書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れたくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン(5:10~11)」。
この言葉は「ペテロの手紙1,2」の要約といって良いでしょう。
はじめに:イエス・キリストの使徒ペテロから、この手紙は、現代トルコに位置する5つのローマの属州(ポント、ガラテヤ、カバトキヤ、アジア、ビテニヤ)に散って寄留している選ばれた人々、すなわち父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、また、その血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々に宛てて書かれたものです(1:1~2)。
この時、聖徒たちの信仰は試されていました(1:6~7)。彼らを強め、励ますために、彼らに、降りかかっている「火のような試練」に対応できるようにと、ペテロは、この書を、書いたのです。試練に対応する方法を、彼らに教え、導いています。
著者は、この書簡において、散らされた人々が、迫害に耐えること(1:2~10)、聖なる生活を送ること(2:11~3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14~4:19)、最後は長老や若い人たちへの助言(勧め)によって締めくくっています(5章)
時代背景:ペテロがこの手紙を書いたその時期(62~64年ころ)は、まさに聖徒たちに迫害が、ローマの皇帝ネロ(37~68年自殺、在位54~68年)によって行われていた時代でした。この時期までは、まだローマ帝国はキリスト教の存在を容認していたのです。その意味では本書簡は時宜にかなっていたのです。ペテロのメッセージは迫害に対応する方法を教えています。ネロ帝の統治下、ローマ帝国では、いたるところで聖徒たちに対する迫害が起こりました。特にローマに大火災が起こった時、その容疑がキリスト者に向けられたのです。完全に冤罪でしたが、市民たちは、この冤罪を信じませんでした。市民を巻き込んだ迫害に発展したのです。いたるところでキリスト者は、その信仰ゆえに拷問されたり殺されたりしたのです。ペテロもそのうちの1人でした(逆さ吊りの刑)。聖徒たちの多くはやむなく各地へ散っていかざるを得なかったのです。
この書簡の特徴:この書簡を受け取った聖徒たちは、当時の激動の状況下で生活し、様々な困難に遭遇していました。この書簡は彼らに希望を与え、助言し、力づけ、勇気づけ、慰めるために書かれた公開書簡です。素晴らしい生き方とはどのようなものかを語っています。この書簡は、今日、あまり注目されていませんが、その内容は、読者の称賛を受けるに値する貴重な宝石であると言われています。この書簡からは愛と平和の雰囲気が漂って来ます。
この書簡は、キリストを信仰するがゆえに迫害にあっている人に対して、「肉の欲を遠ざけること」「立派な生き方を示し続けること」の2つを、教えています。それは、自分たちを迫害するものに対して喜んで赦すという態度です。彼らに対して祝福を静かに願うと、言う態度です。憎むのではなく、愛すること。それこそ神を喜ばすということなのです。神の真理に忠実であり続ける、と言うことです。
人はすべて罪びとです。キリストは十字架の贖いによって人々を赦したのです。
内容構成
登場人物
ペテロ:長老の一人。キリストの苦難の証人。やがて現れる栄光にあずかる者(5:1)。キリストのⅠ2使徒の筆頭格。原名はシモンあるいはシメオンとして知られています。ベッサイダの漁師で、妻とカメナウムで暮らしていました。ペテロは兄弟アンデレと共にイエス・キリストの弟子として召されました。12使徒の筆頭格でありながら「イエスを知らない」と3度言ったという話は有名です。イエスの召天後、人が変わり、伝導に尽くし、晩年ローマでネロ帝の迫害を受け殉教しました。カトリック教会では、ペテロを初代ローマの司教(教皇)とみなし、各教皇がキリストからペテロに授けられた天国のカギを継承していると言います。
