書簡集10 テモテへの手紙 第1 牧会書簡とは
テモテへの手紙は牧会書簡と呼ばれている。牧会書簡とは牧者に宛てた手紙である。牧者とは牧場において、家畜を世話するものを云い、教会において、その運営に携わり、聖徒をキリストへと導く聖職者を象徴している。
はじめに
1、 誰が書いたか:パウロ。「疑似書簡」とも言われ、その真作性を疑うものは多い。
2、 誰に宛てて書かれたか:使徒テモテへ。
3、 なぜ書かれたのか:パウロの最も信頼するテモテが教会におけるその指導的役割を十二分に果たすことを期待して、この書簡を書いた。
4、 いつ、どこで書かれたのか:西暦64~65年の間。パウロがマケドニアにいたとき。
5、 この書簡の特徴。:教会での儀式のやり方や教会の組織、共同体の責任者となる「監督」や「奉仕者」に関する勧めが中心になっている。それだけでなく、誤りのない正しい信仰を保つことへの勧めを、夫婦、責任者などに対して行っている。さらに非キリスト者に対する警告も行っている。
牧会書簡とは:
牧会書簡とは、冒頭で示したように、牧者(聖職者)に宛てた手紙である。その書簡には、聖徒の救霊に関する救済活動、特に、聖徒に対する心構えや、彼らが守らねばならない教会の規律や制度が描かれている。牧会書簡には本書のほかに、「テモテへの手紙Ⅱ」「テトスへの手紙」「ピレモンへの手紙」の4書簡があり、これらはこれまでの書簡のように異邦人の教会に宛てたものと異なり、個人に宛てているので「個人的書簡」と呼ばれている。牧会書簡にはパウロ的伝統が「健全な教え」として特徴づけられ、これを担う監督(司教)、執事(助祭)に期待される徳目が、偽りの教えを説くものの不品行とに対置されている。
パウロは言う「私は、その福音を、主からゆだねられたものです(1-11)」「私の子テモテよ(中略)私はあなたにこの命令をゆだねます(1:18)」。主はパウロの牧者でありパウロはテモテの牧者である。このころ異邦人社会には偽教師が横行しており、その影響下にあった。彼らはパウロたちの福音宣教の活動を妨げていた。これに対応するために、聖徒たちを効果的に指導できる牧者を必要としていた。このために書かれたのが「牧会書簡」である。
テモテとは:(ギリシャ語読みはティモテオス)
テモテの出身地は現トルコ南部ルステラ(使徒16:1)。初期キリスト教徒。「信仰によるわたしの真実の子」とパウロはいう。ここから、テモテは、彼の最も信頼する愛弟子であり、協力者であった事がわかる。パウロが手紙を出した当時、彼は、エペソ教会の聖職者であった。正教会では十問徒の一人であり「聖使徒ティモフェイ」と呼ばた。
テモテの父はギリシャ人で、彼には信仰深い母と、祖母がおり、彼女たちは、彼を幼いころより教育し、聖書の奥義を教えた(Ⅱテモテ1:15、同3:15)。
テモテがパウロの愛弟子であり、良き協力者であったことは、次のことよりわかる。1、パウロの第1回と、第2回の宣教旅行に同行したこと。この時、割礼を受ける。
2、テモテはパウロに同行するほかに独自でマケドニアなどに派遣され、その地で指導に当たっていること。
3、「コリント人への手紙Ⅱ」「ピリピ人への手紙」ではテモテはパウロと並んで書簡の差出人に名を連ねていること。
4、エペソの教会には「偽教師」が存在していた。パウロはテモテに「これと対決して信仰による神の救いのご計画を実現せよ」と命じる。
5、テモテは若くしてエペソ教会で指導的立場にあったが、若さゆえにその指導的能力を疑うものがあった。パウロはテモテに自信をもって指導者らしく振舞えと激励する。
6、のちの伝承によれば、65年パウロはテモテを按手し、エペソ教会の司教とした。テモテはその後15年間、エペソの教会を指導した。
テモテはエペソの多神教徒に殺害されたといわれている。
以上のことから判断してテモテは信仰深い、母と、祖母に育てられ、パウロに認められ愛され、同労者として、神の道に進んだ聖者と考えることが出来る。
本書間の重要個所(各章ごと)
1章:「なぜなら、キリストは、私をこの務め(異邦人伝道)に任命して、私を忠実なものと認めてくださったからです(1:12)」。
2章:「神は唯一です。また神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです(2:5)」。
3章:「『執事』は、一人の妻の夫であって、子供と家族をよく収める人でなければいけません(3:1~2)」。
