ある日床屋に行った。時計があった。その時計は文字が逆さまになっていた。こんな時計もあるのかと変な気持ちになった。シートに座って初めてわかった。鏡を通して時計を見たとき、文字が正常になっていたからである。逆の逆は真なのである。鏡の中の世界は、あくまでも虚像である。映し出される顔は左右が逆である。
鏡は私を見る手段である。それによって私を認識する。しかしそれは私であって私ではない。私の認識を超えて第二の私になる。鏡にまつわる怪談は多い。テレビ番組で「学校の怪談」というのをやっていた。暗闇の中新米の警備員が恐る恐る見回りをやっていた。廊下の端にある鏡を見た。懐中電灯に照らし出されたその姿は自分の姿ではなく、幽霊のようなものだった。警備員は仰天する。それは警備員の恐怖心が鏡の中に映っていたのだと識者は解説していた。このように、鏡の中の私は、私の認識を超え私から独立して別の私になる。分身作用がそこに見られる。鏡は自己分裂の象徴である。その両者は対立関係にある。自分の内部に潜む自分には気づいていない邪悪なもの、、醜さ、恐れ、不安、孤独、などが自分から離れて鏡の中に現れる。一種の疎外である。幽霊の存在もその一つであろう。鏡は不条理の世界を象徴する。
平凡なサラリーマングレゴール・ザムザは気がかりな夢から覚めたある朝、一匹の巨大な毒虫に変わった自分を発見する。鏡についての説明でわかるように、実像と虚像が入れ替わったのである。グレゴール・ザムザの中に潜む邪悪なもの、醜さ、恐れ、不安、孤独の象徴として現れたものが巨大な毒虫である。物語はここより始まる。
毒虫に変わったグレゴールとその一家(父、母、妹)の奇妙な共同生活が始まる。生活は激変する。今まで一家を支えていたグレゴールの毒虫への変化によって一家の生活はたちまち困窮に陥る。母も父も妹も働かねばならない。更に一家の厄介者に変化したグレゴールの面倒も見なければならない。母はグレゴールに対して愛情は抱いているものの、毒虫の姿は恐怖の対象以外の何もでもない。父は厳格であり後に愛情に目覚めるものの、グレゴールを毒虫としか考えない。妹はやさしく毒虫の世話をする。部屋を掃除し、食物を与えたり、汚物の処理をする。
しかしそんな家族の気持ちも時とともに変化していく。恐れの対象ではあっても人間グレゴールに対する愛情をもち続けていた彼らは、グレゴールを家族に迷惑を与え続ける厄介者としか見なくなる。長い間にすっかりなじみ、小さい頃より慣れ親しんでいた家具類はグレゴールの部屋から取り払われ、毒虫の這いまわる空間が作り出されたとき、グレゴールの淋しさ、悲しさは頂点に達する。人間としての過去は抹殺され、毒虫の巣窟に作り変えられたのである。更に部屋はガラクタ置き場に変化し、世話の仕方もなおざりになる。「えさ」は投げ入れられ、汚物の処理も無くなる。
一方グレゴールの心は人間のときとなんら変わっていない。家族に対する愛も、心のやさしさも持ち続けている。家族を恐れさせないためにベッドの下に身を隠し自らの醜い姿を見せないように努力する。バイオリンの才能を持つ妹を音楽大学に進学させてやろうというやさしい心も持っていたのである。ただ最大の忍耐と遠慮の引き換えに、生きるために自分の行動の引き起こす家族に与える不快、苦痛を我慢して欲しかったのである。しかし両者の間に会話は成立しない。グレゴールには家族の意思、言葉は伝わっても、自らの意思、言葉は伝わらない。行動だけでその意思を伝えようとする。しかし誤解が生ずる。グレゴールの意思に反して、父の怒りを買う。母の命乞いが無ければ死に至ったであろう手痛い打撃によって、重傷を負う。家族の苦痛はもはや限界に達していたのである。
あんなにもグレゴールの面倒を見ていた妹は言う「あれ(毒虫)がこの家から出て行くべきだわ」「それがただ一つの手段ですわ、お父さま。あれがグレゴールだという考えをまず捨てなくちゃいけないのよ。あたしたちが長い間そう信じてきたことが、わたし達の不幸の原因だったんだわ。あれが、いったいどうしてグレゴールなんかであるもんですか。もし本当にグレゴールだったら、人間があんな動物と一緒に暮らすわけにいかないことくらい、とっくの昔わかってくれて、自分のほうからどこかへ出ていってくれるでしょうよ。そうしたら兄さんがいなくなってしまうわけですけど、あたしたちは安心して生活できるし、いつまでも兄さんのことを尊敬しながら思い出せるというもんですわ。だのにあの動物ときたら、あたしたちは苦しめるし間借り人は追い出すし、おしまいには家の中全部を平気な顔で占領して、あたしたちまで路地で夜明かししなくちゃならぬはめになりそうだわ――――」と。
これを聞いたグレゴールは自分が毒虫になったことで生じた家族の不幸を実感して、人間と毒虫は決して共存出来ないのだと悟り、これ以上家族に迷惑を与えまいと考え、与えられた「えさ」を拒否し、痩せほっそて死んでいく。そのことにより、ザムザ一家には平和が訪れるが、なんとも後味の悪い小説である。「どんと晴れ(めでたし、めでたし」という訳にはいかない。せめて人間としてのグレゴールの姿が家族の思い出の中に生き続けることを願うのみである。
お互いに愛をもっていながらも決して相容れることの無い世界=不条理の世界を作者は描いている。もしも変身したのが可愛い子猫や子犬だったら事態は変わっていたであろうと考えるのは意味がない。ここに描かれていることは、一人の人間の中に潜む、愛と憎しみ、美と醜、虚と実、神と悪魔、の二律背反の世界であり、その対立である。鏡はそれを象徴する。その解決は鏡の破壊以外に無い。
