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イザヤ書ⅸ 23~24章 「主への褒め歌」

2023年01月07日 | Weblog
イザヤ書ⅸ 23~24章「主への褒め歌」
はじめに:13章から続いて来た諸国民に対する神の宣告は、23章のツロに対する神の宣告で終わります。24章以降は「世の終わりについての預言」が記されています。
 23章:「ツロに対する宣告。タルシシュの船よ。泣きわめけ。ツロは荒らされて、家も港もなくなった。とキティムの地から、彼らに示されたのだ(23::1)」。
 ツロ:ツロは、地中海東岸にあるフェニキヤ人の都市国家です。彼らの舞台は地中海です。古くから、海洋貿易と工業によって栄え、周辺諸国(キティム、タルシシュ、シドン、エジプト)との交易によって、莫大な富を得ていました。その経済力によって、世界を動かしていたのです。ここでは大金持ちが権力を握っていました。ツロは、富と商業の発祥地です。その経済力は世界貿易の中心にありました。それゆえ、主が最も嫌う物質主義の国になっていたのです。更に、ツロは,経済力においてだけでなく、軍事力においても優れていました。その海軍力によって周辺諸国との交易の安全は守られていました。海を荒らす海賊たちは太刀打ちできなかったのです。このように、ツロは、経済力にも、軍事力にも、アッシリヤやバビロンに匹敵するだけの力を持っていました。 そのツロが、アッシリヤに滅ぼされたのです。当時としては、考えられないことだったのです。主の御力が働いておられたのです。ツロは破壊されました。そこでツロとの交易によって利益を受けていた周辺の諸国が、キティムをはじめとして、その損失は、大きく、ツロの滅亡を嘆き、悲しんでいるのです。
 タルシシュ:今の南スペインです。当時、地の果てとおもわれていました。タルシシュの船は、当時の豪華商船のことで、地中海東のツロから最西端のタルシシュまで航行できる、世界で最も遠くまで航行できる力を持っていました。この船団もツロの軍事力によって守られていました。ツロの滅びは、彼らから商売相手を奪い、大きな損害を与えたのです。
 キティム:周辺諸国の一つ、現在のキプロスです。地中海に浮かぶツロの近くにある島です。ツロとの交易で富を蓄積していました。アッシリヤがツロを攻め、ツロの町を破壊しました。ツロが破壊され、ツロによって収益を得ていたキティムも、その損失を嘆き、泣き喚いているのです。
 「海辺の住民よ。黙せ。海を渡るシドンの商人は、あなたを富ませていた。大海によって、シホルの穀物、ナイルの刈り入れがあなたの収穫となり、あなたは諸国と商いをしていた。シドンよ、恥を見よ。と海が言う。海の砦がこう言っている。『私は産みの苦しみをせず、子を産まず、若い男を育てず、若い女を養ったこともない。』エジプトがこのツロのうわさを聞いたなら、ひどく苦しもう(23:2~5)」
 地中海貿易でツロはシドンの扱う商品や、エジプトの商品(シホルの穀物やナイルで刈り入れた物)などを扱うなどと国際貿易に励んでいました。
 妊娠を知らない女が、産みの苦しみを知らないように、ツロもその交易において何の苦労もなく富を蓄積していたのです。世界に誇る軍事力も使われ、略奪に近い形で、植民都市では、商売が行われていたかもしれません。しかし、子を持たない不妊の女に将来がないように、ツロもアッシリヤによって滅ぼされていくのです。主はアッシリヤを使って、ツロを滅ぼしたのです。恐るべきことはアッシリヤではなく、主であることを知らなければなりません。ツロを相手に交易を図っていた地中海沿岸諸国も同じように神(アッシリヤ)の裁きを受けるのです。
 黙せ:ツロの破滅は神の意志ゆえ、黙って受け入れよ、という意味。
あなた、海、海の砦:ツロを指します。
 海辺の住民:ツロが築き上げた多くの地中海沿岸の植民都市を指します。
 シドン:ツロの北にある国。ツロと共に、フェニキヤ人、あるいは、カナン人の都市国家として栄えていたところです。
 エジプト:ナイル川の沿岸に位置します。エジプトもツロとの交易によって利益を得ていた国です。ツロの滅びによって、その利益を失いました。それを苦しみ悲しんでいます。
 「海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣き喚け。これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。誰が王冠を抱くツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどとは世界で最も尊ばれていたのに。万軍の主がそれ(ツロの破滅)を計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた(23:6~9)」のです。ツロと共にアッシリヤによって滅ぼされた海辺の住民が、避難民として、タルシシュに押し寄せたのです。そこで「泣きわめけ」とイザヤは言います。