4章:「このことばは真実であり、そのまま受けるに値することばです。私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それはすべての人々、事に信じる人々の救い主です。生ける神に望みを置いているからです(4:9~10)」。
5章:「同じように善い行いは、誰の目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません(5:25)」。
6章:「『信仰の戦い』を勇敢に戦い、永遠の命を獲得しなさい。あなた(テモテ)はこのために召され、また多くの証人たちの前で立派な告白をしました(6:12)」。
内容構成
各章ごとの説明
第1章:神はキリストの牧者であり、キリストはパウロの牧者であり、パウロはテモテの牧者であり、テモテは聖徒たちの牧者である。結局、神はテモテの牧者となり、テモテの教えとは神の教えになる。
パウロはテモテをエペソの地にとどめて、命令する。「「あなたはキリスト者として堅く守らねばならない教えを死守して、偽りの教えに対して、信仰の戦いを勇敢に行わなければならない」と。ここでパウロは、1、守らねばならない教えとは何か。2、偽の教えとは何か。3、信仰による戦いとは何か。を、この章の主題にして、語る。
1、守らねばならぬ教えとは、「清い心と、正しい良心、偽りのない信仰から出る愛を目標にしてあゆみ、神の救いのご計画を達成することの中にある」。
2、偽の教えを教えるもの(偽教師)をパウロは「ある人たち」と呼んでいる。彼らは真の神の目指す目標を見失い、違った教えを説いたり、律法を重視し、律法の教師にならんと欲しながらも、律法とは何かを理解していない。律法の根底に潜む愛を理解せず、律法主義(教条主義)に陥っている。このことから偽教師の罪は「真の神を知らない」と言うことの中にある。
3、パウロはかつては反キリストとして、キリスト者を迫害するものであったが、それが神の啓示によって選ばれ、最終的には悔い改めによって救われたのである。救いには2種類ある。神の選びが先にある場合と。悔い改めが先にある場合である。パウロの場合は、彼の心の中には聖霊が宿っていたのであろう。そこで神は、他の人々の模範として「罪びとのかしら」であったパウロを選んだのである。「キリスト・イエスは罪びとを救うためにこの世に来られたのである」。「罪びとのかしら」であったパウロを、その寛容をもって。神は救われたのである。パウロは言う「罪びとのかしらであった私すら救われたのである、ましてや、あなたがたが救われないわけがない」と慰める。パウロはテモテに命じる。「信仰と正しい良心を保ち福音宣教のために戦い抜け」と。「ある人たち」は正しい良心を捨て反キリストに転じた。彼らは神の怒りにふれ信仰の破船にあった。救いも、破滅も共に神の御業なのである。救われるためには神を汚してはならない。神の戦いがそこにあることを忘れてはならない。
第2章:キリスト・イエスは主の牧者である。罪びとである私たちの罪を贖うためにこの世に来られたのである。「キリストはすべての贖いの代価としてご自身をお与えになりました(2:6)」。パウロは主の牧者である。「その証のために私は宣伝者、また使途に任じられ(中略)信仰と真理とを異邦人に教える使徒とされました。そしてテモテはパウロの牧者である。「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人のために願い、祈り、とりなし、感謝が捧げられますように」。すべての人、王とすべての高い地位にある人は民の牧者である。それは私たちが敬虔にまた威厳をもって平安で静かな一生を過ごすためである。ここには牧者の重層構造が見られる。このように、結局はテモテはパウロによって牧者とされ、神のみ心を伝える使徒とされたのである。神の救いのご計画はキリストから始まって民に至るのである。
パウロは男と女に対しても牧者となる。パウロは男と女の信仰生活においてなすべきことを語る。ここでは男は女に対して牧者となる。女は男から作られたからである。また女はサタンによって罪びとと定められたからである。「しかし女が慎みをもって、信仰と愛と清さを保つなら、子を産むことによって救われます」。当時の社会の女性観を見ることが出来る。聖書もそれを反映している。
第3章:この章で聖徒たちの牧者である「監督」と「執事」とに対する資格と、教えと目的が語られる。
監督:初期キリスト教の高位聖職者。後のプロテスタント教会の聖職やカトリックの司教。日本の正教会やメソジスト教会でも、かつて職制名として用いられた。ビショップ。
