ハバクク書 神と預言者の対話
はじめに
ナホム書がアッシリアの首都ニネベに関する預言とするならハバクク書は、このアッシリアを滅ぼし、イスラエルに侵攻してきたカルディラ(バビロン)に対するハバククの預言である。この預言書はBC612年に書かれたと言われている。
どんな苦境下にあっても正義の神=主への信仰に生きる者は救われる、というのが「ハバクク書」の主題である。しかしこれだけなら他の預言書と変わりはない「さばき」と「回復」である。小預言書はそれぞれ特色を持っている。「ハバク書」の特徴は、その預言が、神から預言者へという一方通行型では無く、預言者が主に問い、主がこれに応えるという双方向型である。
ハバククはバビロンの圧政に苦しむイスラエルの民を代表して、何故、異教の国バビロンを滅ぼし、神の民イスラエルを救わず沈黙を保っているのかと主に問う。この問いから「ハバクク書」は始まる。主はその沈黙の理由を明らかにする。
ハバクク書の主題
主は応答してその理由を明らかにする。「--------。しかし正しい人は、その信仰によって生きる(2:4)」。
そこには2つの「さばき」があった。
1、ハバククの生きるイスラエルの罪に対する「さばき」であり、もう一つは
2、暴虐の民「反ユダ、反メシア」のカルディアに対する「さばき」であった。
両者ともに、正義の人でなく、信仰の人でもなかったのである(1:7)。その意味では両者は同罪であった。
主はイスラエルに対するさばきの鞭として杖としてバビロンを用いた。主はイスラエルの悔い改めの時間を用意したのである。それが沈黙の理由であった。しかし、この裁きの鞭であり杖であったカルディアは、高慢となり、「我は神なり」と宣告するに至り、主は怒り、これを滅ぼすと宣告する。神の民イスラエルは救われ、自分を神と見做し偶像の神を信じて、暴虐の限りを尽くす者は滅ぼされる。
激動の歴史の真只中で反ユダ、反メシアが滅び、主の義が確立され、主のご計画が実現することをハバククは切に祈り求めたのである。
「しかし、私は主にあって、喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私を高いところに歩ませる(3:18~19)」
内容構成:ハバクク書は3章56節から成る
表題(1:1)
第Ⅰ部:ハバククの嘆きと、主からの応答
1、預言者ハバククの嘆きと、カルディア人来襲の預言(1:2~11)。
2、主に対する訴え(1:12~17)、→預言者ハバククの疑問
3、主からの応答(2:1~20)→預言者ハバククの待望と主の応答
第2部:ハバククの祈りと讃歌(3:1~19)
1、讃歌の表題(3:1)
2、主に対する祈りと讃歌(3:2~19A)
3、結び(3:19B)
各章ごとの説明
第1章:
ハバクク書の1章にはバビロン占領下の悲惨な状況が描かれている。このような状況下ハバククは主に救いを求めている。「あなたはいつまで聞いて下さらないのですか、あなたは救って下さらないのですか」と。主の正しい統治を求めたのである。バビロンの統治下、律法は機能せず、イスラエルの社会は無法地帯に貶められていた。暴虐と暴行が闘争と争いが社会を覆っていた。それ故、正しいさばきは無く、悪しきものが幅を利かせ、正しきものがさばかれていた。しかし、主は沈黙を守りバビロンの悪を放置していた。なぜか、イスラエルはこの悲惨な状況を神のみ業と理解せず、悔い改めも無ければ、神への立ち返りも無かったからである。そんなイスラエルに主は言う「わたしは一つのこと(バビロンの捕囚)をあなたの時代にする。それを告げられても、あなた方は信じまい。見よ、私はカルデア人を起こす(1:5~6)」と。
主は言う「あなた方は信じまい」と。不信仰なイスラエル人にはこの裁きが理解できないであろうというのである。ハバククは主に言う「主よあなたは昔から私の神、私の聖なる方ではありませんか、私たちは死ぬことはありません。主よ。あなたは「さばき」のために彼を立て、岩よ。あなたは叱責のために彼を据えられました(1:12)」。主は選びの民を罰しても決してこれを滅ぼすことは無い。アッシリアもバビロンも、主の「さばき」の鞭であり杖だったのである。しかし主の沈黙の間、バビロンはその罪を拡大し、高慢となり自分の力を自分の神としたが故に、主の怒りを買い、滅びの運命を辿ったのである。「それ故、彼(バビロン)はその網を使いつづけ、容赦なく諸国の民を殺すであろうか(1:17)」とハバククは言う。これは明らかに反語でありいつまでもその圧政はつづかないよ、とバビロンの滅亡を暗示するのである。
第2章: 第2章の私は第1章で、悔い改めた私である。その私が主の応答を聞いたのである。「幻を板の上に書いて確認せよ。これを読むものが急使として走るために。この幻は定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしは言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることは無い(2:2~3)」。
