日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

書簡集4 ガラテヤ人への手紙 人は信じる信仰によって救われる

2019年06月28日 | Weblog
  書簡集4 ガラテヤ人への手紙 人は信じる信仰によって救われる

  >はじめに
 「信じる信仰によって救われる」これは福音の大原則である。しかし、パウロとその兄弟がガラテヤの教会に手紙を書いた当時、この教会の状況は真の神によって守られた清い教会ではなかった。真の神を見捨て、偽使徒の影響下にあった。彼らは「律法による行い」を義とし、「割礼」をその証としていた(6:12、使徒の働き15:1参照)。パウロはこの状況を嘆き「私は、キリストの恵みをもってあなた方を召して下さった,そのかた(イエスキリスト)をあなた方がそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移っていくのに驚いています(1:6)」と述べている
 これに対してパウロは「信じる信仰によって救われる」を義として、本来の神キリストに立ち返れと彼らに訴えた。このように使徒パウロは霊的束縛をもたらすモーセの律法の奴隷となっているガラテヤ人に対して、霊的自由をもたらすイエス・キリストの福音を伝えることによって「真の救いとは何か」を解き明かしたのである。

 それでは「信じる信仰」とは何か
 勿論、信じる対象はキリスト・イエスである。イエスはアブラハムの相続者である。アブラハムは神を信じ、それが神の義と認められた。神はアブラハムと契約を結び「わが前に全き者なら、汝に大地を与え、子々孫々にわたる増大・繁栄を保証しよう」と、子々孫々に対する永遠の存続を約束する。さらに「「わたしは、あなたを多くの国民の父とする」と、福音の対象を異邦人にまで広げている(創世記17:1~10参照)。アブラハムはイスラエル民族の父であり、それゆえ、イスラエルは神によって選ばれた民となる。イエスはこの民の中より生まれた相続者であり救い主である(3:15~16)。アブラハムは神との契約を信じたがゆえに彼とその子孫は永遠の命を与えられたのである。さらに異邦人に至るまで神を信じるならその福音が与えられるのである。イエスはこのアブラハムの相続者であって、その恵みをアブラハムとともに与えられている。さらにガラテヤ人は異邦人であっても、その契約から神の福音(恵み)を授かることができる。
 このことから心から神を信じる者は、たとえ異邦人でも、だれでもアブラハムの子孫であり、イエスキリストの子孫となる。
 先に神によって結ばれた契約はその後430年たって出来た律法によって、取り消されたり、その約束が無効とされることはない(3~17)。ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人々はモーセの律法の業に依存する代わりにイエス・キリストに対する信仰を持つことでイエス・キリストの贖罪によって救われる。

 >律法の役割
 イエス・キリストが来臨するまでは、イスラエルの民はユダヤ教(律法)のおきてや、儀式によって救われると信じてその奴隷になっていた。しかし定めの時が来た時、神はそのひとり子イエス・キリストをイスラエルの民に遣わした。まさにイエスは律法のもとに生まれ、神の約束の実現を宣言する。キリストは霊的自由を得させるために私たちを魂の奴隷状態から解放してくださった。パウロは言う「人は律法の行いによって義とは認められず、ただイエスキリストを信じる信仰によってのみ救われる、ということを知ったからこそ、私はキリスト・イエスを信じたのです。これは律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。それは律法による行いによって義と認められたものは一人もいなかったからです(2:16)」と
 それなら律法は神の約束に反するのか。律法は神がモーセを通じて民に与えた(出エジプト31:18)ものである。神の与えたものに偽りはない。律法は神の約束に反するのか、その答えは「NO」、「そんなことは絶対にない」と、パウロは言う。ここでパウロは神の計画における「律法の役割」を明らかにする。それでは、モーセの律法に義があるとすればそれは何であろうか。「おきては神様の約束に付け加えられたものであり、それを破ることがどんなに罪深いことかを人々に示したのです。ただしこのおきての有効期間はその約束の指し示す「子」すなわちキリストが来臨する時まででした。さらにこのほか、次の点も指摘できます。神様はおきてを、み使いたちを通してモーセにお与えになり、モーセはそれを民に告示したのです。しかしアブラハムは約束をみ使いやモーセのような仲介者を通してではなく神様から直接与えられたのです。とすると、おきてと約束は互いに対立するのでしょうか。勿論そんなことはありません。もし私たちがおきてによって救われることができたのであれば、それでことは済んだはずです。、罪の力から逃れるための、別の道が開かれる必要などなかったのです。聖書は私たちはみな、その罪の力に閉じ込められていると宣告しています。そこから解放されるためには、イエス・キリストを信じる信仰による以外ありません。この脱出の道は、キリスト様を信じる、すべての人に開かれています(3:19~22参照)。「信仰が現れる以前は、私たちは律法の監督下に置かれ閉じ込められていましたが、それは、やがて示される「信仰」が得られるまででした。こうして律法は私たちをキリストに導くための、養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし「信仰」が現れた以上、もはや私たちは養育係の下にはいません。あなたがたはキリスト・イエスに対する信仰によって「神の子」です(3:23~26)。「兄弟たちあなた方は自由を与えられるために召されたのです。ただその自由を肉の働く機会にしないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語によって全うされるのです(5:13~14)」。ここには律法のもつ意義と限界が語られている。

