日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に

2020年05月15日 | Weblog
 書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に
 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れたくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン(5:10~11)」。
 この言葉は「ペテロの手紙1,2」の要約といって良いでしょう。
 はじめに:イエス・キリストの使徒ペテロから、この手紙は、現代トルコに位置する5つのローマの属州(ポント、ガラテヤ、カバトキヤ、アジア、ビテニヤ)に散って寄留している選ばれた人々、すなわち父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、また、その血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々に宛てて書かれたものです(1:1~2)。
 この時、聖徒たちの信仰は試されていました(1:6~7)。彼らを強め、励ますために、彼らに、降りかかっている「火のような試練」に対応できるようにと、ペテロは、この書を、書いたのです。試練に対応する方法を、彼らに教え、導いています。
 著者は、この書簡において、散らされた人々が、迫害に耐えること(1:2~10)、聖なる生活を送ること(2:11~3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14~4:19)、最後は長老や若い人たちへの助言(勧め)によって締めくくっています(5章)
 時代背景:ペテロがこの手紙を書いたその時期(62~64年ころ)は、まさに聖徒たちに迫害が、ローマの皇帝ネロ(37~68年自殺、在位54~68年)によって行われていた時代でした。この時期までは、まだローマ帝国はキリスト教の存在を容認していたのです。その意味では本書簡は時宜にかなっていたのです。ペテロのメッセージは迫害に対応する方法を教えています。ネロ帝の統治下、ローマ帝国では、いたるところで聖徒たちに対する迫害が起こりました。特にローマに大火災が起こった時、その容疑がキリスト者に向けられたのです。完全に冤罪でしたが、市民たちは、この冤罪を信じませんでした。市民を巻き込んだ迫害に発展したのです。いたるところでキリスト者は、その信仰ゆえに拷問されたり殺されたりしたのです。ペテロもそのうちの1人でした(逆さ吊りの刑)。聖徒たちの多くはやむなく各地へ散っていかざるを得なかったのです。
 この書簡の特徴:この書簡を受け取った聖徒たちは、当時の激動の状況下で生活し、様々な困難に遭遇していました。この書簡は彼らに希望を与え、助言し、力づけ、勇気づけ、慰めるために書かれた公開書簡です。素晴らしい生き方とはどのようなものかを語っています。この書簡は、今日、あまり注目されていませんが、その内容は、読者の称賛を受けるに値する貴重な宝石であると言われています。この書簡からは愛と平和の雰囲気が漂って来ます。
 この書簡は、キリストを信仰するがゆえに迫害にあっている人に対して、「肉の欲を遠ざけること」「立派な生き方を示し続けること」の2つを、教えています。それは、自分たちを迫害するものに対して喜んで赦すという態度です。彼らに対して祝福を静かに願うと、言う態度です。憎むのではなく、愛すること。それこそ神を喜ばすということなのです。神の真理に忠実であり続ける、と言うことです。
 人はすべて罪びとです。キリストは十字架の贖いによって人々を赦したのです。
 内容構成

 登場人物
 ペテロ:長老の一人。キリストの苦難の証人。やがて現れる栄光にあずかる者(5:1)。キリストのⅠ2使徒の筆頭格。原名はシモンあるいはシメオンとして知られています。ベッサイダの漁師で、妻とカメナウムで暮らしていました。ペテロは兄弟アンデレと共にイエス・キリストの弟子として召されました。12使徒の筆頭格でありながら「イエスを知らない」と3度言ったという話は有名です。イエスの召天後、人が変わり、伝導に尽くし、晩年ローマでネロ帝の迫害を受け殉教しました。カトリック教会では、ペテロを初代ローマの司教(教皇)とみなし、各教皇がキリストからペテロに授けられた天国のカギを継承していると言います。
 シルノア:この手紙の筆記者。この書簡は実際にはシルノアの作だという人もいます。「使徒行伝」におけるシラスのことです。パウロの第2宣教旅行に随伴した奉仕者です。ペテロはこの手紙をシルノアに託し小アジアの教会に送ったと言われてます。
 マルコ:ヨハネ・マルコのことです。パウロの第1回伝道旅行に随伴しています。伝承では「マルコの福音書」の著者とされています。ペテロはマルコを「私の子」と呼んでいます(5:13)。霊的な子を意味するのでしょう。その福音書の中で、イエス様が捕らえられた時、裸のまま逃げた青年として登場します(マルコ:14:51~52)。
 だれが書いたか:イエス・キリストの使徒ペテロ。
 誰に宛てて書かれたか: エルサレムから各地に散らされ、その地に寄留した、選ばれた人々=ユダヤ人キリスト者に宛てて書かれました。
 概 説
 1章:この手紙は反キリストの勢力に迫害され各地に散らされたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものです。ペテロは信仰の揺るぎの中にある彼らを、慰め、力づけ、神に立ち帰ることを願って、真の信仰とは何かを教え、導いています。
 次の言葉は1章全体のまとめといって良いでしょう。「神様は超自然的力によって、あなたがたが、間違いなく天で永遠の命を頂けるよう、守ってくださいます。あなたがたが、神様を信じているからです。やがて来る終わりの日に、この永遠の命は、あなたがたのものとして、誰の目にも、はっきり示されるでしょう。ですから、心から喜びなさい。今しばらくの間、地上での苦しみが続きますが、行く手には、素晴らしい喜びが待ち受けているからです。これらの試練は、あなたがたの信仰をテストするためにあるのです。それによって信仰がどれほど強く、純粋であるかが量られます(1:5~7)」。
 「神は公平なお方です。さばきは公平です。天に行くその日まで、主を恐れ、慎み深く生活しなさい。この世の罪にまみれ、もがき苦しんでいるあなたがたを見て、神様は一点の曇りのないキリスト様を遣わしてその血によって、あなたがたの罪を贖ってくれたのです。この神様を心から信仰しなさい。両親から受け継いだ肉体はいつかは滅びます。しかし、あなたがたには新しい命があります。そのいのちは永遠に滅びることがありません。このいのちはキリスト様を通じて語られる神の言葉です。主の言葉は、永遠に続きます。これこそ、あなたがたへの良い知らせです(1:17~25参照)」。
2章:1章でも述べたようにペテロは揺るぎの民にいかに生きるべきかを説いています。あなたがたは既に選ばれた人間なのだから、キリストの教えに従い,模範にして生きなさいと。説いています。「熱心に救いの完成を祈り求めなさい。神に近づきなさい(2:3)」。「見よ。わたしはキリストを教会の尊い土台石にするために、特に選んで遣わした。彼に信頼するものは決して失望しない(2:6)。主はキリストの神性を説き、反キリストの悪魔性を説きます。悪魔はいずれ滅びます。だから、今の揺るぎから立ち直りなさい、と説くのです。あなたがたは、主によって変えられのです。再び主の慈しみを求めなさい。
この時キリスト者は迫害されていました。ペテロは言います。「迫害を喜びをもって迎えなさい。喜びをもって、耐えなさい」と、この苦しみは、神様が与えてくださった務めです。キリスト様がその模範です。その彼方に救いがあります。「あなたがたは神様から離れて、迷子の羊のように、さまよっていました。しかし今は、どんな敵の攻撃からも、たましいを安全に守ってくださる羊飼いのもとに帰ったのです(3:25)」。まだ実現していない事実を、このように述べるのは揺るぎの民が救われることを確信をもって信じていることを、示しています。
 3章: 3章は前半(1~17)と後半(18~22)に分かれます。前半では、ペテロは一見この章とは関係のない夫婦関係の在り方を述べることによって、主と聖徒の関係はどうあらねばならないかを語ります。どんな悪い夫にも従いなさいとペテロは言います。これは反キリストの勢力に苦しめられていても、対峙するのではなく愛をもって彼らと接しなさい、と言います。「かえって、その人のために、神の助けを祈り求めなさい。だれに対しても親切にしなさい。そうすれば神様から祝福していただけます(3:9)」と、ペテロは言う。これはペテロが反キリストに対しても、憎しみではなく、愛をもって接しよ、と言っているのです。あなたがたのなすべきことは神を尊び、祈ることです。神を喜ばすために、ひたすら、善を行いなさい。「裁きは、神の選任事項」だからです。
 後半部分は、次の言葉を引用すれば、事足りるででしょう「私たちの受けるバプテスマは、キリスト様の復活による、死と滅びの運命からの救出を意味します。それは、からだが水でキレイに洗われるからではなく、バプテスマを受けることによって、神様に立ち返った私たちが、心が罪から清められるように願うからです。今、キリスト様は天で、神様の次に名誉ある右の座につき、すべての、み使いと天の軍勢を従えておられます(3:21~22)」。神の偉大さにあなたがたは従いなさいと、ペテロは聖徒たちに宣べています。
 4章:神は、あなたがたをダイヤの原石として選ばれたのです。磨かれねばならないのです。あなたがたは、神より選ばれ、救われた民です。救われているからと言って、何をしてもよいのではありません。救われているからこそ、神の前でへりくだり、高慢になってはいけません。善を行わなければならないのです。人間的欲望から解放されなさい。このようにして、磨かれた原石は宝石として光り輝きます。
 行動なき信仰は、無です。信仰とは、愛であり、愛とは行いです。(4:7-9参照)。
 神は、様々な人に様々な能力をお与えになりました。人は、愛をもってその能力を行使せねばならないのです。その能力を世の人々と分かち合いなさい。神様の下さる力とエネルギーに満たされて、人々を助けなさい。それは、イエス・キリストを通して、神様がほめたたえられるためです(4:10-11)」。
 降りかかる迫害を嘆き悲しんではいけません。この迫害は、神様がお与えになった試練なのです。この試練を耐え忍ぶことによって救いへと導かれます。神様は、常にあなたがたと共にあります。それを確信して、試練に耐えなさい。キリスト者であることで迫害を受けるなら喜びなさい。キリスト様の家族の一員となるからです。
 世の終わりが近づいています。この時、キリスト者であろうと、反キリスト者であろうと平等に裁かれます。しかし、その裁きには軽重があります。神に選ばれ、救われる人となりなさい。神の国が待っています。
 あなたがたが受けている迫害が、神様を信じることによって、なされているなら、神にすべてをゆだねなさい。神様は決してあなたがたを見捨てることはないからです。           
 ここにはローマの圧政下にあって、散らされた民が、その揺るぎから解放され、神に立ち返るには何をなすべきかが語られています。神と共にあることによって、肉的な苦しみから、霊的な救いを受け、神の国に入ることが出来るのです。神を信じる信仰によってのみ達成される救いです。迫害に苦しみ、揺るぎの中にあった彼らが神に立ち返ったかどうかは、少なくとも聖書には語られていません。
 5章: 散らされた民の長老たちへ、ペテロは、次の4つのことを願っています。
 1、神様の羊の群れ(散らされた民)を養いなさい。強制でなく喜びをもって、その務めに、当たりなさい。利を求めるのではなく、心を込めて、行動しなさい。
 2、支配でなく、模範となりなさい。ワンマンとしてではなく、優しく指導しなさい。キリストが再臨される時、永遠に朽ちない栄光の冠を褒美として頂けるからです。
 3、若者よ、長老たちに従いなさい。長老たちを模範として、謙遜を身に着け、へりくだりなさい。神は高慢を最も嫌われるからです。
 4、獲物を求めて歩き回っている、悪魔に備えなさい。主を信じて、堅く信仰に立って、悪魔の攻撃に立ち向かいなさい。悪魔と反キリストは結び付いています。
 主は、あなたがたにしばらくの間,苦しみを、与えたのち、永遠の栄光を与えてくださいます。絶対的な力が、永遠に神様にありますように。
 この力への信仰が、救いへの確信となるのです。
平成2年5月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に

