書簡集4 ガラテヤ人への手紙 人は信じる信仰によって救われる
>はじめに
「信じる信仰によって救われる」これは福音の大原則である。しかし、パウロとその兄弟がガラテヤの教会に手紙を書いた当時、この教会の状況は真の神によって守られた清い教会ではなかった。真の神を見捨て、偽使徒の影響下にあった。彼らは「律法による行い」を義とし、「割礼」をその証としていた(6:12、使徒の働き15:1参照)。パウロはこの状況を嘆き「私は、キリストの恵みをもってあなた方を召して下さった,そのかた(イエスキリスト)をあなた方がそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移っていくのに驚いています(1:6)」と述べている
これに対してパウロは「信じる信仰によって救われる」を義として、本来の神キリストに立ち返れと彼らに訴えた。このように使徒パウロは霊的束縛をもたらすモーセの律法の奴隷となっているガラテヤ人に対して、霊的自由をもたらすイエス・キリストの福音を伝えることによって「真の救いとは何か」を解き明かしたのである。
それでは「信じる信仰」とは何か。
勿論、信じる対象はキリスト・イエスである。イエスはアブラハムの相続者である。アブラハムは神を信じ、それが神の義と認められた。神はアブラハムと契約を結び「わが前に全き者なら、汝に大地を与え、子々孫々にわたる増大・繁栄を保証しよう」と、子々孫々に対する永遠の存続を約束する。さらに「「わたしは、あなたを多くの国民の父とする」と、福音の対象を異邦人にまで広げている(創世記17:1~10参照)。アブラハムはイスラエル民族の父であり、それゆえ、イスラエルは神によって選ばれた民となる。イエスはこの民の中より生まれた相続者であり救い主である(3:15~16)。アブラハムは神との契約を信じたがゆえに彼とその子孫は永遠の命を与えられたのである。さらに異邦人に至るまで神を信じるならその福音が与えられるのである。イエスはこのアブラハムの相続者であって、その恵みをアブラハムとともに与えられている。さらにガラテヤ人は異邦人であっても、その契約から神の福音(恵み)を授かることができる。
このことから心から神を信じる者は、たとえ異邦人でも、だれでもアブラハムの子孫であり、イエスキリストの子孫となる。
先に神によって結ばれた契約はその後430年たって出来た律法によって、取り消されたり、その約束が無効とされることはない(3~17)。ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人々はモーセの律法の業に依存する代わりにイエス・キリストに対する信仰を持つことでイエス・キリストの贖罪によって救われる。
>律法の役割
イエス・キリストが来臨するまでは、イスラエルの民はユダヤ教(律法)のおきてや、儀式によって救われると信じてその奴隷になっていた。しかし定めの時が来た時、神はそのひとり子イエス・キリストをイスラエルの民に遣わした。まさにイエスは律法のもとに生まれ、神の約束の実現を宣言する。キリストは霊的自由を得させるために私たちを魂の奴隷状態から解放してくださった。パウロは言う「人は律法の行いによって義とは認められず、ただイエスキリストを信じる信仰によってのみ救われる、ということを知ったからこそ、私はキリスト・イエスを信じたのです。これは律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。それは律法による行いによって義と認められたものは一人もいなかったからです(2:16)」と
それなら律法は神の約束に反するのか。律法は神がモーセを通じて民に与えた(出エジプト31:18)ものである。神の与えたものに偽りはない。律法は神の約束に反するのか、その答えは「NO」、「そんなことは絶対にない」と、パウロは言う。ここでパウロは神の計画における「律法の役割」を明らかにする。それでは、モーセの律法に義があるとすればそれは何であろうか。「おきては神様の約束に付け加えられたものであり、それを破ることがどんなに罪深いことかを人々に示したのです。ただしこのおきての有効期間はその約束の指し示す「子」すなわちキリストが来臨する時まででした。さらにこのほか、次の点も指摘できます。神様はおきてを、み使いたちを通してモーセにお与えになり、モーセはそれを民に告示したのです。しかしアブラハムは約束をみ使いやモーセのような仲介者を通してではなく神様から直接与えられたのです。とすると、おきてと約束は互いに対立するのでしょうか。勿論そんなことはありません。もし私たちがおきてによって救われることができたのであれば、それでことは済んだはずです。、罪の力から逃れるための、別の道が開かれる必要などなかったのです。聖書は私たちはみな、その罪の力に閉じ込められていると宣告しています。そこから解放されるためには、イエス・キリストを信じる信仰による以外ありません。この脱出の道は、キリスト様を信じる、すべての人に開かれています(3:19~22参照)。「信仰が現れる以前は、私たちは律法の監督下に置かれ閉じ込められていましたが、それは、やがて示される「信仰」が得られるまででした。こうして律法は私たちをキリストに導くための、養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし「信仰」が現れた以上、もはや私たちは養育係の下にはいません。あなたがたはキリスト・イエスに対する信仰によって「神の子」です(3:23~26)。「兄弟たちあなた方は自由を与えられるために召されたのです。ただその自由を肉の働く機会にしないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語によって全うされるのです(5:13~14)」。ここには律法のもつ意義と限界が語られている。