シルノア:この手紙の筆記者。この書簡は実際にはシルノアの作だという人もいます。「使徒行伝」におけるシラスのことです。パウロの第2宣教旅行に随伴した奉仕者です。ペテロはこの手紙をシルノアに託し小アジアの教会に送ったと言われてます。
マルコ:ヨハネ・マルコのことです。パウロの第1回伝道旅行に随伴しています。伝承では「マルコの福音書」の著者とされています。ペテロはマルコを「私の子」と呼んでいます(5:13)。霊的な子を意味するのでしょう。その福音書の中で、イエス様が捕らえられた時、裸のまま逃げた青年として登場します(マルコ:14:51~52)。
だれが書いたか:イエス・キリストの使徒ペテロ。
誰に宛てて書かれたか: エルサレムから各地に散らされ、その地に寄留した、選ばれた人々=ユダヤ人キリスト者に宛てて書かれました。
概 説
1章:この手紙は反キリストの勢力に迫害され各地に散らされたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものです。ペテロは信仰の揺るぎの中にある彼らを、慰め、力づけ、神に立ち帰ることを願って、真の信仰とは何かを教え、導いています。
次の言葉は1章全体のまとめといって良いでしょう。「神様は超自然的力によって、あなたがたが、間違いなく天で永遠の命を頂けるよう、守ってくださいます。あなたがたが、神様を信じているからです。やがて来る終わりの日に、この永遠の命は、あなたがたのものとして、誰の目にも、はっきり示されるでしょう。ですから、心から喜びなさい。今しばらくの間、地上での苦しみが続きますが、行く手には、素晴らしい喜びが待ち受けているからです。これらの試練は、あなたがたの信仰をテストするためにあるのです。それによって信仰がどれほど強く、純粋であるかが量られます(1:5~7)」。
「神は公平なお方です。さばきは公平です。天に行くその日まで、主を恐れ、慎み深く生活しなさい。この世の罪にまみれ、もがき苦しんでいるあなたがたを見て、神様は一点の曇りのないキリスト様を遣わしてその血によって、あなたがたの罪を贖ってくれたのです。この神様を心から信仰しなさい。両親から受け継いだ肉体はいつかは滅びます。しかし、あなたがたには新しい命があります。そのいのちは永遠に滅びることがありません。このいのちはキリスト様を通じて語られる神の言葉です。主の言葉は、永遠に続きます。これこそ、あなたがたへの良い知らせです(1:17~25参照)」。
2章:1章でも述べたようにペテロは揺るぎの民にいかに生きるべきかを説いています。あなたがたは既に選ばれた人間なのだから、キリストの教えに従い,模範にして生きなさいと。説いています。「熱心に救いの完成を祈り求めなさい。神に近づきなさい(2:3)」。「見よ。わたしはキリストを教会の尊い土台石にするために、特に選んで遣わした。彼に信頼するものは決して失望しない(2:6)。主はキリストの神性を説き、反キリストの悪魔性を説きます。悪魔はいずれ滅びます。だから、今の揺るぎから立ち直りなさい、と説くのです。あなたがたは、主によって変えられのです。再び主の慈しみを求めなさい。
この時キリスト者は迫害されていました。ペテロは言います。「迫害を喜びをもって迎えなさい。喜びをもって、耐えなさい」と、この苦しみは、神様が与えてくださった務めです。キリスト様がその模範です。その彼方に救いがあります。「あなたがたは神様から離れて、迷子の羊のように、さまよっていました。しかし今は、どんな敵の攻撃からも、たましいを安全に守ってくださる羊飼いのもとに帰ったのです(3:25)」。まだ実現していない事実を、このように述べるのは揺るぎの民が救われることを確信をもって信じていることを、示しています。
