マラキ書 旧約聖書最後の預言書
はじめに
周知の通り旧約聖書は12の小預言書で終わっている。終末時における民族的危機の警告と回心を説いている。マラキはその最後の預言者であり、マラキ書はその最後の預言書である。終末的色彩の濃い書である。それ故、その後400年間イエスが誕生するまで預言者は出ていない。マラキ書を以て預言者の時代は終わったのである。この400年をキリスト教史では「沈黙の400年(旧約聖書と新約聖書との間の断絶)」と呼んでいる。しかし、マラキ書は、その最後に「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向かわせ、子の心を、その父に向けさせる。それはわたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と述べている。このエリヤとは誰のことか。メシア再臨に先立って現れメシアの道を用意したヨハネのことか。いずれにしても、メシアの出現が預言されている。マラキ書は旧約聖書と新約聖書を結ぶ一書であり、この空白の400年こそ、メシア誕生を国家的世界的に準備する文明発展の期間といえるであろう。
マラキ書とは
作 者;預言者マラキ「わたしの使者(3:1)」という意味。
内 容:マラキ書とは、12預言書の最後の一書であり、4章55節(原点区分では3章24節)からなる。主に対する不義、不遜、契約の履行と、律法の順守の勧告、突然に訪れる、主の「さばき」について語る。イスラエルの民は形としては礼拝を行ってはいたが心は神から離れていた。「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向かわせ、子の心を、その父に向けさせる。それはわたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と。主はイスラエルの民が、エリヤの前でその罪を悔い改め、主への立ち返りを求めているのである。主は決して自分の民イスラエルを滅ぼさないのである。そこには、イスラエルに対する愛と永遠存続の契約があるからである。
成立時期:マラキ書にはその成立時期に関しては具体的には語られてはいないが、その背景にある社会的状況から判断して、「エルサレム第2神殿建設(BC515)」から「エズラ・ネヘミヤの改革(BC450)」までの期間というのが一般的な定説である。
社会的状況
ではその社会的状況とはどんなものだったのだろうかそれはマラキ書の2章に具体的に述べられている。ユダヤの民族はバビロンから帰還して、ペルシャの統治下に入っていた。ペルシャの統治はイスラエルに対して寛大ではあったが、ペルシャは異邦人の国であり、異教の国であった。イスラエル人はその身分の上から下まで、その影響を受けていた。主の愛を感じることのできないその表れとして、祭司はその職分に不誠実であり、偶像礼拝をおこない、祭司自身が異邦人の女と結婚していたし、ましてや一般の民の間では異邦人との結婚は普通であり、離婚があり、姦淫があり、同性婚がありで主の教えに忠実ではなかった。これがマラキの生きた時代の社会状況であった。イスラエルはその内部からそのアイデンティーが侵されていた。イスラエルは霊的崩壊の危機にあった。主は悲しみ、怒り、エズラ、ネヘミヤを改革のために遣わしたのである。「この時、あなた方は、わたしがレビとのわたしの契約を保つために、この命令を送ったことを知ろう(2:4)」。
マラキ書の内容構成
表 題:宣告(1:1)
第1部:主による選びと、契約を捨てた祭司に対する告発(1:2~2:9)。
第2部:妻を裏切る離婚に対する断罪と偽善者に対する告発。(2:10~16)。
第3部:主の使者の派遣と「さばき」における峻別についての預言(2:17~3:21)。
結 び:終わりの日のエリヤの派遣。(4:3~6)。
各章ごとの解説
第1章:イスラエルの選び(1:3~5)、と祭司による欺瞞行為(1:6~14)。
主はイスラエルの民に「わたしはあなた方を愛している」と言う。これは預言書の基本形である。それに対してイスラエルの民は「どのようにして」と、問う。彼らは主の愛を信じられなかったのである。これに対して主は応じる。主はエソウとその子孫であるエドム族に象徴される反ユダの諸勢力を滅ぼすと宣言し、イスラエルに対する愛と選びを示す。しかし、イスラエルの祭司はその選びと愛を信じることができなかった。「どのようにして」と、問う。彼らは偽りの預言と祈りの中にいた。それを真実とみなしていた。彼らは主に問う。