執事:キリスト教(聖公会)で監督(主教)、司祭に次ぐ第3位の聖職。カトリック教会では助祭と言う。
長老:初期キリスト教会で監督に次ぐ聖職の階級。後に牧師を補佐する聖徒代表にも言うようになった。庶務を担当したといわれている。
2章においてパウロは、教会の秩序について語った。3章においては、この秩序を保つための牧者(指導者)である監督と執事について、その資格及び活動の在り方が語られている。教会の牧者(指導者)はその役割分担として、監督、長老、執事に分けられている。しかし初期のキリスト教会では実際には明確に分担されていたわけではなく、単なる「世話役」としてすべてをこなしていたらしい。 時代を経るにしたがって、この階級制は、徐々に整備されていったようである。
パウロは監督、執事の守らなければならない徳目を挙げているが、ここではその詳細は省略する(聖書を読んでほしい)。パウロは女性の牧者についても言及している。また若くて経験の浅い牧者は高慢になりやすいので気を付けよと警告を発している。
監督・執事の務めを立派に果たせよ、とパウロは言う。その時、キリスト・イエスを信じる信仰において強い確信を持つことが出来るのである。
この監督、長老、執事、聖徒の集う神の家=教会こそ真理の柱、また土台である。偉大なのはこの敬虔(信仰)の奥義である。
目に見えざる神は受肉(キリスト・イエス)によってこの地に現れ、
その聖霊の働きは義とされた。
み使い(キリスト・イエス)は福音をイスラエルの地に宣教し
その働きは、イスラエルより世界に広まり
そののちみ使いは、栄光のうちに召天され、神の右の座に着けり。
4章:この時代エペソの地は偽教師たちに犯されていた。彼らは結婚を禁じたり、断食を奨励したりして、真の神からの贈り物を拒否せよ、と民をたぶらかしていた。。パウロはこれらの信仰から離れた「嘘つきども」から聖徒たちを守れとテモテに命令する。
パウロはこの信仰の危機に直面して、テモテにキリストの良き奉仕者になれと勧める。テモテの奉仕者としての活躍により聖徒たちが、真の神に立ち返ったとき、あなた自身も変えられ、その信仰は深化する、とパウロは言う。まさに教えることは学ぶことなのである。
パウロはテモテに言う。「年が若いからと言って、誰からも軽く見られないようにせよ」と。立派な奉仕者(牧者)たる者のその条件と、心得を語る。霊的な成果は、経験の多少によって決まるのではなく、信仰の在り方(軽重)によって決まるのである。人生経験ではなく、その人が霊的に成長しているか否かに、人々をキリストに導き、キリストがその人の心の中に形作られているか否かによって決まるのである。「言葉にも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔においても聖徒たちの模範となるべき人であれば、牧者(牧師)にとって年齢は関係ないのである。「あくまでもそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも、救うことになります(4:16)」。
5章:パウロは、テモテに対して様々な聖徒に対する接触の仕方を教えます。
家族として接しなければならない人に対して
教会とは神の家であり、我々は神の家族である。
年長者に対して 父親に対するように
若い人たちに対して 兄弟に対するように
年取った婦人に対しては 母親に対するように
若い女に対しては 姉妹に対するように
やもめに対しては 本当のやもめなら敬いなさい
やもめに対して 旧約聖書の中に「レビラート婚」が出てくる。兄の嫁が未亡人になったら、その弟が、その嫁を妻にすることが出来る。これは家系を断絶から守ると同時に、経済的にその嫁を扶助するという面も持っている。一種の福祉制度である。本書では教会がその役目を果たしている。しかし教会が扶養するのは神を信じる「やもめ」に限られる。身内がいる場合、彼らにその面倒がゆだねられる。若いやもめは、早く結婚せよとパウロは勧める。情欲にかられ、サタンの罠にかからないためである。
5章では、そのほかに長老に対して、罪びとに対してもその救いの在り方が語られている。教会とは主の家であり、我々は主の家族である。万人は教会の中にあってすべて平等である。すべては救われる。
6章に関しては次の機会にゆだねる。「神にも仕え、また富にも仕えることは出来ません(マタイ6:24)」。「信仰の戦いを勇敢に戦い永遠の命をかくとくしなさい」。「そうすれば神はご自分の良しとするときに、その現れを示してくださいます」。
