日常一般

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詩篇(1)楽器に和して 誦詠、誦読、誦舞の為に

2016年02月13日 | Weblog


詩 篇(1)楽器に和して、誦詠、誦読、誦舞の為に
  詩篇150篇より
1.ハレルヤ。神の聖所で。神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。
2.その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。
3、角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。
4.タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。
5.音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。
6.息のあるものはみな、主をほめたたえよ。
                                            
アーメン
 「詩篇」の本質は「賛美なり」と云われています。「詩篇」は、150篇の神をたたえる宗教詩から成っています。各篇の冒頭には「指揮者のために」「~の調べに合わせ」と云う言葉があるように、「詩篇」はダビデの歌い手たち(コラの子ら、アサフ、エタンなど)によって典礼の場(儀式、礼拝、奉礼拝)、祭礼の場で楽器(管楽器、弦楽器、打楽器)に合わせて誦読されたり、誦詠されたり、踊られたりしていました。賛美を盛り上げ、神をほめたたえたのです。「詩篇」の詩は典礼(祭礼)に用いられるものと、神への感謝の気持ちを表すものとの2つに分類することが出来ます。具体的には、神に対する賛美、祈り、感謝、悔い改め、愛と信頼の言葉に満ちています。
 今まで私は旧約聖書の中でイスラエルの歴史を学んできました。それはそれなりに大切なことですが、それはあくまでも知識であって人間に属することであって限界があります。人の心の深層にまで迫ることは出来ません。この心の深層に迫ったものこそ「「詩篇」」なのです。神をほめたたえる賛美が楽器にあわせて読まれる時、歌われる時、また踊られる時、人の心に直接に訴えかけます。それが神にささげられます。そこには感動があり、感激があり、喜びがあります。人の心の琴線に触れます。この時、人は心の底から神を賛美します。そこには信仰があります。神はこの賛美に応えてくれます。人はそれを肌に感じることが出来ます。神は人間の力を超えた存在です。神と人との間には断絶があります。一方的な接触はあっても交流はありません。この交流を可能にするものこそが「詩篇」なのです。「詩篇」の目的は神と人との交流にあります。
踊って詠って演技して、これは様々な宗教において共通です。神道においても祭礼の時には五穀豊饒を願って、お神輿(神が宿る)を担ぎ、詠って踊って演戯して神に祈りを捧げます。
 これより「詩篇」の内容に入っていくつもりですが、150編にわたる詩篇は、それぞれは独立した詩文であり、その一つ一つについて考えていくことは必要であっても、限られた紙面で描くことは至難の業です。そこで、まず全体について考え、その後に個々の詩篇のうち重要と思われるものについて考えていきたいと思います。
 詩篇は信仰の内部に迫ったもの、歴史の中に翻弄されていくイスラエルの民や、苦悩する預言者の姿が詩と云う形で表現されたものです。まさに旧約聖書を読んでいるかのようです。詩篇の中で一番古いものは90篇のモーセ(BC1400年代)の詩であり、人間の生のはかなさと、神の永遠さを詠ったものです。そして一番新しいものは137篇の「バビロンの捕囚」(BC500年後半)を詠ったものです。ユダヤ民族の嘆きと信頼の歌です。このように、およそ1000年にわたって詠われたものが集大成され編纂されたとものが「詩篇」なのです。だから編纂者は、ダビデでも無ければソロモンでもありません。彼らは作者です。編纂者は恐らくバビロンの捕囚より帰還した聖人エズラ、あるいはネヘミヤでないかと思われます。
  「詩編」は5巻に分かれています。
 ユダヤ教のラビたちの間では、それぞれの巻がモーセ5書の構成に対応していると考えられています。
   1巻 01篇~41篇  創世記
   2巻 42篇~72篇  出エジプト記
   3巻 73篇~89篇  レビ記
   4巻 90篇~106篇  民数記
   5巻 107篇~150篇  申命記
     それぞれの巻末にはアーメン、アーメンと祈りの言葉が2度繰り返されます。
 第2巻の巻末には、「エッサイの子ダビデの祈りは終わった」と記されていますが、第3巻以降にもダビデの祈りは続きます。
タイトルによる区分(作者・他)
    