2020年05月15日 | Weblog
 書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に
 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れたくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン(5:10~11)」。
 この言葉は「ペテロの手紙1,2」の要約といって良いでしょう。
 はじめに:イエス・キリストの使徒ペテロから、この手紙は、現代トルコに位置する5つのローマの属州(ポント、ガラテヤ、カバトキヤ、アジア、ビテニヤ)に散って寄留している選ばれた人々、すなわち父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、また、その血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々に宛てて書かれたものです(1:1~2)。
 この時、聖徒たちの信仰は試されていました(1:6~7)。彼らを強め、励ますために、彼らに、降りかかっている「火のような試練」に対応できるようにと、ペテロは、この書を、書いたのです。試練に対応する方法を、彼らに教え、導いています。
 著者は、この書簡において、散らされた人々が、迫害に耐えること(1:2~10)、聖なる生活を送ること(2:11~3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14~4:19)、最後は長老や若い人たちへの助言(勧め)によって締めくくっています(5章)
 時代背景:ペテロがこの手紙を書いたその時期(62~64年ころ)は、まさに聖徒たちに迫害が、ローマの皇帝ネロ(37~68年自殺、在位54~68年)によって行われていた時代でした。この時期までは、まだローマ帝国はキリスト教の存在を容認していたのです。その意味では本書簡は時宜にかなっていたのです。ペテロのメッセージは迫害に対応する方法を教えています。ネロ帝の統治下、ローマ帝国では、いたるところで聖徒たちに対する迫害が起こりました。特にローマに大火災が起こった時、その容疑がキリスト者に向けられたのです。完全に冤罪でしたが、市民たちは、この冤罪を信じませんでした。市民を巻き込んだ迫害に発展したのです。いたるところでキリスト者は、その信仰ゆえに拷問されたり殺されたりしたのです。ペテロもそのうちの1人でした(逆さ吊りの刑)。聖徒たちの多くはやむなく各地へ散っていかざるを得なかったのです。
 この書簡の特徴:この書簡を受け取った聖徒たちは、当時の激動の状況下で生活し、様々な困難に遭遇していました。この書簡は彼らに希望を与え、助言し、力づけ、勇気づけ、慰めるために書かれた公開書簡です。素晴らしい生き方とはどのようなものかを語っています。この書簡は、今日、あまり注目されていませんが、その内容は、読者の称賛を受けるに値する貴重な宝石であると言われています。この書簡からは愛と平和の雰囲気が漂って来ます。
 この書簡は、キリストを信仰するがゆえに迫害にあっている人に対して、「肉の欲を遠ざけること」「立派な生き方を示し続けること」の2つを、教えています。それは、自分たちを迫害するものに対して喜んで赦すという態度です。彼らに対して祝福を静かに願うと、言う態度です。憎むのではなく、愛すること。それこそ神を喜ばすということなのです。神の真理に忠実であり続ける、と言うことです。
 人はすべて罪びとです。キリストは十字架の贖いによって人々を赦したのです。
 内容構成