テモテへの手紙は牧会書簡と呼ばれている。牧会書簡とは牧者に宛てた手紙である。牧者とは牧場において、家畜を世話するものを云い、教会において、その運営に携わり、聖徒をキリストへと導く聖職者を象徴している。
はじめに
1、 誰が書いたか:パウロ。「疑似書簡」とも言われ、その真作性を疑うものは多い。
2、 誰に宛てて書かれたか:使徒テモテへ。
3、 なぜ書かれたのか:パウロの最も信頼するテモテが教会におけるその指導的役割を十二分に果たすことを期待して、この書簡を書いた。
4、 いつ、どこで書かれたのか:西暦64~65年の間。パウロがマケドニアにいたとき。
5、 この書簡の特徴。:教会での儀式のやり方や教会の組織、共同体の責任者となる「監督」や「奉仕者」に関する勧めが中心になっている。それだけでなく、誤りのない正しい信仰を保つことへの勧めを、夫婦、責任者などに対して行っている。さらに非キリスト者に対する警告も行っている。
牧会書簡とは:
牧会書簡とは、冒頭で示したように、牧者(聖職者)に宛てた手紙である。その書簡には、聖徒の救霊に関する救済活動、特に、聖徒に対する心構えや、彼らが守らねばならない教会の規律や制度が描かれている。牧会書簡には本書のほかに、「テモテへの手紙Ⅱ」「テトスへの手紙」「ピレモンへの手紙」の4書簡があり、これらはこれまでの書簡のように異邦人の教会に宛てたものと異なり、個人に宛てているので「個人的書簡」と呼ばれている。牧会書簡にはパウロ的伝統が「健全な教え」として特徴づけられ、これを担う監督(司教)、執事(助祭)に期待される徳目が、偽りの教えを説くものの不品行とに対置されている。
パウロは言う「私は、その福音を、主からゆだねられたものです(1-11)」「私の子テモテよ(中略)私はあなたにこの命令をゆだねます(1:18)」。主はパウロの牧者でありパウロはテモテの牧者である。このころ異邦人社会には偽教師が横行しており、その影響下にあった。彼らはパウロたちの福音宣教の活動を妨げていた。これに対応するために、聖徒たちを効果的に指導できる牧者を必要としていた。このために書かれたのが「牧会書簡」である。
テモテとは:(ギリシャ語読みはティモテオス)
テモテの出身地は現トルコ南部ルステラ(使徒16:1)。初期キリスト教徒。「信仰によるわたしの真実の子」とパウロはいう。ここから、テモテは、彼の最も信頼する愛弟子であり、協力者であった事がわかる。パウロが手紙を出した当時、彼は、エペソ教会の聖職者であった。正教会では十問徒の一人であり「聖使徒ティモフェイ」と呼ばた。
テモテの父はギリシャ人で、彼には信仰深い母と、祖母がおり、彼女たちは、彼を幼いころより教育し、聖書の奥義を教えた(Ⅱテモテ1:15、同3:15)。
テモテがパウロの愛弟子であり、良き協力者であったことは、次のことよりわかる。1、パウロの第1回と、第2回の宣教旅行に同行したこと。この時、割礼を受ける。
2、テモテはパウロに同行するほかに独自でマケドニアなどに派遣され、その地で指導に当たっていること。
3、「コリント人への手紙Ⅱ」「ピリピ人への手紙」ではテモテはパウロと並んで書簡の差出人に名を連ねていること。
4、エペソの教会には「偽教師」が存在していた。パウロはテモテに「これと対決して信仰による神の救いのご計画を実現せよ」と命じる。
5、テモテは若くしてエペソ教会で指導的立場にあったが、若さゆえにその指導的能力を疑うものがあった。パウロはテモテに自信をもって指導者らしく振舞えと激励する。
6、のちの伝承によれば、65年パウロはテモテを按手し、エペソ教会の司教とした。テモテはその後15年間、エペソの教会を指導した。
テモテはエペソの多神教徒に殺害されたといわれている。
以上のことから判断してテモテは信仰深い、母と、祖母に育てられ、パウロに認められ愛され、同労者として、神の道に進んだ聖者と考えることが出来る。
本書間の重要個所(各章ごと)
1章:「なぜなら、キリストは、私をこの務め(異邦人伝道)に任命して、私を忠実なものと認めてくださったからです(1:12)」。
2章:「神は唯一です。また神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです(2:5)」。
3章:「『執事』は、一人の妻の夫であって、子供と家族をよく収める人でなければいけません(3:1~2)」。
4章:「このことばは真実であり、そのまま受けるに値することばです。私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それはすべての人々、事に信じる人々の救い主です。生ける神に望みを置いているからです(4:9~10)」。