1.「あなたが私たちを愛されたのですか(1:2)」。
2.「私たちがあなたの名をさげすみましたか(1:6)」
3.「私たちがあなたを汚しましたか(1:7)」。
4.「私たちは煩わしたか(2:17)」。
5.「私たちはあなたのものを盗んだでしょうか(3:8)。
ここには罪の意識はない。そこにあるのはただ形式的かつ欺瞞に満ちた祈りであり捧げものであった。主はその祈りや捧げものを喜ばず、これを拒否する。イスラエルの民は「心」が主から離れていることに気づいていなかったのである。主はイスラエルの民をこよなく愛したが、イスラエルの民はこれに対して偽りの祈りで応えたのである。
2章:祭司への警告と断罪(2:1~9)、若い時からの妻に対する背信(2:10~16)、うそぶく偽善者たち(2:17)。
2章は主からの呼びかけ「祭司たちよ」から始まる。イスラエルの祭司たちの堕落に対する糾弾と祭司の本来の務めとは何かが語られ「もし本来の務めを果たさないなら『あなた方の中に呪いを送ろう』」と、主は警告する。主はレビとの契約をそこなった祭司(祭司はレビ族から選ばれる)たちに対して「しかしあなた方は道から外れ、多くのものを教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった。わたしもまたあなた方をすべての民にさげすまれ軽んじられたものにする」
次にマラキ書は、当時の祭司たちが侵した性の霊的退廃を厳しく糾弾する。
1.異教の神の娘をめとり
2.契約の妻との離婚をするものを
主は憎む。しかし偽りの祭司はうそぶいていう。「『悪を行うものも、みな主の心に適っている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神は何処にいるのか』とあなた方は言っているのだ(2:17)」。ここには祭司たちの犯したレビとの契約違反と性の霊的退廃という2つの罪が語られている。
>第3章:派遣される使者の務め(3:1~4)、神をないがしろにする者と神を恐れる者(3:5~18)
1~2章ではイスラエルの民は決して神に従順ではなかった。「悪を行うものもみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのだ(2:17)」とうそぶく。もはや彼らは自立で神に立ち返る意志も意欲もなかった。しかし、主はこんな不信仰な民をあきらめようとはしなかった。彼らを悔い改めさせようと使者を送る。彼らの役割は「これを清めるものとし座につきレビの子らを清め彼らを金のように銀のように純粋にする(3:3)」ことにあった。原石としての彼らは罪にまみれていた。しかし精錬されれば金となり銀となる。それ故に、主は、彼らを選びの民としたのである。精錬の過程がこの後に描かれる。社会的弱者を虐げる者たち、主に逆らう者たち、これら主を恐れないものに主は立ち向かう。そして主に立ち返れという。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう、と宣言する。しかし主に逆らい続けたイスラエルの民は「どのようにして私たちは帰ろうか」と主に問う。主はこれに応えて言う「わたしを試してみよ、あなたが盗んだわたしの富の10分の1をわたしに返還せよ。そうすれば悔い改めの証としてわたしはあなたに大いなる恵みを与えるであろう」と。このように主は悔い改めと主への立ち返りをイスラエルの民に命じたのである。
しかし、イスラエルの民はこれを信じるものと信じないものに分かれた。主は言う「あなた方は再び正しい人と悪者、神に仕えるものと仕えないものとの違いを見るようになる(3:18)」と。
4章では主の審判が下され、両者の運命が分かれる。
4章:マラキ書の終末宣言(4:1~6)見よその日が来る(4:1~3)、預言者エリヤが遣わされる(4:4~6)。
4章は「見よ、その日が来る」で始まる。その日とは、ある者にとっては主の裁きの日であり、ある者にとっては救いの日となる。さばきと回復、光と闇、があらわされる。この様子が4:1~3に描かれている。
