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使徒の働き2 異邦伝道の旅
今でこそ、キリスト教は世界最大の信徒数(20億人=世界人口の1/3)を誇る世界宗教であるが、キリスト教が発生し、神の導きにより宣教旅行に出発した当時は、ユダヤ教に対して全くの少数派に過ぎなかった。ユダヤ教と云う多数者に対して少数者として被った無理解と偏見、横暴なまでの迫害は、キリスト者にとって耐えがたいものであった。更に、イエスの復活と聖霊降臨によって、キリストの弟子たちは新たな力を得たものの、いまだキリスト教をユダヤ教から、はっきりと区別する自覚的な宗教意識は無かった(エルサレムにおける宗教会議 15章参照)。このように、外からのユダヤ教徒による迫害と、内における弟子たちの無知、無理解という二つの障害に打ち勝ち、キリスト教をイスラエルの地に根付かせ、更に世界にまで広げていく為には多くの困難を伴っていた。12使徒のひとりヤコブは殺され、ペトロも殉教し、パウロもローマで殺されている(「使徒の働き」には描かれていない)。神に至る道は狭き門である。
北パレスチナの片田舎(ナザレ)で発生し育ったキリスト教にとっては、それは乗り超え無ければならない強大な壁であった。この壁を乗り越え世界宗教にまで発展していく力の基本中の基本が、この「使徒の働き」の中に描かれている。
この一書の特徴は、ユダヤ教の中から発生しながらも、その基本を維持しつつユダヤ教の持つ偏狭な選民思想と律法主義を排し、イエスの教えを民衆のものとして、理解しやすいように変えていったことの中にある。その基本は「キリスト教は罪びとの福音である」と云うことであり「イエスを信じるものは全て救われる」と云うことの中にある。勿論この思想は共観福音書、ヨハネの福音書にも共通の事であるが、最大の特徴は、ユダヤ教との葛藤の中で、この考えを広く世界(ローマ)にまで広めていったことである。
キリストは云う「しかし、聖霊があなた方の上に臨まれる時、あなた方は力を得ます。そしてエルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで,わたしの証人になります(「使徒の働き」1章8節)と。
「地の果てにまで」、第1回から第3回に及ぶ異邦伝道は、このキリストの言葉を実現する為に行われたのである。更に罪びと(?)としてローマに送られた時にもパウロは、この地で福音宣教に努めている。この伝道旅行によって世界に広がるキリスト教会の種子はまかれ、その後の発展が保障されたのである。「使徒の働き」はキリスト教発展の歴史を見る上で欠かすことの出来ない一書である。
エルサレムで福音宣教の任務を果たしてバルナバ、サウル、ヨハネは、アンテオケに戻ってきた。使徒たちは彼らを、神の指示に従って、次の任務に就かせる。それが三回に及ぶ異邦伝道の旅であった。使徒たちは、いまだ福音の伝えられていない地に福音を伝えるという重大な任務を3人に課したのである。これは、教会の歴史が、新しい段階へと進んだことを示している。
第1次異邦伝道(聖霊に遣わされて)
参加者:パウロ(この章からサウロはパウロに変わり(13章9節)名前の順序も逆となりバルナバ、サウロからパウロ、バルナバに変わる(13章43節)。伝道上の重要性の差が示されている)、バルナバ、ヨハネ(途中ベルガで脱落、エルサレムに戻る)、その他の使徒たち。
その行程: (小アジアを巡る)
アンテオケ→セルキヤ→(船)→キプロス島(サラミス→パポス)→ビシデヤのアンテオケ→(迫害・逃亡)→イコニオム→ルステラ→デルベ――(帰路)→イコニオム→ビシデヤ地方→ハンフリヤ地方→アタリヤ→(船)→アンテオケ(地図参照) →アンテオケ教会で結果報告。注:同名の土地、名前が出てくる場合、聖書は一方に必ず枕言葉を添えて区別する。例:ビシデヤのアンテオケと起点となったアンテオケと区別し、マクダラのマリヤ、ヨセフの母マリヤと、キリストの聖母マリヤと区別する。
重要な出来事:
ビシデヤのアンテオケで行われたパウロの説教(奨励の言葉)。の要点。
パウロはイスラエルの歴史を述べた後、異邦人に向かってこう云う「モーセの律法によって解放されることの出来なかった全ての点について、信じるものはみなこの方(イエス・キリスト)によって救われるのです」と。