 登場人物
 ペテロ:長老の一人。キリストの苦難の証人。やがて現れる栄光にあずかる者(5:1)。キリストのⅠ2使徒の筆頭格。原名はシモンあるいはシメオンとして知られています。ベッサイダの漁師で、妻とカメナウムで暮らしていました。ペテロは兄弟アンデレと共にイエス・キリストの弟子として召されました。12使徒の筆頭格でありながら「イエスを知らない」と3度言ったという話は有名です。イエスの召天後、人が変わり、伝導に尽くし、晩年ローマでネロ帝の迫害を受け殉教しました。カトリック教会では、ペテロを初代ローマの司教(教皇)とみなし、各教皇がキリストからペテロに授けられた天国のカギを継承していると言います。
 シルノア:この手紙の筆記者。この書簡は実際にはシルノアの作だという人もいます。「使徒行伝」におけるシラスのことです。パウロの第2宣教旅行に随伴した奉仕者です。ペテロはこの手紙をシルノアに託し小アジアの教会に送ったと言われてます。
 マルコ:ヨハネ・マルコのことです。パウロの第1回伝道旅行に随伴しています。伝承では「マルコの福音書」の著者とされています。ペテロはマルコを「私の子」と呼んでいます(5:13)。霊的な子を意味するのでしょう。その福音書の中で、イエス様が捕らえられた時、裸のまま逃げた青年として登場します(マルコ:14:51~52)。
 だれが書いたか:イエス・キリストの使徒ペテロ。
誰に宛てて書かれたのか: エルサレムから各地に散らされ、その地に寄留した、選ばれた人々=ユダヤ人キリスト者に宛てて書かれました。
 概 説
 1章:この手紙は反キリストの勢力に迫害され各地に散らされたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものです。ペテロは信仰の揺るぎの中にある彼らを、慰め、力づけ、神に立ち帰ることを願って、真の信仰とは何かを教え、導いています。
 次の言葉は1章全体のまとめといって良いでしょう。「神様は超自然的力によって、あなたがたが、間違いなく天で永遠の命を頂けるよう、守ってくださいます。あなたがたが、神様を信じているからです。やがて来る終わりの日に、この永遠の命は、あなたがたのものとして、誰の目にも、はっきり示されるでしょう。ですから、心から喜びなさい。今しばらくの間、地上での苦しみが続きますが、行く手には、素晴らしい喜びが待ち受けているからです。これらの試練は、あなたがたの信仰をテストするためにあるのです。それによって信仰がどれほど強く、純粋であるかが量られます(1:5~7)」。
 「神は公平なお方です。さばきは公平です。天に行くその日まで、主を恐れ、慎み深く生活しなさい。この世の罪にまみれ、もがき苦しんでいるあなたがたを見て、神様は一点の曇りのないキリスト様を遣わしてその血によって、あなたがたの罪を贖ってくれたのです。この神様を心から信仰しなさい。両親から受け継いだ肉体はいつかは滅びます。しかし、あなたがたには新しい命があります。そのいのちは永遠に滅びることがありません。このいのちはキリスト様を通じて語られる神の言葉です。主の言葉は、永遠に続きます。これこそ、あなたがたへの良い知らせです(1:17~25参照)」。
2章:1章でも述べたようにペテロは揺るぎの民にいかに生きるべきかを説いています。あなたがたは既に選ばれた人間なのだから、キリストの教えに従い,模範にして生きなさいと。説いています。「熱心に救いの完成を祈り求めなさい。神に近づきなさい(2:3)」。「見よ。わたしはキリストを教会の尊い土台石にするために、特に選んで遣わした。彼に信頼するものは決して失望しない(2:6)。主はキリストの神性を説き、反キリストの悪魔性を説きます。悪魔はいずれ滅びます。だから、今の揺るぎから立ち直りなさい、と説くのです。あなたがたは、主によって変えられのです。再び主の慈しみを求めなさい。
この時キリスト者は迫害されていました。ペテロは言います。「迫害を喜びをもって迎えなさい。喜びをもって、耐えなさい」と、この苦しみは、神様が与えてくださった務めです。キリスト様がその模範です。その彼方に救いがあります。「あなたがたは神様から離れて、迷子の羊のように、さまよっていました。しかし今は、どんな敵の攻撃からも、たましいを安全に守ってくださる羊飼いのもとに帰ったのです(3:25)」。まだ実現していない事実を、このように述べるのは揺るぎの民が救われることを確信をもって信じていることを、示しています。
 3章: 3章は前半(1~17)と後半(18~22)に分かれます。前半では、ペテロは一見この章とは関係のない夫婦関係の在り方を述べることによって、主と聖徒の関係はどうあらねばならないかを語ります。どんな悪い夫にも従いなさいとペテロは言います。これは反キリストの勢力に苦しめられていても、対峙するのではなく愛をもって彼らと接しなさい、と言います。「かえって、その人のために、神の助けを祈り求めなさい。だれに対しても親切にしなさい。そうすれば神様から祝福していただけます(3:9)」と、ペテロは言う。これはペテロが反キリストに対しても、憎しみではなく、愛をもって接しよ、と言っているのです。あなたがたのなすべきことは神を尊び、祈ることです。神を喜ばすために、ひたすら、善を行いなさい。「裁きは、神の選任事項」だからです。
 後半部分は、次の言葉を引用すれば、事足りるででしょう「私たちの受けるバプテスマは、キリスト様の復活による、死と滅びの運命からの救出を意味します。それは、からだが水でキレイに洗われるからではなく、バプテスマを受けることによって、神様に立ち返った私たちが、心が罪から清められるように願うからです。今、キリスト様は天で、神様の次に名誉ある右の座につき、すべての、み使いと天の軍勢を従えておられます(3:21~22)」。神の偉大さにあなたがたは従いなさいと、ペテロは聖徒たちに宣べています。
 4章:神は、あなたがたをダイヤの原石として選ばれたのです。磨かれねばならないのです。あなたがたは、神より選ばれ、救われた民です。救われているからと言って、何をしてもよいのではありません。救われているからこそ、神の前でへりくだり、高慢になってはいけません。善を行わなければならないのです。人間的欲望から解放されなさい。このようにして、磨かれた原石は宝石として光り輝きます。
 行動なき信仰は、無です。信仰とは、愛であり、愛とは行いです。(4:7-9参照)。
 神は、様々な人に様々な能力をお与えになりました。人は、愛をもってその能力を行使せねばならないのです。その能力を世の人々と分かち合いなさい。神様の下さる力とエネルギーに満たされて、人々を助けなさい。それは、イエス・キリストを通して、神様がほめたたえられるためです(4:10-11)」。
 降りかかる迫害を嘆き悲しんではいけません。この迫害は、神様がお与えになった試練なのです。この試練を耐え忍ぶことによって救いへと導かれます。神様は、常にあなたがたと共にあります。それを確信して、試練に耐えなさい。キリスト者であることで迫害を受けるなら喜びなさい。キリスト様の家族の一員となるからです。
 世の終わりが近づいています。この時、キリスト者であろうと、反キリスト者であろうと平等に裁かれます。しかし、その裁きには軽重があります。神に選ばれ、救われる人となりなさい。神の国が待っています。
 あなたがたが受けている迫害が、神様を信じることによって、なされているなら、神にすべてをゆだねなさい。神様は決してあなたがたを見捨てることはないからです。           
 ここにはローマの圧政下にあって、散らされた民が、その揺るぎから解放され、神に立ち返るには何をなすべきかが語られています。神と共にあることによって、肉的な苦しみから、霊的な救いを受け、神の国に入ることが出来るのです。神を信じる信仰によってのみ達成される救いです。迫害に苦しみ、揺るぎの中にあった彼らが神に立ち返ったかどうかは、少なくとも聖書には語られていません。
 5章: 散らされた民の長老たちへ、ペテロは、次の4つのことを願っています。
 1、神様の羊の群れ(散らされた民)を養いなさい。強制でなく喜びをもって、その務めに、当たりなさい。利を求めるのではなく、心を込めて、行動しなさい。
 2、支配でなく、模範となりなさい。ワンマンとしてではなく、優しく指導しなさい。キリストが再臨される時、永遠に朽ちない栄光の冠を褒美として頂けるからです。
 3、若者よ、長老たちに従いなさい。長老たちを模範として、謙遜を身に着け、へりくだりなさい。神は高慢を最も嫌われるからです。
 4、獲物を求めて歩き回っている、悪魔に備えなさい。主を信じて、堅く信仰に立って、悪魔の攻撃に立ち向かいなさい。悪魔と反キリストは結び付いています。
 主は、あなたがたにしばらくの間,苦しみを、与えたのち、永遠の栄光を与えてくださいます。絶対的な力が、永遠に神様にありますように。
 この力への信仰が、救いへの確信となるのです。
平成2年5月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

