってエジプトに来る」と言われています。そして、エジプトの「「偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底しなえる」のです。当時のエジプトは、偶像(偽りの神)礼拝の国でした。主はアッシリヤを通じて彼らの偶像を打たれたのです。当時のエジプトは、その栄光の時代は過ぎ国力は弱まっていました。それをさらに推し進めていたものが、分裂と内紛でした。「兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と相逆らって争う」「エジプトの霊は、その中で衰える」のです。エジプトの衰えは主の裁きでした。しかし。悔い改めを知らないエジプトの民は、その救いを「偽りの神々や、死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てて」いたのです。結果、主は怒りエジプト人を厳しい主人(アッシリヤ)の手に引き渡す」のです。「力ある(アッシリヤ)の王が彼らを治める」ようになるのです。
これは万軍の主、主の御告げなのです。
2、干上がるナイル 次に主によるエジプトに対するさばきの内容が語られます。「海から水が干され、川は干上がり、枯れる。多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。ナイル川やその河口のほとりの水草も、その川床もみな枯れ、吹き飛ばされて何もない(19:5~7)」。世界で最古かつ最長の文明がエジプトで発達したのは、ナイル川のおかげです。ナイル川の氾濫によって土壌は新しく生まれ変わり、豊かな農地が再生されていたのです。豊かな実りは氾濫前に刈り取られていたので、農民には恵みがあるだけで、氾濫による被害はなかったのです。
そのナイル川が干上がるのです。その影響は大きなものがあります。農民だけでなく、漁民も、また、葦の繊維を加工して生まれる産業も、そこで働く労働者にも、多大な影響を与えたのです。経済全体が大きな打撃を蒙ったのです。エジプトは、その罪ゆえに過酷な試練に会わざるを得なかったのです。しかし、この試練は、主の恵みであったことが後に分かります。
3,愚かな知者:この言葉は形容矛盾です。知者は決して愚か者ではないからです。彼らはこの世的に見れば、知者であり、賢者であり、権威者です。大学で学問を教えているかもしれません。しかし、主の目から見れば愚か者なのです。なぜならば、彼らは、「万軍の主がエジプトに何を計られたかを」知らないし、知ろうともしないからです。「ツォアンの首長たちは全く愚か者だ。パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする。どうして、あなたがたはパロに向かって『私は、知恵あるものの子、昔の王たちの子です』と言えようか(19:11)」。彼ら(エジプト人)の目は自分自身に向けられていて主を見上げようとはしていません。その限りにおいて、パロと変わりません。パロの知恵はアッシリヤの侵攻を前にして何一つ役には立たないのです。我々の進むべき道は、神のご計画の中にあります。この国の知者たちはそれを知りません。彼らは、だから愚か者なのです。だから、道を誤るのです。だから、主は、怒って、エジプトによろめく霊を吹き込まれたので「頭も尾もナツメヤシの葉も葦もエジプト人のためになすべきわざを持たないのです」。頭とは知者や政治指導者のことです。尾とは一般民衆のことです。主は彼らを迷わせ、よろめかせるのです。主は、エジプト人のために裁き以外なすべきわざを持たないのです。すなわち、国全体が酔いどれのように何をなすべきかわからない状態に陥っているのです。これが、世の終わりを目の前にしているエジプトの姿なのです。
4、主への捧げもの:次からは、主が、エジプトに対して、裁きではなく、救いの働きかけをなされる部分です。
「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分に向かって振り上げる御手を見て恐れおののく」のです。その日とは、アッシリヤ侵攻の日ではなく、エジプトが終わりを迎える究極のときを現しています。「女のようになる」の女とは弱さの象徴です。アッシリヤに攻められてからのエジプトの歴史は衰退の歴史です。バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、と攻められ、弱くされ、滅亡は回避したものの国としての形は失ったのです。このようにエジプトは、女のように弱くなり、そのプライドを失ったのです。「万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手」とは、アッシリヤを含め、エジプトに侵攻した国々を指します。このように、主は、自分に反抗する国々さえも裁きのために利用されるのです。エジプトはこれに恐れおののきます。同時に、これは、主イエスの再臨の姿をも現わしています。このようにイザヤは、一つの事件を主の視点と、人の視点の二つの視点で見ているのです。
「ユダの地は、エジプトにとって恐れとなる。これを思い出すものはみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとに対しておののく(19:17)」。ユダの地には主・イエスが再臨されて強くされます。エジプトに対する主のはかりごととは、強くされたユダによって、エジプトが女のように弱くされることです。この預言によってエジプトは恐れおののくのです。エジプトの弱さは強さの逆表現です。弱くなった時、人は神に救いを求めます。神は悔い改めを条件としてこれを助けます。「彼らが虐げられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる(19:20B)」。「そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は、主を知り、生贄と、ささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす(19:21)」。これとは主を知ること(悔い改め)を指します。「主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる(19:22)」のです。「その日、エジプトからアッシリヤへの大路が出来、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人と共に主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける(19:23~24)」のです。エジプトだけでなくアッシリヤも主に仕えるようになるのです。