鏡は私を見る手段である。それによって私を認識する。しかしそれは私であって私ではない。私の認識を超えて第二の私になる。鏡にまつわる怪談は多い。テレビ番組で「学校の怪談」というのをやっていた。暗闇の中新米の警備員が恐る恐る見回りをやっていた。廊下の端にある鏡を見た。懐中電灯に照らし出されたその姿は自分の姿ではなく、幽霊のようなものだった。警備員は仰天する。それは警備員の恐怖心が鏡の中に映っていたのだと識者は解説していた。このように、鏡の中の私は、私の認識を超え私から独立して別の私になる。分身作用がそこに見られる。鏡は自己分裂の象徴である。その両者は対立関係にある。自分の内部に潜む自分には気づいていない邪悪なもの、、醜さ、恐れ、不安、孤独、などが自分から離れて鏡の中に現れる。一種の疎外である。幽霊の存在もその一つであろう。鏡は不条理の世界を象徴する。
平凡なサラリーマングレゴール・ザムザは気がかりな夢から覚めたある朝、一匹の巨大な毒虫に変わった自分を発見する。鏡についての説明でわかるように、実像と虚像が入れ替わったのである。グレゴール・ザムザの中に潜む邪悪なもの、醜さ、恐れ、不安、孤独の象徴として現れたものが巨大な毒虫である。物語はここより始まる。
毒虫に変わったグレゴールとその一家(父、母、妹)の奇妙な共同生活が始まる。生活は激変する。今まで一家を支えていたグレゴールの毒虫への変化によって一家の生活はたちまち困窮に陥る。母も父も妹も働かねばならない。更に一家の厄介者に変化したグレゴールの面倒も見なければならない。母はグレゴールに対して愛情は抱いているものの、毒虫の姿は恐怖の対象以外の何もでもない。父は厳格であり後に愛情に目覚めるものの、グレゴールを毒虫としか考えない。妹はやさしく毒虫の世話をする。部屋を掃除し、食物を与えたり、汚物の処理をする。
しかしそんな家族の気持ちも時とともに変化していく。恐れの対象ではあっても人間グレゴールに対する愛情をもち続けていた彼らは、グレゴールを家族に迷惑を与え続ける厄介者としか見なくなる。長い間にすっかりなじみ、小さい頃より慣れ親しんでいた家具類はグレゴールの部屋から取り払われ、毒虫の這いまわる空間が作り出されたとき、グレゴールの淋しさ、悲しさは頂点に達する。人間としての過去は抹殺され、毒虫の巣窟に作り変えられたのである。更に部屋はガラクタ置き場に変化し、世話の仕方もなおざりになる。「えさ」は投げ入れられ、汚物の処理も無くなる。
一方グレゴールの心は人間のときとなんら変わっていない。家族に対する愛も、心のやさしさも持ち続けている。家族を恐れさせないためにベッドの下に身を隠し自らの醜い姿を見せないように努力する。バイオリンの才能を持つ妹を音楽大学に進学させてやろうというやさしい心も持っていたのである。ただ最大の忍耐と遠慮の引き換えに、生きるために自分の行動の引き起こす家族に与える不快、苦痛を我慢して欲しかったのである。しかし両者の間に会話は成立しない。グレゴールには家族の意思、言葉は伝わっても、自らの意思、言葉は伝わらない。行動だけでその意思を伝えようとする。しかし誤解が生ずる。グレゴールの意思に反して、父の怒りを買う。母の命乞いが無ければ死に至ったであろう手痛い打撃によって、重傷を負う。家族の苦痛はもはや限界に達していたのである。
あんなにもグレゴールの面倒を見ていた妹は言う「あれ(毒虫)がこの家から出て行くべきだわ」「それがただ一つの手段ですわ、お父さま。あれがグレゴールだという考えをまず捨てなくちゃいけないのよ。あたしたちが長い間そう信じてきたことが、わたし達の不幸の原因だったんだわ。あれが、いったいどうしてグレゴールなんかであるもんですか。もし本当にグレゴールだったら、人間があんな動物と一緒に暮らすわけにいかないことくらい、とっくの昔わかってくれて、自分のほうからどこかへ出ていってくれるでしょうよ。そうしたら兄さんがいなくなってしまうわけですけど、あたしたちは安心して生活できるし、いつまでも兄さんのことを尊敬しながら思い出せるというもんですわ。だのにあの動物ときたら、あたしたちは苦しめるし間借り人は追い出すし、おしまいには家の中全部を平気な顔で占領して、あたしたちまで路地で夜明かししなくちゃならぬはめになりそうだわ――――」と。
これを聞いたグレゴールは自分が毒虫になったことで生じた家族の不幸を実感して、人間と毒虫は決して共存出来ないのだと悟り、これ以上家族に迷惑を与えまいと考え、与えられた「えさ」を拒否し、痩せほっそて死んでいく。そのことにより、ザムザ一家には平和が訪れるが、なんとも後味の悪い小説である。「どんと晴れ(めでたし、めでたし」という訳にはいかない。せめて人間としてのグレゴールの姿が家族の思い出の中に生き続けることを願うのみである。
お互いに愛をもっていながらも決して相容れることの無い世界=不条理の世界を作者は描いている。もしも変身したのが可愛い子猫や子犬だったら事態は変わっていたであろうと考えるのは意味がない。ここに描かれていることは、一人の人間の中に潜む、愛と憎しみ、美と醜、虚と実、神と悪魔、の二律背反の世界であり、その対立である。鏡はそれを象徴する。その解決は鏡の破壊以外に無い。