書簡集15 ヤコブの手紙 「実行」なき「信仰」は無である

2020年05月02日 | Weblog
 書簡集15 ヤコブの手紙 「実行」なき「信仰」は無である   
 はじめに
 「ヤコブの手紙」の宛先は「国外に散っている12の部族です(1~1)」。その散らされた民にヤコブは言います。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いが無いなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことが出来るでしょうか(2:1~14)」。「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのでないことがわかるでしょう(2:24)」。「魂を離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(2:26)」。「さらに、こういう人もいるでしょう『あなたは信仰を持っているが、私は行いをもっています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます(2:18)』」。
 神様を信じる信仰には、自然と行動が伴うはずです。「信仰」と「生活(行動)」を分けるのは本物ではなく、「信仰生活」と言う一つのものとして、生活が新しくされることこそ理想であり、神様もそれを願っておられれるのです。信仰生活とは、勿論、神のみ心を生活の中に生かすことです。人生における実際の生活に、それを反映させなければならないのです。信仰を実際に持っているかどうかは、私たちの人生が変わることによって証明されるのです。しかし、キリスト者は赦されたものであっても、必ずしも完ぺきではありません。神を信頼していると言いながら、その行動はみ心を行うのではなく、この世とこの世の価値観に堅くしがみついているWスタンダードの人を多く見かけます。自分を騙しているだけでなく、神様をもだましているのです。神様のみ心からは遠く離れているのです。言っていることと行っていることが異なっているのです。このような人は霊的初心者と呼ばれます。ヤコブはこの書簡の中でこの矛盾を激しく追及しています(2:1~12)。この書簡のテーマは「み心を聞く」ことではなく「み心を行うこと」であり、「教理」ではなく「行動」です。
 ヤコブは本書簡で、矛盾に満ちたこれらの人々に、知恵に従って生きる方法を具体的に説明しています。救い主に喜んでいただけるように、その言動に気を付け、悪口、高慢、ぜいたく、社会的差別を、排し、社会的貢献に励み、人を傷つける言葉を避け、神がお喜びになる言葉を使うことこそが神に近づく最善の方法であると諭します。
 今の生活は苦難に満ちたものであっても、救いは必ず訪ずれ(イエスの再臨)、すべての不義は正されるがゆえに、忍耐をもって、清く、正しく生き抜き、「その日」の到来を待ち望みなさい、と教えています。「霊的初心者」から霊的成熟者」へと、進みましょう。。
 「ヤコブの手紙」から次のような教えを見出すことが出来ます。
1、 「ヤコブ書」は、キリスト者の生活の指南書です。
2、 信仰を行動に移し、御言葉を行いなさい。
3、 本物の信仰は、生活を一変させます。
4、 真の信仰は、愛のある行動を生み出します。
 「へブル人への手紙」の中で述べたように、地中海沿岸地域の隅々に、散らされた民は、引き続き反キリストの迫害下にあり、正しい行いをしたくてもできない状態にあったものと思われます。真の信仰に生きる者は、迫害を、避けるのではなく、嘆くのではなく、喜びと忍耐をもって迎え、主のみ心を行う必要があります。それが成熟した聖徒の務めなのです。信仰の初心者から、成熟した聖徒へ、これこそヤコブの意図だったのです。真のキリスト者として生きていく決意をヤコブは彼らに望んだのです。
 この書簡を読んだ方は、併せて「「山上の垂訓(マタイ5:1~7:28)」も読んでください。この書は、旧約聖書の律法の代わりに、その義に勝るべき新しい秩序(キリスト教的律法)を提示しようとしたものです。神の国の「正義」と「愛」について述べています。イエスの教えの集大成であることがわかります。その内容は、「地の塩・世の光」、「空の鳥・野の花」「豚に真珠」「求めよ、さらば与えられん」「狭き門」などです。一般によく知られた主題や句を含んでおり、文化の諸領域に大きな影響を与えてきたのです。ここではユダヤ教の倫理が批判されていますが、最終的には、それは決して廃棄されるものではなく、むしろ徹底化されています。イエスの意図は、人間が道徳的理想(律法)を達成しうるかのように考える楽観主義を超えて、神の要求の徹底的性格を明らかにすることでした。この書「山上の垂訓」の中にある多くの言葉が、「ヤコブの手紙」の各章にちりばめられています。両者の底流には共通したもの=それは、「神の国と神の義を求めなさい」が流れています。。
 「ヤコブの手紙」は「藁」の書か
 宗教改革の時代一部の神学者たち、特にマルティン・ルターは「ヤコブ書」を、あまり価値のあるものとは認めず、「藁の書」と呼んで蔑視し、この書を正典から外そうとしました。彼はヤコブが「行い」を重視するあまり「信仰義認(信仰によって、義とされる)」と言うパウロの基本的な思想を否定するもの、と考えたのです。「信仰による義、恵み、による救い」の観点から読むとき、ヤコブの思想は「律法の行いによる義」と見えたのでしょう。しかし、今日、この考え方は否定され、正典から外されることなく、聖書の中で重要な位置を占めています。
 パウロは、「律法の行いによって救われる」と教えるユダヤ主義者と戦っていました。彼の強調点は「人は信仰により、神の恵みによって救われる」と言うものであり、彼にとっては「行い」とは「律法を守り行う」ことであり、否定的にとらえていたのです。彼の関心は「救いの教理を」を展開することにあったのです。
 これに反して、ヤコブは、無律法主義者と戦っていました。恵みによって救われた者は、いかなる道徳律(人によって造られた律法)にも支配されないと教えていました。彼にとって「行い」とは「愛と信仰に基づく善行」をさし、彼の関心は「実践的な側面」を教えることだったのです。
 このように、パウロは救いの方法について論じ、ヤコブは救われた証拠(救われたら当然、良い行いをする)について論じていました。
 両者は、矛盾しているのではなく、互いに、補完しあっているのです。
 言葉の意味
 義、義認:
 義とは、神の正しさ、または、人の、神の前での正しさを指します。
 義認とは、罪びとである人が、神から義と認められること(キリストの十字架の贖いによる)を指します。
 誓いとは
1. あることを将来必ず履行することを他人や自分自身に堅く約束することです。
2. 神にあることを、そむくまいと約束することです。
3. 「誓う」という行為は言った通りに実行するということです。「私はこれをします、あれをしますと言っておきながら、それをしないのは罪になります。本当に実行するなら、ことさら実行することを神に対して、また人に対して言うことはないのです。行いに対する返事は、「はい」であり、できない場合は「いいえ」です。
 試練、忍耐、救い、とは:
 試練と忍耐と救いとはセットで現れます。5章に「ヨブ」の忍耐の話が出てきます(5:11後半)。これを神のご計画の観点から見る時、ヨブはイスラエルの民を現し、ヨブに与えられた試練は、神がイスラエルの民に与えた試練を現しています。ヨブは神に対しては完全な人間であり、罪なき人間だと主張し、その試練の不条理さを叫び続けます。しかし、最後には、罪を認めないことが罪なのだと、後悔したとき、神はその罪を赦し、奪った物の数倍の恵みでお返しになったのです。神はイスラエルの民に試練を与え、忍耐によってその信仰を守り続けるなら、その時、主が再来されて「究極の救い」=神の国(数倍の恵み)をお与えになると約束をしました。「ヨブ記」は聖書そのものです。
 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それを、この上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない成長を遂げた、完全なものになります(1:2~4)」。
 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しとされた人は、神を愛する者に約束された、命の冠を受けるからです(1:12)」。
 「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい、耐え忍んだ人は幸いであると、私たちは考えます。主は慈愛に富み、あわれみに満ちたお方です。救いの恵みをお与えになります(5:10~11参照)」。預言者は人々に神のみ言葉を語るために存在しています。神の真理を語り、そして、その預言のゆえに苦しみに会いました。しかし、その忍耐ゆえに主が来られた時に救われるのです。 試練の中にある「兄弟たち。主が来られ時まで耐え忍びなさい(5:7前半)」。「主が来られる日は近いからです(5:8)」。
 >知恵とは:
 物事の理を悟り、適切に処理する能力をさします(「広辞苑」)
単なる霊的洞察力のことではありません。実践生活において、義なる行為を行うために必要とされるものです。日々の生活の中で、神様を仰いで、善悪を見分ける知恵、適切な判断を下す知恵を頂けるように努めたいものです。
 「知恵のある、賢い人は誰でしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを良い生き方によって示しなさい(3:13)」。
 「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、哀れみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和を作る人(キリスト)によって平和の裡に蒔かれます(3:17~18参照)」。
この書の作者は:神と主イエス・キリストのしもべヤコブ(1:1)」です。イエスとヤコブはともに母マリヤから生まれました。二人は異父兄弟です。ヤコブは弟です。マリヤの夫はヨセフであり、それゆえヨセフはイエスにとっては義父であり、実父は神の聖霊です。ヤコブにとって実父は、ヨセフです。それゆえ、ヤコブとイエスの間には肉体的なつながりはなく、霊的にのみ繋がっています。ヤコブは自分をイエスの弟としてではなく、主の「しもべ」として紹介することで謙遜さを示したのです。
パウロはヤコブをペテロと並んでエルサレムの教会の柱として重んじ指導的役割を与えています。ヤコブは西暦66年ころに殉教の死(祭司アンナスによる石打の刑)を遂げています。
 宛 先:迫害のために地中海沿岸地域の隅々に散らされたユダヤ人キリスト者=12部族に宛てて書かれました。彼らは必ずしも「失われた部族」ではなく、その一部は、それぞれ散らされた地において「選民」として、あるいは「」として、部族ごとに、自らのアイデンティーを失うことなく一つの共同体を作っていたと思われます。彼らは自分がどの部族出身であるかを知っていました。イスラエルの12部族は決して失われてはいなかったのです。しかし、彼らも他の異邦人と同様に反キリスト者に迫害されていました。その12部族に対してヤコブは彼らを励ますためにこの手紙を書いたのです。
 ヤコブの手紙の内容構成

