日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ドストエフスキー作『罪と罰』 汝 人を殺すこと無かれ

2008年05月10日 | Weblog
 ドストエフスキーの『罪と罰』を読み返してみて大変な作品に取り組んだものだと考えている。この作品はあまりにも有名で知らない人はいないと思うが、最後まで読み通した人は何人いるであろうか?難しい作品である。この作品は心理的、哲学的、宗教的、社会的作品であると同時に家庭的な作品でもある。ラスコーリニコフの家庭とソーニャの家庭の二つの家族を中心にして物語りは展開する。
 自己の独自の哲学を過信して世間に害を流すに過ぎない金貸しの老婆を殺害した元大学生ラスコーリニコフがその理論から言えばあり得ない罪の意識におびえるようになる。心優しき聖女のような娼婦ソーニャとの出会いとその説得によって、自首を決意し、警察に出頭する。8年の刑が宣告され、シベリアに送られる。ソーニャも後をおう。それまでの心理的葛藤の変遷が物語を構成する。罪と何か、罰とは何か、そして再生とは何かドストエフスキーはそう問い掛けてこの作品を終了する。
 絶対善(神)と絶対悪(悪魔)の中間に位置するのが人間である。それゆえ人間はその内部に神と悪魔の二面性をもつ複雑な存在である。悪魔はラスコーリニコフに囁く『世に害悪を流すに過ぎない邪悪な金貸しの婆々を殺せ、お前は神によって選ばれた非凡なる人間で人を殺す権利を持っている。戒律や法律に従って生きているに過ぎない凡人とは違う存在なのだ。ナポレオンを見よ、マホメットを見よ、彼らはその信念を貫いて何万人もの人を殺害した大悪人ではないか、しかし彼らは犯罪者としてではなく英雄として尊敬されているではないか。金貸しの婆々が卑しい方法で貯め込んだ金があれば、貧苦、腐敗、破滅、堕落、絶望、花柳病で悩んでいる善良な人々を救う事が出来るんだ。一個の殺人という犯罪は、数千の善意で償えるんだ。一つの死が百のの生に変わるんだ。これは算術から見ても明瞭ではないか」と。
 この悪魔の囁きの中には自由な発想があり、自我の主張がある。人類全体の苦痛から人を解放する為には人殺しも許される。もはや人間にとって障害に過ぎなくなった既存の社会秩序、道徳、法律、戒律に対する否定がある。その否定の上に新しい社会が築かれる。マホメットにしても、ナポレオンにしても、新しき立法を与えんが為に、古き立法を破壊し流血の惨も厭わなかった、ここには殺人に対する肯定がある。善き目的と純真で、美しき動機さえあれば不要なもの、邪悪なもの、醜いもの、卑しいもの、古臭いもの、を破壊し、殺害する事が可能なのである。全てが許される。これがラスコーリニコフの犯罪哲学であった。
 この哲学(悪魔の囁き)に従ってラスコーリニコフは金貸しの老婆アリョ―ナ・イヴァのブナを殺害する。ここに予想外の事が起こる。殺害を目撃した義妹のリザベータ・イワーノヴナまで殺してしまう。
 『罪とは否定的、消極的なものではなく、肯定的、積極的なものである』(キルケゴール)。『人間はその存在の全ての部分において、必ず罪を犯さざるを得ない。というのは人間はその人格の中心において、神から疎外(原罪)されているからである(ティリヒ)』。『一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数量が神聖化するのだ』(チャップリン)。