これが:海辺の住民たちの住んだフェニキヤ人の町。
おごった町:あくまでも神の視点から見た町であり、物欲に支配された海辺の住民の町を指します。この町は、BC2,500年~BC2,300年に建てられた古い町です。貿易が盛んで、彼らの商売は世界一、超一流と称賛されていました。世界で最も尊ばれていたのです。しかし彼らは、神を捨てていました。そこで神は怒り、この町の持つ「すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれて者を卑しめられた」のです。「万軍の主がそれを計り」とイザヤが語るように、そこには神の御計画があったのです。神は自分に逆らうものをお赦しになりません。主はアッシリヤを使って。カナンを滅ぼし、カルデヤ人の国をアッシリヤに引き渡し、獣の住む荒野(廃墟)にしたのです。
 「タルシシュの娘よ。ナイル川のように、自分の国にあふれよ。だがもうこれを制する者はいない。主は御手を海の上に伸ばし、王国をおののかせた。主は命令を下してカナンの砦を滅ぼした(23:10~11)」。イザヤはタルシシュにツロ崩壊後の何らかの方策を求めます。しかし、タルシシュを具体的に治める(制する)者はいなかったのです。主がその御手を、海の諸都市に伸ばして、これを戦かせ、滅ぼしたからです。「そして仰せられた。『もう二度と小躍りをして喜ぶな。虐げられた乙女。シドンの娘よ。立ってキティムに渡れ。そこでもあなたは休めない。』見よ、カルデヤ人の国を。――この民はもういない。アッシリヤ人がこれを荒野の獣の住むところとした。――。彼らは、やぐらを立てて、その宮殿をかすめ、そこを廃墟とした。タルシシュの船よ。泣きわめけ。あなたがたの砦が荒らされたからだ」(23:12~14)」。
シドンの娘:シドンは神のさばきを受けました。隆盛を誇ったシドンにイザヤは「小躍りをして喜ぶな」と、警告を発します。そして、キティムに渡れといいます。しかし地中海の沿岸の諸都市は破壊されていて、どこにも安心して過ごせる場所はありません。アッシリヤ人がこれを荒野の獣の住むところにしたからです。
 ツロがアッシリヤに滅ぼされて70年、その間ツロはアッシリヤの支配下にありました。アッシリヤが滅びツロは再興し、商業都市として回復します。この時ツロは、変化していました。商取引(淫行)によって得た利益は、これまでのように投資されたり貯えられたりして私的に使用されるのではなく主の目的のために使われるように変わっていたのです。将来的には、この世のすべてのものは、主の支配下に置かれるのです。
 24章: 24章から27章までは「イザヤの黙示録」と言われ、「ヨハネの黙示録」の内容とWっています。特に「ヨハネの黙示録」の6~19章の知識がないと読み解くことが難しいと言われています。
 「ヨハネの黙示録」の概要:今は苦しくとも、必ず報われる時が来ます。そして、その後に死も悲しみもない新天新地が訪れることが預言されています。 天国とは、絶え間なく神への礼拝が捧げられる場所であり、神の偉大さが、表現されています。聖書の語る神のご計画について真剣に学び、常に神の視点をもって、現在、起きている事態を検証していく力を身につけなければならない時代に、今、私たちの前には来ています。
 24章から大患難時代に関する預言が始まります。大艱難時代の特徴とは天体と地球に大異変が生じ、この世に大災害が起こることです。天体と地球に大異変が生じるだけでなく、全世界の政治、宗教、社会システム等々の崩壊も明らかになります。その背後には、神の警告と、怒りがあることが明らかにされます。大地震などの災害は、社会の上下関係、身分、財産の有無、多寡に関係なく平等に訪れます。そこには差別はありません。その原因は、『地は住民によって汚され、彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからです(24:5)』。かくして、地の住民の多くは罪ある者とされ、神のさばきを受けたのです。神に従順な住民は減り、わずかな信仰の人のみが生き残るのです。「イザヤ書」の重要な思想の一つである「残りの者」です。。その結果「新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむものはみな、ため息をつく(24:7)」。のです。
 新しいぶどう酒:神に従順な人。ぶどうの木:イスラエルの民。心楽しむもの:神の恵みを受けている者。
 「陽気なタンバリンンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な竪琴の音も終わる。歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。都は壊されて荒れ地のようになり、すべての家は閉ざされて、入れない。巷には、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。町はただ荒れ果てたままに残され城門は打ち砕かれて荒れ果てる。それは世界の真ん中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取入れが終わって,取り残しの実を集めるときのようになるからだ(24:8~13)」。大患難の時代、神は人々を平等に罰するのです。