定めの時:終末。主の「さばき」の時。正しいものは天に、悪しきものは地の下に落される。主は高ぶるものには「さばき」を告げ、主を信頼し、「待ち望むもの」には恵みを用意しているのである(2:4参照)。
主はバビロンに対し5つの災害預言をする
第3章:
3章は、「ハバククの詩篇」と言われている。セラという音楽用語が使われ、文章は韻を踏んでいる。最後には、「指揮者のために弦楽器に合わせて(3:19B)」。と書かれているので、この章は弦楽器に合わせて唱和されたであろう。
3章は2つに分けられる。
1、1節~15節 ご自分の民を救うために出てこられた主。
2、16節~19節 「さばき」の苦難を、くぐり抜けた民に対する救いの預言。
神の臨在が現されるのは、反ユダ、反メシアを滅ぼして神の民を救うためである。その顕現と働きを自然界の描写によって現している。これが旧約聖書的な神の顕現を現す表現である。
3章の冒頭でハバククは主に祈る「主よ、あなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それを繰り返して下さい。この年のうちにそれを示して下さい。激しい怒りの内にも、あわれみを忘れないでください(3:2)」と。御業を恐れるとは悔い改めを現している。ここには神の民イスラエルと、反ユダ、反メシアに対する主の怒りが示されている。反ユダ、反メシアに対する「さばき」と、悔い改めたイスラエルに対する憐れみをハバククは主に乞うている。
1、ご自分の民を救うために来られた主。
主は必ず来られる。1~15節の間に「来られます」という言葉が5回出てくる。
3節:神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。
8節:あなたは馬に乗り、あなたの戦車に乗って来られます。
13節:あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油注がれたものを救うために出て来られます。
この言葉から主の来臨は、反ユダ、反メシアを滅ぼし、神の民イスラエルを救うため
であることが判る。
主の顕現によって現された「さばき」。
主は自分の民を救うために3つのことを成される。
1、13節の後半:あなたは悪ものの家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。(裸にされます:根源的部分を露わにすること)。
2、14節:彼らは---私をほしいままに追い散らそうと荒れ狂います。(悪あがき)。
3、15節:あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ大水に、泡を立たせられます。
(馬=神の力の象徴、海、大水=聖書では、神に敵対する勢力を現す)。
2、「さばき」の苦難を、くぐり抜けた民に対する救いの預言。
16節には、主の「さばき」を前にして、反ユダの勢力による最後の抵抗が描かれている。「彼は----私を欲しいままに追い散らそうと荒れ狂います(3:14)」。そこには滅びを前にしての「悪あがき」がある。
その悪あがきがイスラエルの民を苦しめる(3:16)。しかし、主の「さばき」の日=終末は必ず来る。それを「私は静かに待とう」。それが1章における「いつまでも聞いて下さらないのですか」の主の応答であった。主は、「時が来るまで待て」と私にお命じなったのである。
17節には終わりの日を前にしてのイスラエルの破滅的な危機(大艱難時代)が描かれている。しかし、それは主の再臨の前兆でもあった。この破滅的な危機の後に反ユダは滅ぼされ「千年王国」「新天新地」が予計されている。
「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高いところを歩ませる(3:18~19)」。
ハバククは高き所(エルサレム=シオンの山)に立ち神のご計画の全体像を見ることが出来たのである。
まとめ
ハバクク書は、主に対する預言者ハバククの「暴虐の民」反ユダ=バビロンを何故滅ぼさず沈黙を守っているのか、という問いかけから始まり、その問いかけに応じて反ユダの勢力を滅ぼした主に対する賛歌で終わる。
神の応答は2段階で行われた。1回目は罪に満ちていたイスラエルに対する「さばき」である。主は「さばき」の鞭であり、杖としてバビロンを用いたのである。沈黙は、イスラエルが悔い改め、神に立ち変えるための猶予期間だったのである。それ無くしては、第2段階の反ユダ=バビロンに対する「さばき」はあり得ない。神に従ったものは救われ、逆らった者は滅びるのである。