 異端と正統
 「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来は神でない神々の奴隷でした。ところがいまでは神を知っているのに、いやむしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値な幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか(4:8~9)」。とパウロはガラテヤ人に問いかける。彼らは偽使徒に惑わされ、かつての主人に再び支配されようとしていた。いや、支配されていた。これに対してパウロは私こそ真理であると訴え、偽使徒たちを糾弾する。
ここでパウロは異端と正統を区別し、正統性の相続者であれと訴える。


 割礼とは何か:
 神はアブラハムと永遠存続の契約を結んだ際、その証として割礼を施すことを命じている。「次のことが、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたのすべての男子は割礼を受けなさい。(中略)それがあなたがたとの間の契約のしるしである。あなた方の中の男子は、みな代々にわたり、生まれて8日目に割礼を受けなければならない(創世記17:10~12)」。神はアブラハムに「代々にわたり」と命じている。イエスはアブラハムの相続人である。相続人である限りイエスとその信者は割礼を受けなければならない事になる。目に見ることのできない神と、アブラハムとの霊的契約を、肉的に保証するものが割礼なのである。
 しかしパウロはこの割礼を否定する。「割礼を受けるすべての人に、私はすべてを明かします。その人は律法を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵から落ちてしまったのです(5:4)」
「そのような(割礼の)勧めは、あなたがたを召して下さった方(キリスト・イエス)から出たことではありません(5:8)」とパウロは断言している。
 この両者の矛盾をどう解釈すべきか。たとへ割礼がアブラハムから出たことであってもそれがモーセに引き継がれ律法化され、義務化された時、それは軛(律法主義)となる。パウロはそのような儀式化された割礼を「あなたがたを召した方から出たことではありません」という。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受けるか受けないかは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大切なのです(5:6)」とパウロは言う。それは、神を信じる信仰によって生きる人間の自由を現している。

 >新しい創造:
 字義どおりに解釈すれば、古いものは消滅し、新しいものに作り替えられることを意味している。歴史的に言えばモーセの律法(肉の働き)からイエス・キリストの贖罪を経て、イエス・キリストを信じる信仰(御霊の実)へと変えられることを意味する。それが新しい創造である。

 偽使徒:
 彼らは必ずしも反キリストではない。彼らは律法主義的クリスチャンと呼ばれており、ユダヤ教徒とともに、律法の順守なしでは人は義とはなれない、という立場をとりパウロと対立した。彼らはアブラハムを引き合いに出し契約のあかしとしての割礼の意味を強調した。アブラハムは目に見えない霊的契約の証として目に見える肉的証しとして「割礼」を要求している。このような偽使徒の布教活動がガラテヤの信徒たちに悪い影響を与え、これを信ずるものが多く輩出したのである。(1:6)。パウロはこれを嘆き。本来の神に帰れと叱咤したのである