3章: 3章は前半(1~17)と後半(18~22)に分かれます。前半では、ペテロは一見この章とは関係のない夫婦関係の在り方を述べることによって、主と聖徒の関係はどうあらねばならないかを語ります。どんな悪い夫にも従いなさいとペテロは言います。これは反キリストの勢力に苦しめられていても、対峙するのではなく愛をもって彼らと接しなさい、と言います。「かえって、その人のために、神の助けを祈り求めなさい。だれに対しても親切にしなさい。そうすれば神様から祝福していただけます(3:9)」と、ペテロは言う。これはペテロが反キリストに対しても、憎しみではなく、愛をもって接しよ、と言っているのです。あなたがたのなすべきことは神を尊び、祈ることです。神を喜ばすために、ひたすら、善を行いなさい。「裁きは、神の選任事項」だからです。
後半部分は、次の言葉を引用すれば、事足りるででしょう「私たちの受けるバプテスマは、キリスト様の復活による、死と滅びの運命からの救出を意味します。それは、からだが水でキレイに洗われるからではなく、バプテスマを受けることによって、神様に立ち返った私たちが、心が罪から清められるように願うからです。今、キリスト様は天で、神様の次に名誉ある右の座につき、すべての、み使いと天の軍勢を従えておられます(3:21~22)」。神の偉大さにあなたがたは従いなさいと、ペテロは聖徒たちに宣べています。
4章:神は、あなたがたをダイヤの原石として選ばれたのです。磨かれねばならないのです。あなたがたは、神より選ばれ、救われた民です。救われているからと言って、何をしてもよいのではありません。救われているからこそ、神の前でへりくだり、高慢になってはいけません。善を行わなければならないのです。人間的欲望から解放されなさい。このようにして、磨かれた原石は宝石として光り輝きます。
行動なき信仰は、無です。信仰とは、愛であり、愛とは行いです。(4:7-9参照)。
神は、様々な人に様々な能力をお与えになりました。人は、愛をもってその能力を行使せねばならないのです。その能力を世の人々と分かち合いなさい。神様の下さる力とエネルギーに満たされて、人々を助けなさい。それは、イエス・キリストを通して、神様がほめたたえられるためです(4:10-11)」。
降りかかる迫害を嘆き悲しんではいけません。この迫害は、神様がお与えになった試練なのです。この試練を耐え忍ぶことによって救いへと導かれます。神様は、常にあなたがたと共にあります。それを確信して、試練に耐えなさい。キリスト者であることで迫害を受けるなら喜びなさい。キリスト様の家族の一員となるからです。
世の終わりが近づいています。この時、キリスト者であろうと、反キリスト者であろうと平等に裁かれます。しかし、その裁きには軽重があります。神に選ばれ、救われる人となりなさい。神の国が待っています。
あなたがたが受けている迫害が、神様を信じることによって、なされているなら、神にすべてをゆだねなさい。神様は決してあなたがたを見捨てることはないからです。
ここにはローマの圧政下にあって、散らされた民が、その揺るぎから解放され、神に立ち返るには何をなすべきかが語られています。神と共にあることによって、肉的な苦しみから、霊的な救いを受け、神の国に入ることが出来るのです。神を信じる信仰によってのみ達成される救いです。迫害に苦しみ、揺るぎの中にあった彼らが神に立ち返ったかどうかは、少なくとも聖書には語られていません。
5章: 散らされた民の長老たちへ、ペテロは、次の4つのことを願っています。
1、神様の羊の群れ(散らされた民)を養いなさい。強制でなく喜びをもって、その務めに、当たりなさい。利を求めるのではなく、心を込めて、行動しなさい。
2、支配でなく、模範となりなさい。ワンマンとしてではなく、優しく指導しなさい。キリストが再臨される時、永遠に朽ちない栄光の冠を褒美として頂けるからです。
3、若者よ、長老たちに従いなさい。長老たちを模範として、謙遜を身に着け、へりくだりなさい。神は高慢を最も嫌われるからです。
4、獲物を求めて歩き回っている、悪魔に備えなさい。主を信じて、堅く信仰に立って、悪魔の攻撃に立ち向かいなさい。悪魔と反キリストは結び付いています。
主は、あなたがたにしばらくの間,苦しみを、与えたのち、永遠の栄光を与えてくださいます。絶対的な力が、永遠に神様にありますように。