さて、3章の最後の最後の言葉「私に高いところ(エルサレム=シオンの山)を歩ませる」を考えてみる。主はハバククに対し高い所から眼下に広がるすべてを見渡せと言うのである。神の目を持てと言うのである。そこには無限の広がりと、永遠の時間がある。宇宙空間である。それは神の国である。主は言う「わたしはαでありΩである」と。聖書的にいえば「創世記」から「黙示録」までである。ここには、主のご計画の全体像がある。黙示録は終末から始まる。
神のご計画はどのように終わりどのように始まるのか。(終始)。
1、混沌の終わりと、大地の創生。
2、アダムトエバの楽園からの追放と、人類(原罪)の始まり。
3、「洪水」による人類の終わりと、新しい家族の出発。
4、「バビロンの捕囚」の憂き目と、トーラ(律法)による新しい民の回復。
5、イエスの十字架による死と、復活
6、反キリストによる大艱難時代の終わりと、トーラ(律法)による新しい民の復活。
7、白い御座における最後の審判と、天から降りてくる新しいエルサレム。
ここに神のご計画は完成する。
ハバクク書の歴史的背景
1、エジプトとの戦いでヨシア王戦死(BC609年)。
2、エオアファズ(ヨシア王の息子)即位、エジプトにより廃位、在位3か月。エジプトに連行され、この地で客死。
3、イエホヤキム(エオアファズの兄弟)エジプトの傀儡政権となり、これに隷属。
4、アッシリア・エジプト連合軍とバビロン帝国との戦い。――イエホヤキムは中立を保つ。
5、連合軍の敗北。
6、イエホヤキムは身の安全を図って、バビロン帝国に朝貢。時の王=ネブカドネザルに隷属。
7、やがて、バビロンからの自立を図り、これに敵対。カルケミシュの戦いに敗北。
8、バビロンのエルサレム侵攻。
9、イエホヤキムは捕囚としてバビロンに連行さる。後に解放。
10、解放後イスラエルを統治。
11、バビロンによるイスラエル侵攻を許し、エルサレムの神殿は破壊され、次王ゼデキアと共にバビロニアに連行される。
この後、イスラエルは滅亡する。
このような激動期にハバククは活躍し、イスラエルの悔い改めと、バビロンの滅びを預言したのである。 これらの歴史的背景を知る為には、列王記Ⅱ(23:1~30)、と歴代誌Ⅱ(36:1~26)を読んで欲しい。この後、ハバククは主のご計画が実現することを願う。ここでハバクク書は終わる。
はじめに
ナホム書がアッシリアの首都ニネベに関する預言とするならハバクク書は、このアッシリアを滅ぼし、イスラエルに侵攻してきたカルディラ(バビロン)に対するハバククの預言である。この預言書はBC612年に書かれたと言われている。
どんな苦境下にあっても正義の神=主への信仰に生きる者は救われる、というのが「ハバクク書」の主題である。しかしこれだけなら他の預言書と変わりはない「さばき」と「回復」である。小預言書はそれぞれ特色を持っている。「ハバク書」の特徴は、その預言が、神から預言者へという一方通行型では無く、預言者が主に問い、主がこれに応えるという双方向型である。
ハバククはバビロンの圧政に苦しむイスラエルの民を代表して、何故、異教の国バビロンを滅ぼし、神の民イスラエルを救わず沈黙を保っているのかと主に問う。この問いから「ハバクク書」は始まる。主はその沈黙の理由を明らかにする。
ハバクク書の主題
主は応答してその理由を明らかにする。「--------。しかし正しい人は、その信仰によって生きる(2:4)」。
そこには2つの「さばき」があった。
1、ハバククの生きるイスラエルの罪に対する「さばき」であり、もう一つは
2、暴虐の民「反ユダ、反メシア」のカルディアに対する「さばき」であった。
両者ともに、正義の人でなく、信仰の人でもなかったのである(1:7)。その意味では両者は同罪であった。
主はイスラエルに対するさばきの鞭として杖としてバビロンを用いた。主はイスラエルの悔い改めの時間を用意したのである。それが沈黙の理由であった。しかし、この裁きの鞭であり杖であったカルディアは、高慢となり、「我は神なり」と宣告するに至り、主は怒り、これを滅ぼすと宣告する。神の民イスラエルは救われ、自分を神と見做し偶像の神を信じて、暴虐の限りを尽くす者は滅ぼされる。
激動の歴史の真只中で反ユダ、反メシアが滅び、主の義が確立され、主のご計画が実現することをハバククは切に祈り求めたのである。
「しかし、私は主にあって、喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私を高いところに歩ませる(3:18~19)」
内容構成:ハバクク書は3章56節から成る
表題(1:1)
第Ⅰ部:ハバククの嘆きと、主からの応答
1、預言者ハバククの嘆きと、カルディア人来襲の預言(1:2~11)。