5章:「同じように善い行いは、誰の目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません(5:25)」。
6章:「『信仰の戦い』を勇敢に戦い、永遠の命を獲得しなさい。あなた(テモテ)はこのために召され、また多くの証人たちの前で立派な告白をしました(6:12)」。
内容構成
各章ごとの説明
第1章:神はキリストの牧者であり、キリストはパウロの牧者であり、パウロはテモテの牧者であり、テモテは聖徒たちの牧者である。結局、神はテモテの牧者となり、テモテの教えとは神の教えになる。
パウロはテモテをエペソの地にとどめて、命令する。「「あなたはキリスト者として堅く守らねばならない教えを死守して、偽りの教えに対して、信仰の戦いを勇敢に行わなければならない」と。ここでパウロは、1、守らねばならない教えとは何か。2、偽の教えとは何か。3、信仰による戦いとは何か。を、この章の主題にして、語る。
1、守らねばならぬ教えとは、「清い心と、正しい良心、偽りのない信仰から出る愛を目標にしてあゆみ、神の救いのご計画を達成することの中にある」。
2、偽の教えを教えるもの(偽教師)をパウロは「ある人たち」と呼んでいる。彼らは真の神の目指す目標を見失い、違った教えを説いたり、律法を重視し、律法の教師にならんと欲しながらも、律法とは何かを理解していない。律法の根底に潜む愛を理解せず、律法主義(教条主義)に陥っている。このことから偽教師の罪は「真の神を知らない」と言うことの中にある。
3、パウロはかつては反キリストとして、キリスト者を迫害するものであったが、それが神の啓示によって選ばれ、最終的には悔い改めによって救われたのである。救いには2種類ある。神の選びが先にある場合と。悔い改めが先にある場合である。パウロの場合は、彼の心の中には聖霊が宿っていたのであろう。そこで神は、他の人々の模範として「罪びとのかしら」であったパウロを選んだのである。「キリスト・イエスは罪びとを救うためにこの世に来られたのである」。「罪びとのかしら」であったパウロを、その寛容をもって。神は救われたのである。パウロは言う「罪びとのかしらであった私すら救われたのである、ましてや、あなたがたが救われないわけがない」と慰める。パウロはテモテに命じる。「信仰と正しい良心を保ち福音宣教のために戦い抜け」と。「ある人たち」は正しい良心を捨て反キリストに転じた。彼らは神の怒りにふれ信仰の破船にあった。救いも、破滅も共に神の御業なのである。救われるためには神を汚してはならない。神の戦いがそこにあることを忘れてはならない。
第2章:キリスト・イエスは主の牧者である。罪びとである私たちの罪を贖うためにこの世に来られたのである。「キリストはすべての贖いの代価としてご自身をお与えになりました(2:6)」。パウロは主の牧者である。「その証のために私は宣伝者、また使途に任じられ(中略)信仰と真理とを異邦人に教える使徒とされました。そしてテモテはパウロの牧者である。「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人のために願い、祈り、とりなし、感謝が捧げられますように」。すべての人、王とすべての高い地位にある人は民の牧者である。それは私たちが敬虔にまた威厳をもって平安で静かな一生を過ごすためである。ここには牧者の重層構造が見られる。このように、結局はテモテはパウロによって牧者とされ、神のみ心を伝える使徒とされたのである。神の救いのご計画はキリストから始まって民に至るのである。
パウロは男と女に対しても牧者となる。パウロは男と女の信仰生活においてなすべきことを語る。ここでは男は女に対して牧者となる。女は男から作られたからである。また女はサタンによって罪びとと定められたからである。「しかし女が慎みをもって、信仰と愛と清さを保つなら、子を産むことによって救われます」。当時の社会の女性観を見ることが出来る。聖書もそれを反映している。
第3章:この章で聖徒たちの牧者である「監督」と「執事」とに対する資格と、教えと目的が語られる。
監督:初期キリスト教の高位聖職者。後のプロテスタント教会の聖職やカトリックの司教。日本の正教会やメソジスト教会でも、かつて職制名として用いられた。ビショップ。
執事:キリスト教(聖公会)で監督(主教)、司祭に次ぐ第3位の聖職。カトリック教会では助祭と言う。
