日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヨブ記3 9~11章

2022年01月31日 | Weblog
  ヨブ記 3、9章~11章
  はじめに
 3人の友人は言う「罪があるから、罰があるのだ」、「だから悔い改めよ」と、それに対してヨブは言う「罪がなければ、罰はない」、「我は義なり」と。3人の神学が「因果応報論」ならば、まったくの真逆であっても、ヨブの考えも、また「因果応報論」です。それゆえ、罪がないのに災厄(罰)に会うことをヨブは理解できません。ヨブにとってはあくまでも、それは不条理の世界なのです。ヨブは「なぜ」、「なぜ」と神に問います。それは、ヨブの神の意図の無理解から来ています。因果応報論に立つ限り神の応答はありません。救いはないのです。
 9章 9章ではビルダデの神学に対するヨブの反論が示されます。
 8章ではビルダデは「神は公義を曲げるであろうか、全能者は義を曲げるであろうか(8:3)」と述べています。これは、罪があるから、罰がある。という因果応報論です。ヨブはこのような神学に対して「まことにそのようである」と答えています。一般論としてのこの規定を否定していません。しかし自分の真実は別にある、と言って語り始めますが、しかし、「どうして自分の正しさを神に訴えることが出来ようか(9:4)」と、人の小ささを示し、神の偉大さの前に、恐れおののき、自分の正しさを主張することが出来ないでいます。「たとえ神と言い争うと思っても、千に一つも答えはあるまい(9:3)」「神は、人に較べて超越的、絶対的に正しいのだから、神の前に己をかたくなにして、誰がそのままで済むだろうか(9:4)」と神を畏れます。その後、神の偉大さが数々示されます。「神は大いなることを行って測り知れず、その奇しき御業は数えきれない」と賛美します。神は霊的な、目に見えない存在です。「ああ神が奪い取ろうとするとき、誰がこれを引き止めることが出来よう。だれが神に向かって『何をなされるのか』と言えよう」。奪うものとは、ヨブの財産と命のことです。ヨブは苦しみの中にあって、自分は正しくても、何もできず、ただ、あわれみを請うだけだと、神を受け入れます。それにもかかわらず、神は容赦なくヨブを打ち砕き、理由もないのに彼の傷を増し加え、彼に息もつかせず、苦しみで満たします。ヨブは言います。「私は、潔白だと叫んでも、神は、私を罪人に定める。私には自分自身がわからない。自分は神に義なる人間だと確信していても、なぜ罪びととして裁かれねばならないのか。私は苦しみの中で死を望む。神は罪のない者の受ける試練をあざ笑う」。ヨブには神の行為の意図が全く見当がつかないのです。
神はヨブが潔癖な人間と知っていながら、サタンに災厄を与えることをお許しになったのです。その信仰をお試しになったのです。だから、どんなにヨブが自分の正しさを証明したところで、神がその苦しみを取り除くことはないのです。神とヨブの溝は決して埋まることはないのです。いや、ヨブが勝手に溝を作っていたのです。ヨブは神の意図することを全く理解することが出来なかったのです。
「我は義なり」と確信しながらも、自分の知らないところで罪を犯しているかもしれない。ヨブは叫びます「「罪があるなら、それを我に知らせよ」と。しかし神は沈黙を守り応答はしません。神は霊的な存在で、目に見ることのできない存在です。直接に接することのできない存在です。そこでヨブは神と自分との間の溝を埋める、目に見える形の「仲裁者」を、望みます。その存在こそ、目に見える形の、贖い主としてのイエス・キリストです。イエスは100%神であると同時に100%人間なのです。ヨブはこの「仲裁者」によって救われることを望んだのです。「罪と、さばき(教育的訓練)と、救い」、この考えは一般論としては正しくても、ヨブには当てはまりません。この考えも、基本的には、「因果応報論」です。
「神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私を怯えさせないように。そうすれば私は語り掛け、神を畏れまい。今、私はそうでないからだ(9:34-35)」と仲裁者のいないことを嘆いています。
 10章:ビルダデに対するヨブの反論はつづきます。しかしそれはビルダデに対する反論というより。自分の思い(魂の苦しみ)を神に訴えているといって良いでしょう。
 ヨブは神に激しく問います。なぜ、いま私と争われるのですか、と。
 1,悪者の測り事に目を向けるのは良いことなのなのですか(10-3)。
 2,あなたは肉の目を持っておられるのですか(10-4A)。
 3,人が見るように、あなたも私を見られるのですか(10-4B)。
 4,あなたの日々は人の日々と同じなのですか(10-5A)。
 5,あなたの年は人の年と同じなのですか(10-5B)。