けでなく、世の楽しみもなくします。人びとは喜びを取り除かれます。都は壊され、荒れ地とされます。これが大患難時代の現実です。神のいない世界です。しかし、こんな世界にもぶどうの実の取り残しがあるように、わずかではあっても主は生き残るものを残しておられるのです。神の特別な計らいによって艱難時代を耐え忍んで、生き延びる者たちです。たとえ、殉教して死んだとしても、やがてメシアの再臨後のメシア王国(千年王国)のときには死からよみがえります。「彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。それゆえ東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。私たちは、「正しいものに誉あれと言う。地の果てからの褒め歌を聞く(24:14~16B)」。ここには「残りの者」がいます。主は、多くの罪ある者を裁かれますが、その中にわずかではあっても神によって残される信仰の人がいるのです。彼らとは、そのわずかの者を指します。彼らは、あらゆる国、民族、集団から来たもので、主を信じたがゆえに、異教の国の、異教徒に迫害され、苦しみ、殺されて天に召された人々です。彼らは甦り、その甦りを、「声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ」のです。更に、「正しい者たちに誉れあれ」という褒め歌を聞くのです。このように大患難を抜け出た「残りの者」が大喜びで主を賛美している姿を見ることが出来ます。「しかし、私は言った。『私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切る者は裏切り、裏切った。』」。私とはイザヤを指します。「残りの者」は霊的に救われますが、現実の世界では多くの民は、自らを省みて主に立ち返ろうとはしません。彼らはイザヤを裏切ります。イザヤは自分の力不足を嘆き、「私はだめだ」と叫びます。主は怒ります。その結果、イザヤはこの世に下る罪びとに対する裁きの姿を見ることになります。「地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、罠とがあなたにかけられ、その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴から這い上がる者は、その罠に捕らえられる(24:17~18)」のです。主以外に彼らを救う者はいないのです。どんなにもがき、努力しても、自分で自分を救うことは出来ません。その彼らに艱難が襲います。ものすごい規模の地震が彼らを襲い、地は基から揺るぎます。「そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない(24:20B)」。のです。次に、「その日」に起こることが語られます。その日とは、この世の終わりの日です。神に逆らう人間だけでなく、サタンとそのしもべである悪霊たちに対する裁きが行われる日です。イザヤは、これを「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる(24:21)」と表現しています。続いて「彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる(24:22)」」黙示録20章1~3節には、これを、地上に堕とされたサタンが。み使いによって捕縛され、千年王国の間中、底知れぬ穴の中に閉じ込められ、千年後に開放されると語ります。解放されたサタンは、多くの人たちを惑わし、自分の陣営に誘い込み、そしてハルマゲドンにおいてサタンによる神に対する最後の戦いが行われます。けれども天から猛火が下りサタンとその仲間を焼き尽くします。その後、彼らは、永遠の火、ゲヘナに投げ込まれ、もがき、苦しみます。「月は辱めを受け、日も恥を見る。万軍の主が、シオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである(24:23)」。月や、太陽の光に負けないくらいに主の栄光が明るく輝いていることが強調されています。再臨の主がエルサレムに戻ってこられて、世界を統治される姿が、イザヤによって預言されています。イザヤはその生涯をエルサレムで過ごした人ですが、全世界的展望と、全歴史的展望をもって神のことばを預言した預言者です。神のご計画を知り尽くした預言者と言えるでしょう。
令和5年1月10日(火)報告者 守武 戢 楽庵会