 執筆年代:西暦45~48年の間に書かれたらしい。。
 執筆された場所;ヤコブはエルサレムに住んでおり、エルサレムの教会の諸事を管理していたことから、おそらくこの地から本書簡を書いたと思われます。しかし、確定することは出来ません。
 時代的背景:ヤコブが殉教死した60年代は特に迫害の厳しい時代でした。皇帝ネロは62,63年ごろ現れ、キリスト者を迫害しました。各地に散らされたへブル人・キリスト者は散らされた地でも厳しい迫害に苦しみ、貧困にあえいでいました。この苦しさから、信仰を捨てる者、離れる者がいました。この人たちに迫害者の偽善性を暴露し、信仰に堅く立つようにと願って書かれたものが、この「ヤコブ書」だったのです。試練を喜んで耐え忍べ、その結果、救いは必ず訪れる(キリストの再臨)と励ましています。。
 この書の特徴:
1. 偽善的な慣例を暴露し、キリスト者としての正しいあり方が語られます。
2. キリスト者として生きるべき指標が示されます。
3. キリスト者が直面しなければならない様々なことが書かれており、正真正銘のキリスト者として、いかに生きるべきかが主張されています。
4. キリスト者としての生活のための原則が短い言葉で簡潔に述べられています。
5. この書の特徴を見る時、信仰と実践を深く結びつけた書である、ことが良くわかります。つまり、主を信じる者は、そのみ言葉によって、いかに生きるべきか、行動するべきかを考え、行動しなければならないのです。その結果、実行なき信仰は無であるという結論に導かれます。
 各章ごとの概説:
 第1~2章:ヤコブはその手紙を「離散した12部族に向けて書きました。彼らは迫害下にあって、その信仰に揺るぎを感じていたからです。彼は言う「忍耐によって試練に耐えよ、知恵を求めて信仰に見合った生活をし、サタンからの誘惑を拒否せよ」と。「神のみ言葉を聞き、また行え」と。「そのことによって完全なものとなれ」。「その証として孤児や、やもめの世話をし、自らを清め、罪から解放せよ」と勧告する。
 聖徒たちは隣人を愛し、自らの行いを通して信仰を示しなさい。
 第3~4章:ヤコブは言います「皆が教師(みことばを取り次ぐ聖職者)になるな」と。語ることの多い務めだからです。人は言葉で失敗します。言葉で失敗しない人がいたら、その人は体全体を制御できる人です。舌(言葉)は小さな器官ですが大きなことを誇ります。舌は父である主をほめたたえ、同じ舌が主を呪います。このような矛盾を主は嫌います。言葉(舌)を制することは内側に良いもので満たすということです。言葉(舌)を制して知恵にふさわしく生きなさい。悪魔の誘惑を拒否しなさい。
あなたに願いが生じたら、神に願いなさい。その願いが正しいものなら、叶えられます。世を愛するものなら拒否されます。それは、戦争や争いの原因となるからです。
 ヤコブは言います「人をさばくな」と。さばくことのできるお方は、主のみです。主は言います「復讐は我にあり」と。
 主のみ心ならば、あなたの願いを行いなさい。「なすべき正しいことを行わないのは、その人の罪」だからです。」。
 第5章:不当に富を蓄えることに対する警告が語られます。この世の富は一時的で最終的には消え去る空しいものです。彼らは、罪びとで、「終わりの日」が来るまで、それを理解できずに、民を搾取して肥え太っています。これらの富裕層が、主の再来によって滅ぼされ、あなたがたが救われる「その日」がくるまで、忍耐をもって待ち望みなさい。さばきは主の務めです。その日は近いのです。主は慈愛とあわれみに満ちた優しいお方です。約束は必ず守られるお方です。とヤコブは散らされ、迫害下にあった人たちを励まします。しかし神に対して「誓い」と言う言葉を軽々しく言ってはならないのです。人の言う「誓い」ほどあてにならないものはないからです。神に対する応答は「YES」か「NO」です。罪びとを、迷いの道から救い出すものは、罪びとのたましいを死から救い出し、多くの罪をおおうのです。
平成2平年5月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


書簡集14-2 へブル人への手紙

2020年05月01日 | Weblog
 書簡集14の2へブル人への手紙
 はじめに
 これからへブル人への手紙の後半に入ります。
 その前にすでに述べた前半について述べてみます。前半ではキリストの教えに疑いを持ち、揺るぎの中にあった同族のへブル人に対して、その回帰を願って、この書の著者が手紙を書きます。彼らをキリストの教えに回帰させるために必要なことは、神の子キリストが、いかに優れた方であり、あらゆる神に対して至高の存在であるかを証明することでした。そのためには、ユダヤ教徒が大切にしている、み使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司の3つのものよりも、キリストの教えは卓越したものであると証明することでした。御子はみ使いよりも優れた存在であり、優れた救いの道を備えられ、またアロン(モーセの兄)の祭司職よりも偉大なメルキゼデク(キリストの型=象徴)が祭司となられたことが述べられています。もともと祭司職には二つの流れがあり、一つはアロンに代表されるレビ族の流れであり、もう一つはキリストに繋がるメルキゼデクの流れの二つです。これまで、キリストに繋がる流れは、レビ族の流れの背後に隠されていました。しかし、レビ族の流れは破綻し、キリストに繋がる流れが表に出てきたのです。こうしてモーセを通して与えられた「古い契約」は、キリストと神との「新しい契約」に取って代わられたのです。キリストは祭司職として霊的に再生したのです。キリストは神の真理のすべてを宣べ伝え、人と神の仲介役になられました。このように、古い契約に立つユダヤ教に対して、新しいキリストの教えの優位性を証しすることによって、揺るぎの民(へブル人)の悔い改めと、キリストへの回帰を、著者は促したのです。
 これまでが前半のあらすじです。 
へブル人への手紙の内容構成
 