この力への信仰が、救いへの確信となるのです。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れたくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン(5:10~11)」。
この言葉は「ペテロの手紙1,2」の要約といって良いでしょう。
はじめに:イエス・キリストの使徒ペテロから、この手紙は、現代トルコに位置する5つのローマの属州(ポント、ガラテヤ、カバトキヤ、アジア、ビテニヤ)に散って寄留している選ばれた人々、すなわち父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、また、その血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々に宛てて書かれたものです(1:1~2)。
この時、聖徒たちの信仰は試されていました(1:6~7)。彼らを強め、励ますために、彼らに、降りかかっている「火のような試練」に対応できるようにと、ペテロは、この書を、書いたのです。試練に対応する方法を、彼らに教え、導いています。
著者は、この書簡において、散らされた人々が、迫害に耐えること(1:2~10)、聖なる生活を送ること(2:11~3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14~4:19)、最後は長老や若い人たちへの助言(勧め)によって締めくくっています(5章)
時代背景:ペテロがこの手紙を書いたその時期(62~64年ころ)は、まさに聖徒たちに迫害が、ローマの皇帝ネロ(37~68年自殺、在位54~68年)によって行われていた時代でした。この時期までは、まだローマ帝国はキリスト教の存在を容認していたのです。その意味では本書簡は時宜にかなっていたのです。ペテロのメッセージは迫害に対応する方法を教えています。ネロ帝の統治下、ローマ帝国では、いたるところで聖徒たちに対する迫害が起こりました。特にローマに大火災が起こった時、その容疑がキリスト者に向けられたのです。完全に冤罪でしたが、市民たちは、この冤罪を信じませんでした。市民を巻き込んだ迫害に発展したのです。いたるところでキリスト者は、その信仰ゆえに拷問されたり殺されたりしたのです。ペテロもそのうちの1人でした(逆さ吊りの刑)。聖徒たちの多くはやむなく各地へ散っていかざるを得なかったのです。
この書簡の特徴:この書簡を受け取った聖徒たちは、当時の激動の状況下で生活し、様々な困難に遭遇していました。この書簡は彼らに希望を与え、助言し、力づけ、勇気づけ、慰めるために書かれた公開書簡です。素晴らしい生き方とはどのようなものかを語っています。この書簡は、今日、あまり注目されていませんが、その内容は、読者の称賛を受けるに値する貴重な宝石であると言われています。この書簡からは愛と平和の雰囲気が漂って来ます。
この書簡は、キリストを信仰するがゆえに迫害にあっている人に対して、「肉の欲を遠ざけること」「立派な生き方を示し続けること」の2つを、教えています。それは、自分たちを迫害するものに対して喜んで赦すという態度です。彼らに対して祝福を静かに願うと、言う態度です。憎むのではなく、愛すること。それこそ神を喜ばすということなのです。神の真理に忠実であり続ける、と言うことです。
人はすべて罪びとです。キリストは十字架の贖いによって人々を赦したのです。
内容構成
登場人物
ペテロ:長老の一人。キリストの苦難の証人。やがて現れる栄光にあずかる者(5:1)。キリストのⅠ2使徒の筆頭格。原名はシモンあるいはシメオンとして知られています。ベッサイダの漁師で、妻とカメナウムで暮らしていました。ペテロは兄弟アンデレと共にイエス・キリストの弟子として召されました。12使徒の筆頭格でありながら「イエスを知らない」と3度言ったという話は有名です。イエスの召天後、人が変わり、伝導に尽くし、晩年ローマでネロ帝の迫害を受け殉教しました。カトリック教会では、ペテロを初代ローマの司教(教皇)とみなし、各教皇がキリストからペテロに授けられた天国のカギを継承していると言います。