異端と正統
「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来は神でない神々の奴隷でした。ところがいまでは神を知っているのに、いやむしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値な幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか(4:8~9)」。とパウロはガラテヤ人に問いかける。彼らは偽使徒に惑わされ、かつての主人に再び支配されようとしていた。いや、支配されていた。これに対してパウロは私こそ真理であると訴え、偽使徒たちを糾弾する。
ここでパウロは異端と正統を区別し、正統性の相続者であれと訴える。
割礼とは何か:
神はアブラハムと永遠存続の契約を結んだ際、その証として割礼を施すことを命じている。「次のことが、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたのすべての男子は割礼を受けなさい。(中略)それがあなたがたとの間の契約のしるしである。あなた方の中の男子は、みな代々にわたり、生まれて8日目に割礼を受けなければならない(創世記17:10~12)」。神はアブラハムに「代々にわたり」と命じている。イエスはアブラハムの相続人である。相続人である限りイエスとその信者は割礼を受けなければならない事になる。目に見ることのできない神と、アブラハムとの霊的契約を、肉的に保証するものが割礼なのである。
しかしパウロはこの割礼を否定する。「割礼を受けるすべての人に、私はすべてを明かします。その人は律法を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵から落ちてしまったのです(5:4)」
「そのような(割礼の)勧めは、あなたがたを召して下さった方(キリスト・イエス)から出たことではありません(5:8)」とパウロは断言している。
この両者の矛盾をどう解釈すべきか。たとへ割礼がアブラハムから出たことであってもそれがモーセに引き継がれ律法化され、義務化された時、それは軛(律法主義)となる。パウロはそのような儀式化された割礼を「あなたがたを召した方から出たことではありません」という。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受けるか受けないかは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大切なのです(5:6)」とパウロは言う。それは、神を信じる信仰によって生きる人間の自由を現している。
>新しい創造:
字義どおりに解釈すれば、古いものは消滅し、新しいものに作り替えられることを意味している。歴史的に言えばモーセの律法(肉の働き)からイエス・キリストの贖罪を経て、イエス・キリストを信じる信仰(御霊の実)へと変えられることを意味する。それが新しい創造である。
偽使徒:
彼らは必ずしも反キリストではない。彼らは律法主義的クリスチャンと呼ばれており、ユダヤ教徒とともに、律法の順守なしでは人は義とはなれない、という立場をとりパウロと対立した。彼らはアブラハムを引き合いに出し契約のあかしとしての割礼の意味を強調した。アブラハムは目に見えない霊的契約の証として目に見える肉的証しとして「割礼」を要求している。このような偽使徒の布教活動がガラテヤの信徒たちに悪い影響を与え、これを信ずるものが多く輩出したのである。(1:6)。パウロはこれを嘆き。本来の神に帰れと叱咤したのである
内容構成
>各章ごとの説明:
1章~2章:パウロは主の道を踏み外し。偽の教えを受け入れていたガラテヤの聖徒たちに手紙を書く。1章でまずパウロは自らの使徒としての正統性を改めて主張する。
1、私が使徒になったのは人間の手から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです(1:1)。
2、私が宣べ伝えた福音は人間によるものではありません。私はそれを人間の手から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです(1:11~12)
3、私を選び分け恵みをもって召して下さった方が異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子が私のうちに啓示することを良しとされた(1:15~17)パウロは人が義とされるのはモーセの律法の業ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によると教える。しかし実際のガラテヤのクリスチャンは律法を重視する偽使徒の支配下にあった。