2、主に対する訴え(1:12~17)、→預言者ハバククの疑問
3、主からの応答(2:1~20)→預言者ハバククの待望と主の応答
第2部:ハバククの祈りと讃歌(3:1~19)
1、讃歌の表題(3:1)
2、主に対する祈りと讃歌(3:2~19A)
3、結び(3:19B)
各章ごとの説明
第1章:
ハバクク書の1章にはバビロン占領下の悲惨な状況が描かれている。このような状況下ハバククは主に救いを求めている。「あなたはいつまで聞いて下さらないのですか、あなたは救って下さらないのですか」と。主の正しい統治を求めたのである。バビロンの統治下、律法は機能せず、イスラエルの社会は無法地帯に貶められていた。暴虐と暴行が闘争と争いが社会を覆っていた。それ故、正しいさばきは無く、悪しきものが幅を利かせ、正しきものがさばかれていた。しかし、主は沈黙を守りバビロンの悪を放置していた。なぜか、イスラエルはこの悲惨な状況を神のみ業と理解せず、悔い改めも無ければ、神への立ち返りも無かったからである。そんなイスラエルに主は言う「わたしは一つのこと(バビロンの捕囚)をあなたの時代にする。それを告げられても、あなた方は信じまい。見よ、私はカルデア人を起こす(1:5~6)」と。
主は言う「あなた方は信じまい」と。不信仰なイスラエル人にはこの裁きが理解できないであろうというのである。ハバククは主に言う「主よあなたは昔から私の神、私の聖なる方ではありませんか、私たちは死ぬことはありません。主よ。あなたは「さばき」のために彼を立て、岩よ。あなたは叱責のために彼を据えられました(1:12)」。主は選びの民を罰しても決してこれを滅ぼすことは無い。アッシリアもバビロンも、主の「さばき」の鞭であり杖だったのである。しかし主の沈黙の間、バビロンはその罪を拡大し、高慢となり自分の力を自分の神としたが故に、主の怒りを買い、滅びの運命を辿ったのである。「それ故、彼(バビロン)はその網を使いつづけ、容赦なく諸国の民を殺すであろうか(1:17)」とハバククは言う。これは明らかに反語でありいつまでもその圧政はつづかないよ、とバビロンの滅亡を暗示するのである。
第2章: 第2章の私は第1章で、悔い改めた私である。その私が主の応答を聞いたのである。「幻を板の上に書いて確認せよ。これを読むものが急使として走るために。この幻は定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしは言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることは無い(2:2~3)」。
定めの時:終末。主の「さばき」の時。正しいものは天に、悪しきものは地の下に落される。主は高ぶるものには「さばき」を告げ、主を信頼し、「待ち望むもの」には恵みを用意しているのである(2:4参照)。
主はバビロンに対し5つの災害預言をする
第3章:
3章は、「ハバククの詩篇」と言われている。セラという音楽用語が使われ、文章は韻を踏んでいる。最後には、「指揮者のために弦楽器に合わせて(3:19B)」。と書かれているので、この章は弦楽器に合わせて唱和されたであろう。
3章は2つに分けられる。
1、1節~15節 ご自分の民を救うために出てこられた主。
2、16節~19節 「さばき」の苦難を、くぐり抜けた民に対する救いの預言。
神の臨在が現されるのは、反ユダ、反メシアを滅ぼして神の民を救うためである。その顕現と働きを自然界の描写によって現している。これが旧約聖書的な神の顕現を現す表現である。
3章の冒頭でハバククは主に祈る「主よ、あなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それを繰り返して下さい。この年のうちにそれを示して下さい。激しい怒りの内にも、あわれみを忘れないでください(3:2)」と。御業を恐れるとは悔い改めを現している。ここには神の民イスラエルと、反ユダ、反メシアに対する主の怒りが示されている。反ユダ、反メシアに対する「さばき」と、悔い改めたイスラエルに対する憐れみをハバククは主に乞うている。
1、ご自分の民を救うために来られた主。
主は必ず来られる。1~15節の間に「来られます」という言葉が5回出てくる。
3節:神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。
8節:あなたは馬に乗り、あなたの戦車に乗って来られます。
13節:あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油注がれたものを救うために出て来られます。
この言葉から主の来臨は、反ユダ、反メシアを滅ぼし、神の民イスラエルを救うため
であることが判る。
主の顕現によって現された「さばき」。