 神が思い、キリストから民に伝えられた真理=救いの国=神の国(神のご計画の完成)はいまだ実現していません。未来完了の世界です。その実現を保証する根拠はどこにもありません。災厄の中にあります。しかし、ここに希望と信頼と愛の道が備えられています。「信仰」が生まれる余地があるのです。信仰とは、まず、神の存在を認めること。神が言われること、願っていることを素直に受け止め、何の疑問も提示せず「しかり」と、納得し、確信し、行動に移すことです。行動なき信仰は無です。揺るぎの民=へブル人はこのことを知って悔い改め、神に立ち返らねばならないのです。
 信仰とは
 神の言われることを「そのとおりである(信頼)」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中に体験されることになります。パウロは言います「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と、この言葉が自分の中で現実となるとき、私たちはどんな境遇においても、力強く歩み、また神の栄光を、自分の身を通して豊かに表していくことが出来るのです。
1.信仰がなければ神に喜ばれることはありません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださることを信じなければならないのです。
2.信仰は、私たちが今まで聞いてきたキリストについての教えを自分のものとする媒体であり、清められた良心とともに、神を知り、神に近づくことのできる唯一の方法です。
3.「私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、これをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生ずるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全なものとなります(ヤコブ1:2~4)」。
 キリスト教の信仰は神と人との信頼関係によって成立しています。それは赤ん坊と親との関係に似ています。赤ん坊はすべてを親に依存しなければ生きていけません。そこには自分はありません。他者にゆだねきっています。これは神と人との関係においても同じです。人は自分を捨て、神を信頼してすべてをゆだねたとき、救われるのです。イエスは、唯一絶対者である神を遠いものとしてではなく、父親のように最も近い存在として、「アッバ」と呼びました。「アッバ」とは、ごく幼い子供が親しみを込めて父親を呼ぶときの表現です。「パパ」とか「お父ちゃん」とか言う感じでしょう。ここが旧約聖書の神と異なる点です。旧約聖書では「罪は死」を意味していました。恐れの存在であっても親しい関係など抱くことは出来ませんでした。キリスト教の信仰においては「アッバ」と呼ぶ幼い子供のように神への信頼が何よりも先にあります。どんな絶望的状況にあっても、希望を持つことが出来ます。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身を捧げられましたが、2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです(9:28)」。神への信頼により包み込まれ、乗り越え行動に移すことが出来るのです。
 11章では、信仰によって神の恵みを受けたものの具体的な名前が挙げられています。これらすべてについて説明することは時間と紙面の関係上できません。アベルとカインの捧げもの、とノアの信仰の二つを述べたいと思います。
 カインは野の作物を神にささげ、アベルは子羊の肉を神に捧げました。共に最上のものを捧げたはずです。神はアベルを用い、カインを退けられました。何故か。アベルは、信仰によって神の望まれるものを捧げたのです。しかしカインの捧げたものは神によって「呪われた土地」の作物だったのです。アダムはその罪によってその土地は「呪われたもの」になっていたのです。この事情をアダムの子であるカインは知っていたはずです。カインにあったものは「我」であって神に逆らうものだったのです。
 次にノアについて述べたいと思います。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続するものになりました。(11:7)」。ノアは神から「これから地上に生きている者を消し去ろう。あなたは箱船を造りなさい」とノアに命じられました。ノアは、洪水が起こることを知らされていなかったにもかかわらず、それが起こることを前提にして箱舟を造ったのです。この時、人々は悪いことばかりに傾き、良いものがない状態でした。神がお怒りになっておられることをノアは知っていたのです。ノアは家族とともに箱舟に入りました。洪水が起こり、罪にまみれた人々はおぼれ死んだのです。ノアは、箱舟の中で家族とともに救われました。ノアは信仰に生きた人だったのです。神はそれを知って彼をお救いになったのです。
 この書の著者は、この二人のほかに信仰に生きた人々について語っていますが「この人々は、みなその信仰によって証しされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのためにさらにすぐれたものをあらかじめ用意されておられたので、彼らが私たちと別に全うされることはなかったのです(11:39~40)。間もなくこの世に終わりの日が訪れます。神の怒りが下る日です。その日に備えて我々は信仰に生きなければならないのです。この書の著者は、信仰に揺るぎのあるヘブル人に信仰に生きることの意義を教えています。
 契約とは:
 新しい契約を結ぶにあたって、この書の著者は次のように言う「もし、あの初めの契約(古い契約)が欠けのないものであったなら、後のもの(新しい契約)が必要になる余地はなかったでしょう(8:7参照)。はじめのものとは「あなたがたが主の教えに聞き従うなら、あなたがたは宝の民となる」。と言うものである。この契約は双務契約であって、一方が破れば、他方はこれを守る必要はない。しかし、人は主の教えに聞き従うものではなかった。神が言われたように、そこには欠けるものがあった。神はイスラエルの民が契約を守り通せないのを見て、新しい契約を結ばれたのである。神は人には期待しなかった。人が変わることが出来ないなら、自らが変わろうと考えたのである。神はノアにこう言っている。「わたしは、決して、人のゆえに、この地を呪うことはすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪だからだ(創世記8:21)」と。神は人の罪に対する対処を罰ではなく、赦しとあわれみを提供することによって解決することにしたのです。神の側で罪の問題を決着されたのです。「主が言われる。見よ、日が来る。わたしがイスラエルの家や、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が(8:8)」「私は私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」「彼らは、みな私を知るようになる」「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い出さないからである(8:10~12参照)」。しかしこの言葉はあくまでも神の意志であって人とは関係はない。人には、神は遠い存在であった。そこで神と人との仲介役を務めたのが神の子=イエス・キリストであった。
 それではイエス・キリストとはどんなお方なのでしょうか。
 「私たちの大祭司(キリスト)は、天におられる大能者(神)の、み座の右の座に着座された方であり人間が設けたのではなくて、主が設けた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です(8:1-2)」そこから地上をご覧になり、執り成しをしておられます。             
一方、律法に従って捧げものをする祭司たちがいます。その人たちは、天にある幕屋の写しと影である幕屋に仕えています。その幕屋は神がモーセに命じて作らせたもので、天にある「真の幕屋」の写しであり影なのです。それは、完全な似姿です。
 ここでは神は「真の幕屋の姿」を示していません。写しと影から想像するのみです。9章の初めにその似姿が具体的に示されています。神は決して自分のみ姿を直接にはお示しになりません。その似姿を示し、その姿から、我々は、真の姿を知るのです。
 律法に従って捧げものをする祭司たちは写しであり影である幕屋に捧げものをしていました。幕屋は垂れ幕によって前後に分けられ、前の幕屋は、聖所と呼ばれ、後ろの幕屋は至聖所と呼ばれていました。聖所には祭司が入り礼拝をおこない、至聖所には大祭司のみが年に一度だけ入ります。その時、動物の血を携えて入ります。「律法によれば、すべてのものは血によって清められる。また血をそそぎだすことがなければ、罪の赦しはない(9:22)」のです。大祭司の捧げる血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のために捧げるものです。血と同時に、いろいろな捧げものと、いけにえ、とが捧げられます。しかし、それらのものは礼拝する者の良心を完全にすることは出来ませんでした。なぜなら、彼らは霊的には実体のないもの(写しと影)を礼拝したからです。無なるものを礼拝しても救いはありません。ここから人は、実体のあるもの天にある真の幕屋へと導かれていくのです。「キリストは、この世界にきてこう言われるのです。『あなたは、いけにえや捧げものを望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと、罪のためのいけにえとで、満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、私は来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみ心を行うために』(9:5~7)」。イエスはこの段階で、十字架上での死をはっきりと理解していたのです。自分の死と復活がなければ、イスラエルを、いや全世界を救うことは出来ないのだと。イエスは十字架上で「完成した」と叫んでいます。「しかし、キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造ったものでない、言い換えれば、この造られたものとは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子羊との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです(9:11~12)」。このようにしてキリストは天に上り、神の右の座にお座りになったのです。
 この著作の著者は言う「私たちの前の置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようでありませんか」と迫害の中にあり、揺るぎのへブル人に対して、忍耐をもって、信仰の創始者であり、完成者でもあるイエスから目を離すなと警告する。そして言う「「主の懲らしめを軽んじるな」と。それは、信じることの苦しさに背信の心を起こそうとするへブル人に対して、懲らしめは父親の愛であり、主へ導くための訓練だと励ます。
 「へブル書」を読むとき、必ず、古い教えと新しい教えが対比されて語られていることに気づきます。それは新しい教えが、古い教えに卓越していることを証しするためです。古い教えは「戒めと畏れ」の教えであり、罪を生むものであるとするなら、新しい教えは愛と恵の教えであり、罪からの解放を目的としているからです。このことによって、揺るぎの中にあるへブル人に勇気を与え、迫害に耐え、キリストの教えに戻ることを、この書の著者は、心の底から望んだのです。
 これから本書の最後の13章を読みます。ここでのテーマは「宿営の外に」です。私たちはこれまで、この書簡の背景になっていた、信仰に揺るぎを感じていたへブル人のことを念頭に入れて読んできました。これからはこの書簡のハイライトです。彼らは、迫害や圧迫の中にあって、神に疑いを持ちその神への信仰に躊躇し迷いの中にありました。この書簡の著書は、これらの人々に対して、どのように生きていかねばならないかを教え、諭し(13:1~9)、その結論として「宿営の外に出て、御許に行こうではありませんか」と語っています。宿営の中には幕屋があります。大祭司は至聖所の中に、動物の贖いの血をもって入り、それを自分と、民の救いのために捧げました。しかし動物の体は幕屋の外で焼かれました。同様にイエスもご自分の血で、民を聖なるものとするために、そのからだは門の外で十字架の苦しみを受けられたのです。
 「私は、あなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神=主があなたの行くところ、どこにでも、あなたと共にあるからである(ヨシヤ1;9)」。これはへブル人に対する励ましの言葉である
令和2年4月14日(火) 報告者守武 戢 楽庵会