「われは人なり、神に非ず」:ルステラで行われた奇跡(足萎え人を立ち上がらせる)を見た異邦人は「彼らは神が人の姿をして現れた」と云ってバルナバをギリシャの神ゼウスと呼び、パウロをその子ヘルメスと呼び生贄を捧げようとした。これに対してパウロとバルナバは「われは人なり、神に非ず」と、これを拒否した。この事は異邦人といえども自分の神を持っているものがいると云うことを示している。異邦伝道は様々な人の中で行われねばならなかった。 (注:奇跡:聖書は奇跡を多く語るが、奇跡とは宗教的真理の証しと見做され、神の存在証明である。(注:アンテオケ;トルコ南部シリアとの国境近くの古代都市。BC300年ころセレウコス朝のセレウコス1世が建設し王国(シリア王国とも云われる)の首都とした。ローマ時代には属州シリアの州都とされ産業の中心、東西交通の要として繁栄した。また使徒パウロらの異邦人伝道の起点とされて以来、キリスト教の一中心となり、司教座がおかれ著名な神学者が輩出した。その後天災及び、ペルシャ人アラブ人の侵入により衰退した。現在は地方の小都市)。(注:小アジア:地中海とエーゲ海、黒海に挟まれた西アジアの半島地域。アジア、トルコの大部分を占め、面積は50万平方キロメートル。別称アナトリア)
エルサレムでの教会会議 キリスト教の自立
イエスの教えはユダヤ教とどう違うのか
「使徒の働き」は、あくまでも異邦人に対する福音伝道の書である(もちろん一般信徒にも共通ではあるが)。第一次異邦伝道を終わり、第2次異邦伝道の準備をアンテオケで進めている時、一人のユダヤ教徒がやってきて「割礼を受けなければ救われない」と人々に教え始めた。これをめぐってキリスト者の間で問題が起ったのである。「割礼を受けること」「モーセの律法を守ること」の二つは、ユダヤ教徒にとっては神への信仰のあかしであった。しかし、これは当時のキリスト者にとっては重大な問題提起であった。キリスト教の教えでは「神を信じるものは、全てユダヤ人であれ、異邦人であれ無条件に救われる」と云うものであって「割礼」を義務付けていない。これはユダヤ教の教義とは対立していた。しかし当時のキリスト者には、キリスト教とユダヤ教とを明確に区別する宗教的自覚に欠けていた。それ故に、激しい意見の対立と論戦が繰り広げられた。結論は出ずエルサレムの長老や使徒たちに結論をゆだねることになって、パウロたちはエルサレムに上る(注:「上る」、「下る」は、エルサレムを中心にして云われる言葉で、エルサレムから地方に行く場合には「下る」が使われ、逆の場合には「上る」が使われる)。ここでエルサレムの主だった人たち(長老及び使徒たち)はパウロたちを含めて、会議を開く。この会議は「エルサレムにおける宗教会議」と呼ばれている。この会議の結果によっては、キリスト教は、単なるユダヤ教の一派と見做されるか、それともキリスト教として独立するかの岐路に立たされていたのである。ペテロは神の啓示を受けて立ちあがり「(神は)私たちと彼ら(異邦人)とに何らの差別をつけず、彼らの心を信仰によって清めて下さったのです(15章9節)」。そして、割礼とモーセの律法を「くびき」と呼び、「神に立ち返る異邦人を悩ましてはいけません(15章19節)」と、割礼の必要性は否定したのである。しかし「ただ偶像にそなえて穢れたものと、不品行と、絞殺したものと血とを避けるよう(15章20節)」と、モーセの律法の一部を認めたのである。このように割礼の排除と、律法の遵守と云うキリスト者とユダヤ教の妥協が生じたのである。いずれにしても、この妥協によってキリスト者の集まりはキリスト教徒と見做され、公式的にキリスト教が生まれ、不安定ながらも、ユダヤ教から独立したのである。(注:『信仰義認論』=キリスト教においては、人は善行の見返りによって救われるのではなくて、信仰によって義とされ、神からの一方的恵みによって救われると云う考え方)。
第2次異邦伝道の旅 新しい体制で出発、アンテオケ~ギリシャ(アテネ→コリント→ケンクレヤ)
第2次異邦伝道を行うに当たって、それまで常にパウロの補佐役を務めていたバルナバとパウロは別行動をとることになる。それは今回もヨハネを同行させるかどうかで意見が分かれたからである。ヨハネは前回の異邦伝道においては脱落してエルサレムに戻っている。パウロは彼を拒否し、バルナバは彼との同行を求めたのである。激論が戦わされ、結局、結論が出ず、別行動をとることになる。パウロはシラスを選び、バルナバはヨハネと共にキプロスに下っていく。バルナバの名前は、以後「使徒の働き」には、出てこない。パウロはシラスとともに新体制を組み、この書「使徒の働き」の作者ルカとその仲間たち(私たち)を加えて第2次の異邦伝道の旅に出かけていく。
その行程
アンテオケ→デルベ→ルステラ(テモテを同行)→フレギヤ地方→ガラテヤ地方→ムシヤ→トロアス―(船)→マケドニヤ地方(サモトラケ→ネアポリス→ピリピ→アムピポリス→アポロニヤ→テサロニケ→ベレヤ)―(船)→ギリシャ(アテネ→コリント(アクラとその妻プリスキラとの出会い)→ケンクレヤ)→エペソ―帰途(船)→カイゼリヤ→エルサレム→アンテオケ(地図参照)。
