聖書の話
神はその救いの業を成就すするため、人間との間に恵みの関係を結ぼうとする。しかし、神と人間との間には断絶があるため、神はそれを啓示として人に示される。人はその啓示を直感して、書き表したものが聖書である。 キリスト出現以前、イスラエルの指導者モーゼを通して結ばれた契約を、キリスト者は古い契約と呼び、この契約を中心に描かれた諸書を「旧約聖書」と呼ぶ。旧約聖書はアブラハムの子孫であるイスラエルの民族と、神との関係を述べたものである。その後キリストが出現し、神とキリストの間に生まれた契約を中心に描かれた4つの福音書を新約聖書と呼ぶ。両者は、同一神について語られる連続の書である。聖書は人による神体験の集大成であり、神が人に伝えようとしたものの全てがここに語られている。人の生き方を示し、教え、導き、人に救いを与える実践の書であり、教理の原理である。
しかし、聖書を通じて神の超越性、神秘性、絶対性が人に認められ、信仰の対象となるには、キリストの十字架と復活と云う奇跡を必要とした。この奇跡によって、聖書の神聖観が生み出され、キリストはメシアとなり、信仰の対象としての地位を確立したのである。
このようにして心の支配者になったキリスト教は、発展していくとともに、本来の神の姿から離れていく。神の教えを伝える教会は腐敗、堕落し、世俗化し、王権を凌ぐ権力を握るまでになる。これに反抗する形で現れて来たのがルター、カルヴィン等によって推し進められた宗教改革であった。彼らは罪の許しはただ神の恵みによることを論証する。かくしてキリスト教会は、カソリックと、プロテスタントとに分裂する。
時代は中世封建社会から近代資本主義へと移っていく。心の時代から物の支配する時代へと移行した。この変化が宗教界、神学界に影響を与えずにはおかなかった。
これまで支配的であった正統派・聖書神聖説に対する批判が続出する。その批判は2つの立場からなされた。一つは歴史学的批判であり、2つは文献学的批判であった。両者はともに学問的批判であって、信仰とは無縁であった。その学問的批判の結果は、聖書霊感説の否定、聖書の神聖さの否定、贖罪の意義の否定と、聖書の完全否定であった。そして聖書の記述を、大部分は歴史とは無縁な初期キリスト教徒の熱烈な信仰体験の生み出した詩的神話に過ぎないと結論した。更にキリストの存在すら否定するものも現れたのである。彼らのある者(ダビッド・フリードリッヒ・シュトラウス)は、当時流行していた唯物論的立場へと移行する。
ここには宗教とは、あくまでも信仰であって学問ではないという理解が無い。ここから、この学派に対立する批判としてカール・バルト(1886~1968)に代表される危機神学が登場する。
神は異次元の存在であってその姿を人は見る事は出来ない。人と神は完全に断絶しているのである。しかし、神は人の姿を、行いを客観的にみる事が出来る。神の前に絶対無力な人は、人の側からは、この断絶を乗り越える事は出来ない。神の真理は、絶対的他者としての神からの啓示によるものであるが故に、それを人の理性をもって知ることは出来ない。すなわち、人間が考えて知り得るものではなく、神からの啓示の言葉を、ただひたすら、素直に聴くことによってのみ知り得るのである。それは聖書の神話説を真っ向から批判するものであり、聖書の絶対性、超越性の復活であった。聖書はあくまでも信仰の対象であって、学問の対象ではなく、学問によって知り得ると考えるのは神に対する冒涜である。神は異次元の存在であって、人間界のいかなる試みも意味を持たない。人に出来る事は神に対する信仰であり、絶対的服従だけである。聖書は、神の啓示の言葉である。一体と考えて良いであろう。
神はその救いの業を成就すするため、人間との間に恵みの関係を結ぼうとする。しかし、神と人間との間には断絶があるため、神はそれを啓示として人に示される。人はその啓示を直感して、書き表したものが聖書である。 キリスト出現以前、イスラエルの指導者モーゼを通して結ばれた契約を、キリスト者は古い契約と呼び、この契約を中心に描かれた諸書を「旧約聖書」と呼ぶ。旧約聖書はアブラハムの子孫であるイスラエルの民族と、神との関係を述べたものである。その後キリストが出現し、神とキリストの間に生まれた契約を中心に描かれた4つの福音書を新約聖書と呼ぶ。両者は、同一神について語られる連続の書である。聖書は人による神体験の集大成であり、神が人に伝えようとしたものの全てがここに語られている。人の生き方を示し、教え、導き、人に救いを与える実践の書であり、教理の原理である。
しかし、聖書を通じて神の超越性、神秘性、絶対性が人に認められ、信仰の対象となるには、キリストの十字架と復活と云う奇跡を必要とした。この奇跡によって、聖書の神聖観が生み出され、キリストはメシアとなり、信仰の対象としての地位を確立したのである。
このようにして心の支配者になったキリスト教は、発展していくとともに、本来の神の姿から離れていく。神の教えを伝える教会は腐敗、堕落し、世俗化し、王権を凌ぐ権力を握るまでになる。これに反抗する形で現れて来たのがルター、カルヴィン等によって推し進められた宗教改革であった。彼らは罪の許しはただ神の恵みによることを論証する。かくしてキリスト教会は、カソリックと、プロテスタントとに分裂する。
時代は中世封建社会から近代資本主義へと移っていく。心の時代から物の支配する時代へと移行した。この変化が宗教界、神学界に影響を与えずにはおかなかった。
これまで支配的であった正統派・聖書神聖説に対する批判が続出する。その批判は2つの立場からなされた。一つは歴史学的批判であり、2つは文献学的批判であった。両者はともに学問的批判であって、信仰とは無縁であった。その学問的批判の結果は、聖書霊感説の否定、聖書の神聖さの否定、贖罪の意義の否定と、聖書の完全否定であった。そして聖書の記述を、大部分は歴史とは無縁な初期キリスト教徒の熱烈な信仰体験の生み出した詩的神話に過ぎないと結論した。更にキリストの存在すら否定するものも現れたのである。彼らのある者(ダビッド・フリードリッヒ・シュトラウス)は、当時流行していた唯物論的立場へと移行する。
ここには宗教とは、あくまでも信仰であって学問ではないという理解が無い。ここから、この学派に対立する批判としてカール・バルト(1886~1968)に代表される危機神学が登場する。
神は異次元の存在であってその姿を人は見る事は出来ない。人と神は完全に断絶しているのである。しかし、神は人の姿を、行いを客観的にみる事が出来る。神の前に絶対無力な人は、人の側からは、この断絶を乗り越える事は出来ない。神の真理は、絶対的他者としての神からの啓示によるものであるが故に、それを人の理性をもって知ることは出来ない。すなわち、人間が考えて知り得るものではなく、神からの啓示の言葉を、ただひたすら、素直に聴くことによってのみ知り得るのである。それは聖書の神話説を真っ向から批判するものであり、聖書の絶対性、超越性の復活であった。聖書はあくまでも信仰の対象であって、学問の対象ではなく、学問によって知り得ると考えるのは神に対する冒涜である。神は異次元の存在であって、人間界のいかなる試みも意味を持たない。人に出来る事は神に対する信仰であり、絶対的服従だけである。聖書は、神の啓示の言葉である。一体と考えて良いであろう。