「見よ、わたしは主の大いなる日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。それはわたしが来て呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と主は言う。下線部分の解釈:父と子、すなわち主とイスラエルの民の失われた関係を回復させることを意味する。この回復なしにはイスラエルの民は救われない。「それは、わたしが来て呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ」
マラキ書を終わるにあたって
「米国の民主主義は権力を委ねるべき人間の選択をしばしば誤る」。これは19世紀のフランスの思想家トクビルの言葉である。これを少々変えてみる。次のようになる「神はイスラエルの民を誤って選択した」と。イスラエルの民は主によって選択されたにも拘わらず主に逆らい続けた。しかし、トクビルはこうも言っている「米国人の長所は失敗を正せる力にあるのだ」と。米国人の民主主義の長所は、正しい選択をすることではなく失敗を正せる力にある、と言う。これも少々変えてみる。「主の大きな長所は失敗を正せる力にあるのだ」と。これは毎日新聞(11/8)の余禄から一部を引用して自分の文章にしたものである。預言書のテーマは「さばき」と「回復」である。しかし、回復は最終的には「黙示録」の世界である。それは「新天新地」であり「神の国」である。しかしこれはあくまでも未来完了の世界であり、現実には「幻」過ぎない。神を信じない者
には、この「幻」は単なる幻に過ぎない。主を信じる者のみが、神の栄光と恵みに浴することができる。
12の小預言書を読み終わって、いや「旧約聖書」を読み終わって、回復とは何かを、つくづく考えらされたのである。一部の識者は、現在を「大患難時代」だという。未だに主の再臨は起こっていないという。「黙示録」の示す世界はいまだ「幻」であって、その時代が来るという確証はどこにもない。主を信じるのみである。
>
/font>はじめに
周知の通り旧約聖書は12の小預言書で終わっている。終末時における民族的危機の警告と回心を説いている。マラキはその最後の預言者であり、マラキ書はその最後の預言書である。終末的色彩の濃い書である。それ故、その後400年間イエスが誕生するまで預言者は出ていない。マラキ書を以て預言者の時代は終わったのである。この400年をキリスト教史では「沈黙の400年(旧約聖書と新約聖書との間の断絶)」と呼んでいる。しかし、マラキ書は、その最後に「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向かわせ、子の心を、その父に向けさせる。それはわたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と述べている。このエリヤとは誰のことか。メシア再臨に先立って現れメシアの道を用意したヨハネのことか。いずれにしても、メシアの出現が預言されている。マラキ書は旧約聖書と新約聖書を結ぶ一書であり、この空白の400年こそ、メシア誕生を国家的世界的に準備する文明発展の期間といえるであろう。
マラキ書とは
作 者;預言者マラキ「わたしの使者(3:1)」という意味。
内 容:マラキ書とは、12預言書の最後の一書であり、4章55節(原点区分では3章24節)からなる。主に対する不義、不遜、契約の履行と、律法の順守の勧告、突然に訪れる、主の「さばき」について語る。イスラエルの民は形としては礼拝を行ってはいたが心は神から離れていた。「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向かわせ、子の心を、その父に向けさせる。それはわたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と。主はイスラエルの民が、エリヤの前でその罪を悔い改め、主への立ち返りを求めているのである。主は決して自分の民イスラエルを滅ぼさないのである。そこには、イスラエルに対する愛と永遠存続の契約があるからである。
成立時期:マラキ書にはその成立時期に関しては具体的には語られてはいないが、その背景にある社会的状況から判断して、「エルサレム第2神殿建設(BC515)」から「エズラ・ネヘミヤの改革(BC450)」までの期間というのが一般的な定説である。