異邦伝道には、多くの年月と莫大な費用がかかった筈である。それは誰が何によって賄ったのであろうか。更に多くの危険があった筈である。聖書はそれについては何も語っていない。恐らく各地に散らばる信者による献金、と恵み、彼ら自身の仕事、持参金、等で賄ったのであろう。危険回避は何によって行ったのであろうか?出エジプトに現れるイスラエルの民が一種の軍団であった事を考えると、彼らは自衛の手段を当然持っていたと考えられる。たとえ神のご加護があったにしても、丸裸で福音宣教を行ったとは考えられないのである。
登場人物(パウロの働きを支えたパートナー達)
シラス:先にあげたエルサレム教会会議の決定を、アンテオケの教会に報告する為にユダとともに選ばれ、パウロとバルナバと共にアンテオケに下った信徒。パウロがバルナバと別れた後、パウロとともに第2次伝道旅行に参加した。
テモテ:ユダヤ人の母とギリシャ人の父の間に生まれた子。信仰教育及び聖書教育を受けた「評判の良い人」。ルステラでパウロに会い洗礼を受け、割礼まで受けて同行する。パウロの生涯において絶えず寄り添い、協力した人物。
ルデア:パウロの話を真剣に聞き、神によって信仰ありと認められた神に忠実な女性。家族と共に洗礼を受け、パウロたちに宿を提供する。
アクラとその妻プリスキラ:天幕作りのユダヤ人。ローマ帝国クラウディ帝のユダヤ人退去命令に従ってローマからギリシャのコリントに移り住む。コリント滞在中に、伝道中のパウロに会う。パウロを自宅に住まわせ、仕事を共にする。パウロはこの家を拠点にして、伝道に励む。その後パウロたちの異邦伝道にも同行する。コリントでパウロと別れ、エペソでアポロに会い、神の道をもっと正確に説明した。
アポロ:アレキサンドリア生まれのユダヤ人。聖書に通じ、雄弁に異邦人に語る。しかしヨハネのバプテスマしか知らなかった。エペソの地でアクラとプリキラに会う。その後、アカヤに出かけその地で異邦人に向かってイエスこそキリスト(救世主)であると証明し、それに対するユダヤ人を論破する。
私たち:この言葉は、「使徒の働き」の16章10,11,12,13,16節、20章5節その他に出てくる。「使徒の働き」の著者はルカであるから、当然、「私」はルカと同一人物であり「私たち」とは、ルカとその仲間たちである。第2次伝道旅行にはパウロたちと同行し福音宣教に努めた。第3次の伝道旅行にも参加している。ローマへの旅にも同行している。
出来事
神のご計画:この行程(第2次伝道旅行)はあくまでも神の導きによるものであった。神は2度もパウロたちの決めた進路を拒否し(16章6~7節)、マケドニヤに行くことを指示している。ここには人の計画では無く神のご計画こそ真の計画であることが示されている。
回心:ピリピにおいて、ルデアの回心(上記参照)、看守の回心(パウロとシラスは逮捕され牢に繋がれるが大地震が起り、牢は破壊され、パウロとシラスは難を逃れる。看守は彼らが逃亡したものと考え自殺を図る。2人はこれを阻止する。この恵みにより看守は回心し家族もろとも洗礼を受ける)があった。
福音宣教の結果:第2次福音伝道に限らず異邦人達に対し、パウロたちは、「イエスこそキリストなり」と福音宣教の仕事に努めるが、彼らは必ずしもキリストを信じたわけでは無かった。あるものは信じ、あるものは保留し、あるものは敵対した。遅々として進まぬ宣教に、彼らは気がくじきそうになる。神は啓示する「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない、わたしがあなたと共にいるのだ。誰もあなたを襲って危害を加えるものはいない。この町にはわたしの民が沢山いるから(17章9~10節)」と。(注:啓示:神は人の目には見えない存在である。しかし人との間に対話が無いわけではない。人の力では知りえない宗教的真理を神が神自身または天子などの超自然的存在を介して、愛を以て人に伝達することを啓示と言う)。この言葉に励まされてパウロたちは異邦人に対して神の言葉を伝えつづけた。異邦人に対する宣教の効果は徐々に上がって行った。
このようにして、パウロの一行はエペソから船出してカイゼリヤに上陸してエルサレムに上り、教会に挨拶してからアンテオケに下って行った。第2次異邦伝道は終わる。
第3次異邦伝道の旅
行路: アンテオケ→ガラテヤ地方→フリギヤ地方→エペソ→マケドニヤ→アカヤ→ギリシャ→トロアス→アソス→サモス→ミレト→コス→ロドス→パタラ→ツロ→トレマイ→カイザリヤ→エルサレム。
第3次異邦伝道におけるルカの主張:
第3次異邦伝道によって作者ルカが異邦人に対してなした最大の主張は以下のごとくである。
1.イエスこそキリスト(救世主)である。
2.ユダヤ人にもギリシャ人にも神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰をはっきりと主張した(20章21節)事である。