 内容構成


 >各章ごとの説明:
 1章~2章:パウロは主の道を踏み外し。偽の教えを受け入れていたガラテヤの聖徒たちに手紙を書く。1章でまずパウロは自らの使徒としての正統性を改めて主張する。
1、私が使徒になったのは人間の手から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです(1:1)。
2、私が宣べ伝えた福音は人間によるものではありません。私はそれを人間の手から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです(1:11~12)
3、私を選び分け恵みをもって召して下さった方が異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子が私のうちに啓示することを良しとされた(1:15~17)パウロは人が義とされるのはモーセの律法の業ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によると教える。しかし実際のガラテヤのクリスチャンは律法を重視する偽使徒の支配下にあった。
 3章~4章:
パウロは福音のメッセージを擁護する。パウロは、アブラハムがモーセの律法の業ではなく、信仰によって義とされた人物の模範であったと教える。贖罪を通して、イエス・キリストは律法の呪いから人類を贖われた。モーセの律法の目的は「私たちをキリストに連れていく養育係」となることである、と教える。信仰とバプテスマを通して、聖徒たちは贖罪の祝福を受け、福音の聖約に入りキリストを通して神の相続人となり、もはや使用人ではなく神の子となる。
 5章~6章:パウロは、キリストが与えてくださった福音の聖約を固く守り続けるようガラテヤの聖徒たちに求める。パウロは「肉の働き」(5:19~21)に関与している人の生活と「御霊の実」(5:22~24)を享受している人の生活を対比させる。パウロは聖徒たちに互いの重荷を負いあいたゆまず良い働きをするよう教える。私たちは自分のまいたものは刈り取らねばならない。

 「余禄」から
 2019年6月5日(水)の毎日新聞朝刊の「余禄」に次のような記事が載っていたので紹介する。「お父さんがお前に上げたいものは健康と人を愛する心だ。人が人でなくなるのは、自分を愛することをやめる時だ (中略)その時)人は他人を愛することを止め、世界を見失ってしまう」。これは詩人・吉野弘が誕生した長女・奈々子に宛てたものである。神はモーセに10戒を与えた。そのなかに「自分を愛する如く、隣人を愛せよ」という御言葉がある。自分を愛する如く人を愛せたらどんなに素晴らしいことだろう。世の中に犯罪や、争いや、戦争は起こらないであろう。ゼカリヤ書には、律法は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです(5:14)」。と書かれている。後年、成人した奈々子には、この父の言葉が重荷(軛)だったという。「かちとるに難しく、はぐくむに難しい、自分を愛する心だ」と言っている。「自分を愛する心を見つけるまでには時間がかかったが、自分が子もってこの詩を読んだとき、涙が止まらなかった」と奈々子は言う。彼女に救いをもたらしたものは何だったのだろうか。余禄の作者は言う「人は自分を愛せなくなれば、他人も世界も意味を失い、道徳も倫理も底がぬける」と。
 ガラテヤ書は、まさにこのことを主題としている。パウロは言う「律法は人を罪の中に閉じ込め、信仰はそれから人を開放する」と。律法はこうあらねばならぬと強制する。しかし、人は、こうあらねばならぬと思いながらも、こうある自分に絶望する。その葛藤の中から罪の意識が生まれる。律法は、人は罪びとであることを教える。詩人は「お前に多くを期待しない」とも言う。「期待に応えようとして人はだめになるからだ」と。キリストはこれらの罪を一身に背負って、何一つ罪を犯していないのに、十字架にかかり死んでいった。キリストの贖罪は愛である。
 キリストを信じる信仰によって人は救われる