5、アッシリヤとエジブト間の大路:エジプトとアッシリヤの間には、王の道と呼ばれる幹線道路がありました。いわゆる、大路です。貿易、政治、経済、文化、戦争にも使われました。この大路が、福音宣教のためにも使われるのです。異邦人宣教が行われることが示されています。この結果、エジプトだけでなく悪の代表とみなされていたアッシリヤさえも悔い改め主のあわれみを受けるに値する民に変わるのです。これはあくまでも主の預言です。いまだ実現していません。しかし、主の預言は必ず実現するのです。「万軍の主は祝福して言われる。『わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように』(19:25)」。イスラエルから始まって全世界へ福音宣教の行いが拡大することへの希望が語られています。これは主のご計画なのです。
20章:クシュ(エチオピヤ)とエジプトの捕囚:イザヤは再び、アッシリヤ、エジプト、クシュついての預言を始めます。
「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来てアシュドデを攻め、これを取った年―――。そのとき主はアモツの子イザヤによって(アシュドデに)語られたのである。『行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足の履物を脱げ。』それで彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」。腰に荒布をまき、はだしで歩くということは、悲しみと、悔い改めを現しています。実はイザヤ自身も、かつて、その罪を贖うために「3年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いた」経験を持つのです。「アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若いものも年寄りも、裸にし、はだしにして、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れていく」のです。これは主が、自分に従わないこの二つの国を、アッシリヤを使って罰したことを意味します。エジプトもクシュもかつては、共に強大な国でした。政治的に見て頼りがいのある国だったのです。「人々(ユダヤ人)は、クシュを頼みとし、エジプトを栄としていたので、おののき恥じる。その日、この海辺の住民は言う。『見よ、アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げてきた私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうして逃れることが出来ようか』」。ユダの民は求めるものを誤っていたのです。本来求めるべきものは、主以外には存在しないのです。
はじめに:19章から20章で、主はイスラエルとユダの周辺諸国のうちクシュ(エチオピヤ)とエジプトに対してその懲らしめの宣告を行います。この宣告によって13章から始まった周辺諸国に対する懲らしめの宣告は終了します。その目的は決して懲らしめることではないのです。主は、苦しめ、試し、ついには、彼らを幸せにすることが、目的だったのです。勿論、そのためには、彼らの、悔い改めと、主への立ち返りが条件でした。
19章:1、おののくエジプトの神々 19章はエジプトに対する主の宣告です。時代は、アッシリヤがイスラエル、モアブ、ペリシテの地偽の神々域を超えて南進しているときの事です。主は、アッシリヤを通してエジプトを打たれたことを「速い雲に乗ってエジプトに来る」と言われています。そして、エジプトの「「偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底しなえる」のです。当時のエジプトは、偶像(偽りの神)礼拝の国でした。主はアッシリヤを通じて彼らの偶像を打たれたのです。当時のエジプトは、その栄光の時代は過ぎ国力は弱まっていました。それをさらに推し進めていたものが、分裂と内紛でした。「兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と相逆らって争う」「エジプトの霊は、その中で衰える」のです。エジプトの衰えは主の裁きでした。しかし。悔い改めを知らないエジプトの民は、その救いを「偽りの神々や、死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てて」いたのです。結果、主は怒りエジプト人を厳しい主人(アッシリヤ)の手に引き渡す」のです。「力ある(アッシリヤ)の王が彼らを治める」ようになるのです。
これは万軍の主、主の御告げなのです。
2、干上がるナイル 次に主によるエジプトに対するさばきの内容が語られます。「海から水が干され、川は干上がり、枯れる。多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。ナイル川やその河口のほとりの水草も、その川床もみな枯れ、吹き飛ばされて何もない(19:5~7)」。世界で最古かつ最長の文明がエジプトで発達したのは、ナイル川のおかげです。ナイル川の氾濫によって土壌は新しく生まれ変わり、豊かな農地が再生されていたのです。豊かな実りは氾濫前に刈り取られていたので、農民には恵みがあるだけで、氾濫による被害はなかったのです。
そのナイル川が干上がるのです。その影響は大きなものがあります。農民だけでなく、漁民も、また、葦の繊維を加工して生まれる産業も、そこで働く労働者にも、多大な影響を与えたのです。経済全体が大きな打撃を蒙ったのです。エジプトは、その罪ゆえに過酷な試練に会わざるを得なかったのです。しかし、この試練は、主の恵みであったことが後に分かります。
3,愚かな知者:この言葉は形容矛盾です。知者は決して愚か者ではないからです。彼らはこの世的に見れば、知者であり、賢者であり、権威者です。大学で学問を教えているかもしれません。しかし、主の目から見れば愚か者なのです。なぜならば、彼らは、「万軍の主がエジプトに何を計られたかを」知らないし、知ろうともしないからです。「ツォアンの首長たちは全く愚か者だ。パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする。どうして、あなたがたはパロに向かって『私は、知恵あるものの子、昔の王たちの子です』と言えようか(19:11)」。彼ら(エジプト人)の目は自分自身に向けられていて主を見上げようとはしていません。その限りにおいて、パロと変わりません。パロの知恵はアッシリヤの侵攻を前にして何一つ役には立たないのです。我々の進むべき道は、神のご計画の中にあります。この国の知者たちはそれを知りません。彼らは、だから愚か者なのです。だから、道を誤るのです。だから、主は、怒って、エジプトによろめく霊を吹き込まれたので「頭も尾もナツメヤシの葉も葦もエジプト人のためになすべきわざを持たないのです」。頭とは知者や政治指導者のことです。尾とは一般民衆のことです。主は彼らを迷わせ、よろめかせるのです。主は、エジプト人のために裁き以外なすべきわざを持たないのです。すなわち、国全体が酔いどれのように何をなすべきかわからない状態に陥っているのです。これが、世の終わりを目の前にしているエジプトの姿なのです。