 このような哲学を持つ確信犯であったにも拘らずラスコーリニコフは罪を犯した後、その道徳的本能(彼の内部に潜む神=良心)=人間性により罪の意識を生み、悩み苦しむ。彼の内部において神と悪魔が相克する。神は悔い改めよと囁く。悪魔はお前は正しいと叫ぶ。ナポレオンがその行為の残虐性に悩んだか?社会を正しい方向に導く為の殺人や破壊は必要悪なのだ。しかし何故こんなにも苦しむのか?自分は神から選ばれた非凡なる選民ではなかったのか?彼は自問する。孤独地獄におちいり、母、妹、友人に対し不信、疑い、敵意まで抱く。心を狂わせ病を誘発する。結局その苦しみに耐え切れず、神の化身として現れる自己犠牲に生きる、美しき娼婦ソーニャにその罪を告白する。彼は選ばれた民ではなく凡人以下の虱だと自覚する。ラスコーリニコフはソーニャの説得と予審判事ポルフィーリイの『お前こそ殺人犯だ』という推理に屈し、自首を決意する。ソーニャの言葉に従って大地(神)にひれ伏し接吻し『俺は人殺しだ』と叫ぶ。確実な証拠も無くポルフィーリイ以外に誰にも疑いすら持たれていなかったにも拘らず彼は警察に出頭する。情状の酌量が認められ8年の刑が宣告されシベリアに送られる。ソーニャもその後を追う。シベリアの流刑地においても彼は自分の犯罪を悔いてはいなかった。人間的弱さゆえに自首したのだという。自首に伴う刑法上の有利さを考えていたのだという。獄内では無心論者として排斥される。しかし人間的弱さこそラスコーリニコフの中に潜む神の部分=良心だったのである。それを彼は気づいていない。
 『犯罪には恐怖が伴う、それが刑罰である』(ヴォルテール)。
 しかしこのような神を否定した態度は徐々に変化していく。神の化身として現れるソーニャの存在、触れ合い、愛と信頼が彼を変化させたのである。彼はソーニャに対する愛を通じて神への愛に目覚めていく。そこに彼の再生への道が開けている。かくしてラスコーリニコフの中での神と悪魔との闘いは終わったのである。彼は落ち着きを取り戻し、安らぎを獲得する。
 人は、先に述べたティリヒの言葉にあるようにその原罪ゆえに、神に反抗し罪を犯さざるをえない存在である。それゆえ悪魔の誘惑に負けてしまう。自我の自由、意志の絶対というラスコーリニコフの中に潜む悪魔の声は、彼の中に秘む神(道徳的本能=良心)への反逆であった。そして殺人を犯す。これは人間が犯す神に対する罪である。金貸しの婆々を殺す事は、あくまでも刑法上の罪であり、真の罪は神に対する罪である。悩み苦しんだ末にラスコーリニコフは叫ぶ『俺は金貸しの婆々を殺したのではない。自分(道徳的本能=神)を殺したのだ。婆々を殺したのは悪魔だ」と。
 そして罰とは何か?それは人類に与えられる終末である。流刑地における悪夢がそれを示している。人は互いに自我を主張することにより自分のみが真理であると考え違いし、お互いに理解することなく争いを引き起こす。争いは止まることなく続き、世界を巻き込む戦争になる。殺人と破壊が日常化する。神の怒りを買う。疫病は蔓延し、天災や飢饉が起こり人を含めあらゆるものが滅びていく。これは、今、現在に対する神からの警鐘でもある。これは神が人に与える天罰である。8年の流刑は刑法上の罪に過ぎない。
 そして再生とは何か?神を感じ生まれ変わることである。神の意思に従って生きることである。そこには神に対する愛がある。人は大地に(神)ひれ伏し、口付けし、贖罪することからはじめねばならない。あらゆる我から自由になることである。無我の境地に達することである。何ものにも捉われず、心の欲するままに行動することである。好きになれば一緒になり、嫌いになれば別れる。そこには我からの自由がある。これこそが神の意志である。ラスコーリニコフは流刑地の彼方に存在する遊牧民の暮らしの中にそれを見たのである。8年の後に彼は刑期を終え自由の身になるであろう。しかしそれはあくまでも刑法上の贖罪である。真の贖罪は神に対する贖罪であり、神の教えに従って生きることである。
 このように、一人の人間が次第に生まれ変わり、再生し、一つの世界から他の世界に移り変わっていく物語は終わりを迎える。
 人は今神をも恐れぬ天にまで届く第二のバベルの塔を築きつつある。神の創り賜うた自然を破壊し、、科学技術こそ神に代わるものと不遜にも考えている。神による天罰が下らぬ前に、人が滅びる前に、悔い改めねばならない。