ヨブ記2 1章~8章
はじめに
「ヨブ記」を読んで感じたことは、神はヨブの自分への信仰を試されたのだということです。3人の友人との論争は、結局は「戒律」か「信仰」かの選択なのだと理解しました。新約聖書の「パウロの書簡集」の大部分は「戒律」から「信仰」への導きでした。勿論「パウロ」は戒律を全面的には否定していません。「養育係」とみています。ヨブ記では3人の友人はヨブの内在的罪を問題として、教育効果として悔い改めと神への立ち返りを要求しています。戒律は「内における罪」からの解放を目指しています。パウロが否定したのは「戒律主義」であって「戒律」ではありません。3人の友人の思想はあくまでも「戒律主義」であって、ヨブのもつ神への信仰に目を向けることはなかったのです。そこに議論のすれ違いがありました。そこでヨブは、彼らとの論争を断念して、直接神に目を向けたのです。しかし、ヨブの信仰にも問題がありました。それは後に問題にします。
このことを前提にして、この書を読むとき、極めて分かりやすくなります。
1~2章:ヨブとは
1章でヨブの人となりが紹介されます。彼はウヅという土地に生まれ、神を畏れ、正しく、悪から離れている人でした。彼には男の子が7人と、女の子が3人おり、その家畜は、羊7千頭、牛500軛、雌ろば500頭で、しもべも非常に多く、東の人々の中で一番の富豪と呼ばれていました。彼は家族のために定期的に贖罪の生贄を捧げるほど敬虔な人でした。こんな敬虔な人に災厄が訪れたのです。それは天における神とサタンの談合の結果訪れたものだったのです。神はサタンにヨブの信仰の深さを誇ります。それに対してサタンは応じます。「ヨブのもつすべての財産を取り上げよ」と。そうすれば彼はあなたを呪うであろう、と。ヨブの信仰を信じて疑わない神は、それを行えとサタンに命じます。「しかしそのからだを犯すな」と制限を加えます。ヨブは一夜にしてそのすべての財産を失います。しかしヨブはそれによって神を呪うことをしませんでした。「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:21)」とその試練を受け入れます。天におけるサタンの挑戦は続きます。「しかし、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉を撃ってごらんなさい。彼はあなたを呪うでしょう」、と開き直ります。ヨブの自分に対する信仰を確信する神は、それも許します。「しかし命までは取るな」と命じます。ヨブの全身は腫物によって醜く傷つきます。彼は痛み苦しみます。この時、彼の妻は「あなたはなおも硬く保って、自分を全うするのですか。神を呪って死になさい」と。この妻はまさにサタンの心をもってヨブに接したのです。エバに接した蛇のように。ヨブは彼女に言います。「あなたの語ることはおろかな女の語ることと同じだ、『われわれは神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか』と。すべての財を失い、身は犯され、死を望みながらも、ヨブは神を呪うという罪を犯しませんでした。神から与えられた災厄を素直に受け入れ、忍耐をもって耐えたのです。神のなすことはすべて良きこと、その災厄がどんなに厳しくても、信仰をもって、耐えた者には、神は、最終的にはよき結果をもたらすのです。
この後3人の友人(テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダテ、ナアマ人ツオファル)がヨブを訪れ、腫物で崩れ落ちた体を見て、驚き悲しみます。
この後この3人とヨブとの間に神学論争が始まります。
3章:心の痛み
ヨブは、全財産を失い、身は腫れ物によって崩れ落ちています。苦しみは頂点に達しています。しかし神に義なる彼は、それでも神を呪いません。生まれた日を呪い、出生後嬰児のうちに死ななかったことを呪います。そして死を望みます。しかし、死もかないません。それは天上における神とサタンの談合の時、「その命まで取るな」と神がサタンに命令していたことを知らなかったからです。
ここでヨブは最も基本的な問いかけをしています。「なぜ、自分は生まれたのか」「なぜ自分は生きているのか」「死とは何か」と、「生きる」ことの意味を問うているのです。
ヨブはすべてを奪われ、「私は安らかでなく、また穏やかでない。私は休みを得ない。ただ悩みのみが来る(3:26)」と、その不条理な災厄を「なぜ」と神に問うているのです。次章より、この基本的な問題に関して、3人の友人と神学論争が展開していきます。
4~5章:ヨブの災厄に対する、エリファズの神学
ヨブと3人の友人との論争の最初に現れたのはエリファズです。ここで彼の「苦難の神学」が明確に提示されます。