社会的状況
ではその社会的状況とはどんなものだったのだろうかそれはマラキ書の2章に具体的に述べられている。ユダヤの民族はバビロンから帰還して、ペルシャの統治下に入っていた。ペルシャの統治はイスラエルに対して寛大ではあったが、ペルシャは異邦人の国であり、異教の国であった。イスラエル人はその身分の上から下まで、その影響を受けていた。主の愛を感じることのできないその表れとして、祭司はその職分に不誠実であり、偶像礼拝をおこない、祭司自身が異邦人の女と結婚していたし、ましてや一般の民の間では異邦人との結婚は普通であり、離婚があり、姦淫があり、同性婚がありで主の教えに忠実ではなかった。これがマラキの生きた時代の社会状況であった。イスラエルはその内部からそのアイデンティーが侵されていた。イスラエルは霊的崩壊の危機にあった。主は悲しみ、怒り、エズラ、ネヘミヤを改革のために遣わしたのである。「この時、あなた方は、わたしがレビとのわたしの契約を保つために、この命令を送ったことを知ろう(2:4)」。
マラキ書の内容構成
表 題:宣告(1:1)
第1部:主による選びと、契約を捨てた祭司に対する告発(1:2~2:9)。
第2部:妻を裏切る離婚に対する断罪と偽善者に対する告発。(2:10~16)。
第3部:主の使者の派遣と「さばき」における峻別についての預言(2:17~3:21)。
結 び:終わりの日のエリヤの派遣。(4:3~6)。
各章ごとの解説
第1章:イスラエルの選び(1:3~5)、と祭司による欺瞞行為(1:6~14)。
主はイスラエルの民に「わたしはあなた方を愛している」と言う。これは預言書の基本形である。それに対してイスラエルの民は「どのようにして」と、問う。彼らは主の愛を信じられなかったのである。これに対して主は応じる。主はエソウとその子孫であるエドム族に象徴される反ユダの諸勢力を滅ぼすと宣言し、イスラエルに対する愛と選びを示す。しかし、イスラエルの祭司はその選びと愛を信じることができなかった。「どのようにして」と、問う。彼らは偽りの預言と祈りの中にいた。それを真実とみなしていた。彼らは主に問う。
1.「あなたが私たちを愛されたのですか(1:2)」。
2.「私たちがあなたの名をさげすみましたか(1:6)」
3.「私たちがあなたを汚しましたか(1:7)」。
4.「私たちは煩わしたか(2:17)」。
5.「私たちはあなたのものを盗んだでしょうか(3:8)。
ここには罪の意識はない。そこにあるのはただ形式的かつ欺瞞に満ちた祈りであり捧げものであった。主はその祈りや捧げものを喜ばず、これを拒否する。イスラエルの民は「心」が主から離れていることに気づいていなかったのである。主はイスラエルの民をこよなく愛したが、イスラエルの民はこれに対して偽りの祈りで応えたのである。
2章:祭司への警告と断罪(2:1~9)、若い時からの妻に対する背信(2:10~16)、うそぶく偽善者たち(2:17)。
2章は主からの呼びかけ「祭司たちよ」から始まる。イスラエルの祭司たちの堕落に対する糾弾と祭司の本来の務めとは何かが語られ「もし本来の務めを果たさないなら『あなた方の中に呪いを送ろう』」と、主は警告する。主はレビとの契約をそこなった祭司(祭司はレビ族から選ばれる)たちに対して「しかしあなた方は道から外れ、多くのものを教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった。わたしもまたあなた方をすべての民にさげすまれ軽んじられたものにする」
次にマラキ書は、当時の祭司たちが侵した性の霊的退廃を厳しく糾弾する。
1.異教の神の娘をめとり
2.契約の妻との離婚をするものを
主は憎む。しかし偽りの祭司はうそぶいていう。「『悪を行うものも、みな主の心に適っている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神は何処にいるのか』とあなた方は言っているのだ(2:17)」。ここには祭司たちの犯したレビとの契約違反と性の霊的退廃という2つの罪が語られている。
>第3章:派遣される使者の務め(3:1~4)、神をないがしろにする者と神を恐れる者(3:5~18)