主は自分の民を救うために3つのことを成される。
1、13節の後半:あなたは悪ものの家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。(裸にされます:根源的部分を露わにすること)。
2、14節:彼らは---私をほしいままに追い散らそうと荒れ狂います。(悪あがき)。
3、15節:あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ大水に、泡を立たせられます。
(馬=神の力の象徴、海、大水=聖書では、神に敵対する勢力を現す)。
2、「さばき」の苦難を、くぐり抜けた民に対する救いの預言。
16節には、主の「さばき」を前にして、反ユダの勢力による最後の抵抗が描かれている。「彼は----私を欲しいままに追い散らそうと荒れ狂います(3:14)」。そこには滅びを前にしての「悪あがき」がある。
その悪あがきがイスラエルの民を苦しめる(3:16)。しかし、主の「さばき」の日=終末は必ず来る。それを「私は静かに待とう」。それが1章における「いつまでも聞いて下さらないのですか」の主の応答であった。主は、「時が来るまで待て」と私にお命じなったのである。
17節には終わりの日を前にしてのイスラエルの破滅的な危機(大艱難時代)が描かれている。しかし、それは主の再臨の前兆でもあった。この破滅的な危機の後に反ユダは滅ぼされ「千年王国」「新天新地」が予計されている。
「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高いところを歩ませる(3:18~19)」。
ハバククは高き所(エルサレム=シオンの山)に立ち神のご計画の全体像を見ることが出来たのである。
まとめ
ハバクク書は、主に対する預言者ハバククの「暴虐の民」反ユダ=バビロンを何故滅ぼさず沈黙を守っているのか、という問いかけから始まり、その問いかけに応じて反ユダの勢力を滅ぼした主に対する賛歌で終わる。
神の応答は2段階で行われた。1回目は罪に満ちていたイスラエルに対する「さばき」である。主は「さばき」の鞭であり、杖としてバビロンを用いたのである。沈黙は、イスラエルが悔い改め、神に立ち変えるための猶予期間だったのである。それ無くしては、第2段階の反ユダ=バビロンに対する「さばき」はあり得ない。神に従ったものは救われ、逆らった者は滅びるのである。
さて、3章の最後の最後の言葉「私に高いところ(エルサレム=シオンの山)を歩ませる」を考えてみる。主はハバククに対し高い所から眼下に広がるすべてを見渡せと言うのである。神の目を持てと言うのである。そこには無限の広がりと、永遠の時間がある。宇宙空間である。それは神の国である。主は言う「わたしはαでありΩである」と。聖書的にいえば「創世記」から「黙示録」までである。ここには、主のご計画の全体像がある。黙示録は終末から始まる。
神のご計画はどのように終わりどのように始まるのか。(終始)。
1、混沌の終わりと、大地の創生。
2、アダムトエバの楽園からの追放と、人類(原罪)の始まり。
3、「洪水」による人類の終わりと、新しい家族の出発。
4、「バビロンの捕囚」の憂き目と、トーラ(律法)による新しい民の回復。
5、イエスの十字架による死と、復活
6、反キリストによる大艱難時代の終わりと、トーラ(律法)による新しい民の復活。
7、白い御座における最後の審判と、天から降りてくる新しいエルサレム。
ここに神のご計画は完成する。
ハバクク書の歴史的背景
1、エジプトとの戦いでヨシア王戦死(BC609年)。
2、エオアファズ(ヨシア王の息子)即位、エジプトにより廃位、在位3か月。エジプトに連行され、この地で客死。
3、イエホヤキム(エオアファズの兄弟)エジプトの傀儡政権となり、これに隷属。
4、アッシリア・エジプト連合軍とバビロン帝国との戦い。――イエホヤキムは中立を保つ。
5、連合軍の敗北。
6、イエホヤキムは身の安全を図って、バビロン帝国に朝貢。時の王=ネブカドネザルに隷属。
7、やがて、バビロンからの自立を図り、これに敵対。カルケミシュの戦いに敗北。
8、バビロンのエルサレム侵攻。
9、イエホヤキムは捕囚としてバビロンに連行さる。後に解放。
10、解放後イスラエルを統治。
11、バビロンによるイスラエル侵攻を許し、エルサレムの神殿は破壊され、次王ゼデキアと共にバビロニアに連行される。
この後、イスラエルは滅亡する。
このような激動期にハバククは活躍し、イスラエルの悔い改めと、バビロンの滅びを預言したのである。 これらの歴史的背景を知る為には、列王記Ⅱ(23:1~30)、と歴代誌Ⅱ(36:1~26)を読んで欲しい。この後、ハバククは主のご計画が実現することを願う。ここでハバクク書は終わる。
平成30年5月8日(火)報告者 守武 戢 楽庵会