3章でのヨブの独白(なぜ、自分は生まれてすぐ死ななかったのか、なぜ、神は自分を生かしておられるのか)は、これから展開されるエリファズの「苦難の神学」の動機付けであるとみなすことが出来ます。エリファズが「私たち」と述べているように、その「苦難の神学」は、基本的には3人の友人の「共通の見解」と見做すことが出来ます。その一つは「因果応報論」です。原因と結果の法則であり、罪があるから罰があるのです。二つ目は、「神の愛に基づく教育的災厄論」です。その罪を悔い改めて、神に立ち返るなら、神はその優しさを発揮して、赦してくれるであろうというものです。
エリファズは言います。「1、誰が罪がないのに滅びたものがあるか、どこに正しい者で絶たれたものがあるか。(4:7)」。2、「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒をまくものが、それを刈り取るのだ(4:8)」と。
1、も2、も共に因果応報論です。ここには一面の真理はあっても、全面的真理はありません。誤りがあります。神の前では完全に義なる人物でも、正しい人でも、災厄にあって死んだ人物はいます。例えばイエス・キリストであり、アベルです。共に神が認めた義人です。イエスも、アベルも義なるゆえに殺されます。アベルの場合、カインは罰せられてもアベルを、神は救いませんでした。ヨブも神が認めた義人です。ヨブには「因果応報論」は、当てはまりません。しかし「災厄」に会います。ヨブは「なぜ」と問います。
次に第2の間違いです。エリファズは、「私の見るところでは」と自分の意見を神と同格に置いています。それは神に対する高ぶりです。神の最も嫌う行いです。長々と自分の神秘的体験を述べ、自分の意見を権威付け、ヨブに悔い改めを迫ります。しかしヨブには悔い改めるべき内なる罪は存在していません。それは神も認めるところです。神がヨブに与えた「災厄」は、神への信仰に対する試練であって、教育的訓練ではありません。しかし、ヨブも、エリファズもそのことを知りません。「苦しみは、塵から起こるものでなく、
悩みは土から生ずるものではない(5:6)」。不幸や、苦しみは、チリや土のような、外的環境から生ずるものでなく、人間の内側から生ずるものだと言います。「しかし、私であるならば、神に求め、神に私のことを任せる(5:8)」。自分の罪を素直に認め、悔い改め、後の処置は神に任せよ。そうすれば「神は傷つけ、また包み、またその手をもって癒される(5:18)」。その結果、元の生活は復活し、子々孫々の増大繁栄は保障される、とエリファズはヨブに説きます。「見よ、われわれの尋ね窮めたところは、この通りだ。あなたは、これを聞いて自らを知るがよい(5:27)」。
6章:6章ではヨブはエリファズに反論します。
ヨブが受けた災厄に対して「我は義なり」と確信するヨブは「なぜ義なる自分が災厄に会わねばならないのか」と神に問います。その災厄はヨブにとっては「不条理な災厄」なのです。意味不明な災厄は甘受することは出来ないのです。ただ、その災厄は神からのものと理解はしています。「全能者の矢が、私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅しが私に備えられている(6-4)」と。エリファズの言うように罪の当然の結果としての災厄(罪)ではなく、直接に神の毒矢が自分に刺さり、その毒により身は崩れ落ちている、と嘆きます。そして言います「私に教えよ。そうすれば、私は、黙ろう。私がどんな過ちを犯したというのか、私に悟らせよ(6-24)」「正しい言葉はいかに力のあるものか。しかし、あなたがたの戒めは何を戒めるのか(6-25)」と、ヨブは3人の友人の見当違いを指摘します。「どうぞ思い直せ、間違ってはならない。更に思い直せ、私の義は、なお私のうちにある(6-29)。「私の舌に不義があるか。私の口は災いをわきまえることが出来ぬであろうか(6-30)」。ヨブは自分の内に「内なる罪」のあることを否定しています。
エリファズの神学は一般論としては正しくても、ヨブには当てはまりません。ヨブは言います「どうか私の求めるものが、得られるように。どうか、神が私の望む者をくださるように(6:8)」と。ヨブは自分の苦しみに、何一つ同情も、考慮もせず、見当違いの説教を披瀝するエリファズに失望し、神に目を向けます。しかし。神は、最後まで、沈黙を守っておられます。その論争を見守っておられるのです。しかたなくヨブはエリファズとの論争を続けます。
7章:
ヨブは自分に与えられた災厄対して「いつも苦しむ日雇いや奴隷のように、私は、日々苦しい夜を過ごしている」と、その過酷な災厄を呪っています。彼は痛みが激しく眠ることもできません。「私の肉はウジと土くれをまとい、私の皮は固まってはまた崩れる」と、その状態を嘆きます。彼には、なぜこのような災厄が自分に降りかかったのかわからず「望みもなく」日々は過ぎ去っていきます。そして言います「私の命は、ただの息である」と。ただ生きているだけだというのです。そして慰めに訪れた3人の友人の忠告は全く的外れなのです。「私を見る者の目は、重ねて私を見ることがなく、あなたが私に目を向けられても、私はいない」重ねてみることはない、とは汚れて崩れ落ちた自分を見ることはあっても、真実の自分(霊的存在)を見ることはない、いや見ることは出来ない。と嘆きます。「それゆえ、私はわが口を押えず、私の霊の悶えによって語り、わたしのたましいの苦しさによって嘆く」と自分の真の姿を見ようとしないエリファズたちに失望し、彼らから離れ、その目は神に向きます。しかし神の試練は続きます。眠った時だけは、苦しみから逃れることが出来ると思っても、悪夢が幻が訪れ、決して癒されることがないのです。その苦しみに耐えかねてヨブは死を望みます。
なぜ、これほどにまで神はヨブに心をとどめられ試練に合わせられるのか。それは神がヨブを義人として、またその信仰の深さを認めておられるからです。その災厄には、聖霊が宿っていることを知らしたいからです。ヨブは2章ではっきりと言っています。「我々は、神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか」と。ヨブはすべての痛みを神にあって受け止めているのです。すべてのことは神から来ているという信仰が大切なのです。しかしヨブは言います。「私が罪を犯したと言っても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、あなたは、私を的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか(7:20)「どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私は塵の中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません(7:21)」ヨブは、神が彼の信仰を試されたのだということを知りません。上のことばによって、その不条理な災厄を呪っているのです。自分が、こんなに苦しんでいる本当の理由をヨブは判っていないのです。
8章:エリファズの後にヨブの前にビルダデが登場します。
エリファズが人間の罪深さを強調したのに対して、ビルダテは神の公義を強調します。「神は公義を曲げるだろうか、全能者は義を曲げられるだろうか」とビルダデは言います。先に述べたようにビルダデの神学もまた「因果応報論」です。ヨブに罪があるから神は公義によってヨブを裁かれるのだと言います。エリファズと違うところは、その罪をヨブの家族にまで広げているところです。ヨブの子が、神に背いたがゆえに罰せられたのだと言います。そして言います「もし、あなたが熱心に神を求め、全能者にあわれみを請うなら、神に立ち返るならば、神は立ち上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの初めは小さくとも、その終わりは甚だ大きくなれる(8:3-7)」。と、ビルダデは神の恵みをヨブに示して説得しているのです。
さらに、ビルダテはヨブの先代が神に対して義なるものであったことを示し、その探求心に学べ、と勧めています。ビルダテの神話の特徴は、ヨブだけではなく、家族縁者にまで、その幅を広げていることです。
さらに、パピルスや葦が育つためにはそれなりの環境を必要とします。それ無くしては若芽のうちに枯れてしまうからです。「神を忘れるものの道はこのようだ」「神を敬わない者の望みは消え失せる」と、ヨブの人生にも神への信仰が不可欠であることを示します。そしてビルダテはヨブの言う「我は義なり」という確信を、蜘蛛の巣に例え、その頼りなさを強調します。しかし彼はヨブを霊的な目で見ることはなかったのです。神に義なるものの上にも災厄は起こりうるのです。しかし、ビルダデもヨブもこの時はそれを理解することは出来なかったのです。
ビルダデは、さらに強調します。「彼(ヨブ=神を敬わないもの)が日にあたって青々と茂り、その若枝は庭に生えいで、その根は石くれの山にからまり、それが岩間に生えても、神がもし、その場所からそれを取り除くと、その場所は「私はあなたを見たことがない」と否む(8:16-18)」。このように不敬虔なものの繁栄は一時的なものであり、後から湧いても、うたかたのように消え去っていくのです。それに反して、「見よ、神は潔白の人を退けない。悪を行うものの手を取らない」と、ヨブに神への立ち返りを要求するのです。しかし、それはヨブにとっては、見当違いの要求だったのです。