令和元年6月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


コリント人への手紙Ⅱ コリント教会の皆さんへ

2019年06月11日 | Weblog
  書簡集3  コリント人への手紙Ⅱ コリント教会の皆さんへ
 はじめに
 コリント人への手紙Ⅱはパウロがコリント人の教会の信徒に送った2通の手紙のうち第2番目の手紙である。パウロはこの時点ですでにコリントの信徒に3通の手紙を書いていたが、そのうち2通は残っていない。
 第一の手紙はコリントの教会の内部に生じた諸問題に対して、パウロはそれを厳しく叱責し、その実際的解決と、指導を与えたものであった。パウロはコリントにいる信徒のことをキリストにあって愛し主に立ち返ることを願っていたのである。
 第二の手紙(本リポート)は第一の手紙に対する反響に応えたものである。その反響は必ずしもパウロの意に沿うものではなく、主に立ち返ろうと努力をした者がいた半面、パウロの権限を否定しその動機に疑問を唱え、その手紙に反発し反パウロ、反キリストの集団も現れたのである(使徒の働き19:21~41)。また偽使徒も現
れ信徒たちを惑わしていた。そこでパウロはマケドニヤに逃れ、その地で第二の手紙を書いたといわれている。第二の手紙にはパウロが第一の手紙を現したわけと、コリント人だけでなくアカヤ全土(ギリシャ)に住むすべてのクリスチャンに対する愛と慰めの言葉に満ちている。
 第一の手紙によってコリントの教会には悲しみが満ちていた(2:1,7:8)。それゆえに、パウロはこの第二の手紙によって彼らの間に喜びを取り戻したかったのである(7:9~13)。だからこそ、その調子は第一の手紙と違って穏やかでコリントの信徒に対する愛と気遣いにあふれている。そして最後にパウロは言う「終わりに兄弟たち喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つの心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば愛と平和の神はあなた方とともにいてくださいます。聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべての聖徒たちがあなたによろしくと言っています。主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方すべてとともにありますように(13:11~13)」と。
 作者:神のみ心によるキリストイエスの使徒パウロおよび兄弟テモト
 宛先コリントにある神の教会、ならびに、アカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ
 書かれた年代:西暦55~57年ごろ
 書かれた場所:マケドニヤ
 主要な登場人物:パウロ、テモテ、テトス、偽使徒
 主要な地名:コリント、エルサレム、マケドニヤ      

 内容の構成
1.1章~7章:パウロの内面的苦悩
    コリントの信徒に対する熱き想い
2.8章~9章:慈善活動の勧め
    エルサレムの教会支援の願い
3.10章~13章:パウロ批判に対する反論
    コリント信徒に対する配慮
    弱さを誇る
    結びのあいさつ      