シルノア:この手紙の筆記者。この書簡は実際にはシルノアの作だという人もいます。「使徒行伝」におけるシラスのことです。パウロの第2宣教旅行に随伴した奉仕者です。ペテロはこの手紙をシルノアに託し小アジアの教会に送ったと言われてます。
マルコ:ヨハネ・マルコのことです。パウロの第1回伝道旅行に随伴しています。伝承では「マルコの福音書」の著者とされています。ペテロはマルコを「私の子」と呼んでいます(5:13)。霊的な子を意味するのでしょう。その福音書の中で、イエス様が捕らえられた時、裸のまま逃げた青年として登場します(マルコ:14:51~52)。
だれが書いたか:イエス・キリストの使徒ペテロ。
誰に宛てて書かれたか: エルサレムから各地に散らされ、その地に寄留した、選ばれた人々=ユダヤ人キリスト者に宛てて書かれました。
概 説
1章:この手紙は反キリストの勢力に迫害され各地に散らされたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものです。ペテロは信仰の揺るぎの中にある彼らを、慰め、力づけ、神に立ち帰ることを願って、真の信仰とは何かを教え、導いています。
次の言葉は1章全体のまとめといって良いでしょう。「神様は超自然的力によって、あなたがたが、間違いなく天で永遠の命を頂けるよう、守ってくださいます。あなたがたが、神様を信じているからです。やがて来る終わりの日に、この永遠の命は、あなたがたのものとして、誰の目にも、はっきり示されるでしょう。ですから、心から喜びなさい。今しばらくの間、地上での苦しみが続きますが、行く手には、素晴らしい喜びが待ち受けているからです。これらの試練は、あなたがたの信仰をテストするためにあるのです。それによって信仰がどれほど強く、純粋であるかが量られます(1:5~7)」。
「神は公平なお方です。さばきは公平です。天に行くその日まで、主を恐れ、慎み深く生活しなさい。この世の罪にまみれ、もがき苦しんでいるあなたがたを見て、神様は一点の曇りのないキリスト様を遣わしてその血によって、あなたがたの罪を贖ってくれたのです。この神様を心から信仰しなさい。両親から受け継いだ肉体はいつかは滅びます。しかし、あなたがたには新しい命があります。そのいのちは永遠に滅びることがありません。このいのちはキリスト様を通じて語られる神の言葉です。主の言葉は、永遠に続きます。これこそ、あなたがたへの良い知らせです(1:17~25参照)」。
2章:1章でも述べたようにペテロは揺るぎの民にいかに生きるべきかを説いています。あなたがたは既に選ばれた人間なのだから、キリストの教えに従い,模範にして生きなさいと。説いています。「熱心に救いの完成を祈り求めなさい。神に近づきなさい(2:3)」。「見よ。わたしはキリストを教会の尊い土台石にするために、特に選んで遣わした。彼に信頼するものは決して失望しない(2:6)。主はキリストの神性を説き、反キリストの悪魔性を説きます。悪魔はいずれ滅びます。だから、今の揺るぎから立ち直りなさい、と説くのです。あなたがたは、主によって変えられのです。再び主の慈しみを求めなさい。
この時キリスト者は迫害されていました。ペテロは言います。「迫害を喜びをもって迎えなさい。喜びをもって、耐えなさい」と、この苦しみは、神様が与えてくださった務めです。キリスト様がその模範です。その彼方に救いがあります。「あなたがたは神様から離れて、迷子の羊のように、さまよっていました。しかし今は、どんな敵の攻撃からも、たましいを安全に守ってくださる羊飼いのもとに帰ったのです(3:25)」。まだ実現していない事実を、このように述べるのは揺るぎの民が救われることを確信をもって信じていることを、示しています。
3章: 3章は前半(1~17)と後半(18~22)に分かれます。前半では、ペテロは一見この章とは関係のない夫婦関係の在り方を述べることによって、主と聖徒の関係はどうあらねばならないかを語ります。どんな悪い夫にも従いなさいとペテロは言います。これは反キリストの勢力に苦しめられていても、対峙するのではなく愛をもって彼らと接しなさい、と言います。「かえって、その人のために、神の助けを祈り求めなさい。だれに対しても親切にしなさい。そうすれば神様から祝福していただけます(3:9)」と、ペテロは言う。これはペテロが反キリストに対しても、憎しみではなく、愛をもって接しよ、と言っているのです。あなたがたのなすべきことは神を尊び、祈ることです。神を喜ばすために、ひたすら、善を行いなさい。「裁きは、神の選任事項」だからです。