3章~4章:パウロは福音のメッセージを擁護する。パウロは、アブラハムがモーセの律法の業ではなく、信仰によって義とされた人物の模範であったと教える。贖罪を通して、イエス・キリストは律法の呪いから人類を贖われた。モーセの律法の目的は「私たちをキリストに連れていく養育係」となることである、と教える。信仰とバプテスマを通して、聖徒たちは贖罪の祝福を受け、福音の聖約に入りキリストを通して神の相続人となり、もはや使用人ではなく神の子となる。
5章~6章:パウロは、キリストが与えてくださった福音の聖約を固く守り続けるようガラテヤの聖徒たちに求める。パウロは「肉の働き」(5:19~21)に関与している人の生活と「御霊の実」(5:22~24)を享受している人の生活を対比させる。パウロは聖徒たちに互いの重荷を負いあいたゆまず良い働きをするよう教える。私たちは自分のまいたものは刈り取らねばならない。
「余禄」から
2019年6月5日(水)の毎日新聞朝刊の「余禄」に次のような記事が載っていたので紹介する。「お父さんがお前に上げたいものは健康と人を愛する心だ。人が人でなくなるのは、自分を愛することをやめる時だ (中略)その時)人は他人を愛することを止め、世界を見失ってしまう」。これは詩人・吉野弘が誕生した長女・奈々子に宛てたものである。神はモーセに10戒を与えた。そのなかに「自分を愛する如く、隣人を愛せよ」という御言葉がある。自分を愛する如く人を愛せたらどんなに素晴らしいことだろう。世の中に犯罪や、争いや、戦争は起こらないであろう。ゼカリヤ書には、律法は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです(5:14)」。と書かれている。後年、成人した奈々子には、この父の言葉が重荷(軛)だったという。「かちとるに難しく、はぐくむに難しい、自分を愛する心だ」と言っている。「自分を愛する心を見つけるまでには時間がかかったが、自分が子もってこの詩を読んだとき、涙が止まらなかった」と奈々子は言う。彼女に救いをもたらしたものは何だったのだろうか。余禄の作者は言う「人は自分を愛せなくなれば、他人も世界も意味を失い、道徳も倫理も底がぬける」と。
ガラテヤ書は、まさにこのことを主題としている。パウロは言う「律法は人を罪の中に閉じ込め、信仰はそれから人を開放する」と。律法はこうあらねばならぬと強制する。しかし、人は、こうあらねばならぬと思いながらも、こうある自分に絶望する。その葛藤の中から罪の意識が生まれる。律法は、人は罪びとであることを教える。詩人は「お前に多くを期待しない」とも言う。「期待に応えようとして人はだめになるからだ」と。キリストはこれらの罪を一身に背負って、何一つ罪を犯していないのに、十字架にかかり死んでいった。キリストの贖罪は愛である。
キリストを信じる信仰によって人は救われる。
>はじめに
「信じる信仰によって救われる」これは福音の大原則である。しかし、パウロとその兄弟がガラテヤの教会に手紙を書いた当時、この教会の状況は真の神によって守られた清い教会ではなかった。真の神を見捨て、偽使徒の影響下にあった。彼らは「律法による行い」を義とし、「割礼」をその証としていた(6:12、使徒の働き15:1参照)。パウロはこの状況を嘆き「私は、キリストの恵みをもってあなた方を召して下さった,そのかた(イエスキリスト)をあなた方がそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移っていくのに驚いています(1:6)」と述べている
これに対してパウロは「信じる信仰によって救われる」を義として、本来の神キリストに立ち返れと彼らに訴えた。このように使徒パウロは霊的束縛をもたらすモーセの律法の奴隷となっているガラテヤ人に対して、霊的自由をもたらすイエス・キリストの福音を伝えることによって「真の救いとは何か」を解き明かしたのである。
それでは「信じる信仰」とは何か。
勿論、信じる対象はキリスト・イエスである。イエスはアブラハムの相続者である。アブラハムは神を信じ、それが神の義と認められた。神はアブラハムと契約を結び「わが前に全き者なら、汝に大地を与え、子々孫々にわたる増大・繁栄を保証しよう」と、子々孫々に対する永遠の存続を約束する。さらに「「わたしは、あなたを多くの国民の父とする」と、福音の対象を異邦人にまで広げている(創世記17:1~10参照)。アブラハムはイスラエル民族の父であり、それゆえ、イスラエルは神によって選ばれた民となる。イエスはこの民の中より生まれた相続者であり救い主である(3:15~16)。アブラハムは神との契約を信じたがゆえに彼とその子孫は永遠の命を与えられたのである。さらに異邦人に至るまで神を信じるならその福音が与えられるのである。イエスはこのアブラハムの相続者であって、その恵みをアブラハムとともに与えられている。さらにガラテヤ人は異邦人であっても、その契約から神の福音(恵み)を授かることができる。
このことから心から神を信じる者は、たとえ異邦人でも、だれでもアブラハムの子孫であり、イエスキリストの子孫となる。
先に神によって結ばれた契約はその後430年たって出来た律法によって、取り消されたり、その約束が無効とされることはない(3~17)。ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人々はモーセの律法の業に依存する代わりにイエス・キリストに対する信仰を持つことでイエス・キリストの贖罪によって救われる。
>律法の役割