4、主への捧げもの:次からは、主が、エジプトに対して、裁きではなく、救いの働きかけをなされる部分です。
「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分に向かって振り上げる御手を見て恐れおののく」のです。その日とは、アッシリヤ侵攻の日ではなく、エジプトが終わりを迎える究極のときを現しています。「女のようになる」の女とは弱さの象徴です。アッシリヤに攻められてからのエジプトの歴史は衰退の歴史です。バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、と攻められ、弱くされ、滅亡は回避したものの国としての形は失ったのです。このようにエジプトは、女のように弱くなり、そのプライドを失ったのです。「万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手」とは、アッシリヤを含め、エジプトに侵攻した国々を指します。このように、主は、自分に反抗する国々さえも裁きのために利用されるのです。エジプトはこれに恐れおののきます。同時に、これは、主イエスの再臨の姿をも現わしています。このようにイザヤは、一つの事件を主の視点と、人の視点の二つの視点で見ているのです。
「ユダの地は、エジプトにとって恐れとなる。これを思い出すものはみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとに対しておののく(19:17)」。ユダの地には主・イエスが再臨されて強くされます。エジプトに対する主のはかりごととは、強くされたユダによって、エジプトが女のように弱くされることです。この預言によってエジプトは恐れおののくのです。エジプトの弱さは強さの逆表現です。弱くなった時、人は神に救いを求めます。神は悔い改めを条件としてこれを助けます。「彼らが虐げられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる(19:20B)」。「そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は、主を知り、生贄と、ささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす(19:21)」。これとは主を知ること(悔い改め)を指します。「主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる(19:22)」のです。「その日、エジプトからアッシリヤへの大路が出来、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人と共に主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける(19:23~24)」のです。エジプトだけでなくアッシリヤも主に仕えるようになるのです。
5、アッシリヤとエジブト間の大路:エジプトとアッシリヤの間には、王の道と呼ばれる幹線道路がありました。いわゆる、大路です。貿易、政治、経済、文化、戦争にも使われました。この大路が、福音宣教のためにも使われるのです。異邦人宣教が行われることが示されています。この結果、エジプトだけでなく悪の代表とみなされていたアッシリヤさえも悔い改め主のあわれみを受けるに値する民に変わるのです。これはあくまでも主の預言です。いまだ実現していません。しかし、主の預言は必ず実現するのです。「万軍の主は祝福して言われる。『わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように』(19:25)」。イスラエルから始まって全世界へ福音宣教の行いが拡大することへの希望が語られています。これは主のご計画なのです。
20章:クシュ(エチオピヤ)とエジプトの捕囚:イザヤは再び、アッシリヤ、エジプト、クシュついての預言を始めます。
「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来てアシュドデを攻め、これを取った年―――。そのとき主はアモツの子イザヤによって(アシュドデに)語られたのである。『行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足の履物を脱げ。』それで彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」。腰に荒布をまき、はだしで歩くということは、悲しみと、悔い改めを現しています。実はイザヤ自身も、かつて、その罪を贖うために「3年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いた」経験を持つのです。「アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若いものも年寄りも、裸にし、はだしにして、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れていく」のです。これは主が、自分に従わないこの二つの国を、アッシリヤを使って罰したことを意味します。エジプトもクシュもかつては、共に強大な国でした。政治的に見て頼りがいのある国だったのです。「人々(ユダヤ人)は、クシュを頼みとし、エジプトを栄としていたので、おののき恥じる。その日、この海辺の住民は言う。『見よ、アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げてきた私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうして逃れることが出来ようか』」。ユダの民は求めるものを誤っていたのです。本来求めるべきものは、主以外には存在しないのです。
令和4年10月18日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会