では、神に対する悔い改めと、イエスに対する信仰を具体的には何によって証明すべきなのであろうか?それは、バプテスマである。それではバプテスマとは何であろうか。原義は「沈める」、「浸す」である。バプテスマの方法は「沈める、浸す」の字義どおり人を水の中に沈める。ペテロは云う「悔い改めなさい。そして、それぞれの罪を許していただく為に、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう」と。聖書はバプテスマを、ヨハネのバプテスマとキリスト(聖霊)のバプテスマの2つに分けている。ヨハネのバプテスマとは「自分の罪を悔い改めること」をさし、キリスト(聖霊)のバプテスマとは「主イエスに対する信仰」を表す。それ故に自分の罪を悔い改めた者にのみ、聖霊によるバプテスマが与えられるのである。罪の中に生きて来た自分を葬りさり、新しい命に生きる。バプテスマはキリストの死と埋葬と復活を表している。つまり水の中に沈めると云う事は、古い自分を葬り去ることを意味し、自ら引き上げることはキリストと共に新しい命を生きることを意味している。ローマ帝国の属領に成り下がったイスラエルの民にとって救いとは何かを問う事は生きるとは何かを問うことと同意義であった。パウロはエペソに来た時、弟子たちに問う「どんなバプテスマを受けたのか」と、弟子は応える「ヨハネのバプテスマです」と。パウロは云う「ヨハネは自分の後に来るイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。これを聴いた人々は主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いた時、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。注:異言:キリスト教で宗教的恍惚境に陥った人が発する一般の人には理解不能な言葉。初期教会では聖霊による神からの賜物と考えられ、その解釈もされた。
アポロは聖書に通じ、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスの言葉を正確に知り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。プリキラとアクラは彼に神の道をもっと正確に説明した(18章25~26節)が、霊によるバプテスマを授けることは、その資格上出来なかった。バプテスマはキリストの体である教会以外には執り行うことが出来なかったからである。牧師は、教会の委任を受けた代表者として救われたものにバプテスマを施すのである。
パウロは云う「けれども、わたしが自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることが出来るなら、わたしの命は少しも惜しいとは思いません(20章24節)」と。まさに異邦伝道の仕事は命がけの仕事だったのである。
このようにしてパウロたちは多くの人にバプテスマを授け、信徒を増やしていったのである。
パウロの逮捕とローマへの連行
第3次の異邦伝道から帰って来たパウロたちを待ち受けていたものは、ユダヤ教徒による迫害であった。それはパウロたちキリスト者が割礼を禁止し、モーセの律法を守らず、自分勝手の論理を展開し、民を惑わしている、と云うものであった。しかしパウロたちの主張は一見法を犯しているかのように見えるが、、そこには法を順守する心を持ちながらも、人間の罪を許し、償いなどを思惟する愛情があったのである。それが律法主義者に誤解を与える原因になったと考えられる。更にそこにはキリスト者、憎しの気持ちがあった事も否定は出来ないであろう。かくしてパウロたちは訴えられ逮捕され裁判にかけられる。パウロは皇帝に上訴する。上訴しなければ無罪であったろうに、上訴したが故にローマへ連行される。
ローマへの海路
エルサレム→シドン→ミラ→クニド→クレタ→ラサヤ→暴風雨→クラウダ→マルタ(3か月過ごす)→シラクサ→レギオン→ポテオリ→ローマ(地図参照)
この旅には私達=ルカとその仲間も同行する。この船旅は危険に満ちていた。暴風雨に会い、船は難破し航行不能になる。漂流し、マルタ島につき、ここで3カ月過ごす。再出発し、何とかローマに到着する。
ローマでの生活は比較的自由であった。パウロは監視付ではあったが一軒の家を持つことが許された。そこに人を集めてパウロは福音宣教に努めた。彼は神の国の証しをし、またモーセの律法と預言者の書によって、イエスのことについて彼らに説明した。
こうしてパウロは満2年の間自費で借りた家に住み、訪ねて来る人達を皆迎えて、大胆に、少しも妨げられること無く。神の国を述べ伝え、主イエスキリストのことを教えた。ここで「使徒の働き」は終わっている。その後は別資料によればパウロは釈放された後、再逮捕され刑死(殉教)している。
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平成28年1月12日(火)
報告者
守武 戢 楽庵会