楽庵会
はじめに
「ヨブ記」を読んで感じたことは、神はヨブの自分への信仰を試されたのだということです。3人の友人との論争は、結局は「戒律」か「信仰」かの選択なのだと理解しました。新約聖書の「パウロの書簡集」の大部分は「戒律」から「信仰」への導きでした。勿論「パウロ」は戒律を全面的には否定していません。「養育係」とみています。ヨブ記では3人の友人はヨブの内在的罪を問題として、教育効果として悔い改めと神への立ち返りを要求しています。戒律は「内における罪」からの解放を目指しています。パウロが否定したのは「戒律主義」であって「戒律」ではありません。3人の友人の思想はあくまでも「戒律主義」であって、ヨブのもつ神への信仰に目を向けることはなかったのです。そこに議論のすれ違いがありました。そこでヨブは、彼らとの論争を断念して、直接神に目を向けたのです。しかし、ヨブの信仰にも問題がありました。それは後に問題にします。
このことを前提にして、この書を読むとき、極めて分かりやすくなります。
1~2章:ヨブとは
1章でヨブの人となりが紹介されます。彼はウヅという土地に生まれ、神を畏れ、正しく、悪から離れている人でした。彼には男の子が7人と、女の子が3人おり、その家畜は、羊7千頭、牛500軛、雌ろば500頭で、しもべも非常に多く、東の人々の中で一番の富豪と呼ばれていました。彼は家族のために定期的に贖罪の生贄を捧げるほど敬虔な人でした。こんな敬虔な人に災厄が訪れたのです。それは天における神とサタンの談合の結果訪れたものだったのです。神はサタンにヨブの信仰の深さを誇ります。それに対してサタンは応じます。「ヨブのもつすべての財産を取り上げよ」と。そうすれば彼はあなたを呪うであろう、と。ヨブの信仰を信じて疑わない神は、それを行えとサタンに命じます。「しかしそのからだを犯すな」と制限を加えます。ヨブは一夜にしてそのすべての財産を失います。しかしヨブはそれによって神を呪うことをしませんでした。「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:21)」とその試練を受け入れます。天におけるサタンの挑戦は続きます。「しかし、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉を撃ってごらんなさい。彼はあなたを呪うでしょう」、と開き直ります。ヨブの自分に対する信仰を確信する神は、それも許します。「しかし命までは取るな」と命じます。ヨブの全身は腫物によって醜く傷つきます。彼は痛み苦しみます。この時、彼の妻は「あなたはなおも硬く保って、自分を全うするのですか。神を呪って死になさい」と。この妻はまさにサタンの心をもってヨブに接したのです。エバに接した蛇のように。ヨブは彼女に言います。「あなたの語ることはおろかな女の語ることと同じだ、『われわれは神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか』と。すべての財を失い、身は犯され、死を望みながらも、ヨブは神を呪うという罪を犯しませんでした。神から与えられた災厄を素直に受け入れ、忍耐をもって耐えたのです。神のなすことはすべて良きこと、その災厄がどんなに厳しくても、信仰をもって、耐えた者には、神は、最終的にはよき結果をもたらすのです。
この後3人の友人(テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダテ、ナアマ人ツオファル)がヨブを訪れ、腫物で崩れ落ちた体を見て、驚き悲しみます。
この後この3人とヨブとの間に神学論争が始まります。
3章:心の痛み
ヨブは、全財産を失い、身は腫れ物によって崩れ落ちています。苦しみは頂点に達しています。しかし神に義なる彼は、それでも神を呪いません。生まれた日を呪い、出生後嬰児のうちに死ななかったことを呪います。そして死を望みます。しかし、死もかないません。それは天上における神とサタンの談合の時、「その命まで取るな」と神がサタンに命令していたことを知らなかったからです。
ここでヨブは最も基本的な問いかけをしています。「なぜ、自分は生まれたのか」「なぜ自分は生きているのか」「死とは何か」と、「生きる」ことの意味を問うているのです。
ヨブはすべてを奪われ、「私は安らかでなく、また穏やかでない。私は休みを得ない。ただ悩みのみが来る(3:26)」と、その不条理な災厄を「なぜ」と神に問うているのです。次章より、この基本的な問題に関して、3人の友人と神学論争が展開していきます。
4~5章:ヨブの災厄に対する、エリファズの神学
ヨブと3人の友人との論争の最初に現れたのはエリファズです。ここで彼の「苦難の神学」が明確に提示されます。