 各章ごとの解説
1、第1章~7章 パウロの内面的苦悩とコリントの信徒に対する熱き想い
 1章:パウロは、神がすべての試練において神の子たちを慰めると証しする。 「神はどのような苦しみの時にも私たちを慰めてくださいます(1-4)」
 2章:パウロは聖徒たちがお互いに愛し合い赦しあうようにと奮起させる。 「そこで私(パウロ)はその人(罪びと)に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。もしもあなたがたが人を赦すなら、私もその人をキリストのみ前で赦します(2:10)」。
 3章:福音と主の御霊の働きは、モーセの律法の文字よりもすばらしい。 「神は私たちに新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです(3:6)」。
 4章:パウロは逆境にあるコリントの聖徒を励まし、彼らに神の愛と栄光のもつ永遠の本質を思い起こさせる。 「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされます(4~16)」、「私たちは見えないものにこそ目をとめます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(4:18)」。
 5章:パウロはイエス・キリストの贖罪を通じて神と和解する必要性を理解するようコリントの信徒に勧める。 「だれでもキリストのうちにあるならその人は新しく作られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました(5~17)」、「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それで私たちはこの方にあって、神の前に義とされたのです(5:20)」。
 6章:コリントの信徒よ、どうか私の言うことに対し心を広く開いてください。正義と不法とはつながりがありません私たちは生ける神の宮として、偶像を避け、あの不信者(偽使徒)に惑わされないようにしなさい。 「確かに今は恵みの時、今は救いの日です(6:2)」。
 7章:あなた方が私を慕っていること、また過ちを嘆き悲しんで悔い改めたと聞いて喜んでいます。 「神のみ心に沿った悲しみは、悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします(7:10)」。
 2、第8章~9章:慈善活動の勧め、特にエルサレム教会支援の願い
 8章:施す恵み。あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。パウロはエルサレムの人々に対する献金についてコリントの聖徒に感謝し引き続き惜しみなく与えるよう彼らを励ます。「兄弟たち、あなたがたは諸教会の使者、キリストの栄光です。あなた方の愛と、私たちがあなたがたを誇りとしている証拠を諸教会の前で彼らに対して示して欲しいのです(8:23~24)」。
 9章:「惜しみなく与える」。「神は喜んで与える人を愛してくださいます(9:7)」「ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられたからでもなく、心に決めた通りにしなさい(9:7)」。そうすれば神からの賜物が、あなたがたにも与えられるのです。
 3、第10章~13章:パウロ批判に対する反論、コリント信徒に対する配慮、弱さを誇る、結びのあいさつ
 10章:「主から授けられた働き」「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ受け入れられる人です(10:18)」。パウロはコリントに行くにあたって、そこにキリストの純粋な教義を損なう偽使徒がいることを知る。彼らは自分で自分を推薦し、パウロの働きを阻害しようとしていた。パウロはコリントの信徒に言う「あなた方の信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広がることを望んでいます(10:15)」と。お互いの相互作用によって信仰は強化される。
 11章:「パウロの誇り」「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります(11:30)」10章で述べたように、コリントには偽使徒がいてコリントの信徒を騙していた。彼らは結果としては反キリストにはなったが、意図するところは善意で決してパリサイ人や、律法学者のように真っ向から反キリストを掲げているわけではなかった。自分こそキリストの使者だと僭称していたのである。サタンさえも神のみ使いに変装して表れていることを考えると、パウロがコリントの信徒たちが偽使徒に騙されるのではないかと心配するのは当然であった。「騙されるな」と強調する。彼らは自分の強さを誇ったが、パウロは言う「私は自分の弱さを誇ります」と。コリントの信徒の信仰心は決して強くはなかったといえよう。
 12章:「弱さのうちの強さ」「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである(12:9)」パウロは11章において自分の弱さを列挙した(11:23~27)またこの章においても、その弱さを列挙している(12:10)。もちろんパウロには誇るべき強さは多々ある。第三の天(パラダイス)にまで引き上げられている。しかしパウロはこれを「キリストにある一人の人(12:2)」と言って自分であること隠している。誇ることを控えている。人がパウロを過大に評価することを。わたしたちは恐れたのである。神は人が高ぶることを最も嫌われる。神はパウロが高ぶることのないようにとパウロの肉体に「一つのとげ」を与えた。もし、高ぶってその限度を超えた時、その「とげ」はパウロの肉体を刺すであろう。神の前にへりくだり謙虚になるとき、パウロは弱さを誇ることができた。この時、神はパウロと共にあった。「私が弱い時こそ、私は強いのです(12:10後半)」とパウロは言う。
コリントに住む偽使徒たちはパウロたちのコリント訪問に危機感を感じ、その訪問を阻止しようとしていた。パウロはこれを知って「私たちは(偽使徒たちとは異なって)神のみ前でキリストにあって語っているのです。彼らに、騙されてはいけません」とコリントの信徒を諭す。
 13章:「完全な者になりなさい」「あなた方は選ばれた民です『あなた方のうちにイエス・キリストがおられることを信じなさい』」「キリストはあなた方に対して弱くなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに弱さゆえに十字架につけられましたが、神の力ゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱いものですが、あなたがたに対する神の力ゆえに、キリストと共に生きているのです。私たちは真理に逆らって何もすることができず、真理のためなら何でもできるのです。私たちはあなた方が完全な者になることを祈っています。私は神からあなた方をさばく権威を与えられています。この権威が与えられたのは築き上げるためであって倒すためではありません。主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてと共にありますように」。コリント人への手紙Ⅱはこのような祝福の言葉で終わっている。