後半部分は、次の言葉を引用すれば、事足りるででしょう「私たちの受けるバプテスマは、キリスト様の復活による、死と滅びの運命からの救出を意味します。それは、からだが水でキレイに洗われるからではなく、バプテスマを受けることによって、神様に立ち返った私たちが、心が罪から清められるように願うからです。今、キリスト様は天で、神様の次に名誉ある右の座につき、すべての、み使いと天の軍勢を従えておられます(3:21~22)」。神の偉大さにあなたがたは従いなさいと、ペテロは聖徒たちに宣べています。
4章:神は、あなたがたをダイヤの原石として選ばれたのです。磨かれねばならないのです。あなたがたは、神より選ばれ、救われた民です。救われているからと言って、何をしてもよいのではありません。救われているからこそ、神の前でへりくだり、高慢になってはいけません。善を行わなければならないのです。人間的欲望から解放されなさい。このようにして、磨かれた原石は宝石として光り輝きます。
行動なき信仰は、無です。信仰とは、愛であり、愛とは行いです。(4:7-9参照)。
神は、様々な人に様々な能力をお与えになりました。人は、愛をもってその能力を行使せねばならないのです。その能力を世の人々と分かち合いなさい。神様の下さる力とエネルギーに満たされて、人々を助けなさい。それは、イエス・キリストを通して、神様がほめたたえられるためです(4:10-11)」。
降りかかる迫害を嘆き悲しんではいけません。この迫害は、神様がお与えになった試練なのです。この試練を耐え忍ぶことによって救いへと導かれます。神様は、常にあなたがたと共にあります。それを確信して、試練に耐えなさい。キリスト者であることで迫害を受けるなら喜びなさい。キリスト様の家族の一員となるからです。
世の終わりが近づいています。この時、キリスト者であろうと、反キリスト者であろうと平等に裁かれます。しかし、その裁きには軽重があります。神に選ばれ、救われる人となりなさい。神の国が待っています。
あなたがたが受けている迫害が、神様を信じることによって、なされているなら、神にすべてをゆだねなさい。神様は決してあなたがたを見捨てることはないからです。
ここにはローマの圧政下にあって、散らされた民が、その揺るぎから解放され、神に立ち返るには何をなすべきかが語られています。神と共にあることによって、肉的な苦しみから、霊的な救いを受け、神の国に入ることが出来るのです。神を信じる信仰によってのみ達成される救いです。迫害に苦しみ、揺るぎの中にあった彼らが神に立ち返ったかどうかは、少なくとも聖書には語られていません。
5章: 散らされた民の長老たちへ、ペテロは、次の4つのことを願っています。
1、神様の羊の群れ(散らされた民)を養いなさい。強制でなく喜びをもって、その務めに、当たりなさい。利を求めるのではなく、心を込めて、行動しなさい。
2、支配でなく、模範となりなさい。ワンマンとしてではなく、優しく指導しなさい。キリストが再臨される時、永遠に朽ちない栄光の冠を褒美として頂けるからです。
3、若者よ、長老たちに従いなさい。長老たちを模範として、謙遜を身に着け、へりくだりなさい。神は高慢を最も嫌われるからです。
4、獲物を求めて歩き回っている、悪魔に備えなさい。主を信じて、堅く信仰に立って、悪魔の攻撃に立ち向かいなさい。悪魔と反キリストは結び付いています。
主は、あなたがたにしばらくの間,苦しみを、与えたのち、永遠の栄光を与えてくださいます。絶対的な力が、永遠に神様にありますように。
この力への信仰が、救いへの確信となるのです。
平成2年5月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会