3章でのヨブの独白(なぜ、自分は生まれてすぐ死ななかったのか、なぜ、神は自分を生かしておられるのか)は、これから展開されるエリファズの「苦難の神学」の動機付けであるとみなすことが出来ます。エリファズが「私たち」と述べているように、その「苦難の神学」は、基本的には3人の友人の「共通の見解」と見做すことが出来ます。その一つは「因果応報論」です。原因と結果の法則であり、罪があるから罰があるのです。二つ目は、「神の愛に基づく教育的災厄論」です。その罪を悔い改めて、神に立ち返るなら、神はその優しさを発揮して、赦してくれるであろうというものです。
エリファズは言います。「1、誰が罪がないのに滅びたものがあるか、どこに正しい者で絶たれたものがあるか。(4:7)」。2、「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒をまくものが、それを刈り取るのだ(4:8)」と。
1、も2、も共に因果応報論です。ここには一面の真理はあっても、全面的真理はありません。誤りがあります。神の前では完全に義なる人物でも、正しい人でも、災厄にあって死んだ人物はいます。例えばイエス・キリストであり、アベルです。共に神が認めた義人です。イエスも、アベルも義なるゆえに殺されます。アベルの場合、カインは罰せられてもアベルを、神は救いませんでした。ヨブも神が認めた義人です。ヨブには「因果応報論」は、当てはまりません。しかし「災厄」に会います。ヨブは「なぜ」と問います。
次に第2の間違いです。エリファズは、「私の見るところでは」と自分の意見を神と同格に置いています。それは神に対する高ぶりです。神の最も嫌う行いです。長々と自分の神秘的体験を述べ、自分の意見を権威付け、ヨブに悔い改めを迫ります。しかしヨブには悔い改めるべき内なる罪は存在していません。それは神も認めるところです。神がヨブに与えた「災厄」は、神への信仰に対する試練であって、教育的訓練ではありません。しかし、ヨブも、エリファズもそのことを知りません。「苦しみは、塵から起こるものでなく、
悩みは土から生ずるものではない(5:6)」。不幸や、苦しみは、チリや土のような、外的環境から生ずるものでなく、人間の内側から生ずるものだと言います。「しかし、私であるならば、神に求め、神に私のことを任せる(5:8)」。自分の罪を素直に認め、悔い改め、後の処置は神に任せよ。そうすれば「神は傷つけ、また包み、またその手をもって癒される(5:18)」。その結果、元の生活は復活し、子々孫々の増大繁栄は保障される、とエリファズはヨブに説きます。「見よ、われわれの尋ね窮めたところは、この通りだ。あなたは、これを聞いて自らを知るがよい(5:27)」。
6章:6章ではヨブはエリファズに反論します。
ヨブが受けた災厄に対して「我は義なり」と確信するヨブは「なぜ義なる自分が災厄に会わねばならないのか」と神に問います。その災厄はヨブにとっては「不条理な災厄」なのです。意味不明な災厄は甘受することは出来ないのです。ただ、その災厄は神からのものと理解はしています。「全能者の矢が、私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅しが私に備えられている(6-4)」と。エリファズの言うように罪の当然の結果としての災厄(罪)ではなく、直接に神の毒矢が自分に刺さり、その毒により身は崩れ落ちている、と嘆きます。そして言います「私に教えよ。そうすれば、私は、黙ろう。私がどんな過ちを犯したというのか、私に悟らせよ(6-24)」「正しい言葉はいかに力のあるものか。しかし、あなたがたの戒めは何を戒めるのか(6-25)」と、ヨブは3人の友人の見当違いを指摘します。「どうぞ思い直せ、間違ってはならない。更に思い直せ、私の義は、なお私のうちにある(6-29)。「私の舌に不義があるか。私の口は災いをわきまえることが出来ぬであろうか(6-30)」。ヨブは自分の内に「内なる罪」のあることを否定しています。
エリファズの神学は一般論としては正しくても、ヨブには当てはまりません。ヨブは言います「どうか私の求めるものが、得られるように。どうか、神が私の望む者をくださるように(6:8)」と。ヨブは自分の苦しみに、何一つ同情も、考慮もせず、見当違いの説教を披瀝するエリファズに失望し、神に目を向けます。しかし。神は、最後まで、沈黙を守っておられます。その論争を見守っておられるのです。しかたなくヨブはエリファズとの論争を続けます。
7章:
ヨブは自分に与えられた災厄対して「いつも苦しむ日雇いや奴隷のように、私は、日々苦しい夜を過ごしている」と、その過酷な災厄を呪っています。彼は痛みが激しく眠ることもできません。「私の肉はウジと土くれをまとい、私の皮は固まってはまた崩れる」と、その状態を嘆きます。彼には、なぜこのような災厄が自分に降りかかったのかわからず「望みもなく」日々は過ぎ去っていきます。そして言います「私の命は、ただの息である」と。ただ生きているだけだというのです。そして慰めに訪れた3人の友人の忠告は全く的外れなのです。「私を見る者の目は、重ねて私を見ることがなく、あなたが私に目を向けられても、私はいない」重ねてみることはない、とは汚れて崩れ落ちた自分を見ることはあっても、真実の自分(霊的存在)を見ることはない、いや見ることは出来ない。と嘆きます。「それゆえ、私はわが口を押えず、私の霊の悶えによって語り、わたしのたましいの苦しさによって嘆く」と自分の真の姿を見ようとしないエリファズたちに失望し、彼らから離れ、その目は神に向きます。しかし神の試練は続きます。眠った時だけは、苦しみから逃れることが出来ると思っても、悪夢が幻が訪れ、決して癒されることがないのです。その苦しみに耐えかねてヨブは死を望みます。
なぜ、これほどにまで神はヨブに心をとどめられ試練に合わせられるのか。それは神がヨブを義人として、またその信仰の深さを認めておられるからです。その災厄には、聖霊が宿っていることを知らしたいからです。ヨブは2章ではっきりと言っています。「我々は、神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか」と。ヨブはすべての痛みを神にあって受け止めているのです。すべてのことは神から来ているという信仰が大切なのです。しかしヨブは言います。「私が罪を犯したと言っても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、あなたは、私を的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか(7:20)「どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私は塵の中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません(7:21)」ヨブは、神が彼の信仰を試されたのだということを知りません。上のことばによって、その不条理な災厄を呪っているのです。自分が、こんなに苦しんでいる本当の理由をヨブは判っていないのです。
8章:エリファズの後にヨブの前にビルダデが登場します。
エリファズが人間の罪深さを強調したのに対して、ビルダテは神の公義を強調します。「神は公義を曲げるだろうか、全能者は義を曲げられるだろうか」とビルダデは言います。先に述べたようにビルダデの神学もまた「因果応報論」です。ヨブに罪があるから神は公義によってヨブを裁かれるのだと言います。エリファズと違うところは、その罪をヨブの家族にまで広げているところです。ヨブの子が、神に背いたがゆえに罰せられたのだと言います。そして言います「もし、あなたが熱心に神を求め、全能者にあわれみを請うなら、神に立ち返るならば、神は立ち上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの初めは小さくとも、その終わりは甚だ大きくなれる(8:3-7)」。と、ビルダデは神の恵みをヨブに示して説得しているのです。
さらに、ビルダテはヨブの先代が神に対して義なるものであったことを示し、その探求心に学べ、と勧めています。ビルダテの神話の特徴は、ヨブだけではなく、家族縁者にまで、その幅を広げていることです。
さらに、パピルスや葦が育つためにはそれなりの環境を必要とします。それ無くしては若芽のうちに枯れてしまうからです。「神を忘れるものの道はこのようだ」「神を敬わない者の望みは消え失せる」と、ヨブの人生にも神への信仰が不可欠であることを示します。そしてビルダテはヨブの言う「我は義なり」という確信を、蜘蛛の巣に例え、その頼りなさを強調します。しかし彼はヨブを霊的な目で見ることはなかったのです。神に義なるものの上にも災厄は起こりうるのです。しかし、ビルダデもヨブもこの時はそれを理解することは出来なかったのです。
ビルダデは、さらに強調します。「彼(ヨブ=神を敬わないもの)が日にあたって青々と茂り、その若枝は庭に生えいで、その根は石くれの山にからまり、それが岩間に生えても、神がもし、その場所からそれを取り除くと、その場所は「私はあなたを見たことがない」と否む(8:16-18)」。このように不敬虔なものの繁栄は一時的なものであり、後から湧いても、うたかたのように消え去っていくのです。それに反して、「見よ、神は潔白の人を退けない。悪を行うものの手を取らない」と、ヨブに神への立ち返りを要求するのです。しかし、それはヨブにとっては、見当違いの要求だったのです。
楽庵会