1~2章ではイスラエルの民は決して神に従順ではなかった。「悪を行うものもみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのだ(2:17)」とうそぶく。もはや彼らは自立で神に立ち返る意志も意欲もなかった。しかし、主はこんな不信仰な民をあきらめようとはしなかった。彼らを悔い改めさせようと使者を送る。彼らの役割は「これを清めるものとし座につきレビの子らを清め彼らを金のように銀のように純粋にする(3:3)」ことにあった。原石としての彼らは罪にまみれていた。しかし精錬されれば金となり銀となる。それ故に、主は、彼らを選びの民としたのである。精錬の過程がこの後に描かれる。社会的弱者を虐げる者たち、主に逆らう者たち、これら主を恐れないものに主は立ち向かう。そして主に立ち返れという。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう、と宣言する。しかし主に逆らい続けたイスラエルの民は「どのようにして私たちは帰ろうか」と主に問う。主はこれに応えて言う「わたしを試してみよ、あなたが盗んだわたしの富の10分の1をわたしに返還せよ。そうすれば悔い改めの証としてわたしはあなたに大いなる恵みを与えるであろう」と。このように主は悔い改めと主への立ち返りをイスラエルの民に命じたのである。
しかし、イスラエルの民はこれを信じるものと信じないものに分かれた。主は言う「あなた方は再び正しい人と悪者、神に仕えるものと仕えないものとの違いを見るようになる(3:18)」と。
4章では主の審判が下され、両者の運命が分かれる。
4章:マラキ書の終末宣言(4:1~6)見よその日が来る(4:1~3)、預言者エリヤが遣わされる(4:4~6)。
4章は「見よ、その日が来る」で始まる。その日とは、ある者にとっては主の裁きの日であり、ある者にとっては救いの日となる。さばきと回復、光と闇、があらわされる。この様子が4:1~3に描かれている。
「見よ、わたしは主の大いなる日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。それはわたしが来て呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と主は言う。下線部分の解釈:父と子、すなわち主とイスラエルの民の失われた関係を回復させることを意味する。この回復なしにはイスラエルの民は救われない。「それは、わたしが来て呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ」
マラキ書を終わるにあたって
「米国の民主主義は権力を委ねるべき人間の選択をしばしば誤る」。これは19世紀のフランスの思想家トクビルの言葉である。これを少々変えてみる。次のようになる「神はイスラエルの民を誤って選択した」と。イスラエルの民は主によって選択されたにも拘わらず主に逆らい続けた。しかし、トクビルはこうも言っている「米国人の長所は失敗を正せる力にあるのだ」と。米国人の民主主義の長所は、正しい選択をすることではなく失敗を正せる力にある、と言う。これも少々変えてみる。「主の大きな長所は失敗を正せる力にあるのだ」と。これは毎日新聞(11/8)の余禄から一部を引用して自分の文章にしたものである。預言書のテーマは「さばき」と「回復」である。しかし、回復は最終的には「黙示録」の世界である。それは「新天新地」であり「神の国」である。しかしこれはあくまでも未来完了の世界であり、現実には「幻」過ぎない。神を信じない者
には、この「幻」は単なる幻に過ぎない。主を信じる者のみが、神の栄光と恵みに浴することができる。
12の小預言書を読み終わって、いや「旧約聖書」を読み終わって、回復とは何かを、つくづく考えらされたのである。一部の識者は、現在を「大患難時代」だという。未だに主の再臨は起こっていないという。「黙示録」の示す世界はいまだ「幻」であって、その時代が来るという確証はどこにもない。主を信じるのみである。
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平成18年11月13日 報告者 守武 戢 楽庵会
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