長老:初期キリスト教会で監督に次ぐ聖職の階級。後に牧師を補佐する聖徒代表にも言うようになった。庶務を担当したといわれている。
2章においてパウロは、教会の秩序について語った。3章においては、この秩序を保つための牧者(指導者)である監督と執事について、その資格及び活動の在り方が語られている。教会の牧者(指導者)はその役割分担として、監督、長老、執事に分けられている。しかし初期のキリスト教会では実際には明確に分担されていたわけではなく、単なる「世話役」としてすべてをこなしていたらしい。 時代を経るにしたがって、この階級制は、徐々に整備されていったようである。
パウロは監督、執事の守らなければならない徳目を挙げているが、ここではその詳細は省略する(聖書を読んでほしい)。パウロは女性の牧者についても言及している。また若くて経験の浅い牧者は高慢になりやすいので気を付けよと警告を発している。
監督・執事の務めを立派に果たせよ、とパウロは言う。その時、キリスト・イエスを信じる信仰において強い確信を持つことが出来るのである。
この監督、長老、執事、聖徒の集う神の家=教会こそ真理の柱、また土台である。偉大なのはこの敬虔(信仰)の奥義である。
目に見えざる神は受肉(キリスト・イエス)によってこの地に現れ、
その聖霊の働きは義とされた。
み使い(キリスト・イエス)は福音をイスラエルの地に宣教し
その働きは、イスラエルより世界に広まり
そののちみ使いは、栄光のうちに召天され、神の右の座に着けり。
4章:この時代エペソの地は偽教師たちに犯されていた。彼らは結婚を禁じたり、断食を奨励したりして、真の神からの贈り物を拒否せよ、と民をたぶらかしていた。。パウロはこれらの信仰から離れた「嘘つきども」から聖徒たちを守れとテモテに命令する。
パウロはこの信仰の危機に直面して、テモテにキリストの良き奉仕者になれと勧める。テモテの奉仕者としての活躍により聖徒たちが、真の神に立ち返ったとき、あなた自身も変えられ、その信仰は深化する、とパウロは言う。まさに教えることは学ぶことなのである。
パウロはテモテに言う。「年が若いからと言って、誰からも軽く見られないようにせよ」と。立派な奉仕者(牧者)たる者のその条件と、心得を語る。霊的な成果は、経験の多少によって決まるのではなく、信仰の在り方(軽重)によって決まるのである。人生経験ではなく、その人が霊的に成長しているか否かに、人々をキリストに導き、キリストがその人の心の中に形作られているか否かによって決まるのである。「言葉にも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔においても聖徒たちの模範となるべき人であれば、牧者(牧師)にとって年齢は関係ないのである。「あくまでもそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも、救うことになります(4:16)」。
5章:パウロは、テモテに対して様々な聖徒に対する接触の仕方を教えます。
家族として接しなければならない人に対して
教会とは神の家であり、我々は神の家族である。
年長者に対して 父親に対するように
若い人たちに対して 兄弟に対するように
年取った婦人に対しては 母親に対するように
若い女に対しては 姉妹に対するように
やもめに対しては 本当のやもめなら敬いなさい
やもめに対して 旧約聖書の中に「レビラート婚」が出てくる。兄の嫁が未亡人になったら、その弟が、その嫁を妻にすることが出来る。これは家系を断絶から守ると同時に、経済的にその嫁を扶助するという面も持っている。一種の福祉制度である。本書では教会がその役目を果たしている。しかし教会が扶養するのは神を信じる「やもめ」に限られる。身内がいる場合、彼らにその面倒がゆだねられる。若いやもめは、早く結婚せよとパウロは勧める。情欲にかられ、サタンの罠にかからないためである。
5章では、そのほかに長老に対して、罪びとに対してもその救いの在り方が語られている。教会とは主の家であり、我々は主の家族である。万人は教会の中にあってすべて平等である。すべては救われる。
6章に関しては次の機会にゆだねる。「神にも仕え、また富にも仕えることは出来ません(マタイ6:24)」。「信仰の戦いを勇敢に戦い永遠の命をかくとくしなさい」。「そうすれば神はご自分の良しとするときに、その現れを示してくださいます」。
令和元年12月10日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会