書簡集14-1 へブル人への手紙

2020年05月01日 | Weblog
 書簡集14の1 へブル人への手紙
 はじめに
 この手紙の受取人はへブル人です。へブル人とはユダヤ人のことです。へブル人、ユダヤ人、イスラエル人は、ほとんど同じ人たちです。これまでのパウロの書簡集の宛先と違って、へブル人は、決して異邦人ではありません。著者と同じユダヤ人です。捕囚によって各地に散らされていた、ユダヤ人かもしれません。いずれにしても、同じユダヤの地に生まれ育った著者と同じユダヤ人です。このユダヤ人は、もともとはユダヤ教を信じていました。回心して、キリスト者になった者たちです。キリストの福音を聞いてイエスこそ約束のメシアと信じたのです。ユダヤ教に対する優越性を知ったのです。当時のことです。これらのものに反対する勢力がいました。反キリストです。ユダヤ教徒たちです。彼らは硬軟両用の戦略をとります。激しい迫害を与えたり、偽教師を遣わしして、甘言で彼らの信仰を、もとのユダヤ教に戻そうとしたのです。未熟な聖徒たちは、それに乗せられ、古いユダヤ教の教えや、習わしに戻ろうとしたのです。キリストの新しい教えから離れようとしたのです。試練の中、信仰の成長は妨げられていました。いや、後退していたのです。この事態は、他の敬虔なキリスト者にとっては由々しきことです。著者は、ユダヤの聖徒たちが、イエス・キリストを信じる信仰を維持、成長させ、かつて彼らが信じていたユダヤ教の信仰に戻らないように、この警告の手紙を書いたのです。著者は心を込めて言います「あなたがたは、光に照らされた後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみを受けたものもあれば、、このような目にあった人々の仲間になったものもありました。あなたがたは捕らえられている人々の仲間になったものもありました。あなたがたは捕らえられた人々を思いやり、また、もっと優れた、いつまでも残る財産を知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみ心を行って、約束のものを手に入れるために必要なものは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、私たちの心は彼を喜ばない』。私たちは、恐れ退いて滅びるものではなく、信じて命を保つものです(10:32~39)」と。「このように、あなたがたの信仰は、今どんなに苦しくとも、報われる時があるから、忍耐をもって待ち望め」と、著者は信仰に揺るぎを感じている彼らを諭している。
 この後、著者はイエスの他の神に対する卓越性を明らかにする。イエスは至高の存在である。これなくして信仰の後退下にあり、その至高性に疑いを抱く聖徒たちを、もとの信仰(イエスの教え)に回帰させることは出来ないのである。
 この書簡の著者はだれか:この書は他のパウロの13の書簡と異なって、著者名は明記されていない。差出人不明の書簡である。その差出人から「ヘブル書」は「特定の状況下」に置かれたキリスト者のグループに宛てて書かれたものである、と知ることが出来る。11章には、旧約聖書の著名な登場人物(アベル、エノク、ノア、アブラハム、アブラハムの妻、ヤコブ、イサク、エサウ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル)に触れていることから、著者は、旧約聖書に精通したものであると考えられる。
 この書の著者はパウロであるという説は有力ではあるが、その根拠は、内容的な一致である。しかし、必ずしも一致しているとは言えないのである。パウロの書簡の宛先は、あくまでも異邦人であって、「へブル書」の宛先とは異なるのである。へブル書の宛先は「信仰の後退したもの」、へブル人であって、異邦人ではない。仮にパウロであるとしたら「へブル書」の中に名前を明記するはずだからである。それがパウロの書簡の習慣だからである。へブル書だけが例外と言うのはおかしい。そこで、余計な憶測を排して、この書の著者は「不明」である、と考え「著者」と呼ぶことにする。しかしいずれの人物が著者であっても、神の聖霊を宿した人物が著者であることに疑いをはさむことは出来ない。彼は神の権威をもって私たちに語り掛けている(Ⅱテモテ3:16参照)。
 律法の行いから神を信じる信仰へ:「誰でもキリストの中にあるなら、その人は、新しく作られた人です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)」。この言葉は「へブル書」のすべてを要約している。古いものとは、モーセの戒律に代表される「律法」である。新しいものとは人と神との契約である。古いものとは、一時的であり、限定的である。新しいものとは、無限であり、永遠である(7:22~25参照)。「律法から、神を信じる信仰へ」これはパウロの13の書簡を貫く基本的思想である。この思想を「へブル書」は引き継ぎ、さらに展開している。
 キリストとは至高の存在である。このことをヘブライ人に理解させることが、この書の著者の最終的な目的である。へブル人たちはこのことを理解しなかった。いや理解できなかった。反キリストの偽の教えがこの真実の理解を妨げていた。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神の言葉の初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています(5:12)」と。著者はキリストの至高性を教え、この方に対する信仰の在り方を教える。
 メルキゼデクとはどのようなお方か:メルキゼデクと言う人物は、きわめて聞きなれない人物名である。本書に出てくる(5:10,6:20,7:2,3,6)ほかは創世記(14:18~20)と詩編(110:4)に出てくるだけである。
 メルキゼデクとはサレムの王で、優れて高い神の祭司であり、その名を訳すと義の王であり、次にサレムの王、すなわち平和の王である。父もなく母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神に似たものとされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。族長のアブラハムでさへ、戦利品の十分の一をメルキゼデクに捧げています。メルキゼデクは、霊的にアブラハムよりも上位にあることが示されています(7:1~3)。さらに詩篇110:4では「主は近い、御心を変えない。あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司です」と。あなたとはメシアを指し、この時代イエス・キリストは存在していないが、キリストを象徴している。
 新約聖書では、イエスは大祭司であり、メルキゼデクの系統をひくものとみなされている。これまで大祭司の職務は、アロンを代表とするレビ族のものであり、神の幕屋には、彼ら以外の者は、近づくことも許されなかった。しかし、イエスは大祭司である。レビ族の系図にないものが、アブラハムから十分の一をとって、約束を受けた人(イエス・キリスト)を祝福したのである。イエスはレビ族以外のユダ族であり。本来なら大祭司になることの許されない部族の出身である。何故か。著者は言う「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら    民はそれを基礎として律法を与えられたのです   それ以上何の必要があって、アロンの位でなくメルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか(7:11)」。前の戒めは、弱く無益のために廃止されましたが、    律法は何事も全うしなかったのです    他方で、さらに優れた希望が導き入れられました。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、命の力によって、祭司となったのです。神のご計画を前進させるものを、神はお選びになるのです。「神が新しい契約と言われた時には、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えていきます(8:13)」。著者は、古びてすぐに消えていくものに頼るなと、揺るぎのへブル人を諭す。
 これまでの復習: この書の主題は、信仰に揺らぎを感じ、元のユダヤ教に回帰しようとしている者を、再びキリスト者に戻すには何をなすべきかを語ることにある。そのためには古い教え(ユダヤ教)に対して新しいキリストの教えは、すべてにおいて卓越していることを証明しなければならない。それが、キリストの教えに疑いを抱くへブル人を説得する唯一の方法なのある。そのためにこの書の著者が行ったことは
1、 イエス・キリストの卓越性(ユダヤ教が信じる、御使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司にたいする)を、歴史的、神学的に証明し、
2、 試練の中で信仰の成長が妨げられている聖徒たちに警告を与え
3、 ユダヤ人キリスト者の信仰は保たれねばならないと、諭すことであった。
 終わりの時に、神は御子によって語られた:「神はむかし父祖たちに、預言者たちを通じて、多くの部分(歴史書、儀式、詩文)に分け、いろいろの方法(夢、幻、啓示、奇蹟、時には直接的な語り掛け)で語られました。この終わりの時には、御子によって私たちに語られました。1、神は御子を万物の相続者とし、2、また御子によって世界を造られました。3、御子は神の栄光の輝き、4、また神の本質の完全な現れであり、5、その力あるみことばによって万物を保っておられます。6、また罪の清めを成し遂げて、7、すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました。御子は、み使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけみ使いよりもまさるものとなられました(1:1~4)」。
 終わりの時に、神の啓示は完全なものとなった。キリストそのものが神の言葉であった。「はじめに言葉があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった(ヨハネ:1:1)」。キリストそのものが神の自己啓示である。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神の言葉を語られた。キリストは神の真理のすべてを人間に啓示された。
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架をしのび、神のみ座の右に着座されました(12:2)」。
 言葉の意味
 御 子:御子とはキリストのことである。終わりの時に神の啓示は完全なものになった。キリストそのものが神の言葉であった。「はじめに言葉があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった(ヨハネの福音書1:1)キリストそのものが神の自己啓示である。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神の言葉を語られた。キリストは神の真理のすべてを啓示された。この方は王の王、主の主である。他の何物にも代えがたい偉大な神です。
 神のみ使い:み使いは、霊的存在で、超自然的なことは出来るが、それらは、みな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために、これは私たちクリスチャンのことですが、遣わされたものに過ぎない。「御子」は、そのみ使いに拝まれる対象であって、御子とは、まったく比べ物にならない存在である。
令和2年3月10日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会