ヨブは神が自分の立場を忘れて人の立場に立って自分を裁いている、と見做しています。それは神に義なるヨブには耐えがたきことです。そして言います「それであなたは、私の咎を捜し出し、私の罪を探られるのですか」と。
もはや、ヨブには神の意志が全く分かっていません。自分には罪がないのに重箱の隅をつついて罪を捜し出し、さばいているのだと怒ります。さらに言います「私は、あなたの被造物です。それにもかかわらず、なぜあなたは被造物である私を滅ぼそうとされるのですか。塵に帰そうとするのですか」と、そして「私が、頭を持ち上げると、私に対して恐るべき力を振るわれるでしょう」と怒り心頭です。「あなた(神)は、私の前に新しい証人たち(3人の友人)をたて、私に向かって、あなたの怒りを増し、私をいよいよ苦しめられるでしょう」。罪なき者に罪を着せ、それを怒れば報復する。それが神のすることか。ヨブは苦しみに耐えかねて、神に恨み言を云います。
ヨブは神を完全に誤解しています。ヨブがその災厄に耐え、その信仰を守り抜き、神にひれ伏さない限り、ヨブには救いはないのです。しかしヨブは、それを知りません。苦しさに耐えかね死を望みます。自分の懐妊、出産を呪います。余命いくばくもない体なのだから、せめて、その期間だけでも、私にかまわないで欲しい。黄泉に行く前だけでも明るくなりたい、と神に願います。ヨブは、自分の死を予感して、絶望的になっています。
黄泉:いったん落とされると再び帰れないところです。闇と死の影に行く前に通らねばならぬ場所です。そこは暗闇のように真っ暗な地。死の影があり、秩序がなく、光も暗闇のようです。
11章:エリファズ、ビルダデの後にツオファルが登場します。これで3人の友人とヨブの討論は一巡します。
ツオファルは、ヨブについて、その口先で、人の口を封じようとしている、恥じ知らずだ、とその態度は極めて不遜です。
彼は、頭からヨブの「私の主張は純粋だ、あなたの目にも清い(1Ⅰ-4)」という従来からの基本的な主張を否定します。そして言います「もし、神があなたに語り掛け、唇を開いてくださったなら、神は知恵の奥義をあなたに告げ、優れた知性を倍にしてくださるものを、知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださるものを(11:5-6)」と。ツオファルの神学も前の2人と同じく「因果応報論」です。神の超越性を語り、その罪を認め悔い改めるならば、その奥義で、あなたの知性を倍にしてくださるものをと語ります。ツオファルにとってもヨブは罪びとなのです。その罪びとであるヨブには、神の深さを、その極限を知ることは出来ないというのです。ヨブは神の真の意図を知りたいと思います。「なぜ」「なぜ」とその真意を探ります。しかし、神の智慧は、人の知恵では測り知れないほど、広く、深く、高く、長いのです。あなたに何ができ、何が知ることが出来るのかとツオファルはヨブに問います。万能な神のなさること(ヨブの災厄)をだれが引き止めることが出来ようか、と。神のなさることはすべて良きことなのです。ツオファルは神がヨブに与えた災厄を、ヨブの抱える罪ゆえだと断定し、「神は不真実な者どもを知っておられる。神はその悪意を見て、これに気がつかないであろうか(11:11)」と語ります。神の奥義が分かれば、「無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる(11:12)」のです。「無知な人間も、野ろばの子も共にヨブを指しています。無知な人間も、野ろばの子も悔い改めて生まれ変わり、「心を定めて、あなたの手を神に向かって差し伸べるならば――あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな――そうすれば、あなたは必ず、汚れの無いあなたの顔を挙げることが出来、堅く立って恐れることがない(11:13-15)」と語ります。
その結果、「こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう(11:16)」。あなたの一生は、光輝き、暗くても朝のように輝き、栄光に満ち、あなたは安らかに休む。あなたが横たわっても、悪夢や幻に脅かされることはない。日々是好日である。生活は回復し、人々は災厄以前のようにあなたに好意を求めるようになると、ツオファルは言います。
「しかし、悪者どもの目は衰えはて、彼らは逃げ場を失う。彼らの望みはあえぐ息に等しい(11:20)」。ヨブよ、悔い改めて神に帰れ、さもなくば、このようになるのだと、ツオファルはヨブに警告を発しているのです。当然ヨブは、これに反応して、怒りをツオファルにぶつけます。それが12章において語られます。                      
楽庵会
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