  言葉の説明
 アーメン:(ヘブライ語で「まことに」「確かに」、後に「かくあれ」の意)キリスト教の祈祷、讃美歌、信条などの終わりに唱える言葉。
 ハレルヤ:(ヘブライ語で「神をほめたたえよ」の意)旧約聖書「詩篇」にある感謝の喜びを表す言葉。キリスト教会では祈りや典礼中のアレルヤ唱に用いられる。
上記の2つの言葉はクリスチャン以外にもあまりに有名な言葉ですが、案外、その真の意味を知らない人が多いので、ここに挙げました。
 主はわたしの羊飼い:荒野の放浪時代には、放牧地は共有であった為、自分の羊には焼き印などをつけ、他と区別しました。主によって聖別された民(人)を意味します。
 都上りの詩:地方からエルサレムの神殿へ礼拝に赴く際、あるいは神殿において詠われた詩。
 シオン:エルサレム市街の丘の名。転じてエルサレムの雅名となる。
 セラ:音楽用語、休止、中断、抑制を意味します。奏楽を一時的に止めること。前の詩の事実や、感情を際立たせるために用いられます。
 マスキール:黙想の詩(教訓詩)
 ミクタム:黄金の詩。
 コラの子、エタン、アサフ:彼らは、祭司やレビ人でダビデの時代に聖所の礼拝のために作詩し、作曲し、更に詠唱しました。
 ヘブライ:(ギリシャ語)他民族がイスラエルの民を呼ぶのに用いた名称。
 ヘブライ語:ユダヤ民族によって用いられている言語。アフロ・アジア語族中のセム語派、北西セム語群に属する。旧約聖書は、古代ヘブライ語で書かれています。その後、日常語としてのヘブライ語は衰退しましたが、1948年イスラエル建国と共に、現代ヘブライ語として復活し公用語に採用されました。
これらの言葉の意味を知って「詩編」を読むと、判りやすいと思います。
以上「詩編」の全体像について語ってきましたが、これから、内容につて語りたいと思います。
 >>>「詩篇」の現代的意味
イエスは旧約聖書の中から、最も重要なものを選ぶとすれば何か、と問われた時、「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして神を愛すること」「自分自身を愛するように隣人を愛すること」の二つをあげています。最初は神と人との関係を表しており、2番目は人と人との関係を表しております。
 今、世界は混乱を極めています。人々はいがみ合い、自爆テロは多発し人々を恐怖の淵に追いやっています。地球は人類の生み出す悪によって絶滅の危機にひんしています。そこには神を忘れた世界があります。人々は互いに憎み合い、疑心暗鬼となり、隣人を愛する気持ちを失っています。異なる、民族、宗教、文化がその存在意義を認めあい、共生して豊かに成長することは出来ないのでしょうか。
 「詩篇」は、このような世界の中で、神と人との関係、人と人との関係における「正なるもの」「善なるもの」「真なるもの」は何かを教えてくれます。
 まず、第1篇、と23篇、更に69篇を読んでみたいと思います。第1篇は、義人と悪者(罪びと)の辿るべき道を、自然界の比喩を用いて簡潔に表現した教訓詩(マスキール)です。本詩を冒頭に置いたのは、編纂者が、以下(2篇以下)の各詩が、「主の律法」として、日々口ずさまれること(2節)を喜びとするようにと人に期待したからでしょう。
 第23篇は有名な詩篇です。「主は私の羊飼い。」で始まるこの篇は、自分を、羊に譬えています。また暗黒の闇夜を行く旅人にも譬えています。いかなる所でも、またいかなる時にも、神が共にあることの幸せを詠っています。
 第69篇には神への深い信仰の故に無実の罪を負って苦しむ人の、救いを待ち、敵への報復を願う祈りと神への賛美が描かれています。まさに、そこには、十字架上のイエスの叫びがあります。69篇はダビデの作です。時代的にはイエスの時代をはるかに遡っています。イエスは存在していません。それにも拘らずダビデはイエスの存在を予知しています。事はイエスに関わることです。少し、詳しく述べたいと思います。新約聖書は旧約聖書からの引用が多くあります。69遍もそうです比較してみます。
 69篇1節 神よ、私を救ってください。マタイ27章46節 「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」。
 69篇4節 ゆえなく私を憎むものは私の髪の毛よりも多く、わたしを滅ぼそうとする者、偽り物の私の敵は強いのです。それで私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。ルカ23章41節 だがこの方は悪いことは何もしなかったのだ。マタイ27章4節 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と(後悔したユダの言葉)。
 69篇9節 あなたの家を思う熱心が私を食いつくし--------。ヨハネ2章17節 弟子たちは「あなたの家を思う熱心が私を食いつくす」と書いてあるのを思い出した。
 69篇21節 彼らは私の食物の代わりに、苦みを与え、わたしが渇いた時に酢を飲ませた。ヨハネ19章28節、29節 この後、イエスは全てのことが完了したのを知って、聖書が成就する為に「私は渇く」と云われた。そこには酢いぶどう酒の一杯入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酢い、ぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
69篇25節 彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営には、誰も住むものが無いようにしてください。「使徒の働き」1章20節 実は「詩編」にはこう書いてあるのです「彼(イスカテリオのユダ)の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』-------。マタイ27章6~28節 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよく無い、血の代価だから」と云った。彼らは相談して、その金(ユダが投げ入れた銀貨30枚)で陶器師の畑を買い、旅人達の墓地にした。それでその畑は、今でも血の畑と呼ばれている。
 中途半端の終わり方なので「詩編」2においては詩そのものに迫ってみたいと思います。
平成26年2月9日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会
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