書簡集13 ピレモンへの手紙 パウロの執り成し

2020年05月01日 | Weblog
  書簡集⒔ ピレモンへの手紙 パウロの執り成し
 はじめに
 パウロは3通の獄中書簡を書いています。「エペソ人への手紙」「コロサイ人への手紙」と、この「ピレモンヘの手紙」の3通です。当時ピレモンはコロサイの教会の牧者でした。パウロは「コロサイ人への手紙」を、コロサイの教会に送っただけでなく、この個人的書簡「「ピレモンへの手紙」も併せ送ったのです。
 獄中で産んだ我が子オネシモのことで、あなた(ピレモン)お願いしたいのです。
 「ピレモンへの手紙」は、おそらく、パウロの最後の書簡であり(おそらく、と言うのは、次の「へブル人の手紙」もパウロの作だと言うものもいるからです)パウロの書簡の中では、最も短く、最も個人的な書簡です。ピレモンに対して書かれた個人的書簡であるため教義的内容は見当たりません。
 その内容の第1は、牧者ピレモンの愛の深さ、信仰の深さが語られ、第2にはキリスト者に回心した逃亡奴隷オネシモの罪の赦しを、パウロがピレモンに願うところにあります。キリストの前では奴隷も自由人も平等でなければならないのです。牧者であるピレモンは当然それを知っているはずです。奴隷と言う身分は本来あってはならないのです。パウロはこの奴隷制度に対して、一言も批判していません。奴隷制を前提にして話を進めています。時代的限界を感じます。
 しかし聖書は時代を超えた書です。
 パウロの友人で同労者でもあるピレモンはコロサイの「家の教会」の牧者であり、多くの奴隷を抱えた裕福な地主貴族の1人でした。ところが深刻な問題が発生したのです。ピレモンの奴隷の1人オネシモがピレモンに経済的損失(盗みか)を与え、ローマに逃亡したのです。いわゆる逃亡奴隷です。オネシモはローマでパウロ(キリストの宣教ゆえに捕らわれの身になっていた)に出会い、救いの素晴らしい知らせ(福音)を受け入れ、キリスト者として再生したのです。そこでパウロはピレモンに手紙を送り、オネシモを逃亡奴隷としてではなく、我々と同じキリスト者として送り帰すから厳しく罰するのではなく、愛をもって受け入れてほしいと願います。そしてオネシモがピレモンに与えた経済的損失を、私が贖おうと約束するのです。
 時代背景
 パウロの生きた時代の産業構造を見ると、その主要産業は農業で、地主貴族の手の内にありました。その労働力は専ら、地主貴族の抱える奴隷=農奴が担っていました。その賦役労働が彼らの収入源でした。次にその農産物を扱う商人がいました。地主の一部が市場を作り商人となったのです。彼らは出世して御用商人となります。王侯貴族の付き合いで海外に進出します。交通網が整備され、貿易港が出来ます。商人は社会的に一大勢力になります。商人の進出は社会構造を変えます。農機具(鋤。鎌、鍬)の生産は、農業者の副業であった。この技術者も奴隷でした。戦乱の世のこと武器にも手を出しました。戦車、大砲などの重機は海外に頼ったでしょう。御用商人が、権力者から注文を受け工業者に発注したり、海外に頼ったりしていました。技術者は富を蓄積し、その金で身分を買い解放奴隷となります。かくして彼らは独立して中小の企業家になるのです。工業の始まりです。ここに士農工商の社会が生まれます。
 当時、労働は卑しい者の仕事であって、奴隷の担うものでした。富裕な自由人(貴族を中心とする)は労働を嫌い、学術、文化、芸術、政治を専らとしていたのです。彼らは高学歴者であり、彼らの通った大学は、当時、文化の中心であったエジプトにあり、地主貴族の子弟は、好んでエジプトの大学に留学しました。彼らの中には労働の尊さを知るものはいませんでした。労働=奴隷の仕事だったからです。
 彼らの中には「締まりのない生活(Ⅱテサロニケ3:6~15)」をする者がいました。彼らは人の作ったパンをタダで食べていた(賦役労働への依存)のです。「働らかざるものは食うべからず」にもかかわらず何も仕事をせず、おせっかいばかりしていました。おそらく、彼らは時の権力に不満を持ちながらも、何の行動に出ることなく、また、信仰者になることもなく、ただ不満を並べているに過ぎない中途半端な「締まりのない生活」をしていたのです。彼らの不満の第1は度重なる戦乱ででした。パウロは彼らに対して自分でパンを稼げと、労働の尊さを説いています。
「ピレモンの手紙」の内容構成

 登場人物
1.ピレモン:オネシモは彼の奴隷である。奴隷を所有しているということは、彼が富裕な貴族であることを示している。同時にコロサイの「家の牧師」でもあった。初代教会の時代、民家が教会であり、そこに信者が集まり礼拝していた。彼は心優しい牧者であり、主イエスに対する信仰と聖徒に対する愛は深く、民に敬愛されていた。そこにパウロはオネシモの救いを期待したのである。奴隷とは戦乱で敗れた捕虜、没落家族、社会の底辺に落とされた人間の仕事であり、生殺与奪の権利は主人に握られていた。とはいえ、必ずしも、過酷な労働条件の中で働かされていたわけではなかったらしい。それなりに生活は保障されていたし、権利も持っていたという。当時、奴隷の数は自由な市民に比べて多く、彼らの生活を保障することは、その反乱を恐れる権力者にとっては必要だったのである。パウロはピレモンのやさしさと慈悲深さに期待し、逃亡奴隷のオネシモを厳しく罰することなく、その寛大な性格をもって赦すことを期待したのです。しかし、ピレモンが彼を赦したかどうかは、聖書には書かれていません。
2.オネシモピレモンの奴隷であったオネシモは何らかの経済的損失をピレモンに与え、逃亡し、ローマでパウロに出会う。ここで回心してキリスト者になる。当時、逃亡奴隷は捕まれば、主人に生殺与奪の権利を握られていた。死刑になることもあったらしい。パウロはこの逃亡奴隷オネシモをピレモンに帰すにあたり、逃亡奴隷としてではなく、神を信じる聖徒として帰国させるから、寛大に扱うように勧める。その結果については書かれていません。
3.パウロ:この時のパウロは一回目の捕らわれの身で、比較的自由な環境(軟禁状態)の中で生活をしていました。「パウロは、それ(捕縛)から2年の間、借家に住み、訪れた人たちを歓迎し、大胆に神の国と主イエス・キリストのことを語りました。それを妨げるものは誰もいませんでした(使徒行伝28:30)」。パウロは比較的自由な環境の中でオネシモに会うことが出来、彼を回心させることが出来たのです。検閲を受けることもなく異邦の人ピレモンに手紙を書くことも出来たのです。パウロはピレモンに牧者の立場から「あなたにあなたのなすべきことを、キリストにあって命じることもできるのですが、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います(8節)」とあくまでも強制ではなく、愛をもって今はキリスト者となった逃亡奴隷オネシモに対して寛大なる措置をとるようにと願ったのである。救いとは「愛」であり、信仰の基本であることを、パウロは知っていたのである。
 概 要:パウロはコロサイの教会で牧者ピレモンが聖徒たちに示した博愛と、優しさを語り、称賛する。それは逃亡奴隷オネシモに対する赦しの伏線であり、それを、あらかじめ語っているのです。赦しは愛である。オネシモはローマでパウロに会う。ここでオネシモは回心してキリスト者になる。運命的出会いがあったのです。逃亡奴隷としてではなく、キリスト者として帰国させるから、愛をもって、寛大に処置せよとパウロはピレモンに命令ではなく、嘆願するのです。そしてオネシモがピレモンに与えた経済的損失を、私が贖う、と約束する。
 パウロの贖いは、キリストの贖いに通じるものがある。贖いには犠牲を伴う。キリストはその死によって民の罪を贖い、パウロは、オネシモがピレモンに与えた経済的損失を弁済することによって、その罪を贖うのである。
令和2年2月11日(火) 報告者守武 戢 楽庵会