イエス・キリストが来臨するまでは、イスラエルの民はユダヤ教(律法)のおきてや、儀式によって救われると信じてその奴隷になっていた。しかし定めの時が来た時、神はそのひとり子イエス・キリストをイスラエルの民に遣わした。まさにイエスは律法のもとに生まれ、神の約束の実現を宣言する。キリストは霊的自由を得させるために私たちを魂の奴隷状態から解放してくださった。パウロは言う「人は律法の行いによって義とは認められず、ただイエスキリストを信じる信仰によってのみ救われる、ということを知ったからこそ、私はキリスト・イエスを信じたのです。これは律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。それは律法による行いによって義と認められたものは一人もいなかったからです(2:16)」と
それなら律法は神の約束に反するのか。律法は神がモーセを通じて民に与えた(出エジプト31:18)ものである。神の与えたものに偽りはない。律法は神の約束に反するのか、その答えは「NO」、「そんなことは絶対にない」と、パウロは言う。ここでパウロは神の計画における「律法の役割」を明らかにする。それでは、モーセの律法に義があるとすればそれは何であろうか。「おきては神様の約束に付け加えられたものであり、それを破ることがどんなに罪深いことかを人々に示したのです。ただしこのおきての有効期間はその約束の指し示す「子」すなわちキリストが来臨する時まででした。さらにこのほか、次の点も指摘できます。神様はおきてを、み使いたちを通してモーセにお与えになり、モーセはそれを民に告示したのです。しかしアブラハムは約束をみ使いやモーセのような仲介者を通してではなく神様から直接与えられたのです。とすると、おきてと約束は互いに対立するのでしょうか。勿論そんなことはありません。もし私たちがおきてによって救われることができたのであれば、それでことは済んだはずです。、罪の力から逃れるための、別の道が開かれる必要などなかったのです。聖書は私たちはみな、その罪の力に閉じ込められていると宣告しています。そこから解放されるためには、イエス・キリストを信じる信仰による以外ありません。この脱出の道は、キリスト様を信じる、すべての人に開かれています(3:19~22参照)。「信仰が現れる以前は、私たちは律法の監督下に置かれ閉じ込められていましたが、それは、やがて示される「信仰」が得られるまででした。こうして律法は私たちをキリストに導くための、養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし「信仰」が現れた以上、もはや私たちは養育係の下にはいません。あなたがたはキリスト・イエスに対する信仰によって「神の子」です(3:23~26)。「兄弟たちあなた方は自由を与えられるために召されたのです。ただその自由を肉の働く機会にしないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語によって全うされるのです(5:13~14)」。ここには律法のもつ意義と限界が語られている。
異端と正統
「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来は神でない神々の奴隷でした。ところがいまでは神を知っているのに、いやむしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値な幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか(4:8~9)」。とパウロはガラテヤ人に問いかける。彼らは偽使徒に惑わされ、かつての主人に再び支配されようとしていた。いや、支配されていた。これに対してパウロは私こそ真理であると訴え、偽使徒たちを糾弾する。
ここでパウロは異端と正統を区別し、正統性の相続者であれと訴える。
割礼とは何か:
神はアブラハムと永遠存続の契約を結んだ際、その証として割礼を施すことを命じている。「次のことが、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたのすべての男子は割礼を受けなさい。(中略)それがあなたがたとの間の契約のしるしである。あなた方の中の男子は、みな代々にわたり、生まれて8日目に割礼を受けなければならない(創世記17:10~12)」。神はアブラハムに「代々にわたり」と命じている。イエスはアブラハムの相続人である。相続人である限りイエスとその信者は割礼を受けなければならない事になる。目に見ることのできない神と、アブラハムとの霊的契約を、肉的に保証するものが割礼なのである。
しかしパウロはこの割礼を否定する。「割礼を受けるすべての人に、私はすべてを明かします。その人は律法を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵から落ちてしまったのです(5:4)」
「そのような(割礼の)勧めは、あなたがたを召して下さった方(キリスト・イエス)から出たことではありません(5:8)」とパウロは断言している。
この両者の矛盾をどう解釈すべきか。たとへ割礼がアブラハムから出たことであってもそれがモーセに引き継がれ律法化され、義務化された時、それは軛(律法主義)となる。パウロはそのような儀式化された割礼を「あなたがたを召した方から出たことではありません」という。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受けるか受けないかは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大切なのです(5:6)」とパウロは言う。それは、神を信じる信仰によって生きる人間の自由を現している。