 言 葉
第三の天:パラダイス。主なる、み座のある天国である。パウロが引き上げられた天。ちなみに第一の天は、私たちが見上げることのできる天。空とも、大気圏ともいえる。鳥の飛ぶ天。第二の天は「天体」のこと星があり宇宙がある。
 偽使徒:キリストの使徒を僭称して現れる。その霊は悪霊であり、その福音は人を欺くものであるが、いかにもそれらしく見える。騙されやすい。パウロの教えに反してユダヤ人の教えを取り入れる必要性を説いた。
令和元年5月14日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


書簡集2 コリント人への手紙 Ⅰ 悔い改めて神に帰れ

2019年06月02日 | Weblog
  書簡集2  コリント人への手紙Ⅰ悔い改め神に帰れ

 はじめに:
 神のみ心によってキリスト・イエスの使者として召されたパウロと兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へとあてられた手紙がコリント人への手紙である。コリントとはギリシャ本土とペロポネソス半島を結ぶコリント地峡の西端にある都市で、古代にはアテナイ・スパルタに伍して繁栄した都市国家であった。パウロの時代、コリントはローマの属州であるアカヤの州都でありその範囲はマケドニヤの南にあった古代ギリシャの大部分まで広がっていた。豊かな貿易の中心地で、ローマ帝国全土から多くの人々が集まっておりその地域において最も多様性のある都市のひとつであった。コリントの宗教文化では偶像崇拝が優位を占めており、町のいたるところに神殿や祭壇が存在していた。パウロが手紙をしたためていた時代コリント人は極めて不道徳な民として知られていた。信者の分裂、誤った教え、不道徳、姦淫、神殿売春、等々。今日、この世に存在する多くの問題点を抱えていた。このことを伝え聞いたパウロが、少なくともコリントの教会の信者だけでもと、その原点であり、礎でもあるキリストへとその信仰を戻そうとして、したためたのがコリント人への手紙である。「コリント人への手紙1」5章を読んでほしい。作者はパウロである。

 選びとは何か:
 コリント人の教会の人々は、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」と、パウロは言う。彼らは選ばれた人々である。その選ばれた民がなぜ神に逆らうのか。そんな民をなぜ神が選んだのか。旧約聖書でイスラエルの民が選ばれた民でありながら神に逆らい続けたのに似ている。パウロはいう「あなたがたのからだは、あなた方のうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮であり、あなた方はもはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなた方は代価を支払って買い取られたのです。だから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(6:19~20)」と。要するに神による選びはその体内に「聖霊」が宿っているか否かによって決まるのである。サウル(パウロ)はキリスト者に対する迫害者として現れたが、神による啓示によって回心し霊的存在として蘇ったのである。選びは神の選任事項であって、人の及ぶところではない。この選びは天地創造以前から決まっていることであり、ここに神の壮大なご計画を見るのである。キリスト者こそ、その担い手なのである。自分の中に聖霊を持たない者は、神を理解することも受け入れることもできない。この世の支配者たちはこの真理をだれ一人理解することができなかった。理解していたならば栄光の主を十字架にかけなかったであろう。パウロはいう「主はあなた方に必要なものはすべて与えている。清さを保て、そして悔い改めて、主に立ち返れ」と。しかしあなた方は主に従わず、好き勝手にふるまっている。あたかも主を信じない人みたいです。私の仕事はあなた方の畑に(心)に種子をまくことです。「あなた方は、まだ肉に属しているからです。あなた方の間に妬みや争いがあることからすれば、あなた方は肉に属しているのではありませんか。そしてただの人のように歩んでいるのではありませんか(3:3)」と、パウロはコリントの教会の信者に言う。肉から霊へ。あなた方は高められねばならない。と。福音宣教を必要とする。
コリント人への手紙は第1と第2に分かれており、この書簡は書簡集の中では最も長く全体の4分の1を占めている。
 内容構成