>新しい創造:
字義どおりに解釈すれば、古いものは消滅し、新しいものに作り替えられることを意味している。歴史的に言えばモーセの律法(肉の働き)からイエス・キリストの贖罪を経て、イエス・キリストを信じる信仰(御霊の実)へと変えられることを意味する。それが新しい創造である。
偽使徒:
彼らは必ずしも反キリストではない。彼らは律法主義的クリスチャンと呼ばれており、ユダヤ教徒とともに、律法の順守なしでは人は義とはなれない、という立場をとりパウロと対立した。彼らはアブラハムを引き合いに出し契約のあかしとしての割礼の意味を強調した。アブラハムは目に見えない霊的契約の証として目に見える肉的証しとして「割礼」を要求している。このような偽使徒の布教活動がガラテヤの信徒たちに悪い影響を与え、これを信ずるものが多く輩出したのである。(1:6)。パウロはこれを嘆き。本来の神に帰れと叱咤したのである
内容構成
>各章ごとの説明:
1章~2章:パウロは主の道を踏み外し。偽の教えを受け入れていたガラテヤの聖徒たちに手紙を書く。1章でまずパウロは自らの使徒としての正統性を改めて主張する。
1、私が使徒になったのは人間の手から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです(1:1)。
2、私が宣べ伝えた福音は人間によるものではありません。私はそれを人間の手から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです(1:11~12)
3、私を選び分け恵みをもって召して下さった方が異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子が私のうちに啓示することを良しとされた(1:15~17)パウロは人が義とされるのはモーセの律法の業ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によると教える。しかし実際のガラテヤのクリスチャンは律法を重視する偽使徒の支配下にあった。
3章~4章:パウロは福音のメッセージを擁護する。パウロは、アブラハムがモーセの律法の業ではなく、信仰によって義とされた人物の模範であったと教える。贖罪を通して、イエス・キリストは律法の呪いから人類を贖われた。モーセの律法の目的は「私たちをキリストに連れていく養育係」となることである、と教える。信仰とバプテスマを通して、聖徒たちは贖罪の祝福を受け、福音の聖約に入りキリストを通して神の相続人となり、もはや使用人ではなく神の子となる。
5章~6章:パウロは、キリストが与えてくださった福音の聖約を固く守り続けるようガラテヤの聖徒たちに求める。パウロは「肉の働き」(5:19~21)に関与している人の生活と「御霊の実」(5:22~24)を享受している人の生活を対比させる。パウロは聖徒たちに互いの重荷を負いあいたゆまず良い働きをするよう教える。私たちは自分のまいたものは刈り取らねばならない。
「余禄」から
2019年6月5日(水)の毎日新聞朝刊の「余禄」に次のような記事が載っていたので紹介する。「お父さんがお前に上げたいものは健康と人を愛する心だ。人が人でなくなるのは、自分を愛することをやめる時だ (中略)その時)人は他人を愛することを止め、世界を見失ってしまう」。これは詩人・吉野弘が誕生した長女・奈々子に宛てたものである。神はモーセに10戒を与えた。そのなかに「自分を愛する如く、隣人を愛せよ」という御言葉がある。自分を愛する如く人を愛せたらどんなに素晴らしいことだろう。世の中に犯罪や、争いや、戦争は起こらないであろう。ゼカリヤ書には、律法は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです(5:14)」。と書かれている。後年、成人した奈々子には、この父の言葉が重荷(軛)だったという。「かちとるに難しく、はぐくむに難しい、自分を愛する心だ」と言っている。「自分を愛する心を見つけるまでには時間がかかったが、自分が子もってこの詩を読んだとき、涙が止まらなかった」と奈々子は言う。彼女に救いをもたらしたものは何だったのだろうか。余禄の作者は言う「人は自分を愛せなくなれば、他人も世界も意味を失い、道徳も倫理も底がぬける」と。
ガラテヤ書は、まさにこのことを主題としている。パウロは言う「律法は人を罪の中に閉じ込め、信仰はそれから人を開放する」と。律法はこうあらねばならぬと強制する。しかし、人は、こうあらねばならぬと思いながらも、こうある自分に絶望する。その葛藤の中から罪の意識が生まれる。律法は、人は罪びとであることを教える。詩人は「お前に多くを期待しない」とも言う。「期待に応えようとして人はだめになるからだ」と。キリストはこれらの罪を一身に背負って、何一つ罪を犯していないのに、十字架にかかり死んでいった。キリストの贖罪は愛である。
キリストを信じる信仰によって人は救われる。
令和元年6月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会