 これまで私は主に逆らうコリントの民に対する主と神との基本的な関係を取り戻す方法を主題にして述べてきた。これからは基本に対する応用といって良いであろう。

 男の役割、女の役割
 男は神に似せて作られたのであり、神の栄光の現れです。最初の男は女から作られたのではなく、最初の女が男から作られたのです。最初の男アダムはエバのために作られたのではなく、エバがアダムのために作られたのです(創世記を読め)。妻は夫に責任があり、夫はキリストに責任があり、キリストは神に責任があるのです。祈るとき、男は帽子を取り、女は帽子をかぶりなさい。女は男の権威の下にある証として頭にかぶり物をつけなければなりません。み使いたちが、それを認めて喜ぶためです。しかし、神の計画では、男と女とは互いに必要としあう存在であることを忘れてはいけません。なぜなら、最初の女は男から生まれたといっても、それ以後男はすべて女から生まれたからです。そして、男も女も神がお造りになったのです。長い髪は女の誇りです。しかし男の被り物は恥です。だから女が教会で祈るときは被り物をつけなさい。どこの教会でもこのことは同じです(11章参照)。

 結 婚:
「男が女に触れないのは良いことです。しかし不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対し義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい(7:1~3)」。パウロは言うのです。独身は最善であり、結婚は次善であると、できるなら私のように一人でいなさい。と。パウロがいろいろうるさいことをいうのは、一人のほうが結婚生活に煩わされて神との接触が妨げられるのを恐れたからである。

 >死人の復活:
 ここに一つの疑問がある。「死んだ者は2度と生き返らない。生き返ったのはキリスト・イエスだけではないのか」と。パウロはこれに反論する。「もし、死人の復活がないのならキリストは今も死んだままです。死者の復活がなかったらキリストも復活されなかったでしょう。死が一人の人を通じてきたように、死者の復活も一人の人を通じてきたからです。すなわち、アダムによってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべてに人が生かされるからです。そして最後の敵である死も滅ぼされるのです。「最初のアダムは生きたものとなった。最後のアダム(イエス・キリスト)は御霊となった。地より生まれたものは地に帰るが、天から来たキリストは死を克服して天に戻る。ここで言われていることは「最後の審判」を指しているのだろうか。

 アガペー(神の愛):
 この章(13章)では無償の愛が述べられている。この愛に支えられることのないいかなる善と言われている行為も何らの価値を持たない。神が罪びとたる人間に対して一方的に恩寵を与える行為でキリストの自己犠牲的な愛として新約聖書に現れた思想。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(13:4~7)」。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です(13:13)。

 異言と預言:
 異言とは宗教的恍惚状態において発せられる理解不能な言葉。御霊の力によって語る言葉。それゆえ神によってのみ理解されるが一般の人には理解不能である。
 預言とは神から預かった言葉を、徳を高め勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話す言葉である。それゆえ福音宣教の場では預言で語ることが推奨される。異言はそれを解き明かす通訳がいない限り人の前で語ってはならない。混乱を引き起こすだけです。一人静かに神に向かって話しなさい。通訳がいる場合はこの限りではありません。徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために異言を語りなさい。

 概 要:
 コリントの教会は派閥争いに明けくれていた(1:12)。パウロは彼らにイエス・キリストのもとに一つになれと警告する(3:21~23)また彼らの多くは性的に乱れていた(5~12)。パウロは教会を汚しているものを除き清くなれと命じる(5:13)。彼らは互いを裁判に訴えていた(6:12)。このように、コリントの教会は神によって選ばれた民にもかかわらず穢れていた。神の義とは何かをパウロは彼らに解き明かす。
 パウロは彼らに結婚と聖潔について語り(7章)、偶像に捧げられた肉の扱い方(8~10章)、キリスト者の自由(9章)、聖餐式(11:17~34)、霊的賜物(12~14章)、そしてキリストの復活についても語っている(15章)。パウロはコリントのキリスト者がした質問に答え、間違った歩みを正すよう、この手紙で語っている。
>平成31年4月9日(火)報告者守武 戢 楽庵会